3 / 10
傷
しおりを挟む
夜の屋敷は、音が少ない。
昼間に積み重なった気配が、嘘みたいに引いている。
畳を踏む音が、やけに大きく響く。
恒一は、角を曲がったところで足を止めた。
ここに来てから、数週間。
赤板の屋敷で過ごす時間は、妙に長く感じる。
なれない環境で手持ち無沙汰だからなのか、うまく距離感が掴めないからなのか。
燈は相変わらずだった。
舌打ちをして、距離を取って、拒む。
それなのに、完全に追い払われることはない。
近づけば睨まれるが、離れろとは言われない。
(……わからん、)
兄貴と呼ぶたびに怒られて、それでも呼び方を変えなかった理由も、自分でもはっきりしないまま、今日まで来た。
考え事をしながら歩いていて、ふと、燈の部屋の前で立ち止まる。
完全には閉まっていない、少しの隙間から光が漏れていた。
視線を逸らすべきだと、頭では分かっていた。
だが、身体が言うことを聞かない。
隙間の向こうに、影が揺れている。
押し殺した息遣い。
衣擦れの音。
人影の揺らめき。
燈の声が、聞こえた。
「…、ふ、」
普段より低く、抑えた声。
誰かに向けているはずなのに、感情が薄い。
女の声が混じる。
甘えたようでどこか遠い、鼻にかかる声。
恒一は、息を止めた。
(……セックス、か)
他人のそれを、見るのは初めてだった。
障子の隙間から見えるのは、断片だけだ。
乱れたシャツの裾。
燈の肩。
女の指が、そこに縋る仕草。
だが、動きはどこか雑だった。
慣れているようで気持ちが伴っていない。
“抱いている”というより、何かを忘れようとしているように見えた。
その瞬間、燈が顔を上げた。
隙間越しに、目が合う。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
燈は、何も言わない。
ただ、目を細めた。
『こういち』
思い上がりでなければ、唇はそう動いた。
(俺の名前?)
恒一は、その場に立ち尽くした。
(……なんなんだ)
見たくて見たわけじゃない。
だが、見てしまった。
胸の奥に残ったのは、気まずさでも、嫌悪でもない。
ただ、強い違和感だった。
――
翌朝
廊下ですれ違いざま、燈が言った。
「出歯亀ご苦労さん」
冗談めいた軽い口調で揶揄される。
「……は?」
恒一は、本気で意味が分からなかった。
「いや、ちょっと待て。
見せたの、兄貴でしょ?」
思ったことが、そのまま口に出た。
次の瞬間、拳が飛んできた。
だが——
恒一は、それを受け止めた。
掌で、燈の拳を包む。
「……」
燈の手は、小さかった。
骨ばっていて、細い。
思っていたより、ずっと。
「……可愛いな」
思わず、口に出る。
拳を掴んだまま、親指で軽く撫でる。
「兄貴の手。昨日の俺の名前、呼んでた?」
一瞬、空気が凍る。
「……は?気色わりぃ」
低い声。
次の瞬間、反対側の拳が腹に叩き込まれた。
鈍い衝撃。
「……っ、はいった、」
今度は、さすがに息が詰まる。
燈は、拳を引いたまま睨みつける。
「調子乗んな」
恒一は、少し息を整えてから言った。
「……あれ、セックスじゃないだろ」
燈の眉が、ぴくりと動く。
「抱いてるフリしてるだけだ。
……正直、AVのほうがまだ嘘がうまい」
