青春怪異譚〜傲岸不遜な公族大夫の日常

はに丸

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恋は秋菊の香り

舒にして脱脱たれ我が帨をうごかすなかれ。ゆっくりとそっと。いきなり私に触ってはいけないのよ。

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 春はあけぼの、とは本邦で有名な言葉であるが、秋の夜明けも良い。

 秋暁しゅうぎょうとも称されるそれは、冷たくなってきた空気が清々しく、熟れた果実のような柔らかい明るさが夜闇を塗り替えていく。

 そのような夜明け頃、韓無忌かんむきは常に参内している。
父親である韓厥かんけつもそうであり、この親子は夜も明けぬうちから出立し、門が開く頃に宮城へ到着する精励せいれいさを持つ。

 かん氏という一族を一言で表せば、謹厳実直であり、まるで身の詰まった硬く重い樫の木のようであった。

 まあ、父に比べて息子はまだ、どこか柔らかさがあったが、同期の若者たちと比べれば十分に重厚である。その生真面目な重さに士匄は時折鼻白み、荀偃じゅんえんは身をすくませている。

 さて、韓無忌は始業前に庭を散策することがある。

 小規模な韓氏の邸に比べ物にならぬほど、宮城の庭は広い。ただ美しく見せているだけではなく、世界の縮図のようなところもある。季節ごとの華やぎを楽しめる場でもあった。

 前述しているが、韓無忌は弱視である。

 すべてのものはぼやけて見えている。その上で視界に欠損があり、なにもないと思っていた空間にいきなり木が現れることもあった。

 欠けた箇所を脳が勝手に処理するため、都合よい幻覚が視界を埋めているのだ。

 しかし、そのようなときも彼は驚くことなく歩く。そして杖を使いながらであったが、介添もなく進む。

 初めて宮中に参内してからもう十年は経つため、慣れがある。それ以上に、青年期をそろそろ脱しようというこの男は、冷静さと胆力を持ち合わせていた。その冷静さで慎重に歩き、胆力で迷いなく進む。彼の人生そのものでもある。

 さて、この日も薄い視界に映る秋の様相を楽しみながら韓無忌は宮中の庭を散策していた。

「これは……菊か」

 爽やかささえある、花の香りに韓無忌は立ち止まってあたりを見回した。視界に白、黄、薄緑、淡紅などが入り混じったかたまりが現れる。

 他の者であれば、そのひとつひとつの美しさ、可憐さを見ることができたであろうが、韓無忌にとっては、群れは一つの塊でしかない。が、彼は知識として菊という小さな花を知っている。

 韓無忌は、やはりまだ稚気を残しだ青年だったのであろう。彼は近づき手を伸ばそうとした。

 どこが本当の花なのか、どこからが都合の良い嘘の視界なのか、わからないままその花弁を触ろうと身を少しかがめた。彼にとってもう一つの目が指先なのである。

 無理な姿勢になっていたらしく、体重がかかりすぎて杖が、たわんだ。気づいた韓無忌はとっさに手を離してしまった。勢いよく弾かれた杖は、思ったより遠くへ落ちたらしい。カランという軽い音は足元のものではなかった。

 一通り地面を見渡すが、見えぬ。土や石、草花と杖は完全に同化してしまい、韓無忌にはわからない。杖は韓無忌の視界と同義であり、無ければまさに暗闇を歩くに等しい。

 もし、彼が貴族でなければ、這いつくばって探し続けたであろう。が、韓無忌は貴族、しかも侍従長の嗣子ししである。ぬかずき地にかがむのは儀礼以外で行うべきではない、となる。

 これが趙武ちょうぶであれば、平気で這いつくばって探す。趙武は大雑把な上に貴族的でない部分が少々、ある。もっと言えば、儀礼より大切な、生き延びるということを知っている。

 士匄であれば、杖がないまま、歩きだす蛮行を行っていたであろう。士匄という男は、意地と異様な自己肯定を持ち、極めて楽観的である。己はきっとなんとかなる、と歩きだし、そして盛大に墓穴を掘る。

 謹厳実直が家風の韓無忌は、慌てることはなかった。しかし、前向きな行動も起こさなかった。彼は、諦めが早い。できぬことはできぬ、と生まれながらに知りすぎていた。

 足元危ない状況と判じ、菊へ手を伸ばすのもやめた。そうして、慎ましやかに立ち尽くす。宮中の庭である、誰かが通りかかれば韓無忌に声をかけるであろう。その時に事情を話して助けてもらうしかない。

 それがいつになるかわからぬ。少なくとも今日の務めに遅れるか、最悪出られない。

 韓無忌が己の未熟さを静かに憤っていた時、

「おそれいりたてまつります、大夫たいふさま」

 と、視界の外から声をかけられた。薄く細く、透明な若い女の声であった。

「杖を落とされたよし。私めが拾いましてございます。お渡しいたしますので、お手を」

 韓無忌は薄目で虚空に頷き、手を伸ばした。

 失礼します、と一声かけられたあと、そっと手を取られ、杖を握らされる。韓無忌は、ほ、と安堵のため息をついた。

 杖が戻ってきた安心感もあるが、女の行き届いた配慮に安んじてもいた。

 韓無忌のような視覚弱者は、いきなり触られると怖ろしさが強い。

 視界に映らぬものが体にふれるというのは、どれだけ胆力を育てても、本能的な恐怖があるものである。それが続けば、常に気を張っていなければならなくなる。虎の縄張りに入ってしまった兎の心地に等しい。

 しかし、目の見えるものにはそのあたりが分かりづらいらしい。韓無忌が困っているときに問答無用に手をつかみ、引っ張る。

 それは善意であるから、文句も言いづらい。

 この女はまず声をかけてくれた。

 杖を渡すときも、一声があった。宮中の女官であろうが、よほど高位の教育を受けたのか、韓無忌のような視覚弱者の世話をしているのか、どちらかであろう。

「感謝を」

 韓無忌は、声がした方に顔を向け、言った。

 視界にぬかずく女がいる。髪を美しく結い上げ、花で飾っている。女官らしく、清潔感と華やかさのある深衣が地に広がり、それも花のようであった。

 特に、ぼやけた視界の韓無忌には、人というより大輪の花に見えた。しかも、良い香りも漂わせている。

「……菊か。あなたは菊の良い香りがする」

 思わず、言った。この男は生真面目かつ面白みのない男であり、このような言葉さえ珍しい。女官は顔をあげず、黙ってぬかずいている。

 杖が戻った以上、韓無忌はそのまま立ち去るべきであった。しかし、何か離れがたい気持ちがあった。

 それほど、韓無忌は女官の配慮が嬉しかった。ただ、韓無忌が立ち去らぬため、この女官も立ち去ることができない。妙な緊張と膠着が場に生まれた。

 物語において、こうした均衡を破るのは、たいがい善意の第三者である。このときも、そうであった。
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