君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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85話 火花は散っても、奪えない

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梨花はコピー機の前で資料をセットしながら、口角をゆっくり上げた。

(来た。チャンスが来た)

ガコン、ガコン、と複合機が動く音。
排出される紙の匂いさえ、今は追い風のように思える。

あの人の一番近くに立ってるのが誰なのか。
それをこれから決めるのは――自分だ。

握った資料の角がわずかに歪んだ。

(見てなさいよ……“春菜さん”)

---

会議室。
長いテーブルに10名ほど。ノートPC、資料、タブレット。
キーボードの打鍵と紙の擦れる音だけが、一定のリズムで満ちている。

「水沢さん」

梨花の声はにこやかだった。
声以外は。

「ご提案の海×夕景の訴求って、本当に 刺さる と思います? 対象層もう少し若く振り切った方が数字取れると思うんですけど」

言葉は丁寧。
けれど語尾にしれっとトゲが混ざっている。

春菜はまばたきひとつ、呼吸ひとつ乱さず微笑んだ。

「確かに若年層の拡散力は強いんですが、今回は自治体案件なので購買力のあるファミリー層も重点なんです。バランスが勝負ですね」

模範解答。文句のつけどころゼロ。

――に見えた。

しかし梨花は引かない。

「えー、でも水沢さんの提案って守りすぎじゃないです? もっとガンガン攻めて話題狙っても良くないですか?」

春菜は一拍、微笑んだまま止まる。

「……攻めるのも大事ですけど、燃えたら納品前に消火する人が必要なんですよね。私はどっちもできる企画が好きです」

それは優しい声音なのに、返しは大人のカウンターだった。

梨花「(ぐっ……)」

春菜「(……これ……敵視されてる? )」

---

だが梨花は負けない。

「じゃあ私、SNSの撮影アイディア出しますね! 海! 風! 走る私! 以上!」

会議室が静まり返った。

蒼真が顔を上げた。

「……相川さん?」

「はい!」

「撮影の絵としてはありだけど、それは企画というより…」

「……あなたの青春シーン案だね」

くす、と一部の席で控えめな笑いが漏れる。
梨花の耳がほんのり赤くなる。

梨花「う…」

静かに刺される梨花。

さらに蒼真は続ける。

「意見は歓迎。でも論点は一つでいい。“どう成果につなげるか”。そこに戻そう」

蒼真は言葉を重ねず、ただ資料の端を指で軽く叩いた。
「今は戻れ」とそれだけで伝わる仕草だった。

梨花は小さく頷いた。「…はい」

---

春菜は小さく息を吸って、そっと口を開く。

「高瀬社長、……私は大丈夫ですよ」

そう言いながら視線だけ少し梨花へ移す。

(……あ、この子、“大丈夫”って言われると逆に燃えるタイプだ)

「大丈夫だそうです!! 全ッ然だいじょぶです!! ね? 水沢さん?」

「……うん」

目は笑っている。
二人の空気は、握手ではなく――静電気。

---

会議終了と同時にメンバーは三方向へ散った。
喫煙、直帰、荷物整理――気づけばエレベーターホールに残っていたのは二人だけ。

 蒼真は「疲れるな……今日」と言いながらボタンを押した。
扉が開く。二人以外、誰もいない。

春菜「え?」

蒼真「君じゃない。君と相川さんの空気ね」

春菜「……元気でいいですよね。私にはない強さで、ちょっと羨ましいです」

本気の皮肉じゃない、静かな本音。

蒼真は一瞬だけ目を細めた。

「春菜さん」

たった一音落ちただけで、空気の色が変わった。

少し低くて、少しだけあたたかい。

「俺はさ」

「勢いとか、声の大きさとか、そういうのに惹かれたんじゃない」

春菜が目を上げると、蒼真はほんの少し口角を上げていた。

「ちゃんと話せて、ちゃんと分かってくれて、ちゃんと隣にいられる人が好きなんだよ」

――それはつまり。

春菜、あなたのこと。

言い切らなくても届く言葉。

春菜の胸がとくん、と音を立てた。

「……褒めてます?」

「相当ね」

書類を持ち替えた拍子に、肩が触れた。
触れたまま止まることも、離れることもない――一ただそのまま。
その距離で声が落ちる。

「…俺の彼女に変な火花散らさせないでほしいな」

春菜は驚いた顔をして、でもすぐ困ったように笑う。

「ふふ…火花散ってました?」

蒼真も笑った。

「ああ」

---

数字が減っていく静かな箱の中で、蒼真が横目だけで春菜を見る。

「……でも」

春菜「ん?」

「妬いてくれても別にいいけど」

その声は、仕事の顔でも社長の声でもなかった。
春菜だけが知っている、甘くて少し意地の悪い恋人の声。

春菜はまつ毛を伏せ、ふっと笑って言う。

チン、とエレベーターが到着を告げた。

蒼真は春菜とほぼ同時に一歩踏み出す。
何でもない顔のはずなのに、口元だけがほんのわずかに緩んでいる。

「――では、お疲れ様でした」
蒼真の声は、いつもの社長のトーン。

春菜はその横を通り過ぎる。足は止めず、顔も向けない。
けれど、蒼真の低く落ちた声だけが、春菜の耳に届いた。

「……待ってる」

周囲の誰にも届かないのに、春菜の心臓だけに届いた。

春菜は振り返らない。
でも、口元だけがほんの少しやわらかくなる。

まるで独り言みたいな声で春菜は「……はい」とつぶやく。
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