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序章 俺は普通の高校生なので。
序章43 hurts because no pain ①
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鍵を回してドアを開ける。
玄関の入り口から廊下を覗き手前から奥へと一度視線を走らせ、それから中に入る。
玄関扉のドアノブとすぐ近くのトイレのドアノブに目を遣り、それから玄関を閉める。
通学用の革靴を脱ぎ、玄関に置いてあった別の靴に履き替えて、そのまま土足で部屋に上がる。
狭くも広くもない一人暮らし用の1DKの廊下を進むとすぐにダイニングキッチンの部屋に当たる。
キッチンスペースに冷蔵庫、ダイニングスペースには一人用のダイニングテーブルとその脇にパイプ椅子があり、部屋の角には小さなテレビが床に直置きされている。
分厚い遮光カーテンで外界から切り離された薄嫌い部屋の中でパっと目に付く物はそれだけだ。
ほぼ、なにもない部屋。
買ってきた水のペットボトルが入った袋を冷蔵庫の前に下ろし、べランダへ近づく。
遮光カーテンを一度だけ僅かに開けて外を見る。そしてまたすぐにカーテンを閉ざす。
テーブルにスクールバッグを置いてキッチンへ戻る。
床に置いた袋からペットボトルを1本拾い上げ、ヤカンに半分ほど中身を注ぎ火にかける。一度腕時計を見る。
残りの入ったペットボトルと買ってきた他の水のうち1本だけを冷蔵庫に入れて、あとは適当に足でキッチンの隅に避けておく。
制服の上着を脱いで雑に床に放りながらダイニングテーブルへ近づいていく。
パイプ椅子に座り、ネクタイを緩めながらテーブルに置かれていたノートPCの電源を入れる。
OSが起動するのを待つ傍らでバッグの中から物を取り出す。
スマートホンと小さな封筒。
封筒は開けずにそのままテーブルへ置き、先にスマホで通知を確認する。
いくつかのメールを見ている間にPCが立ち上がった。
メールアプリのアイコンをクリックしてから、テーブル上の封筒に手を伸ばす。
先の昇降口の一幕の際に、自身のシューズロッカーの中から希咲に気付かれぬよう回収していた物だ。
その封筒を開けて取り出したUSBメモリをPCへ挿しこむ。
中に入っていたデータを一通り確認し、その内からいくつかのファイルを選んで新規フォルダにコピーをする。
新規メールを作成し宛先にバイト先の上司を選択すると、今しがた作成したフォルダを貼り付けて一度内容を確認し送信をした。
次の作業に取り掛かる前に腕時計を見る。そろそろ時間のはずだ。
一時中断しキッチンへ向かう。
戸棚を開けて紙袋を取り出す。
コーヒー豆の粉末が入ったその袋を適当に台所の作業台に放る。
シンク脇の水切りカゴからコーヒードリッパーとカップをピックアップして同じく作業台に置いた。
ガスコンロの前に立ち脳内でカウントしていた秒数の消化を待つ。
あと10秒ほどか、と考えたタイミングでヤカンが音を発する。
けたたましい鳴き声が響く前に反射的に火を止めて音を斬り捨てた。
(少しズレたか……)
腕時計の秒針の動きを見て、1秒の感覚を矯正する。
10秒数えてから作業に移る。
カップにドリッパーを載せ、その中に入れたコーヒーの粉末の上に沸騰したばかりのお湯を注ぎ、回す。
適正な温度ではない。
この粉をブレンドした男が言うにはお湯の温度は83℃が最適らしい。
最初は男に言われた工程に従っていたが、コーヒーの味の違いがわからない弥堂はすぐに効率が悪いと適当に淹れるようになった。
当然、事前にカップを温めたりもしない。
『いいかぁ? ユキ。イイ男ってぇのはな、いいコーヒーに拘るもんだ』
以前に自分の保護者のような立場にいたルビア=レッドルーツの言葉だ。
ここ1年ほどは弥堂も一処に拠点を置いて落ち着いた生活を送ることが出来ているので、ふと思い出した彼女の言葉に従って、特に好きでもないコーヒーに金を使ってみることにしたのだ。
馴染みにしている店が昼夜で営業形態を変える喫茶店兼バーとなっており、その店のマスターを使って一式を揃えた。
その男が直にブレンドしたという粉についての蘊蓄や、道具の使い方、淹れ方の手順や作法など細々と説明されたが、味や嗜みを楽しむ感性に欠けた弥堂には半ば無用の長物となりつつもある。
弥堂の価値観では正直なところ、たかが飲み物に対して使う金額としては過剰な金額だと思っている。
またあの男の人格や品性を考慮すると、実際に随分とぼったくられているのだろうが、それは弥堂としては望むところでもあった。
弥堂には味や格式などはわからない。一つだけはっきりとした形で自分でも違いを認識出来るのは値段の一点だ。
自身が拘ることが可能なのは金額のみ。ならば高ければ高い方がいい。目的に副う。
一般的な市販品よりも品質のいい物を一般的な値段よりも高い金で買う。
それで拘っている、ということになるはずだ。
弥堂はそのように考えている。
この趣味を自分に勧めてきたルビア自身も似たようなもので、口に入れれば拒絶反応を起こすほどにコーヒーを苦手としていた。
そんな彼女が苦手なコーヒーを飲むのは酷く酔いつぶれた夜の、その翌日明くる朝だった。
チアノーゼにでもなったかのような顔色で、酷い二日酔いに顔を歪めて起きてきた朝に決まって優輝にコーヒーを淹れろと命じる。
そして一口飲んで胃の中の物を全て吐き出し、カップの残りは捨て、優輝に後片付けを命じてスッキリした顏で出かけていくのだ。
何度かコーヒーとはそのように気付け薬の代わりに使用するものではないと進言したのだが聞き入れては貰えなかった。
彼女曰く――
『――酒で溶かせなかった腹の中に溜まった汚ねぇモンをこうやって吐き出すんだよ。大人はそうやって定期的にゲロと一緒にゲロみてぇなアレコレを吐き出して、そんで何でもねぇってツラで外に出てクソったれな世の中で大人やってんだ。これがわかんねぇうちはテメェはまだまだガキってこった。あぁ? んだそのツラぁ? いっちょまえに怒ったのか? 生意気なんだよクソガキが。ガキっつわれてキレんのはガキの証拠なんだよ。違ぇってんなら、残ったこのコーヒーを飲んでみな――』
そう彼女に煽られて挑戦し、二日酔いの彼女と似たような顔色になって以来、決して好みはしないが、今では飲み込めるようにはなった。
吐き出せと言う彼女の言が正しいのならば、クソったれな世の中に蔓延る自他のゲロのような悪意を飲み込み続けて腹の中に溜め込みっぱなしになっている、ということになる。
しかし、吐いた後の片付け作業のことを考えれば、弥堂としてはどうしても効率を優先せざるをえない。
後になって知ったことだが、彼女が好きでもない嗜好品を飲み続けていたのは、死に別れた昔の男がコーヒーを嗜んでいたから、らしい。
当時、彼女と弥堂が共に過ごしていた地方ではコーヒーは簡単に手に入るものではなかった。
それでも彼女が結構な金を出してまでそれを仕入れていたのは、考えるまでもなくその昔の男を想ってのことなのだろう。
彼女がどんな気持ちでその習慣を続けていたのかは今でもわからない。
弥堂自身、最近になってこうして居を構え安寧を貪るようになり、今のような安全な時間に以前に時間を共にしていた人々のことを少しは考えるようになった。
無駄なことだと自覚をしていたが、どうせ何もしない無駄な時間なのだ。他にすることがないのであれば、無駄な時間に無駄なことを考えても別に構わないだろうと目を瞑る。
それが甘えであり気の緩みだとも自覚はしていた。
ただ、やはりいくら考えても彼女のことはわからないし、答え合わせもできない。
正しく、無駄だ。
そんな中で得られたものは苦さに対する依存だけだ。
彼女と過ごしていた時は、どうしても苦味に耐えられずカップ一杯飲み切ることが出来なかったのだが、あれから何年か経った今では、定期的に飲み続けていたわけでもないのに簡単に飲み干すことが出来るようになっていた。
それも当然だ。
現実の『世界』はこんな黒い水よりも何倍も苦い。
今の自分にはこんなものは苦にはならない。
過去を想っている間にカップの中には黒い苦が溜まっていた。ドリッパーを外してシンクに入れ、カップを持ち上げ一口含む。
雑味の薄いほど良い苦さと少しの酸味を飲み込む。
喉の通りもよく、後に引く不快感もない。
それも当然だ。
人間が嗜好するために発達した科学技術により生産し加工され流通しているものだ。おまけに今口にしたものは、店のマスターが客に売るために独自にブレンドしたものでもある。不味いわけがない。
だから人間にとって苦になろうはずもない。
簡単に言えば、これは美味いものだ。
だが、弥堂はどうにもこの美味さと高級感が気に食わない。
昔彼女と一緒に飲んだものよりもはるかに入手することがが容易な物なのに。
弥堂はこの粉に無駄に金をかけてしまっているが、多少味が落ちたとしてもその辺の量販店で安価に手に入る物の方が、彼女と飲んだコーヒーよりもずっと値段が安い。
それなのに記憶にある彼女と飲んだコーヒーよりもずっと美味いと、味覚を通じてそう認知するこの安易な快楽に落ち着かなさや居心地の悪さを感じてしまう。
咥内に残ったその美味いという不愉快さを唾と一緒にシンクへ吐き出す。
べっと銀色の板に張り付いたその悪意の上でカップを逆さまにして残りを捨てる。
水道のレバーを下げて黒く汚れた悪意を水に流した。
こんなことをしても身の内で燻る燃え尽きぬ怨嗟は潰えはしない。
彼女の言ったことの全ては今でも理解出来てはいないが、だが苦さというものはあの頃よりは多少わかった気がするし、今では自分も何でもねぇってツラで外を歩くのがあの頃よりもずっと上手くなった。
だが、自分が飲み込んでいるのは彼女とは違う苦さだ。満たない苦だ。
自分は果たして正しく大人になれているのだろうか。
そんなわけはないと自嘲する。
コーヒーの粉を戸棚に仕舞う。
明日からはもう飲まなくてもいいだろう。仕舞う時に毎回そう思う。
苦にもならぬ苦さなど、咎を洗うことも出来なければ戒にもならない。
戸を閉めるとほぼ同時に電話が鳴った。
弥堂は特に急ぐでもなくテーブルへと歩いていく。
スマホを通話状態にし耳に当てると粟を食ったような女の金切り声に鼓膜を刺され、弥堂は眉を不愉快げに歪めた。
『もしもし! 弥堂君っ⁉』
「……お疲れ様です。所長」
電話を寄こしてきたのはバイトの雇い主だ。弥堂は一応丁寧な応対をする。
『あ、お疲れ様です…………じゃなくって! なんなんですか! この写真は⁉』
相手が言っているのは恐らく先程メールに添付して送り付けたデータのことであろうと予測をつける。
「何、と言われましても。頼まれていたものですが」
仕事を期限内に熟したというのに何故か怒っている様子の相手に、弥堂は見れば馬鹿でもわかることをわざわざ説明してやった。
『頼んでません! いえ、最初の方の写真はいいです。確かに依頼主が求めていて、私がキミにお願いしたものです。間違いありません。ですが――!』
弥堂はスマホから聴こえてくる声を適当に聞き流しながらPCを操作し、一応先程自分が送信したデータを開き瑕疵がないかを確認をする。
『――ですが! なんですか⁉ この別フォルダに入ってるおかしな写真は⁉』
言われて該当のフォルダを開く。
「これがなにか?」
『なにか⁉』
何が問題なのか、弥堂にはまったく理解できずに聞き返すと電話の向こうで相手は相当に驚きを表す。
『これ! 今回の依頼と関係ないですよね⁉ ターゲットと全然違う人が写ってるんですけど⁉ ていうかこれ完全にベッドシーンですよね⁉ どう見てもラブホテル内なんですけど!』
「あぁ」
ようやく相手の言いたいことが伝わった。
「えぇ。仰る通りです。これは別件です。なので別フォルダに入れました。もしかしてメール自体を別で送るべきでしたか? それでお怒りに? でしたら不作法で申し訳ない。失礼しました。以後気を付けます」
『全然違いますけど⁉』
弥堂はまったく悪いとは思っていないが、相手は毎月の生活資金を提供してくれる雇い主という役割のそれなりに便利な女だ。なので、一応体面上謝ってやった。
だが、どうやら彼女が怒っているポイントはそこではないようだ。
『私、キミには1件しかお仕事をお願いしてませんでしたよね⁉ なんなんですかこの写真⁉ ていうか誰なんですこの人たちは⁉』
「あぁ、そうですね……」
20代の半ばで自らの事務所を構える優秀な人物だと思っていたが、いい歳をこいて電話でキャンキャンと喚き続ける落ち着きのなさに、所詮は若い女かと心中で見下しながら弥堂は説明を始める。
玄関の入り口から廊下を覗き手前から奥へと一度視線を走らせ、それから中に入る。
玄関扉のドアノブとすぐ近くのトイレのドアノブに目を遣り、それから玄関を閉める。
通学用の革靴を脱ぎ、玄関に置いてあった別の靴に履き替えて、そのまま土足で部屋に上がる。
狭くも広くもない一人暮らし用の1DKの廊下を進むとすぐにダイニングキッチンの部屋に当たる。
キッチンスペースに冷蔵庫、ダイニングスペースには一人用のダイニングテーブルとその脇にパイプ椅子があり、部屋の角には小さなテレビが床に直置きされている。
分厚い遮光カーテンで外界から切り離された薄嫌い部屋の中でパっと目に付く物はそれだけだ。
ほぼ、なにもない部屋。
買ってきた水のペットボトルが入った袋を冷蔵庫の前に下ろし、べランダへ近づく。
遮光カーテンを一度だけ僅かに開けて外を見る。そしてまたすぐにカーテンを閉ざす。
テーブルにスクールバッグを置いてキッチンへ戻る。
床に置いた袋からペットボトルを1本拾い上げ、ヤカンに半分ほど中身を注ぎ火にかける。一度腕時計を見る。
残りの入ったペットボトルと買ってきた他の水のうち1本だけを冷蔵庫に入れて、あとは適当に足でキッチンの隅に避けておく。
制服の上着を脱いで雑に床に放りながらダイニングテーブルへ近づいていく。
パイプ椅子に座り、ネクタイを緩めながらテーブルに置かれていたノートPCの電源を入れる。
OSが起動するのを待つ傍らでバッグの中から物を取り出す。
スマートホンと小さな封筒。
封筒は開けずにそのままテーブルへ置き、先にスマホで通知を確認する。
いくつかのメールを見ている間にPCが立ち上がった。
メールアプリのアイコンをクリックしてから、テーブル上の封筒に手を伸ばす。
先の昇降口の一幕の際に、自身のシューズロッカーの中から希咲に気付かれぬよう回収していた物だ。
その封筒を開けて取り出したUSBメモリをPCへ挿しこむ。
中に入っていたデータを一通り確認し、その内からいくつかのファイルを選んで新規フォルダにコピーをする。
新規メールを作成し宛先にバイト先の上司を選択すると、今しがた作成したフォルダを貼り付けて一度内容を確認し送信をした。
次の作業に取り掛かる前に腕時計を見る。そろそろ時間のはずだ。
一時中断しキッチンへ向かう。
戸棚を開けて紙袋を取り出す。
コーヒー豆の粉末が入ったその袋を適当に台所の作業台に放る。
シンク脇の水切りカゴからコーヒードリッパーとカップをピックアップして同じく作業台に置いた。
ガスコンロの前に立ち脳内でカウントしていた秒数の消化を待つ。
あと10秒ほどか、と考えたタイミングでヤカンが音を発する。
けたたましい鳴き声が響く前に反射的に火を止めて音を斬り捨てた。
(少しズレたか……)
腕時計の秒針の動きを見て、1秒の感覚を矯正する。
10秒数えてから作業に移る。
カップにドリッパーを載せ、その中に入れたコーヒーの粉末の上に沸騰したばかりのお湯を注ぎ、回す。
適正な温度ではない。
この粉をブレンドした男が言うにはお湯の温度は83℃が最適らしい。
最初は男に言われた工程に従っていたが、コーヒーの味の違いがわからない弥堂はすぐに効率が悪いと適当に淹れるようになった。
当然、事前にカップを温めたりもしない。
『いいかぁ? ユキ。イイ男ってぇのはな、いいコーヒーに拘るもんだ』
以前に自分の保護者のような立場にいたルビア=レッドルーツの言葉だ。
ここ1年ほどは弥堂も一処に拠点を置いて落ち着いた生活を送ることが出来ているので、ふと思い出した彼女の言葉に従って、特に好きでもないコーヒーに金を使ってみることにしたのだ。
馴染みにしている店が昼夜で営業形態を変える喫茶店兼バーとなっており、その店のマスターを使って一式を揃えた。
その男が直にブレンドしたという粉についての蘊蓄や、道具の使い方、淹れ方の手順や作法など細々と説明されたが、味や嗜みを楽しむ感性に欠けた弥堂には半ば無用の長物となりつつもある。
弥堂の価値観では正直なところ、たかが飲み物に対して使う金額としては過剰な金額だと思っている。
またあの男の人格や品性を考慮すると、実際に随分とぼったくられているのだろうが、それは弥堂としては望むところでもあった。
弥堂には味や格式などはわからない。一つだけはっきりとした形で自分でも違いを認識出来るのは値段の一点だ。
自身が拘ることが可能なのは金額のみ。ならば高ければ高い方がいい。目的に副う。
一般的な市販品よりも品質のいい物を一般的な値段よりも高い金で買う。
それで拘っている、ということになるはずだ。
弥堂はそのように考えている。
この趣味を自分に勧めてきたルビア自身も似たようなもので、口に入れれば拒絶反応を起こすほどにコーヒーを苦手としていた。
そんな彼女が苦手なコーヒーを飲むのは酷く酔いつぶれた夜の、その翌日明くる朝だった。
チアノーゼにでもなったかのような顔色で、酷い二日酔いに顔を歪めて起きてきた朝に決まって優輝にコーヒーを淹れろと命じる。
そして一口飲んで胃の中の物を全て吐き出し、カップの残りは捨て、優輝に後片付けを命じてスッキリした顏で出かけていくのだ。
何度かコーヒーとはそのように気付け薬の代わりに使用するものではないと進言したのだが聞き入れては貰えなかった。
彼女曰く――
『――酒で溶かせなかった腹の中に溜まった汚ねぇモンをこうやって吐き出すんだよ。大人はそうやって定期的にゲロと一緒にゲロみてぇなアレコレを吐き出して、そんで何でもねぇってツラで外に出てクソったれな世の中で大人やってんだ。これがわかんねぇうちはテメェはまだまだガキってこった。あぁ? んだそのツラぁ? いっちょまえに怒ったのか? 生意気なんだよクソガキが。ガキっつわれてキレんのはガキの証拠なんだよ。違ぇってんなら、残ったこのコーヒーを飲んでみな――』
そう彼女に煽られて挑戦し、二日酔いの彼女と似たような顔色になって以来、決して好みはしないが、今では飲み込めるようにはなった。
吐き出せと言う彼女の言が正しいのならば、クソったれな世の中に蔓延る自他のゲロのような悪意を飲み込み続けて腹の中に溜め込みっぱなしになっている、ということになる。
しかし、吐いた後の片付け作業のことを考えれば、弥堂としてはどうしても効率を優先せざるをえない。
後になって知ったことだが、彼女が好きでもない嗜好品を飲み続けていたのは、死に別れた昔の男がコーヒーを嗜んでいたから、らしい。
当時、彼女と弥堂が共に過ごしていた地方ではコーヒーは簡単に手に入るものではなかった。
それでも彼女が結構な金を出してまでそれを仕入れていたのは、考えるまでもなくその昔の男を想ってのことなのだろう。
彼女がどんな気持ちでその習慣を続けていたのかは今でもわからない。
弥堂自身、最近になってこうして居を構え安寧を貪るようになり、今のような安全な時間に以前に時間を共にしていた人々のことを少しは考えるようになった。
無駄なことだと自覚をしていたが、どうせ何もしない無駄な時間なのだ。他にすることがないのであれば、無駄な時間に無駄なことを考えても別に構わないだろうと目を瞑る。
それが甘えであり気の緩みだとも自覚はしていた。
ただ、やはりいくら考えても彼女のことはわからないし、答え合わせもできない。
正しく、無駄だ。
そんな中で得られたものは苦さに対する依存だけだ。
彼女と過ごしていた時は、どうしても苦味に耐えられずカップ一杯飲み切ることが出来なかったのだが、あれから何年か経った今では、定期的に飲み続けていたわけでもないのに簡単に飲み干すことが出来るようになっていた。
それも当然だ。
現実の『世界』はこんな黒い水よりも何倍も苦い。
今の自分にはこんなものは苦にはならない。
過去を想っている間にカップの中には黒い苦が溜まっていた。ドリッパーを外してシンクに入れ、カップを持ち上げ一口含む。
雑味の薄いほど良い苦さと少しの酸味を飲み込む。
喉の通りもよく、後に引く不快感もない。
それも当然だ。
人間が嗜好するために発達した科学技術により生産し加工され流通しているものだ。おまけに今口にしたものは、店のマスターが客に売るために独自にブレンドしたものでもある。不味いわけがない。
だから人間にとって苦になろうはずもない。
簡単に言えば、これは美味いものだ。
だが、弥堂はどうにもこの美味さと高級感が気に食わない。
昔彼女と一緒に飲んだものよりもはるかに入手することがが容易な物なのに。
弥堂はこの粉に無駄に金をかけてしまっているが、多少味が落ちたとしてもその辺の量販店で安価に手に入る物の方が、彼女と飲んだコーヒーよりもずっと値段が安い。
それなのに記憶にある彼女と飲んだコーヒーよりもずっと美味いと、味覚を通じてそう認知するこの安易な快楽に落ち着かなさや居心地の悪さを感じてしまう。
咥内に残ったその美味いという不愉快さを唾と一緒にシンクへ吐き出す。
べっと銀色の板に張り付いたその悪意の上でカップを逆さまにして残りを捨てる。
水道のレバーを下げて黒く汚れた悪意を水に流した。
こんなことをしても身の内で燻る燃え尽きぬ怨嗟は潰えはしない。
彼女の言ったことの全ては今でも理解出来てはいないが、だが苦さというものはあの頃よりは多少わかった気がするし、今では自分も何でもねぇってツラで外を歩くのがあの頃よりもずっと上手くなった。
だが、自分が飲み込んでいるのは彼女とは違う苦さだ。満たない苦だ。
自分は果たして正しく大人になれているのだろうか。
そんなわけはないと自嘲する。
コーヒーの粉を戸棚に仕舞う。
明日からはもう飲まなくてもいいだろう。仕舞う時に毎回そう思う。
苦にもならぬ苦さなど、咎を洗うことも出来なければ戒にもならない。
戸を閉めるとほぼ同時に電話が鳴った。
弥堂は特に急ぐでもなくテーブルへと歩いていく。
スマホを通話状態にし耳に当てると粟を食ったような女の金切り声に鼓膜を刺され、弥堂は眉を不愉快げに歪めた。
『もしもし! 弥堂君っ⁉』
「……お疲れ様です。所長」
電話を寄こしてきたのはバイトの雇い主だ。弥堂は一応丁寧な応対をする。
『あ、お疲れ様です…………じゃなくって! なんなんですか! この写真は⁉』
相手が言っているのは恐らく先程メールに添付して送り付けたデータのことであろうと予測をつける。
「何、と言われましても。頼まれていたものですが」
仕事を期限内に熟したというのに何故か怒っている様子の相手に、弥堂は見れば馬鹿でもわかることをわざわざ説明してやった。
『頼んでません! いえ、最初の方の写真はいいです。確かに依頼主が求めていて、私がキミにお願いしたものです。間違いありません。ですが――!』
弥堂はスマホから聴こえてくる声を適当に聞き流しながらPCを操作し、一応先程自分が送信したデータを開き瑕疵がないかを確認をする。
『――ですが! なんですか⁉ この別フォルダに入ってるおかしな写真は⁉』
言われて該当のフォルダを開く。
「これがなにか?」
『なにか⁉』
何が問題なのか、弥堂にはまったく理解できずに聞き返すと電話の向こうで相手は相当に驚きを表す。
『これ! 今回の依頼と関係ないですよね⁉ ターゲットと全然違う人が写ってるんですけど⁉ ていうかこれ完全にベッドシーンですよね⁉ どう見てもラブホテル内なんですけど!』
「あぁ」
ようやく相手の言いたいことが伝わった。
「えぇ。仰る通りです。これは別件です。なので別フォルダに入れました。もしかしてメール自体を別で送るべきでしたか? それでお怒りに? でしたら不作法で申し訳ない。失礼しました。以後気を付けます」
『全然違いますけど⁉』
弥堂はまったく悪いとは思っていないが、相手は毎月の生活資金を提供してくれる雇い主という役割のそれなりに便利な女だ。なので、一応体面上謝ってやった。
だが、どうやら彼女が怒っているポイントはそこではないようだ。
『私、キミには1件しかお仕事をお願いしてませんでしたよね⁉ なんなんですかこの写真⁉ ていうか誰なんですこの人たちは⁉』
「あぁ、そうですね……」
20代の半ばで自らの事務所を構える優秀な人物だと思っていたが、いい歳をこいて電話でキャンキャンと喚き続ける落ち着きのなさに、所詮は若い女かと心中で見下しながら弥堂は説明を始める。
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