20 / 50
19.5
しおりを挟む
ギルバートは、洞穴の前で立ち止まった。
足を止めたのは、意識してのことではなかった。
風向きが変わった、その一瞬だった。
薬草の匂い。
血の匂い。
それに――人間の匂い。
しかも、近い。
ただ通り過ぎるだけのものではない。
ここに「在る」匂いだ。
「……これは……」
独り言は、喉の奥で消えた。
ここが誰の縄張りかを、ギルバートは知っている。
知らないはずがなかった。
この洞穴は、ガレンのテリトリーだ。
若い頃から変わらない。
誰も近づかず、誰も踏み込まず、必要な者だけが立ち入る場所。
大熊は、そういう生き方を選んだ。
往診の帰りだった。
村長の息子としてではなく、医師として、森を回るいつもの道。
発情期の獣人に不用意に近づかないことも、同じ獣人として心得ている。
ましてや、ガレンの巣穴だ。
本来なら、踵を返す一択だった。
発情期の匂いは、私事だ。
誰かの事情に、踏み込む理由はない。
――だが。
匂いが、異質だった。
獣人のものではない。
人間のものだ。
しかも、恐怖や拒絶の匂いではない。
一時的に触れただけの匂いでもない。
近くに長く留まり、囲われ、守られ、身体が馴染んだ匂いだった。
(少なくとも冬辺りか…)
そう判断するまで、時間はかからなかった。
獅子の血は、嘘と真を嗅ぎ分ける。
それは誇りであり、時に辛いことだった。
ギルバートは、洞穴の奥を見やった。
中の様子は、見えない。
だが、分かる。
熱がある。
呼吸が近い。
理性より先に、身体が相手を選んだあとの空気だ。
そして、その中心にいるのは――
「……やはり、ガレンか」
低く、確信をもって呟く。
毎年、この時期になると、誰よりも距離を取る熊。
見回りを減らし、村から離れ、
自分を制御することに、すべてを費やす男。
そのガレンの縄張りから、こんな匂いが溢れている。
変化する獣の種類が違うためなんとか耐えられるが、嗅いだことのない甘美な匂い。
異常だった。
ギルバートは、さらに一歩踏み出しかけて、止まった。
踏み込めば、壊れる。
踏み込まなければ、いずれ表に出る。
どちらも、分かっている。
医師としての判断と、獣人としての直感が、同時に警鐘を鳴らしていた。
――これは、秘密では済まない。
こんな匂いを撒き散らして、ただじゃ済まない。
保険をかける意味でギルバートは獣化し、獅子の姿となった。
目を細めるとガレン肩越しに見開かれる瞳。
(恐怖というよりも、焦燥か?)
そのとき、洞穴の奥から声がした。
低く、短く、圧を含んだ声。
「……見るな。帰れ」
ガレンの声だ。
振り返らず、背を向けたまま。
それでも、はっきりとした拒絶。
旧友にさえ獣化を厭わない圧を隠さない、テリトリーの主としての声だった。
ギルバートは、苦笑に近い息を吐いた。
(……やはりな。力をためらいなく使おうとするか。
先に獣化してるのはこちらではあるが…)
問いは、もう不要だった。
血の匂い。
発情期の歪み。
人間の存在。
全部、繋がっている。
(……厄介なことを選んだな、ガレン)
責める気はなかった。
むしろ、理解のほうが先に来た。
守るために選んだのだろう。
衝動ではなく、選択として。
だからこそ、危うい。
ギルバートは、声を張らずに言った。
「……名前はいい、」
(冬に拾った人間ならば、捨てられた王、か…)
それが、境界だった。
旧友としての、最後の配慮。
「だが、その匂いは隠せない。
