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第二章
010 明くる日
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異世界に来たからといって、自分の本質そのものが大きく変わるわけではない。
それを実によく思い知らせてくれたのは夢、いや悪夢だ。
若い頃の嫌な記憶が押し寄せるように流れてきた。
クラスメイトからの理不尽な仕打ち、両親とのギクシャクした関係、会社の上司に言われた酷い言葉の数々――。
繰り返し再生される悪夢からようやく解放されて目が覚め、勢いよく上体を起こした。
全身には嫌な汗の感触が包み込んでおり、異世界最初の朝は心身ともに最悪そのもの。
「――おはようございますシマヅ様」
「あ、おおっ……」
まだ眠気を引きずっているために、目の前の少女を見てもうまく思考が働かなかった。
どうして少女がいるのか、嫌な記憶の残滓が残っている中、掘り返すは新鮮な記憶。
ああ、そうだ、そうだった。
「……おはよう、ハス」
「うなされていたようですが……」
「大丈夫、大丈夫だよ……」
思考は少しずつ現実へと引き戻されている。
……彼女――ハス・ピパル、この子と一緒にこの宿屋に泊まったんだったな。
今にして思えば我ながら大胆な行動を取ったものだ。
彼女は床に両手をついての挨拶を終え、顔を上げて俺に笑顔を向けるとアルヴ教の祈りをする。
アルヴ教を信仰する者、朝はその手で妙なわっかを作る挨拶は欠かさず、か。
「今日もアルヴ様の祝福がございますように」
「あればいいけどね……」
昨日の騒動を経て、無事に朝を迎えられた事には安堵する反面、死ねずに朝を迎えたというちょっとした残念もあった。
街の警戒からしてあの黒フードの連中が再び何か騒動を起こしたり、俺達を邪魔者とみなして襲ってきたりという事もなかった。
帝国だか何だか知らないが、この国の治安というのはそれほどよろしくないように思える。
別に襲ってきたところでこちらとしては願わくば死ねる方法模索のために様々な方法で殺しにかかってきてくれればそれはそれでいいのだがね。
まあ帝国はさておき。
「汗をかいちゃったし風呂に入ろうかな」
「わ、私もご一緒しても、よろしいのでしょうか?」
「風呂の利用も宿泊料に含まれてるから遠慮せずに入ってもいいんだよ」
「はわ~……!」
ハスは朝からこの差しこむ陽光のように眩しい笑顔を浮かべていた。
店主曰く、このガルフスディアは露天風呂がついている宿屋が多いらしい。山から源泉を引いている所謂源泉掛け流しというやつだ。
いくつか大衆浴場もあり、これもまたガルフスディアの目玉となっているようだ。
露天風呂はそこそこの広さだな、なるほど、川を眺めながら風呂を楽しめという事か。
朝は風呂の利用者が全然おらず貸し切り状態だった。
露天風呂へ行く途中で冒険者らしき人らとすれ違ったが彼らはもうギルドとやらへと赴いているのだろう。
今は一人占めできる時間帯という事だ、これはラッキー。
風呂は青い濁り湯、岩風呂の浴槽はまるで有名な温泉街へと旅行に来たかのような気分だ。
乾いた笑いを浮かべながら、とりあえず俺は体を洗うとした。
……悪くない。
悪くないけど、なんて自分には贅沢なんだという気持ちが、湧いてくる。
まるで神様があらゆる手を使って生の良さを知らしめて誘惑しているかのようだ。おそらく、そういう意図もあるのだろうと俺は思っている。
それにしてもこの浴場、男女の仕切りはあるが……あるといっても浴槽にあるのみで入浴の際は男女が別れて入るもののほぼ混浴とみたいなものだ。 洗い場はもはや仕切りと呼べるのかどうか分からないレベルの板が置いてある。
