運命の君

沢渡奈々子

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甘い香りと逸る鼓動

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「──で、何? 俺に用なんだろ?」
 それから一言も言葉を交わすことなく人気のない体育館裏に連れて来られた蒼は、それまでの沈黙に耐え切れず早々に口火を切った。しかし鳴海はそれに答える様子もなく、気まずそうに視線を泳がせている。
(何か意外──)
 いつも堂々としていて表情をあまり変えることのない鳴海が、こうして何かを躊躇ったりしている姿はなかなか拝めない。ちょっと面白いな、なんて思ってしまった。
 すると鳴海が目を見開いた。蒼がくすりと笑ってしまったのが気に障ったのだろうか。
「あ、ごめ──」
「ううん、俺が悪い……」
 バツが悪そうに自分の口元を覆う鳴海。これまた珍しいシーンだ。
(こいつ結構表情あるじゃん)
 普段見ることのない表情をしげしげと観察していると、
「末永、変なことを聞くけど許してほしい」
 鳴海が真面目な顔で言った。
「ん? いいよ。何?」
「最近──何か身の回りで変わったことはない?」
「変わったこと?」
「例えば……誰かに言い寄られるとか」
 質問の意図を掴みかねている蒼は、頭の周りに?マークをまき散らす。少しして、
「ん」
 蒼は目の前の男を指差した。
「?」
 困惑して首を傾げる鳴海に蒼は笑いながら、
「今、お前に言い寄られてるよ? ……な~んてな、これは言い寄られてるって言わないか」
 冗談混じりにそう答えた。すると鳴海の頬が少し赤くなる。
「そう、じゃなくて……俺以外に」
「別にないよ?」
「じゃあ、身体に変化があったりとかは?」
「変化ー? んー特にな……」
 言いかけて、蒼は止まった。そんな彼を訝しく思ったのか、少し離れていた鳴海が近づいてきた。
「あるの?」
「そういえばここ何日か、腹の調子が悪くて……アイスの食い過ぎだと思うんだけどまだ治らないんだよなぁ。それと二日くらい前から友達から『いい匂いがする』とか言われるなぁ。シャンプーとか柔軟剤だと思うんだけど……」
 迷いを含んだ口調で答えた途端、鳴海が明らかに態度を変えた。むしろ動揺しているようにも見える。
「──ちょっとごめん」
 そう言って、更に蒼に近づき──というより密着して、彼の首筋の匂いを嗅いだ。ちょうど鳴海の肩口に飛び込む形になった。
「ちょっ、鳴海?」
 慌てた蒼は彼の制服をつかんだ。
「っ、」
 鳴海の匂いが鼻腔に飛び込んで来た途端、蒼の身体の奥底に何かが疼くような感覚が襲ってきた。熱いものが渦巻くような、下腹部に心臓が下りてきたような。甘い匂いが香の煙のように体内に満ちてくる。クセになりそうな中毒性のある匂いだ。
 酔ったように頭がくらくらし、たちまち顔に熱が集まってきて何だかたまらなくなる。
「は、離れて、鳴海」
 息までもが荒くなり、怖くなった蒼は思わず鳴海を突き飛ばそうとした。しかしほとんど力が入らず、自分よりもかなり大柄な鳴海をさほど動かすことは出来なかった。それでも彼は我に返り、
「ご、ごめん!」
 と、もったいないくらい頭を下げた。サラサラの髪から見える耳が赤いのは気のせいだろうか。
「い、いいよ。ちょっと苦しかっただけだから!」
 鳴海と密着してどきどきし、あまつさえ下半身にまで影響しそうになった――本当の理由などとても言えない蒼は、苦しかったとごまかすしかない。
「本当にごめん……俺のせいだ……」
 鳴海が苦しそうにぼそりと呟く。
「え、何が?」
「な、何でもないよ。……末永、もしよければ、俺と携帯番号とか交換しない? 友達になってほしいんだ」
「え? あ? いいよ。俺なんかでよければ」
「なんか、なんて言わないで。前から仲良くなりたいと思ってたんだ」
「そ、そうなのか? あ~、だから時々俺のところに来てたのか! それならそうともっと早く言ってくれればよかったのに! 鳴海に『友達になりたい』って言われて断るやついないだろ」
 今までの鳴海の態度が腑に落ちて、蒼は携帯を出しながら大きく頷いた。お互いの携帯番号とアドレス等を交換しながら、
「へぇ~鳴海って【りん】っていうのか~。きれいな名前だなぁ」
 蒼が目をぱちぱちと瞬かせた。鳴海は男らしい美形であるが、顔の作りが綺麗でもあるので凛という名前はよく似合っていると蒼は思った。
「【蒼】っていう名前もきれいだと思う」
「ありがと。これからもよろしくな、鳴海」
 鳴海が自分の友達になりたいと思ってくれていたことに気をよくし、蒼は上機嫌で笑った。そんな蒼とは対照的に、鳴海は一層表情を硬くした。
「末永……もし、これから困ったことに巻き込まれたり、変なやつに絡まれたりしたら、俺にすぐ知らせてくれない?」
「へ? どういうこと?」
「末永を守りたいから」
(俺のことを守りたい?)
 いきなりの申し出に蒼は面食らう。充といい鳴海といい、自分はそんなに『守ってあげたい』オーラが出ているのだろうか。
「俺って、そんなに頼りなさそうに見える?」
 蒼は鳴海の顔を覗き込んで尋ねた。
「そ、そうじゃない! ……けど、俺を頼ってほしい……風紀委員だし」
「そっか、鳴海、風紀委員だったよな。うん、分かった。何かあったらおまえを頼るよ。ありがとな、俺のこと気にかけてくれて。マジで嬉しいよ」
 蒼が笑顔でそう言うと、鳴海がつられたように笑んだ。その表情があまりにも優しくてとろけそうで、いつもの鳴海と全然違うので蒼は――
「な、鳴海って意外と表情豊かだな。今まで表情変えないやつだとばか――」
 たちまち頬が赤くなるのを感じ、ごまかそうと大きな声で話しかけたその時、
「蒼!」
 充が息を切らせながら蒼たちの方へと走って来た。
「充、どしたの?」
「おまえが……鳴海に呼ばれて……教室出てった、って凪たちが……」
 息を整える間も惜しいのか、途切れ途切れに言葉を絞り出す充。こんなに慌てる親友を見るのは初めてなので、蒼はびっくりした。
「それでどうしておまえが追いかけてくるんだよ?」
「ばっか、心配、したんだよ! 何か、されるんじゃ、ないか、って!」
「おまえそれは過保護にもほどがあるし、それに何より鳴海に失礼だろ。こいつは風紀委員なんだから。たった今、鳴海と友達になったんだよ」
 な? ――と、蒼は鳴海を促すように見る。
「友達……?」
 充が鳴海を一睨みする。普段は飄々としていて涼しげな充が表情を硬くして睨むと、何とも言えない凄みがある。しかし鳴海はそんな充の怒気をものともせず、平然とした様子でその視線を受け止めている。
(二人とも怖ぇよ……)
 蒼は身をすくめた。
「落ち着いて、竹内。俺は末永に危害を加えるつもりなんて一切ないから」
「そうだよ。鳴海はおまえみたいに俺の保護者をかって出てくれたんだから。俺としては少々不本意だけどな」
「保護者?」
「何か困ったことがあったら頼ってくれ、って。風紀委員だから、って」
「風紀委員……ふーん」
 充がいつもの表情を取り戻した。顎に手を置いて小刻みに頷く動作――これは充が思案を巡らせている証拠だ。何を考えているのか蒼には皆目見当もつかないが。
「ま、俺は鳴海が蒼をいじめたりするつもりがないなら、友達ごっこでもSPごっこでも何でもしたらいいと思うぜ?」
(考えた末の発言がそれかよ!)
 充の言葉を聞いて、蒼がずっこける。
「ごっこ、って何だよ! おまえとことん失礼だな」
「とにかく、もう休み時間終わるから。蒼、教室戻るぞ。――鳴海も早く戻れよ?」
 充が蒼の腕を引っ張って歩き出した。
「あっ、な、鳴海! またな!」
 振り返りながらとりあえずそれだけを伝え、蒼は充に連れられて行く。脚の長さが違うので、着いて行くのに苦労した。
 鳴海から十分に離れた後、
「……蒼、あいつに何言われた?」
 背を向けたまま、充が尋ねた。どうやら若干怒ってるようだ。
「だからぁ。友達になろう、って」
「それだけか?」
「あ、そういえば聞かれたな。最近変なやつに絡まれてないかーとか、身体に変化起きてないかーとか。俺が『最近友達にいい匂いするって言われる』って言ったら、いきなり匂い嗅がれて超ビビった」
「……」
 教室に入る直前、充がぴたりと歩みを止めた。思わずその背中にぶつかりそうになるが、蒼は何とかこらえた。
「急に止まるなよみつ――」
「蒼」
「何だよ?」
 少しの間の後、
「――鳴海には気をつけろ」
 充が緊張感に満ちた小声で言った。
「へ? どうして? 風紀委員だよ?」
「おまえ風紀委員が絶対だと思ってる辺り、おめでたいな。とにかく、あいつをあまり信用するな」
 そんなこと言っても友達になるって言ったしなぁ――と蒼は思ったが、でもこの状態の充には何を言っても聞き入れてもらえないのは今までの経験から痛いほど分かっている。
 結局姉とこの男にはいつも言いくるめられてしまうのだ。なので、
「まぁ……気をつける、よ」
 と、かろうじて答えておいた。
(でも俺、鳴海が悪いやつとは思えない。あんなに優しい顔をするやつが悪いことなんてするわけないよ)
 今にも甘い香りがしそうなあの表情を思い出して、蒼は顔が熱くなるのを感じた。

