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雪解け
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森を抜ける道は、少しだけ険しい。
それでも、進めないほどではなかった。
木々のざわめきが、どこか様子見をしているように遠慮がちで、足音だけが、土を確かに踏みしめていく。
ガレンは、腕の中の重みを感じながら歩いていた。
子熊の姿のアベルは、丸くなっている。
温かく、呼吸は安定している。
「……またびっくりして、くまになっちゃったね」
小さくそう呟く声に、ガレンの胸の奥がわずかに緩む。
「そうだな、」
歩きながら、ガレンの脳裏には、ふと、過去の光景がよぎっていた。
山の中の家を直していた、あの頃。
梁を運び、壁を組み直し、獣人たちが無言で手を動かしていた日々。
その中で、ギルバートがぽつりと言った言葉。
『今は無理でも…
次に、俺に用事ができる頃には――お前が、村へ足が向くようにしておく』
あのとき、ガレンは何も答えなかった。
信じたわけでも、期待したわけでもない。
だが――
忘れてはいなかった。
「……約束、か」
誰に聞かせるでもなく、低く呟く。
偶然かなんなのか、往診を頼んでも良かったのだが。
今回、村へ向かう理由ははっきりしている。
アベルの、初めての獣化。
怖がらせたくはない。
だが、見逃すわけにもいかない。
診せるなら――ギルバートしかいない。
それに、とガレンは思う。
もし、あの言葉が嘘ではなかったなら。
もし、本当に「足を向けてもいい場所」になっているなら。
今が、そのときなのだろう。
エリアスは、隣を歩きながら、先に見える村の門を見つめていた。
「……緊張、してるか?」
ガレンの問いに、正直にうなずく。
「うん。でも……逃げたいほどじゃないかな」
「なら、十分だ」
その言葉に、エリアスは小さく息を吐いた。
やがて、村の入口が見える。
獣人たちは、すでに集まっていた。
号令があったわけではない。だが、三人の姿を認めた瞬間――
ざ、と音を立てて、全員が膝をついた。
地面に顔がつきそうなくらい下を向く。
「……っ」
エリアスは、言葉を失う。
村長が、一歩前に出た。
「エリアス、」
王とは呼ばなかった。
それだけで、変化は十分だった。
「我々は、恐れていた」
低く、重い声。
「人間を。力を。変化を」
視線を逸らさず、続ける。
「その恐怖を理由に、責任を押し付けた」
伏せた背中の中から、声が上がる。
「俺たちは……王のあんたに全部を背負わせた!」
「助かりたかっただけだ!」
「正しさより、保身を選んだ!」
エリアスの胸が、きしりと鳴る。
その前へ、ガレンが出た。
「……やめろ」
低い声。
だが、怒りではない。
「もう、いい」
腕の中のアベルを、少し抱き直す。
「俺も、獣の姿で暴れた。エリアスを取り戻すためとはいえ、仲間を傷つけ、恐れさせた」
視線を落とす。
「そして、獣となり逃げた。……すまなかった」
空気が、張りつめる。
「だから、過去を咎め合うつもりはない」
顔を上げる。
「だが――」
一瞬、熊の気配が立ち上がる。
「次、エリアスにかすり傷ひとつでもつけたら…そのときは、俺が相手になる」
「ちょっと、ガレン!」
エリアスがガレンの脇腹を小突く。
「脅さないで!」
「事実だ」
ガレンは、わずかに口元を緩めた。
「あのガレンを小突くなんて、強い人間だな」
獣人の誰かがそう言った。
エリアスは深呼吸して、一歩前へ出る。
「私は……弱かった」
静かな声。
「知らず、考えず、結果としてみんなを守れなかった」
深く、頭を下げる。
かつて王だった者が、頭を下げる光景はなんとも言えない空気だった。
「本当に、ごめんなさい」
しばらくすると。エリアスは顔を上げ、獣人たちを見渡した。
「でも、私はもう王ではない。
もちろん、だからといってやったことは消えないのは分かっている。
裁かないし、命令もしない、だから…」
深呼吸し微笑む。
「嫌でなければ……教えてほしい。
獣人の暮らしを。考えを…私は、もっと知りたいと思っている」
沈黙。
それを破ったのは、若い獣人の声だった。
「任せろ!!元王様!!」
一気に空気がほどける。
「アベル坊もな!!」
「坊主かわいいぞ!!こぐまちゃんだな!」
最初の空気は一変し、村には穏やかな空気が流れた。
数年前、エリアスが吊るされた広場の面影はもうなかった。
ギルバートが割って入る。
「落ち着け!!まずは、アベルを診るんだ、」