つまりは……。
「シ、シマヅ様! お背中をお流しします!」
「ハ、ハス!?」
「ハスですよ!」
そうだよな、と思いつつ振り向く。
ハスが浴場に入ってきて、仕切りを避けてこちら側へとやってきた。
頬の赤らみから、本人も若干の恥ずかしさはあるように見えるが、実に大胆な行動だ。
「な、なんでぇ!?」
下は隠していて、よかった。
別に見せられない粗末なものでも……ないけれど。
「えっ? 先ほどいいと仰いましたので……」
「あっ……一緒って、あれはそういう意味での質問だったの?」
「です~」
……まいったな。
体にはタオルを巻き付けてはいるものの……浴場という場に男女がいるというのは、倫理的にどうなのだろうか。
そもそもが混浴OKなのであろうけれど。
「べ、別に一人でやれるから!」
「お背中だけでも……」
「そんなシュンとした表情するのは卑怯だぞ……」
渋々俺は風呂椅子に腰を下ろすと、ハスは失礼しますと小さく呟いて背中を洗ってくれた。
なんだか……ほら、大人のお店みたいな感じ……いやいや、意識しちゃあいかん。
「……ありがとう、助かったよ」
「何かあればお呼びください、すぐに駆け寄りますので!」
「お、おう。ほら君も体を洗って風呂に入りなよ」
ハスは深々と頭を下げて反対側へと行く。
入浴前だというのに無駄に心拍数が上昇してしまった。
……それにしても、鏡に映る自分の姿を見て思ったのだが。
どこか、若々しく見える。
いや、確実に若くなってないか? 体も以前の俺ならガリガリだったのに肉質が良く整った体形になっている。
これも魔力の器が広がり所有する膨大な魔力量あってこそなのだろうか。
軽くなった体は自分のものとは思えないものの、しかしこれはこれでとても気分はいい。年齢という重りをいくつか取り払り若返ったという実感が得られている。五歳くらいは若返ったかも。
以前であれば疲れから顔のしわが増え始めてちょっとした悩みになっていたが、もはや解消された。
衛兵が随分と若く見えるといっていたのはこの事だったようだ。そりゃあ若く見えるよな。実際に若返っているのだから。
俺は少し右腕に力を入れて力こぶを出して、ちょっとした微笑みを浮かべて、ようやくして浴槽へと身を沈めた。
湯気が立ち込める中、ちらりと奥に見えるハスの様子を窺う。
彼女は入念に体を洗っているようだった。背中を洗ってもらった時にもふと思ったがここで使っている石鹸の泡立ちはかなりいい。
ハスももはや雪だるまかと言わんばかりに泡に包まれている。見ていて面白い。
泡を洗い流す頃には視線を外し、俺は川を眺めるとした。
「シマヅ様~、気持ちいいです~!」
仕切り越しに浴槽へと入ったハスが、陽気さを乗せて語り掛けてくる。
「そうだね~」
あの長い夜を乗り越えた後の、朝一番の風呂といったらこれはもうたまらん。
お湯の温かさもちょうどいいな。
「今まではまともにお風呂に入らせてもらえなかったので、最高の気分です~!」
「ちゃんと暖まるんだぞ~」
「はい~」
さあ、このゆったりとした時間を味わうとしよう。
ただ、こういう時間ほど……自分には辛い。
思い返される記憶というのは、すぐに湧き出てくる。
あの時死んでいれば、思い返される事もなかった記憶。
死んでいないからこそ、ちらつくは家族と、数少ない友人達。
「俺は今、異世界にいるんだよな……」
もうきっと、会えないだろう。
家族に何かしてやればよかった。
父とはもう少し、話をしておくべきだった。
義母には、一度くらいは母さんって呼んでおくべきだった。
友人には、これまで何度も助けてもらったり楽しい思い出を作ってくれたのだからそのお返しを何かするべきだった。
飛び降りて、死んだら終わりだと思っていた。後の事は全てどうでもいい、捨てるつもりだった。
まさかこんな事になるとは……ね。今更後悔しても、遅いのだ。アルヴの言う通り、大罪だ。それだけの事はやった、やってしまった。
失う覚悟は出来ていた、死ねばどうせそんな感情も抱く事などできないから。けれど、今は痛いほどにその感情を抱いてしまっている。
少しだけ、泣いた。
――生きていて何の意味があるっていうんだ。
昨日、自分の呟きをふと思い出す。これから、意味を探すべきなのだろうか。
でもそれよりも、どうしても、死ねる方法があると言われたらそっちのほうを優先してしまう。
ああ……どうしていいのか分からなくなってくる。
こういう時、人は神様に祈り、信仰するのだろうか。
「……あいつに? いやいや……」
それは、ないな。
気持ちを切り替えよう。
ハスの鼻歌を聞きながら、至福のひと時を過ごした。
やはり風呂はいい、心も体もすっきりさせてくれる。
風呂から上がった頃には腹の虫も鳴き始め、宿屋の食堂で食事を済ませた。
パンにコーンスープ、蒸したジャガイモと温泉卵。
食事に関しても俺のいた世界とはそれほど引けを取らないな。塩田もちゃんとあるらしくジャガイモには塩が振られていて普通に美味しかった。
ハスは何をするにしても逐一俺に許可を求めてくるが、もはやこれは奴隷であった時期が長すぎたための習慣であろうが故に、この許可癖を治すにはそれなりの時間を要しそうだ。
しかしこうして彼女に何かしてやりたくなるこの気持ち、どこからくるのか自分でも定かではないが、これは娘を持つような感じなのか、子猫を拾った感じなのか……。
宿屋の店主は物珍しそうに見ていたな。
ハイラア族イコール奴隷という認識が強かったようで、足枷をつけていないハイラア族を見る事自体初めてだったらしい。
店主がこれといった偏見や差別を持っていなかったのは幸いした。一緒の部屋、入浴、食事などハイラア族には利用させない所もあるらしい。
最初に見た時、人の良さそうな爺さんだとは思ったが俺の得た印象は正しかったようだ。
ともあれハスがどこへ行くにしても何をするにしてもビクついていた理由は頷けた。常に許されない前提――卑屈になるのも無理はない。
風呂も入った飯も食った。
いざギルドへ、と行きたいところだが……正直気が進まない。
ベッドに座り、俺はため息をついた。
どこかアルヴが仕向けているような気がしてならないよな。生きる上での何かしらの無責任ではいられないような状況に、この自然と寄り添ってくる幸福な出来事、そして命を預かるという責任感。
荷が重く、腰も重い。
「シマヅ様……もしやお体の具合がよろしくないのです?」
「ん? いや、大丈夫……だよ」
けれど進まなければ。俺が死ねる方法を探すためにも。
一度ボードとやらを確認する。
八角形のボードは……昨日見た時より少し変化があった。
中心付近の色が濃かった模様部分が広がっている。また身体能力が向上して死にづらくなってしまったか……?
頭を撃たれた件については、一応死んだ扱いなのかもしれない。
「相変わらず、見てもよく分からんな」
「私にはシマヅ様のボードは見ているだけで荘厳すら感じられます」
祈るな祈るな。
「模様の中にはいくつか空白があるけれど、これは何なの?」
「魔法指南書がございまして、読み進めていく事で欲しい魔法の発動感覚を掴んだ時、空白の部分に入れる事が可能です。魔法名の詠唱だけですぐに発動できるようになります」
「ほほう……」
この前はボンッとしか出なかったが空白に魔法をはめ込んでおけばあんなに念じずとも簡単に出せるようになるのかな?
「その他には鍛錬をして魔力の器が広がり能力値が上がる際に、空白のところにはご自身に秘められた固有魔法が発現するとも言われております」
「空白全てに魔法を埋めて固有魔法が発現した場合はどうなるんだ? 手に入れた魔法は消えちゃうのか?」
「ご安心ください。その場合、固有魔法はボードのどこか新たに発現するので、基本的に空白のところは魔法をはめ込めていいのですよ」
「なら今度魔法指南書を探してみるか」
「お勧めは治療、分析系ですね」
治療、分析か……まあ、そのうち考えよう。
……そのうちが訪れる前に死ねてればいいが。
それを実によく思い知らせてくれたのは夢、いや悪夢だ。
若い頃の嫌な記憶が押し寄せるように流れてきた。
クラスメイトからの理不尽な仕打ち、両親とのギクシャクした関係、会社の上司に言われた酷い言葉の数々――。
繰り返し再生される悪夢からようやく解放されて目が覚め、勢いよく上体を起こした。
全身には嫌な汗の感触が包み込んでおり、異世界最初の朝は心身ともに最悪そのもの。
「――おはようございますシマヅ様」
「あ、おおっ……」
まだ眠気を引きずっているために、目の前の少女を見てもうまく思考が働かなかった。
どうして少女がいるのか、嫌な記憶の残滓が残っている中、掘り返すは新鮮な記憶。
ああ、そうだ、そうだった。
「……おはよう、ハス」
「うなされていたようですが……」
「大丈夫、大丈夫だよ……」
思考は少しずつ現実へと引き戻されている。
……彼女――ハス・ピパル、この子と一緒にこの宿屋に泊まったんだったな。
今にして思えば我ながら大胆な行動を取ったものだ。
彼女は床に両手をついての挨拶を終え、顔を上げて俺に笑顔を向けるとアルヴ教の祈りをする。
アルヴ教を信仰する者、朝はその手で妙なわっかを作る挨拶は欠かさず、か。
「今日もアルヴ様の祝福がございますように」
「あればいいけどね……」
昨日の騒動を経て、無事に朝を迎えられた事には安堵する反面、死ねずに朝を迎えたというちょっとした残念もあった。
街の警戒からしてあの黒フードの連中が再び何か騒動を起こしたり、俺達を邪魔者とみなして襲ってきたりという事もなかった。
帝国だか何だか知らないが、この国の治安というのはそれほどよろしくないように思える。
別に襲ってきたところでこちらとしては願わくば死ねる方法模索のために様々な方法で殺しにかかってきてくれればそれはそれでいいのだがね。
まあ帝国はさておき。
「汗をかいちゃったし風呂に入ろうかな」
「わ、私もご一緒しても、よろしいのでしょうか?」
「風呂の利用も宿泊料に含まれてるから遠慮せずに入ってもいいんだよ」
「はわ~……!」
ハスは朝からこの差しこむ陽光のように眩しい笑顔を浮かべていた。
店主曰く、このガルフスディアは露天風呂がついている宿屋が多いらしい。山から源泉を引いている所謂源泉掛け流しというやつだ。
いくつか大衆浴場もあり、これもまたガルフスディアの目玉となっているようだ。
露天風呂はそこそこの広さだな、なるほど、川を眺めながら風呂を楽しめという事か。
朝は風呂の利用者が全然おらず貸し切り状態だった。
露天風呂へ行く途中で冒険者らしき人らとすれ違ったが彼らはもうギルドとやらへと赴いているのだろう。
今は一人占めできる時間帯という事だ、これはラッキー。
風呂は青い濁り湯、岩風呂の浴槽はまるで有名な温泉街へと旅行に来たかのような気分だ。
乾いた笑いを浮かべながら、とりあえず俺は体を洗うとした。
……悪くない。
悪くないけど、なんて自分には贅沢なんだという気持ちが、湧いてくる。
まるで神様があらゆる手を使って生の良さを知らしめて誘惑しているかのようだ。おそらく、そういう意図もあるのだろうと俺は思っている。
それにしてもこの浴場、男女の仕切りはあるが……あるといっても浴槽にあるのみで入浴の際は男女が別れて入るもののほぼ混浴とみたいなものだ。 洗い場はもはや仕切りと呼べるのかどうか分からないレベルの板が置いてある。
つまりは……。
「シ、シマヅ様! お背中をお流しします!」
「ハ、ハス!?」
「ハスですよ!」
そうだよな、と思いつつ振り向く。
ハスが浴場に入ってきて、仕切りを避けてこちら側へとやってきた。
頬の赤らみから、本人も若干の恥ずかしさはあるように見えるが、実に大胆な行動だ。
「な、なんでぇ!?」
下は隠していて、よかった。
別に見せられない粗末なものでも……ないけれど。
「えっ? 先ほどいいと仰いましたので……」
「あっ……一緒って、あれはそういう意味での質問だったの?」
「です~」
……まいったな。
体にはタオルを巻き付けてはいるものの……浴場という場に男女がいるというのは、倫理的にどうなのだろうか。
そもそもが混浴OKなのであろうけれど。
「べ、別に一人でやれるから!」
「お背中だけでも……」
「そんなシュンとした表情するのは卑怯だぞ……」
渋々俺は風呂椅子に腰を下ろすと、ハスは失礼しますと小さく呟いて背中を洗ってくれた。
なんだか……ほら、大人のお店みたいな感じ……いやいや、意識しちゃあいかん。
「……ありがとう、助かったよ」
「何かあればお呼びください、すぐに駆け寄りますので!」
「お、おう。ほら君も体を洗って風呂に入りなよ」
ハスは深々と頭を下げて反対側へと行く。
入浴前だというのに無駄に心拍数が上昇してしまった。
……それにしても、鏡に映る自分の姿を見て思ったのだが。
どこか、若々しく見える。
いや、確実に若くなってないか? 体も以前の俺ならガリガリだったのに肉質が良く整った体形になっている。
これも魔力の器が広がり所有する膨大な魔力量あってこそなのだろうか。
軽くなった体は自分のものとは思えないものの、しかしこれはこれでとても気分はいい。年齢という重りをいくつか取り払り若返ったという実感が得られている。五歳くらいは若返ったかも。
以前であれば疲れから顔のしわが増え始めてちょっとした悩みになっていたが、もはや解消された。
衛兵が随分と若く見えるといっていたのはこの事だったようだ。そりゃあ若く見えるよな。実際に若返っているのだから。
俺は少し右腕に力を入れて力こぶを出して、ちょっとした微笑みを浮かべて、ようやくして浴槽へと身を沈めた。
湯気が立ち込める中、ちらりと奥に見えるハスの様子を窺う。
彼女は入念に体を洗っているようだった。背中を洗ってもらった時にもふと思ったがここで使っている石鹸の泡立ちはかなりいい。
ハスももはや雪だるまかと言わんばかりに泡に包まれている。見ていて面白い。
泡を洗い流す頃には視線を外し、俺は川を眺めるとした。
「シマヅ様~、気持ちいいです~!」
仕切り越しに浴槽へと入ったハスが、陽気さを乗せて語り掛けてくる。
「そうだね~」
あの長い夜を乗り越えた後の、朝一番の風呂といったらこれはもうたまらん。
お湯の温かさもちょうどいいな。
「今まではまともにお風呂に入らせてもらえなかったので、最高の気分です~!」
「ちゃんと暖まるんだぞ~」
「はい~」
さあ、このゆったりとした時間を味わうとしよう。
ただ、こういう時間ほど……自分には辛い。
思い返される記憶というのは、すぐに湧き出てくる。
あの時死んでいれば、思い返される事もなかった記憶。
死んでいないからこそ、ちらつくは家族と、数少ない友人達。
「俺は今、異世界にいるんだよな……」
もうきっと、会えないだろう。
家族に何かしてやればよかった。
父とはもう少し、話をしておくべきだった。
義母には、一度くらいは母さんって呼んでおくべきだった。
友人には、これまで何度も助けてもらったり楽しい思い出を作ってくれたのだからそのお返しを何かするべきだった。
飛び降りて、死んだら終わりだと思っていた。後の事は全てどうでもいい、捨てるつもりだった。
まさかこんな事になるとは……ね。今更後悔しても、遅いのだ。アルヴの言う通り、大罪だ。それだけの事はやった、やってしまった。
失う覚悟は出来ていた、死ねばどうせそんな感情も抱く事などできないから。けれど、今は痛いほどにその感情を抱いてしまっている。
少しだけ、泣いた。
――生きていて何の意味があるっていうんだ。
昨日、自分の呟きをふと思い出す。これから、意味を探すべきなのだろうか。
でもそれよりも、どうしても、死ねる方法があると言われたらそっちのほうを優先してしまう。
ああ……どうしていいのか分からなくなってくる。
こういう時、人は神様に祈り、信仰するのだろうか。
「……あいつに? いやいや……」
それは、ないな。
気持ちを切り替えよう。
ハスの鼻歌を聞きながら、至福のひと時を過ごした。
やはり風呂はいい、心も体もすっきりさせてくれる。
風呂から上がった頃には腹の虫も鳴き始め、宿屋の食堂で食事を済ませた。
パンにコーンスープ、蒸したジャガイモと温泉卵。
食事に関しても俺のいた世界とはそれほど引けを取らないな。塩田もちゃんとあるらしくジャガイモには塩が振られていて普通に美味しかった。
ハスは何をするにしても逐一俺に許可を求めてくるが、もはやこれは奴隷であった時期が長すぎたための習慣であろうが故に、この許可癖を治すにはそれなりの時間を要しそうだ。
しかしこうして彼女に何かしてやりたくなるこの気持ち、どこからくるのか自分でも定かではないが、これは娘を持つような感じなのか、子猫を拾った感じなのか……。
宿屋の店主は物珍しそうに見ていたな。
ハイラア族イコール奴隷という認識が強かったようで、足枷をつけていないハイラア族を見る事自体初めてだったらしい。
店主がこれといった偏見や差別を持っていなかったのは幸いした。一緒の部屋、入浴、食事などハイラア族には利用させない所もあるらしい。
最初に見た時、人の良さそうな爺さんだとは思ったが俺の得た印象は正しかったようだ。
ともあれハスがどこへ行くにしても何をするにしてもビクついていた理由は頷けた。常に許されない前提――卑屈になるのも無理はない。
風呂も入った飯も食った。
いざギルドへ、と行きたいところだが……正直気が進まない。
ベッドに座り、俺はため息をついた。
どこかアルヴが仕向けているような気がしてならないよな。生きる上での何かしらの無責任ではいられないような状況に、この自然と寄り添ってくる幸福な出来事、そして命を預かるという責任感。
荷が重く、腰も重い。
「シマヅ様……もしやお体の具合がよろしくないのです?」
「ん? いや、大丈夫……だよ」
けれど進まなければ。俺が死ねる方法を探すためにも。
一度ボードとやらを確認する。
八角形のボードは……昨日見た時より少し変化があった。
中心付近の色が濃かった模様部分が広がっている。また身体能力が向上して死にづらくなってしまったか……?
頭を撃たれた件については、一応死んだ扱いなのかもしれない。
「相変わらず、見てもよく分からんな」
「私にはシマヅ様のボードは見ているだけで荘厳すら感じられます」
祈るな祈るな。
「模様の中にはいくつか空白があるけれど、これは何なの?」
「魔法指南書がございまして、読み進めていく事で欲しい魔法の発動感覚を掴んだ時、空白の部分に入れる事が可能です。魔法名の詠唱だけですぐに発動できるようになります」
「ほほう……」
この前はボンッとしか出なかったが空白に魔法をはめ込んでおけばあんなに念じずとも簡単に出せるようになるのかな?
「その他には鍛錬をして魔力の器が広がり能力値が上がる際に、空白のところにはご自身に秘められた固有魔法が発現するとも言われております」
「空白全てに魔法を埋めて固有魔法が発現した場合はどうなるんだ? 手に入れた魔法は消えちゃうのか?」
「ご安心ください。その場合、固有魔法はボードのどこか新たに発現するので、基本的に空白のところは魔法をはめ込めていいのですよ」
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