もう、村の誰かが気づいてもおかしくない」
返事はない。
だが、否定もない。
それで、十分だった。
「……守る、か」
低く呟く。
守るために壊れた獣を、医師として、何人も見てきた。
無限ではない獣化、力の仕組みは永遠の謎のまま。
ガレンの両親も、そうだった。
力が大きいほど早いのか、わからない。
一瞬だけ、記憶が胸を掠める。
だから、ギルバートはそれ以上踏み込まなかった。
踏み込めば、
今はまだ保たれている均衡を壊す。
「……今は、立ち去る」
それが、最善だった。
洞穴に背を向け、歩き出す。
だが、完全に離れる前に、ひとつだけ言葉を残す。
「次に会うときは、医師として来たい」
忠告であり、予告だった。
そして、裏切らないという意思表示でもある。
森の中へ戻りながら、ギルバートは思う。
あの匂いは、もう“個人の問題”ではない。
村が気づく。
世界が気づく。
それでも、あの熊は選んだのだ。
ならば――獅子は獅子として、医師として。
できることを考えるしかない。
ギルバートは、歩みを止めず、森の奥へ消えていった。
足を止めたのは、意識してのことではなかった。
風向きが変わった、その一瞬だった。
薬草の匂い。
血の匂い。
それに――人間の匂い。
しかも、近い。
ただ通り過ぎるだけのものではない。
ここに「在る」匂いだ。
「……これは……」
独り言は、喉の奥で消えた。
ここが誰の縄張りかを、ギルバートは知っている。
知らないはずがなかった。
この洞穴は、ガレンのテリトリーだ。
若い頃から変わらない。
誰も近づかず、誰も踏み込まず、必要な者だけが立ち入る場所。
大熊は、そういう生き方を選んだ。
往診の帰りだった。
村長の息子としてではなく、医師として、森を回るいつもの道。
発情期の獣人に不用意に近づかないことも、同じ獣人として心得ている。
ましてや、ガレンの巣穴だ。
本来なら、踵を返す一択だった。
発情期の匂いは、私事だ。
誰かの事情に、踏み込む理由はない。
――だが。
匂いが、異質だった。
獣人のものではない。
人間のものだ。
しかも、恐怖や拒絶の匂いではない。
一時的に触れただけの匂いでもない。
近くに長く留まり、囲われ、守られ、身体が馴染んだ匂いだった。
(少なくとも冬辺りか…)
そう判断するまで、時間はかからなかった。
獅子の血は、嘘と真を嗅ぎ分ける。
それは誇りであり、時に辛いことだった。
ギルバートは、洞穴の奥を見やった。
中の様子は、見えない。
だが、分かる。
熱がある。
呼吸が近い。
理性より先に、身体が相手を選んだあとの空気だ。
そして、その中心にいるのは――
「……やはり、ガレンか」
低く、確信をもって呟く。
毎年、この時期になると、誰よりも距離を取る熊。
見回りを減らし、村から離れ、
自分を制御することに、すべてを費やす男。
そのガレンの縄張りから、こんな匂いが溢れている。
変化する獣の種類が違うためなんとか耐えられるが、嗅いだことのない甘美な匂い。
異常だった。
ギルバートは、さらに一歩踏み出しかけて、止まった。
踏み込めば、壊れる。
踏み込まなければ、いずれ表に出る。
どちらも、分かっている。
医師としての判断と、獣人としての直感が、同時に警鐘を鳴らしていた。
――これは、秘密では済まない。
こんな匂いを撒き散らして、ただじゃ済まない。
保険をかける意味でギルバートは獣化し、獅子の姿となった。
目を細めるとガレン肩越しに見開かれる瞳。
(恐怖というよりも、焦燥か?)
そのとき、洞穴の奥から声がした。
低く、短く、圧を含んだ声。
「……見るな。帰れ」
ガレンの声だ。
振り返らず、背を向けたまま。
それでも、はっきりとした拒絶。
旧友にさえ獣化を厭わない圧を隠さない、テリトリーの主としての声だった。
ギルバートは、苦笑に近い息を吐いた。
(……やはりな。力をためらいなく使おうとするか。
先に獣化してるのはこちらではあるが…)
問いは、もう不要だった。
血の匂い。
発情期の歪み。
人間の存在。
全部、繋がっている。
(……厄介なことを選んだな、ガレン)
責める気はなかった。
むしろ、理解のほうが先に来た。
守るために選んだのだろう。
衝動ではなく、選択として。
だからこそ、危うい。
ギルバートは、声を張らずに言った。
「……名前はいい、」
(冬に拾った人間ならば、捨てられた王、か…)
それが、境界だった。
旧友としての、最後の配慮。
「だが、その匂いは隠せない。
もう、村の誰かが気づいてもおかしくない」
返事はない。
だが、否定もない。
それで、十分だった。
「……守る、か」
低く呟く。
守るために壊れた獣を、医師として、何人も見てきた。
無限ではない獣化、力の仕組みは永遠の謎のまま。
ガレンの両親も、そうだった。
力が大きいほど早いのか、わからない。
一瞬だけ、記憶が胸を掠める。
だから、ギルバートはそれ以上踏み込まなかった。
踏み込めば、
今はまだ保たれている均衡を壊す。
「……今は、立ち去る」
それが、最善だった。
洞穴に背を向け、歩き出す。
だが、完全に離れる前に、ひとつだけ言葉を残す。
「次に会うときは、医師として来たい」
忠告であり、予告だった。
そして、裏切らないという意思表示でもある。
森の中へ戻りながら、ギルバートは思う。
あの匂いは、もう“個人の問題”ではない。
村が気づく。
世界が気づく。
それでも、あの熊は選んだのだ。
ならば――獅子は獅子として、医師として。
できることを考えるしかない。
ギルバートは、歩みを止めず、森の奥へ消えていった。
0
あなたにおすすめの小説
人族は一人で生きられないらしい――獣人公爵に拾われ、溺愛されて家族になりました
よっちゃん
BL
人族がほとんど存在しない世界に、
前世の記憶を持ったまま転生した少年・レオン。
獣人が支配する貴族社会。
魔力こそが価値とされ、
「弱い人族」は守られるべき存在として扱われる世界で、
レオンは常識の違いに戸惑いながらも必死に生きようとする。
そんな彼を拾ったのは、
辺境を治める獣人公爵アルト。
寡黙で冷静、しかし一度守ると決めたものは決して手放さない男だった。
溺愛され、守られ、育てられる日々。
だが、レオンはただ守られるだけの存在で終わることを選ばない。
学院での出会い。
貴族社会に潜む差別と陰謀。
そして「番」という、深く重い絆。
レオンは学び、考え、
自分にしかできない魔法理論を武器に、
少しずつ“並び立つ覚悟”を身につけていく。
獣人と人族。
価値観も、立場も、すべてが違う二人が、
それでも選び合い、家族になるまでの物語。
溺愛×成長×異世界BL。
読後に残るのは、
「ここに居場所があっていい」と思える、あたたかな幸福。
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*不定期連載です。
【本編完結】最強魔導騎士は、騎士団長に頭を撫でて欲しい【番外編あり】
ゆらり
BL
帝国の侵略から国境を守る、レゲムアーク皇国第一魔導騎士団の駐屯地に派遣された、新人の魔導騎士ネウクレア。
着任当日に勃発した砲撃防衛戦で、彼は敵の砲撃部隊を単独で壊滅に追いやった。
凄まじい能力を持つ彼を部下として迎え入れた騎士団長セディウスは、研究機関育ちであるネウクレアの独特な言動に戸惑いながらも、全身鎧の下に隠された……どこか歪ではあるが、純粋無垢であどけない姿に触れたことで、彼に対して強い庇護欲を抱いてしまう。
撫でて、抱きしめて、甘やかしたい。
帝国との全面戦争が迫るなか、ネウクレアへの深い想いと、皇国の守護者たる騎士としての責務の間で、セディウスは葛藤する。
独身なのに父性強めな騎士団長×不憫な生い立ちで情緒薄めな甘えたがり魔導騎士+仲が良すぎる副官コンビ。
甘いだけじゃない、骨太文体でお送りする軍記物BL小説です。番外は日常エピソード中心。ややダーク・ファンタジー寄り。
※ぼかしなし、本当の意味で全年齢向け。
★お気に入りやいいね、エールをありがとうございます! お気に召しましたらぜひポチリとお願いします。凄く励みになります!
出戻り勇者の求婚
木原あざみ
BL
「ただいま、師匠。俺と結婚してください」
五年前、見事魔王を打ち倒し、ニホンに戻ったはずの勇者が、なぜか再びエリアスの前に現れた。
こちらの都合で勝手に召喚された、かわいそうな子ども。黒い髪に黒い瞳の伝説の勇者。魔王の討伐が終わったのだから、せめて元の世界で幸せになってほしい。そう願ってニホンに送り返した勇者に求婚目的で出戻られ、「??」となっている受けの話です。
太陽みたいに明るい(けど、ちょっと粘着質な)元勇者×人生休憩中の元エリート魔術師。
なにもかも討伐済みの平和になった世界なので、魔法も剣もほとんど出てきません。ファンタジー世界を舞台にした再生譚のようななにかです。
紳士オークの保護的な溺愛
flour7g
BL
■ 世界と舞台の概要
ここはオークの国「トールキン」。
魔法、冒険者、ギルド、ダンジョン、獣人やドラゴンが存在する、いわゆる“典型的な異世界”だが、この国の特徴はオークが長命で、理知的な文明社会を築いていることにある。
トールキンのオークたちは、
灰色がかった緑や青の肌
鋭く澄んだ眼差し
鍛え上げられた筋骨隆々の体躯
を持ち、外見こそ威圧的だが、礼節と合理性を重んじる国民性をしている。
異世界から来る存在は非常に珍しい。
しかしオークは千年を生きる種族ゆえ、**長い歴史の中で「時折起こる出来事」**として、記録にも記憶にも残されてきた。
⸻
■ ガスパールというオーク
ガスパールは、この国でも名の知れた貴族家系の三男として生まれた。
薄く灰を帯びた緑の肌、
赤い虹彩に金色の瞳孔という、どこか神話的な目。
分厚い肩と胸板、鍛え抜かれた腹筋は鎧に覆われずとも堅牢で、
銀色に輝く胸当てと腰当てには、代々受け継がれてきた宝石が嵌め込まれている。
ざらついた低音の声だが、語調は穏やかで、
貴族らしい品と、年齢を重ねた余裕がにじむ話し方をする。
● 彼の性格
• 極めて面倒見がよく、観察力が高い
• 感情を声高に表に出さないが、内側は情に厚い
• 責任を引き受けることを当然のように思っている
• 自分が誰かに寄りかかることだけは、少し苦手
どこか「自分は脇役でいい」と思っている節があり、それが彼の誠実さと同時に、不器用さでもあった。
⸻
■ 過去と喪失 ――愛したオーク
ガスパールはかつて、平民出身のオーク男性と結ばれていた。
家柄も立場も違う相手だったが、
彼はその伴侶の、
不器用な優しさ
朝食を焦がしてしまうところ
眠る前に必ず手を探してくる癖
を、何よりも大切にしていた。
しかし、その伴侶はすでにこの世を去っている。
現在ガスパールが暮らしているのは、
貴族街から少し離れた、二階建ての小さな屋敷。
華美ではないが、掃除が行き届き、静かな温もりのある家だ。
彼は今も毎日のように墓参りを欠かさない。
それは悲嘆というより、対話に近い行為だった。
⸻
■ 現在の生活
ガスパールは現在、
街の流通を取り仕切る代表的な役職に就いている。
多忙な職務の合間にも、
洗濯、掃除、料理
帳簿の整理
屋敷の修繕
をすべて自分でこなす。
仕事、家事、墓参り。
規則正しく、静かな日々。
――あなたが現れるまでは。
異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!
めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈
社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。
もらった能力は“全言語理解”と“回復力”!
……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈
キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん!
出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
--------------------
※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
アルファ嫌いのヤンキーオメガ
キザキ ケイ
BL
にわか景気の商店街に建つペットショップで働く達真は、男性オメガだ。
オメガなのに美形でも小柄でもなく、金に染めた髪と尖った態度から不良だと敬遠されることが多い達真の首には、オメガであることを嫌でも知られてしまう白い首輪が嵌っている。
ある日、店にアルファの客がやってきた。
過去のトラウマからアルファが大嫌いな達真はぞんざいな態度で接客するが、そのアルファはあろうことか達真を「きれいだ」と称し、いきなりキスしてきて───!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる