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84話 仕事の顔、恋の距離
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「そういえば、春菜さんのチームも準備進んでるって聞きました」
「そうなんです。社内でも、みんな気合い入ってますよ」
――春菜。
その名前を聞いた瞬間、梨花の指が止まった。
ペンが転がり、机の上で小さく音を立てる。
(……は、るな? 春菜……って言った?)
胸の奥で、何かが弾けたように熱くなる。
思わず顔を上げると、蒼真の隣に立つ“水沢さん”が、やわらかく笑っていた。
(……嘘。春菜って……あの、春菜さん?)
あの日、蒼真が電話で言っていた――
「春菜さん」
梨花の心臓が一瞬で跳ね上がる。
(“水沢春菜”……!)
目の前の光景が、音を失っていく。
周囲の社員の声も、電話のベルも、遠く霞んで聞こえた。
蒼真は淡い微笑みを浮かべながら、資料を手渡している。
仕事中の顔。
けれどその眼差しの奥には、梨花の知らない柔らかさがあった。
(……あの夜、車に乗っていたのも……春菜さん……)
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
言葉にできない衝撃と、名もない痛み。
“知らない関係”が急に形を持って現れた瞬間だった。
(だって……社長の口から“春菜”って……)
「相川さん、どうかしました?」
隣の上司の声に、梨花ははっと我に返る。
「えっ……あ、いえ!」
慌てて資料を抱え、無理に笑顔を作った。
けれどその手は、小さく震えていた。
---
春菜は蒼真の横で、落ち着いた口調で話を続けている。
「KITEさんとまたご一緒できるのは心強いです」
「こちらこそ、引き続きよろしくお願いします」
ビジネスの会話――
けれど梨花には、その声の響きの奥に、二人だけの“馴染んだ空気”を感じ取ってしまう。
(……なんで。どうして、あの人で……私じゃないの……)
視界の端で、二人の距離がほんの少し近づいた。
春菜が笑いながら髪を耳にかけ、蒼真が穏やかに相づちを打つ。
そのさりげない仕草ひとつひとつが、梨花の心を静かに締めつけていった。
翌日。
会議室のドアが開くと同時に、少し緊張を帯びた空気が流れた。
長いテーブルの中央には、資料の束とノートパソコン。
その向かいに座るのは、「クリエイト・パートナーズ」から来た春菜だった。
白いブラウスの袖口からのぞく時計が、上品に光る。
彼女は周囲に丁寧な笑みを向け、まっすぐな声で言った。
「今回の夏の観光PRプロジェクトですが、やっぱり海ですよね」
その言葉に続き、タブレットの画面を切り替える。
そこには海辺の観光データ、SNSのトレンドグラフ、昨年の来訪者数推移。
「夏の観光検索の約62%が“海”関連、投稿シェア率は昨年から18%増。さらに若年層だけでなくファミリー層の反応も上昇中です。特に夕景×グルメの組み合わせ投稿が拡散される傾向が強くて――ここにPRの軸を置くとベストかと」
会議室に「おお…」と小さく感嘆が流れる。
その隣で、蒼真が資料を覗き込みながら静かに頷いた。
「いいですね。水沢さんの提案、データの根拠も強い。こちらでも前向きに検討したいと思います」
梨花は胸の奥で小さく息を詰める。
まっすぐな春菜の話し方が、自分には持っていない大人の余裕を感じさせた。
会議が一段落したとき、蒼真が全員を見回した。
「それでは、こちらのチームからも担当者を決めましょう。進行を任せたい人がいれば――」
会議の資料を束ねる手が止まる。
(……あの日すくった金魚。私、まだ飼ってるのにな)
蒼真が春菜と話す姿が視界に入る。
胸がツキンと痛む。
(ねぇ蒼真。覚えてるのは私だけ?)
ペンを強く握りしめる。
(だったら――思い出させてやるんだから)
「……あのっ!」
少し高めの声が、会議室に響いた。
視線が一斉に梨花へ向く。
彼女は自分でも驚くほど勢いよく立ち上がっていた。
「私も、このプロジェクトに参加させてください!」
一瞬の沈黙。
空気がわずかに揺れる。
蒼真がゆっくりとまばたきし、微笑を浮かべた。
「相川さん……参加ですか」
声は穏やかなのに、0.3秒の間があった。
「夏キャンペーン向けの撮影やSNS、私も動けます!海のPR、得意なんです」
(……少しでも、近くで見ていたい。あの人と春菜さんが、どういう関係なのか)
梨花の胸の内は、熱と焦りでいっぱいだった。
春菜はその言葉に、ほんの一瞬だけ微笑を凍らせた。
(……相川…この子が梨花さん)
けれどすぐに穏やかな笑みを取り戻し、言葉を選ぶように言った。
「ご一緒できて心強いです」
「はい、ぜひ!」
梨花は嬉しそうに頷いた。
蒼真は二人を交互に見つめた。
梨花の期待に満ちた目と、春菜の穏やかな笑み。
「……じゃあ、相川さんも正式に入ってもらおうか」
「ありがとうございます!」
梨花の頬が明るく染まる。
その瞬間――
蒼真はちらりと春菜を見た。
彼女は変わらぬ笑顔で資料を整理していたが、その表情の奥に何があるのか、蒼真には読み取れなかった。
会議後。
梨花は資料を抱えて廊下を歩きながら、心の中でそっと拳を握った。
(よし……これで、近づける)
一方で春菜は、エレベーターの中で小さく息を吐いた。
(仕事。仕事なんだから。……そう、問題ない)
そう言い聞かせる声は冷静なのに、胸の奥だけがほんの少しざわついていた。
(……気にしてる場合じゃない)
「そうなんです。社内でも、みんな気合い入ってますよ」
――春菜。
その名前を聞いた瞬間、梨花の指が止まった。
ペンが転がり、机の上で小さく音を立てる。
(……は、るな? 春菜……って言った?)
胸の奥で、何かが弾けたように熱くなる。
思わず顔を上げると、蒼真の隣に立つ“水沢さん”が、やわらかく笑っていた。
(……嘘。春菜って……あの、春菜さん?)
あの日、蒼真が電話で言っていた――
「春菜さん」
梨花の心臓が一瞬で跳ね上がる。
(“水沢春菜”……!)
目の前の光景が、音を失っていく。
周囲の社員の声も、電話のベルも、遠く霞んで聞こえた。
蒼真は淡い微笑みを浮かべながら、資料を手渡している。
仕事中の顔。
けれどその眼差しの奥には、梨花の知らない柔らかさがあった。
(……あの夜、車に乗っていたのも……春菜さん……)
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
言葉にできない衝撃と、名もない痛み。
“知らない関係”が急に形を持って現れた瞬間だった。
(だって……社長の口から“春菜”って……)
「相川さん、どうかしました?」
隣の上司の声に、梨花ははっと我に返る。
「えっ……あ、いえ!」
慌てて資料を抱え、無理に笑顔を作った。
けれどその手は、小さく震えていた。
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春菜は蒼真の横で、落ち着いた口調で話を続けている。
「KITEさんとまたご一緒できるのは心強いです」
「こちらこそ、引き続きよろしくお願いします」
ビジネスの会話――
けれど梨花には、その声の響きの奥に、二人だけの“馴染んだ空気”を感じ取ってしまう。
(……なんで。どうして、あの人で……私じゃないの……)
視界の端で、二人の距離がほんの少し近づいた。
春菜が笑いながら髪を耳にかけ、蒼真が穏やかに相づちを打つ。
そのさりげない仕草ひとつひとつが、梨花の心を静かに締めつけていった。
翌日。
会議室のドアが開くと同時に、少し緊張を帯びた空気が流れた。
長いテーブルの中央には、資料の束とノートパソコン。
その向かいに座るのは、「クリエイト・パートナーズ」から来た春菜だった。
白いブラウスの袖口からのぞく時計が、上品に光る。
彼女は周囲に丁寧な笑みを向け、まっすぐな声で言った。
「今回の夏の観光PRプロジェクトですが、やっぱり海ですよね」
その言葉に続き、タブレットの画面を切り替える。
そこには海辺の観光データ、SNSのトレンドグラフ、昨年の来訪者数推移。
「夏の観光検索の約62%が“海”関連、投稿シェア率は昨年から18%増。さらに若年層だけでなくファミリー層の反応も上昇中です。特に夕景×グルメの組み合わせ投稿が拡散される傾向が強くて――ここにPRの軸を置くとベストかと」
会議室に「おお…」と小さく感嘆が流れる。
その隣で、蒼真が資料を覗き込みながら静かに頷いた。
「いいですね。水沢さんの提案、データの根拠も強い。こちらでも前向きに検討したいと思います」
梨花は胸の奥で小さく息を詰める。
まっすぐな春菜の話し方が、自分には持っていない大人の余裕を感じさせた。
会議が一段落したとき、蒼真が全員を見回した。
「それでは、こちらのチームからも担当者を決めましょう。進行を任せたい人がいれば――」
会議の資料を束ねる手が止まる。
(……あの日すくった金魚。私、まだ飼ってるのにな)
蒼真が春菜と話す姿が視界に入る。
胸がツキンと痛む。
(ねぇ蒼真。覚えてるのは私だけ?)
ペンを強く握りしめる。
(だったら――思い出させてやるんだから)
「……あのっ!」
少し高めの声が、会議室に響いた。
視線が一斉に梨花へ向く。
彼女は自分でも驚くほど勢いよく立ち上がっていた。
「私も、このプロジェクトに参加させてください!」
一瞬の沈黙。
空気がわずかに揺れる。
蒼真がゆっくりとまばたきし、微笑を浮かべた。
「相川さん……参加ですか」
声は穏やかなのに、0.3秒の間があった。
「夏キャンペーン向けの撮影やSNS、私も動けます!海のPR、得意なんです」
(……少しでも、近くで見ていたい。あの人と春菜さんが、どういう関係なのか)
梨花の胸の内は、熱と焦りでいっぱいだった。
春菜はその言葉に、ほんの一瞬だけ微笑を凍らせた。
(……相川…この子が梨花さん)
けれどすぐに穏やかな笑みを取り戻し、言葉を選ぶように言った。
「ご一緒できて心強いです」
「はい、ぜひ!」
梨花は嬉しそうに頷いた。
蒼真は二人を交互に見つめた。
梨花の期待に満ちた目と、春菜の穏やかな笑み。
「……じゃあ、相川さんも正式に入ってもらおうか」
「ありがとうございます!」
梨花の頬が明るく染まる。
その瞬間――
蒼真はちらりと春菜を見た。
彼女は変わらぬ笑顔で資料を整理していたが、その表情の奥に何があるのか、蒼真には読み取れなかった。
会議後。
梨花は資料を抱えて廊下を歩きながら、心の中でそっと拳を握った。
(よし……これで、近づける)
一方で春菜は、エレベーターの中で小さく息を吐いた。
(仕事。仕事なんだから。……そう、問題ない)
そう言い聞かせる声は冷静なのに、胸の奥だけがほんの少しざわついていた。
(……気にしてる場合じゃない)
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