「ぎる!ばーと!」
子熊が声を上げ、ギルバートの胸に飛び移った。
「あ、アベル!ごめんギルバート…」
エリアスは申し訳なさそうにギルバートを気遣った。
「問題ない、しかしまた大きくなったか?」
――
診察は丁寧で、慎重だった。
口の中を見ると小さな牙、みみもしっぽも異常なし。
手足も問題なく動き、意志に反する気配もない。
「問題ないな…力が出る条件がまだ安定はしてなさそうだが…初獣化としては上出来だ」
ガレンとエリアスは、同時に息を吐いた。
「それに、獣化して言葉が話せるなんて。まだまだ俺も学ばされるな。おそらくお前たちが思っている通りだろう。人間の血が濃く出ている部分があるから起きた奇跡、といったところか…」
獣の姿で人の言葉を話す、奇跡。
ギルバートはアベルの頭をぽんと撫でた。
「戻るときはどうだ?」
アベルはくすぐったそうに答えた。
「わかんない!でも、んーーーってやったらもどれたよ!このまえは」
子供特有の抽象的な表現に、ギルバートは笑みをこぼした。
「はは、そうか。これはきっと経験の積み重ねだな。」
(ギルバートが、笑ってる…)
エリアスは初めて見るギルバートの表情を驚きの顔で見つめた。
「あのね、んーー!」
アベルが少し踏ん張ると、じわじわと獣化が解けていった。
「ほら!」
見た目はすっかり人間の子供だった。
――
帰り際、村長がガレンの肩を叩いた。
「……村に戻らないか、ガレン。
お前の両親があんな目に遭ってから、お前は十分すぎるほど務めを果たした。
それに今日の村の反応、環境は整っておる」
ガレンは、困ったように微笑ましい、首を横に振った。
「村長、その節は感謝している。
ただ…俺は、あの家が気に入っている。
……今日、ここへ戻って来れた。それで、十分だ」
村長は、ゆっくりうなずいた。
「そうか。ギルバートとの約束は、果たしたか」
ガレンは、何も言わなかった。
だが、その言葉を否定もしなかった。
アベルが言う。
「でも、またくるよ!」
その一言で、笑いが起きた。
「ありがとう、みんな」
ガレンが頭を下げ、エリアスとアベルもそれを真似た。
三人は、並んで村を後にする。
ガレンは、森へ戻る道でぽつりと呟いた。
「……世界は少し、優しかったな」
エリアスは、微笑んだ。
「うん。そうだね」
アベルは、誇らしげに言う。
「ぼく、かわいいって!」
過去は変わらないが、その先の未来は変えていくことができる。そう思える一日だった。
それでも、進めないほどではなかった。
木々のざわめきが、どこか様子見をしているように遠慮がちで、足音だけが、土を確かに踏みしめていく。
ガレンは、腕の中の重みを感じながら歩いていた。
子熊の姿のアベルは、丸くなっている。
温かく、呼吸は安定している。
「……またびっくりして、くまになっちゃったね」
小さくそう呟く声に、ガレンの胸の奥がわずかに緩む。
「そうだな、」
歩きながら、ガレンの脳裏には、ふと、過去の光景がよぎっていた。
山の中の家を直していた、あの頃。
梁を運び、壁を組み直し、獣人たちが無言で手を動かしていた日々。
その中で、ギルバートがぽつりと言った言葉。
『今は無理でも…
次に、俺に用事ができる頃には――お前が、村へ足が向くようにしておく』
あのとき、ガレンは何も答えなかった。
信じたわけでも、期待したわけでもない。
だが――
忘れてはいなかった。
「……約束、か」
誰に聞かせるでもなく、低く呟く。
偶然かなんなのか、往診を頼んでも良かったのだが。
今回、村へ向かう理由ははっきりしている。
アベルの、初めての獣化。
怖がらせたくはない。
だが、見逃すわけにもいかない。
診せるなら――ギルバートしかいない。
それに、とガレンは思う。
もし、あの言葉が嘘ではなかったなら。
もし、本当に「足を向けてもいい場所」になっているなら。
今が、そのときなのだろう。
エリアスは、隣を歩きながら、先に見える村の門を見つめていた。
「……緊張、してるか?」
ガレンの問いに、正直にうなずく。
「うん。でも……逃げたいほどじゃないかな」
「なら、十分だ」
その言葉に、エリアスは小さく息を吐いた。
やがて、村の入口が見える。
獣人たちは、すでに集まっていた。
号令があったわけではない。だが、三人の姿を認めた瞬間――
ざ、と音を立てて、全員が膝をついた。
地面に顔がつきそうなくらい下を向く。
「……っ」
エリアスは、言葉を失う。
村長が、一歩前に出た。
「エリアス、」
王とは呼ばなかった。
それだけで、変化は十分だった。
「我々は、恐れていた」
低く、重い声。
「人間を。力を。変化を」
視線を逸らさず、続ける。
「その恐怖を理由に、責任を押し付けた」
伏せた背中の中から、声が上がる。
「俺たちは……王のあんたに全部を背負わせた!」
「助かりたかっただけだ!」
「正しさより、保身を選んだ!」
エリアスの胸が、きしりと鳴る。
その前へ、ガレンが出た。
「……やめろ」
低い声。
だが、怒りではない。
「もう、いい」
腕の中のアベルを、少し抱き直す。
「俺も、獣の姿で暴れた。エリアスを取り戻すためとはいえ、仲間を傷つけ、恐れさせた」
視線を落とす。
「そして、獣となり逃げた。……すまなかった」
空気が、張りつめる。
「だから、過去を咎め合うつもりはない」
顔を上げる。
「だが――」
一瞬、熊の気配が立ち上がる。
「次、エリアスにかすり傷ひとつでもつけたら…そのときは、俺が相手になる」
「ちょっと、ガレン!」
エリアスがガレンの脇腹を小突く。
「脅さないで!」
「事実だ」
ガレンは、わずかに口元を緩めた。
「あのガレンを小突くなんて、強い人間だな」
獣人の誰かがそう言った。
エリアスは深呼吸して、一歩前へ出る。
「私は……弱かった」
静かな声。
「知らず、考えず、結果としてみんなを守れなかった」
深く、頭を下げる。
かつて王だった者が、頭を下げる光景はなんとも言えない空気だった。
「本当に、ごめんなさい」
しばらくすると。エリアスは顔を上げ、獣人たちを見渡した。
「でも、私はもう王ではない。
もちろん、だからといってやったことは消えないのは分かっている。
裁かないし、命令もしない、だから…」
深呼吸し微笑む。
「嫌でなければ……教えてほしい。
獣人の暮らしを。考えを…私は、もっと知りたいと思っている」
沈黙。
それを破ったのは、若い獣人の声だった。
「任せろ!!元王様!!」
一気に空気がほどける。
「アベル坊もな!!」
「坊主かわいいぞ!!こぐまちゃんだな!」
最初の空気は一変し、村には穏やかな空気が流れた。
数年前、エリアスが吊るされた広場の面影はもうなかった。
ギルバートが割って入る。
「落ち着け!!まずは、アベルを診るんだ、」
「ぎる!ばーと!」
子熊が声を上げ、ギルバートの胸に飛び移った。
「あ、アベル!ごめんギルバート…」
エリアスは申し訳なさそうにギルバートを気遣った。
「問題ない、しかしまた大きくなったか?」
――
診察は丁寧で、慎重だった。
口の中を見ると小さな牙、みみもしっぽも異常なし。
手足も問題なく動き、意志に反する気配もない。
「問題ないな…力が出る条件がまだ安定はしてなさそうだが…初獣化としては上出来だ」
ガレンとエリアスは、同時に息を吐いた。
「それに、獣化して言葉が話せるなんて。まだまだ俺も学ばされるな。おそらくお前たちが思っている通りだろう。人間の血が濃く出ている部分があるから起きた奇跡、といったところか…」
獣の姿で人の言葉を話す、奇跡。
ギルバートはアベルの頭をぽんと撫でた。
「戻るときはどうだ?」
アベルはくすぐったそうに答えた。
「わかんない!でも、んーーーってやったらもどれたよ!このまえは」
子供特有の抽象的な表現に、ギルバートは笑みをこぼした。
「はは、そうか。これはきっと経験の積み重ねだな。」
(ギルバートが、笑ってる…)
エリアスは初めて見るギルバートの表情を驚きの顔で見つめた。
「あのね、んーー!」
アベルが少し踏ん張ると、じわじわと獣化が解けていった。
「ほら!」
見た目はすっかり人間の子供だった。
――
帰り際、村長がガレンの肩を叩いた。
「……村に戻らないか、ガレン。
お前の両親があんな目に遭ってから、お前は十分すぎるほど務めを果たした。
それに今日の村の反応、環境は整っておる」
ガレンは、困ったように微笑ましい、首を横に振った。
「村長、その節は感謝している。
ただ…俺は、あの家が気に入っている。
……今日、ここへ戻って来れた。それで、十分だ」
村長は、ゆっくりうなずいた。
「そうか。ギルバートとの約束は、果たしたか」
ガレンは、何も言わなかった。
だが、その言葉を否定もしなかった。
アベルが言う。
「でも、またくるよ!」
その一言で、笑いが起きた。
「ありがとう、みんな」
ガレンが頭を下げ、エリアスとアベルもそれを真似た。
三人は、並んで村を後にする。
ガレンは、森へ戻る道でぽつりと呟いた。
「……世界は少し、優しかったな」
エリアスは、微笑んだ。
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