父、走る

emikko

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1.父、溜息する

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 「山野室長、こちらの決裁に捺印をお願いしたいんですけど…」
 部下の言葉にふと我に返った。
 「あ、ああ、はい。今押すよ」抽斗から判子を取り出す。一応、どんな書類か目を通すが、内容自体がよく呑み込めない。
 今、僕が在籍している部署は「人事部資料作成室」一体、何をやっている部署なのか、そもそもそんな部署があったことすら入社して20年が経つというのに知らなかった。そんな僕がここに来たのは「左遷」につきる。
 ここに来る前は営業部にいて、バンバン仕事をこなしてきた。大学で建築学を学び、卒業後は大手住宅会社に入社。それからは夢中で出世という名の階段を駆け上がってきた。もともと家を設計することが好きだったが、配属されたのが営業で、上司がとても尊敬できる人だった。鎌田さんというその上司から営業のノウハウを教わり、自分もこうなりたい!と願い、追いつこうと必死だった。鎌田さんはその有能さが認められ、取締役にまでなった。彼に可愛がられていた僕も、彼に付随する形で昇進していった。しかし…
 何事も、上るときは時間がかかるというのに、下るときはあっという間だ。
 鎌田さんにはライバルとなる他の取締役がいたのだが、派閥争いに敗れ、退陣に追い込まれてしまった。当然僕にもその火の粉が降りかかり、こうして人事部資料作成室などというよくわからない部署に転籍を命ぜられたのだ。41歳の春にして肩書は「室長」だが、やっていることといったら決裁の押印か、資料のチェックくらい。ハッキリ言って、やらなければならないことは…ない。間違いなく、出世コースから外れた。

 何度も転職を考えたが、家のローンや子ども2人を抱えていることを考えたら、どうしても躊躇してしまう。今や転職は当たり前の時代…とはいえ、やめられないのは会社が大手であり、それなりの給料が安定してもらえるからだ。例え会社側からは「やめろ」という無言のプレッシャーを与えられたとしても。

 もう何度見たのかもわからない時計が午後5時半を差し、ようやく長い一日が終わった。資料室のメンバーは5人だけで、下は入社してまだ一年から上は僕より年が一回り上まで。おまけに全員が訳ありで、「仕事ができない」レッテルを張られた社員ばかりだ。
 だが、ここにきて思ったのは、彼らは決して仕事ができないわけではないということだ。地味で不器用で人とのコミュニケーションが苦手な連中だが、言われたことは一生懸命こなすし、変な言い訳や口答えもしない。ただ、人生をどこか諦めた「哀愁」を感じる。
 「定時です。みなさんお疲れ様でした」
 僕が声をかけると、メンバーは一斉に立ち上がって「お疲れ様でした」と復唱し一礼して片づけ始めた。
 ちなみにこの資料作成室は、会社の敷地内ではあるが本社屋から若干離れたプレハブのようなところにある。営業にいたころは、まさかこのプレハブが部署として使われているとは知らなかったが…。そんな造りからしても、退職を促しているかのようなあからさまな嫌がらせだ。
 プレハブを出ると、残暑が残る9月の夕暮れどきはまだ蝉の声がやかましく響き、すぐに背中に汗をかき始めた。会社から駅まで徒歩15分、そこから京王線に乗って自宅へ帰る。