 鳴海と友達になると約束したのはいいが、蒼の生活は以前とさほど変わらなかった。鳴海は相変わらず必要以上に近寄って来ることはないし、蒼は相変わらず充たちと一緒にいた。
 そもそも鳴海は当然ではあるが女子に多大なる人気があり、いつも誰かしらが群がっているので、そこにあえて特攻して鳴海に接触する勇気は蒼にはなかった。
 そして鳴海が時折自分をじっと見ることがあるのも相変わらずだった。但し表情は以前とは違い、蒼に何か言いたそうな意味ありげで少し切なさを含んだ顔だった。一度「どうした?」と話しかけてみたのだが、にっこりと笑うだけ。その笑顔にまたどきりとしてしまい、蒼は自分の心臓がちゃんと機能していないのかも知れないと疑った。
 以前と変わったと言えば、自分の匂いだ。どうやら少しずつではあるが匂いが強くなっていくようで、毎日のように充に匂いを嗅がれている。しかし充に近づかれても凪に頬ずりされても涼真にハグされても何とも思わないのに、あの時、鳴海と密着しただけで心臓があらぬ動きをしていたのは何故なんだろう。それを思い出しただけでまた顔が熱くなってしまうのは何故なんだろう――不思議でならなかった。好きな女の子が出来た時だってこんなにどきどきしたことなんてない。
 とにかく、鳴海が絡むと心臓が前代未聞の働きをしてしまうのだ。
(こんなこと、充にも誰にも相談出来ない)
 それだけは自分の心の奥底に隠し続けた。
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