空気が変わり、燈の目が鋭くなる。
「……うるせぇよ。
女にされたって話、聞いただろうが」
その鋭い眼光は逸らされたまま、燈は小さく呟いた。
恒一は、短く息を吐く。
「屈辱だっただろ」
「おい、てめぇが決めんな。
ただ…忘れたいだけだ」
ぽつりと落ちる。
「思い出さねぇために、やってるだけだよ。あんなの」
女を抱いて、過去を上書きするみたいに。
「面子もある。立場もある。
ヤクザがこんなことでぶっ壊れてるなんて、笑いもんだろ」
恒一は、何も言えなかった。
(俺の名前、絶対呼んでたくせに)
代わりに、燈が続ける。
「そんなことより、なあ。あの傷、臓器、売ったってことか?」
脇腹を指す。
恒一は、頷いた。
「腎臓、一個。正確には売ってないよ」
淡々と。
「親が売ろうとして、うまく取り出せなくて、片方ダメになった」
感情は、乗らない。
「それで宣親に助けられた。だから今、ここにいる」
燈は、しばらく黙っていた。
やがて、鼻で笑う。
「……俺も大概だけど、お前もやべぇな」
視線を上げて、言う。
それは嘲りや同情でもない。
ただの、事実確認みたいな声だった。
恒一は、少しだけ肩を竦めた。
「よく言われる」
二人の間に、沈黙が落ちる。
昨夜よりも、少しだけ重くて、少しだけ近い沈黙。
燈は、何も言わずに背を向けた。
その背中は、昨日よりほんの少しだけ、柔らかみがあった。
昼間に積み重なった気配が、嘘みたいに引いている。
畳を踏む音が、やけに大きく響く。
恒一は、角を曲がったところで足を止めた。
ここに来てから、数週間。
赤板の屋敷で過ごす時間は、妙に長く感じる。
なれない環境で手持ち無沙汰だからなのか、うまく距離感が掴めないからなのか。
燈は相変わらずだった。
舌打ちをして、距離を取って、拒む。
それなのに、完全に追い払われることはない。
近づけば睨まれるが、離れろとは言われない。
(……わからん、)
兄貴と呼ぶたびに怒られて、それでも呼び方を変えなかった理由も、自分でもはっきりしないまま、今日まで来た。
考え事をしながら歩いていて、ふと、燈の部屋の前で立ち止まる。
完全には閉まっていない、少しの隙間から光が漏れていた。
視線を逸らすべきだと、頭では分かっていた。
だが、身体が言うことを聞かない。
隙間の向こうに、影が揺れている。
押し殺した息遣い。
衣擦れの音。
人影の揺らめき。
燈の声が、聞こえた。
「…、ふ、」
普段より低く、抑えた声。
誰かに向けているはずなのに、感情が薄い。
女の声が混じる。
甘えたようでどこか遠い、鼻にかかる声。
恒一は、息を止めた。
(……セックス、か)
他人のそれを、見るのは初めてだった。
障子の隙間から見えるのは、断片だけだ。
乱れたシャツの裾。
燈の肩。
女の指が、そこに縋る仕草。
だが、動きはどこか雑だった。
慣れているようで気持ちが伴っていない。
“抱いている”というより、何かを忘れようとしているように見えた。
その瞬間、燈が顔を上げた。
隙間越しに、目が合う。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
燈は、何も言わない。
ただ、目を細めた。
『こういち』
思い上がりでなければ、唇はそう動いた。
(俺の名前?)
恒一は、その場に立ち尽くした。
(……なんなんだ)
見たくて見たわけじゃない。
だが、見てしまった。
胸の奥に残ったのは、気まずさでも、嫌悪でもない。
ただ、強い違和感だった。
――
翌朝
廊下ですれ違いざま、燈が言った。
「出歯亀ご苦労さん」
冗談めいた軽い口調で揶揄される。
「……は?」
恒一は、本気で意味が分からなかった。
「いや、ちょっと待て。
見せたの、兄貴でしょ?」
思ったことが、そのまま口に出た。
次の瞬間、拳が飛んできた。
だが——
恒一は、それを受け止めた。
掌で、燈の拳を包む。
「……」
燈の手は、小さかった。
骨ばっていて、細い。
思っていたより、ずっと。
「……可愛いな」
思わず、口に出る。
拳を掴んだまま、親指で軽く撫でる。
「兄貴の手。昨日の俺の名前、呼んでた?」
一瞬、空気が凍る。
「……は?気色わりぃ」
低い声。
次の瞬間、反対側の拳が腹に叩き込まれた。
鈍い衝撃。
「……っ、はいった、」
今度は、さすがに息が詰まる。
燈は、拳を引いたまま睨みつける。
「調子乗んな」
恒一は、少し息を整えてから言った。
「……あれ、セックスじゃないだろ」
燈の眉が、ぴくりと動く。
「抱いてるフリしてるだけだ。
……正直、AVのほうがまだ嘘がうまい」
空気が変わり、燈の目が鋭くなる。
「……うるせぇよ。
女にされたって話、聞いただろうが」
その鋭い眼光は逸らされたまま、燈は小さく呟いた。
恒一は、短く息を吐く。
「屈辱だっただろ」
「おい、てめぇが決めんな。
ただ…忘れたいだけだ」
ぽつりと落ちる。
「思い出さねぇために、やってるだけだよ。あんなの」
女を抱いて、過去を上書きするみたいに。
「面子もある。立場もある。
ヤクザがこんなことでぶっ壊れてるなんて、笑いもんだろ」
恒一は、何も言えなかった。
(俺の名前、絶対呼んでたくせに)
代わりに、燈が続ける。
「そんなことより、なあ。あの傷、臓器、売ったってことか?」
脇腹を指す。
恒一は、頷いた。
「腎臓、一個。正確には売ってないよ」
淡々と。
「親が売ろうとして、うまく取り出せなくて、片方ダメになった」
感情は、乗らない。
「それで宣親に助けられた。だから今、ここにいる」
燈は、しばらく黙っていた。
やがて、鼻で笑う。
「……俺も大概だけど、お前もやべぇな」
視線を上げて、言う。
それは嘲りや同情でもない。
ただの、事実確認みたいな声だった。
恒一は、少しだけ肩を竦めた。
「よく言われる」
二人の間に、沈黙が落ちる。
昨夜よりも、少しだけ重くて、少しだけ近い沈黙。
燈は、何も言わずに背を向けた。
その背中は、昨日よりほんの少しだけ、柔らかみがあった。
10
あなたにおすすめの小説
兄弟カフェ 〜僕達の関係は誰にも邪魔できない〜
紅夜チャンプル
BL
ある街にイケメン兄弟が経営するお洒落なカフェ「セプタンブル」がある。真面目で優しい兄の碧人(あおと)、明るく爽やかな弟の健人(けんと)。2人は今日も多くの女性客に素敵なひとときを提供する。
ただし‥‥家に帰った2人の本当の姿はお互いを愛し、甘い時間を過ごす兄弟であった。お店では「兄貴」「健人」と呼び合うのに対し、家では「あお兄」「ケン」と呼んでぎゅっと抱き合って眠りにつく。
そんな2人の前に現れたのは、大学生の幸成(ゆきなり)。純粋そうな彼との出会いにより兄弟の関係は‥‥?
彼の理想に
いちみやりょう
BL
あの人が見つめる先はいつも、優しそうに、幸せそうに笑う人だった。
人は違ってもそれだけは変わらなかった。
だから俺は、幸せそうに笑う努力をした。
優しくする努力をした。
本当はそんな人間なんかじゃないのに。
俺はあの人の恋人になりたい。
だけど、そんなことノンケのあの人に頼めないから。
心は冗談の中に隠して、少しでもあの人に近づけるようにって笑った。ずっとずっと。そうしてきた。
塩対応だった旦那様が記憶喪失になった途端溺愛してくるのですが
詩河とんぼ
BL
貧乏伯爵家の子息であったノアは家を救うことを条件に、援助をしてくれることとなったラインドール公爵家の若気当主のレオンに嫁ぐこととなった。
塩対応で愛人がいるという噂のレオンやノアを嫌う義母の前夫人を見て、ほとんどの使用人たちはノアに嫌がらせをしていた。
そんな中、レオンが階段から転落し、レオンは記憶を失ってしまう。すると――
【完】君に届かない声
未希かずは(Miki)
BL
内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。
ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。
すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。
執着囲い込み☓健気。ハピエンです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる