【完結】獣王

さか様

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「傷にこれくらい塗れば、大丈夫…?」

エリアスがガレンの腕に塗った薬草の匂いが、互いの肌に残る。

呼吸のたび、わずかに甘く、熱を含んだ香りが肺に入る。

洞穴の奥は静かで、外の世界が遠い。
ここには、二人しかいない――そう思える距離だった。

「ああ、ありがとう」

ガレンは、エリアスの背に手を置いたまま、動かなかった。
塗り終えたはずなのに、離れない。

「……まだ、痛むなら、」

問いというより、口実に近いエリアスの声。

ガレンは、首を振る代わりに、エリアスを抱き締めた。

吐息が、触れる。

「……平気だ、エリの手は温かいな」

その言葉に、エリアスの体から力が抜ける。

ガレンの無骨な指先が、エリアスを確かめるようにゆっくりと背中へ滑る。
解れ具合を測るでもなく、ただ、そこにある温度を覚え直すように。

エリアスは、息を詰めた。

(……触られるの、慣れたはずなのに……)

背に置かれた掌が、円を描く。
薬草を塗るための動きより、少しだけ、丁寧で、長い。

「……くすぐったいか?」

低く、気遣う声。

「……ううん」

否定は、小さかった。
そのまま、言い足す。

「……きもちいい、な」

それで、空気が変わった。

ガレンの額が、そっとエリアスの肩に触れる。
体重はかけない。最初から同じ、逃げ道を残した距離。

鼻先が、首筋のあたりで止まる。
エリアスの匂いを吸いながら首筋を優しく舐め、甘噛みした。

「……エリ」

名を呼ばれるだけで、身体中が熱を持つ。

エリアスは、無意識に、ガレンの袖を掴んでいた。
引き寄せるほど強くはない。
離れないで、と伝える程度。

「……ん、ガレン」

呼び返すと、ガレンの喉の奥で、低い音が鳴った。

指が、背から腰へ。
ゆっくり引き寄せ、止まる。

「……しても、いいか」

低い声で確認する。
交尾という言葉はなんとなく使わなかった。

エリアスは、ほんの一瞬だけ目を伏せてから、頷いた。

「……ん、しよう」

小さな声。
だが、迷いはない。

ガレンの身体が、わずかに前に傾きエリアスの身体に
覆いかぶさった。

互いの昂ぶりが、熱を持ちはっきりと輪郭を描く。

そのとき――

エリアスの視界の端で、金色のものが動いた。

洞穴の入口。
光と影の境目。

――立ち止まる影。

反射的に、エリアスの目が見開かれる。

そこにいたのは、獣だった。
しなやかで、背の高い、金の毛並みを持つ獅子。

ガレンは、まだ気づいていない。
発情期の熱で、視野が狭まっている。
意識は、前にいるエリアスの存在だけに集中している。

だが、エリアスは見てしまった。

踏み込まない。
引き返しもしない。

立ち止まって、見ている金色の獅子。

エリアスは、息を殺す。
声を出せば、すべてが壊れる。

「……ガレン……」

警告だった。
名を呼ぶだけで、すべてを伝えようとする小さな声。

ガレンの動きが止まる。
鼻を鳴らし、獅子の存在を匂いで確かめると、振り返らないまま低く声を落とした。

「……ギルバートか、見るな。帰れ」

空気を揺らす、今にも獣化しかねない、ガレンの圧。

その瞬間、獅子の鼻先がわずかに上がる。
深く、空気を吸う仕草。

質量は人の形を形成し、獅子は人の形になった。
金色の髪を掻き揚げ、少し困ったように笑った。

「……ガレン、久しいな。
なに、往診帰りだ。…しかし、これは」

ガレンと似た低い声。

「血の匂い。それと……獣人じゃないな。人間の匂いだ」

静かな断定。

「……しかも、囲って久しい」

ガレンの喉が、鳴る。

否定しない。
だが、認めもしない。

「……関係ない」

「いや、関係ある」

即答だった。

ギルバートは、ゆっくりと一歩近づく。
だが、それ以上は踏み込まない。

「お前は、毎年、この時期は誰よりも慎重だった。
それが、今年は違う」

視線が、ガレンの背越しに、エリアスを捉える。
捕食者の瞳。しかし、人間の姿で、幾分和らいでいる。

「……匂いが、濃すぎる」

ガレンの拳が、わずかに握られる。

「……詮索をするな」

低く、警告。

ギルバートは肩をすくめた。

「詮索ではない。医師としての確認だ。
確認ついでだが、ガレン、お前…いつから秘密を抱えた?」

沈黙。
それが答えだった。

ギルバートは、短く息を吐く。
どうやら質問の仕方を変える必要があるからだ。

「……もう一度問う。これは、人間だな」

ガレンの背中が、僅かに強張る。
エリアスは息を詰めた。

(……見られた、私とガレンを…)

ギルバートはなおも静かに続ける。

「……名前はいい。だが…この匂いは、隠しきれない。
もう、村の誰かが気づいてもおかしくない」

その瞳はエリアスを捉えて離さない。
まるで責められているのか、いや、事実を述べているだけなのか。

ガレンは、低く唸った。

「……守る」

短く、しかし重い言葉。

「……それだけだ」

その言葉を受け止め、ギルバートはゆっくり頷いた。

「……ああ。その覚悟は理解する。
だがな、ガレン、」

声が、少しだけ低くなる。

「守るために、壊れるやつを、俺は何人も見てきた。
……現にお前の両親だって、」

沈黙が落ちる。

風が向きを変え、洞穴の奥で、エリアスの呼吸が、ひゅ、と漏れた。

不意に、ガレンがエリアスの耳元で囁く。

「あれは村長の息子だ。医師で……俺に、借りがある」

それを聞いて、エリアスはかつてガレンが力を抑えきれなかった日の話をしてくれたことを思い出した。

ギルバートは、わずかに視線を逸らした。

「……ああ、弟を助けてもらった。
その義理は、忘れていない」

踵を返す。

「今は、去ろう」

一歩。

「……次に会うときは、医師として来たい」

忠告であり、約束だった。
金色の気配が、森の向こうへ消えた。

――

洞穴に、重い沈黙が戻る。

ガレンはギルバートが去ったあと、ようやく振り返り洞穴の外に視線をやった。

エリアスの肩が、小さく震える。

「……ごめ、なさい……」

ガレンは、即座に振り返り、強く、しかし乱暴ではなく抱き寄せる。

「違う」

低い声。

「お前のせいじゃない」

額を寄せる。

「匂いも、存在も……隠せなくなったのは、俺がお前を選んで愛した結果だ」

腕に、確かな力。

「……泣くな」

短く。

「守ると言ったのは、俺だ」

エリアスは、堪えきれず、声を殺して泣いた。
ガレンは、何も言わず、ただ抱きしめ続けた。

夏は祝福の季節だ。
だが同時に、秘密を許さない季節でもある。

それを、二人は、同じ重さで知ったのだった。
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