盤上遊戯~魚を捕り梟は飛んでいく

はに丸

文字の大きさ
4 / 21

第4話 贄

しおりを挟む
 にえ――。

 荀罃じゅんおうは、言われた意味がわかり、楚王そおうを見た。あまりの言葉に驚愕が襲い、腹の奥がずり落ちるような恐怖におののく。下を向いていては耐えられぬ。平伏せねばならぬ身であったが、礼儀をかなぐり捨て頭をあげ、楚王を凝視しながら唾を飲み込む。想像もしなかった己は、うかつでしかない。異民族を贄にするなど、しんもしていることだった。

 楚王は、荀罃が悲鳴も上げず、項垂れることもなく、果敢に睨み付けてきていることに感心をした。楚王りょ諡号しごう荘王そうおうは楚随一の名君であり、この時代を代表する天才の一人である。革新を愛し、政治軍事に優れ、臣に対して心の広さと不正を許さぬ厳しさを合わせ持つ、カリスマそのものと言って良い。この時期、三十路であったろうか。とりあえず、ここは楚王で通そう。

「……晋の中軍ちゅうぐんの将は荀氏じゅんしおさ、その弟は下軍かぐん司馬しば。今回、下軍は我が楚に最も蹂躙された。民の弱さはいたわるものだが、大夫の弱さは罪悪でしかない。さて、弱き下軍の司馬の息子、よ」

 楚王がいっそ軽薄な声音で、呼びかけた。

 その瞬間の、嫌悪、汚辱、恥辱、赫怒かくどをどう表せば良いのであろうか。荀罃は怒声をこらえるため、爪を立てて掌を傷つける。か、と小さく呻いた後、歯を食いしばって楚王を睨み付けた。視線で殺せるのであれば、荀罃は楚王を殺しきっていたであろう。それほどの、憎悪に満ちた目つきであった。

 低く唸るような声が喉奥から出る。

「許し無きながら、呼びかけられたゆえ、このおうより申し上げる。我がいみなを呼ぶにあたいするは、我が君と我が父のみ。覚悟のうえのお言葉か」

 確かに晋は弱かった。己のいた下軍は総崩れであったから最も弱く、主君の命を果たせなかったから罪はある。ゆえにそこは良い。が、名を呼ばれるという屈辱はいかようにも許せなかった。脳が沸騰し、はらわたが煮えくり返る。贄になれ、という言葉など、天の果てに飛んでゆく。獲物に襲いかからんとする猟犬のような顔つきで、荀罃は睨み付けた。飛びかからなかったのは、彼の精一杯の矜持である。感情のままに暴れるのではなく、理性を以て戦い、息の根を止めてやりたかった。

「贄に主君も父もない。お前はえびすだ。我が楚に随わぬ国々の親玉、我らの外敵、すわなち夷という」

 楚王が、噛んで含めるように言った。まるで、講義をしているような様子であった。周囲の臣より失笑が漏れる。楚を蛮夷ばんいだと触れ回っているのは晋である。その晋こそ、野蛮人だと楚王は教えてやっているのである。楚の人々も溜飲が下がるというものだったが、捕虜一人辱めてすっきりするのは、器の大きい楚王らしくない。

「生け捕りの戦いに敗れた夷は贄としてびょうほふる」

 言いながら、楚王は荀罃をぴったりと指さした。荀罃は怒りを散らすように大きく息を吸い、吐いた。諱を呼ぶという恥辱で惑乱させ、犬のように屠るつもりか、とも思った。それでは、せめて冷静になり、人として殺されたい。しかし、そう思えば、やはり怖ろしさが背骨を滑り落ちていく。

 贄であるからひと思いに殺されはしない。その恐怖とともに、懊悩が襲う。父祖より貰った身を潰し、皮をなめされ、敵国の太鼓になる。不孝この上ない。さらに、死後も皮のない体をさらして黄泉をさまようのだ。

「罃よ。お前は、古来からの取り決めにより贄とし、祖霊に捧げる。その皮を以て鼓を作り、その血を以て鼓の彩りとしよう。骨は廟に捧げられ、肉は宴に捧げられる」

 生きたまま皮を剥がされ、血を抜かれながら家畜のように屠られる。解体され、骨は祖霊を祀る祭壇で、肉は楚王の宴で、それぞれさらしものにされる。荀罃は名を再び呼ばれた屈辱と、想像を絶する死の恐怖に顔を青ざめながら目を見開き、奥歯が軋むほど歯を食いしばった。何度も息を吸い、吐くため、鼻の穴が大きく広がる。それでも、下を向いてはならぬと、楚王を睨み付けた。贄にするなら、言葉で嬲らずさっさとすればよい。このような、陰湿な男を英雄然とする楚など早々に滅ぶ、とまで思い、楚王を睨む。

 さて。楚王はとても楽しそうであった。楚という国は、陽性の質があり、代々の王は諧謔を好むところがある。

「少々……いや、かなり趣味が悪かった、許せ。しかし、軽重くらいは計らせろ。さて、我が臣がそちらの虜囚になっていることもある。お前を贄にするか、しちにするか、遊戯で占おうではないか。お前は、その資格があると見た、はくどの」

 屈辱をきちんと覚え、節度を持ち恥辱に耐える。恐怖に耐え、命乞いする卑しさ無し。若さゆえに生の感情を出してくるが、楚王はそういった青年が嫌いではない。

 茫然とする荀罃の前に布が敷かれ、盤上遊戯が並べられていく。

「さあ、楽しませてくれ」

 玉座から降りてきた楚王が、荀罃に対峙して、にっかと笑った。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

タダ働きなので待遇改善を求めて抗議したら、精霊達から『破壊神』と怖れられています。

渡里あずま
ファンタジー
出来損ないの聖女・アガタ。 しかし、精霊の加護を持つ新たな聖女が現れて、王子から婚約破棄された時――彼女は、前世(現代)の記憶を取り戻した。 「それなら、今までの報酬を払って貰えますか?」 ※※※ 虐げられていた子が、モフモフしながらやりたいことを探す旅に出る話です。 ※重複投稿作品※ 表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...