 郊外に建てたマイホームは僕が設計した。玄関からのアプローチを解放的にして、三歳年下の妻、美穂子が好きなガーデニングを思い切りできるようにした。それが今、存分に生かされており、プランターから花壇まで彼女の思いのままに庭は彩られている。隣近所からの評判は高く、「しょっちゅう『お宅の庭はきれいですね』って褒められるわ!」と美穂子がニコニコしながら報告してくれたこともある。
 だが、今の僕はそんな花や緑にすら癒されず、真っ直ぐに家のドアへと向かい、扉を開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「お父さん、おかえり!」
 すぐに美穂子と息子の健太の声が聞こえてきた。
「ねえお父さん、今日学校でねえ!」まずやってきたのは健太だ。いつものパターン。
 小学3年生になって活発に輪がかかり、生きている塊そのものだ。
 リビングに入ると、娘の清香がソファに寝っ転がってマンガを読んでいた。カウンター越しのキッチンで美穂子が晩飯を作っている。
「ほら、清香。おかえりくらい言えないの」
 美穂子が窘めると、ちらりとこちらを見て「おかえり」と一言。僕は苦笑しながらリビングを出て寝室へ向かう。そうだよな、今までいなかった父親が突然早く帰ってくるようになっても、戸惑うよな…。
 汗臭い身体をどうにかしたいので、まずは風呂に入ることにする。
 湯船につかり、ぼぉっと天井を見上げた。
 こんなにゆっくり風呂に入れる日が来るなんて…。
 以前の僕は、帰りは子どもたちが寝静まった後というのが常だった。美穂子でさえ、「先に寝ています」と書置きして先に寝ていた。用意してくれていたおかずを温めなおすにも、電子レンジの「ピーピー」の音で家族を起こしてしまうのもためらわれ、…というのは言い訳で実際はただ面倒くさくて、しんと静まりかえるキッチンで一人寂しく冷めた食事をとっていた。残業につぐ残業、そうでなくても飲み会に誘われれば飲み会へ、接待があれば接待へとほとんど毎日出ずっぱりだった。休日も、家族サービスより仕事を優先していた。
 美穂子と子どもたちには随分と寂しい思いをさせてしまったと思う。
 美穂子とは職場結婚だったので、僕がどれだけ忙しいのかはわかってくれていた。だから「仕方ないわねぇ」とぷりぷりしながらも、「気を付けてね」と毎朝玄関まで出て見送ってくれた。それに元来が陽気で社交的な性格のおかげか、友人にも苦労していないようだ。以前住んでいた都心の賃貸アパートからこっちに引っ越してきても、すぐに友人ができていたのにはさすがと感心した。もっとも、そういう美穂子に惚れたといえば惚れたのだが…
 しかし子どもたち、とりわけ清香のことを思うと申し訳ない気持ちになった。
 今年中学生になった清香は、人一倍感情に敏感なところがある。小さいころから人見知りが激しく、親以外に声をかけられてもビクビクしてしまい返事ができなかった。とはいえ、僕は清香のことをよく知らないのかもしれない。僕自身が仕事に忙殺されており、あまり清香のことをかまってやれなかった。美穂子から「あの子は思ったことをあんまり口に出さないから…大丈夫かしら」と聞いていたくらいだ。そんな彼女が今の健太くらいのときに引っ越したので、せっかくできた友達と離れ離れになってしまったのも相当辛かったようだ。だからなのか、僕に対する接し方がどこか冷たい。おまけに現在思春期真っただ中で、ますます彼女が何を考えているのか分からない。

 物思いにふけっていると、のぼせそうになり、慌てて風呂を出た。
 鏡があるので、自分の体形がイヤでも見えてしまう。これでも昔は陸上部だった。当時は今から10kgも痩せてひょろひょろだったのに、今じゃ立派な中年太り…特にお腹がやばいことになっている。腹の肉をつまむと柔らかい、ああこの肉がなくなれば、少しは軽くなって良い男になるはずなのに・・・とほほ。
 パジャマに着替えて風呂を出ると、ちょうど美穂子が「ご飯できたよー」と声をかけてくれた。冷蔵庫からビールを取り出す。
 「あんたたちもご飯よ。清香、健太、ご飯つぎなさい」
 「はーい」元気よく答えたのは健吾だ。清香はしぶしぶといった様子でマンガ本を置き、ノロノロした足取りでダイニングにやってきた。
 これまでは父親不在だった食卓に、今は僕も参加している。それが何となく不自然というか、微妙な空気を醸し出して、それが全員わかっているからなおのこと居心地が悪い。
 美穂子は気にせず、スーパーで何が安かっただの、向かいの奥さんと庭を隔てて最近の教育事情を話しただの、そういった日常のことをベラベラと話してくれる。その合間に健太が「今日学校でねー!」と色々報告してくれる。一方、清香は黙々と食べて、一番先にご馳走様といって席を立ち、2階の自分の部屋へと引っ込んでいく。どうせスマホで友達とLINEかゲームといったところか…。美穂子が「お風呂、早めにね!」と声をかけたのも聞こえていたのかいないのか、黙って行ってしまった。まったく・・・
 「僕もご馳走様~!」健太が勢いよく席を立つ。「お姉ちゃんが入るより先にボクがお風呂に入ろっと!」「そうね、靴下、ちゃんと裏返しにしてね」最近、どこかで「靴下は裏返しにして洗うのが良い」という情報を聞きつけてきた美穂子がそんなことを言う。「了解!」大げさに健太は敬礼のポーズをとると、そのまま風呂へと直行していった。
 「やれやれ…いっちゃん、ご飯どうする?」美穂子は僕のことを、子どもたちの前では「パパ」と呼ぶが、僕に向かっては愛称で呼ぶ。それは昔から変わっていない。僕も同じで、子どもたちの前では「ママ」だけど、本人に話しかける時は「美穂子」だ。
 美穂子は、僕が「転籍」という名の左遷に遭ったことを、薄々気が付いているようだ。同じ職場にいたわけだから、まあ納得だ。あえて言っていないが、これまではあんなに仕事人間だったのが、こんな早く帰ってくること自体おかしいだろう。しかし、何も聞いてこないのは気遣いのできる美穂子ならではだと思う。幸い、給料はそんなに減っていないが、仕事がないという辛い立場に追いやって退職を促しているわけだから、それまでの我慢だと思えば会社側も苦しくないのだろう。悔しい話だが…。
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