君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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86話 走る画と走る導線

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翌朝。
社内のフロアはまだ人がまばらで、梨花はデスクに向かい、昨日の会議で出したSNS撮影案の資料を広げていた。
手元のメモ帳には、海の写真、夕景のカラーパレット、そして自分の“走る姿”のイメージが細かく描き込まれている。

(……この海×夕景の案、絶対に形にして見せる)

そのとき、蒼真の軽やかな声がフロアに響く。
「お、相川さん頑張ってるな」

顔を上げると、蒼真は資料を手に歩いてきた。

梨花は胸が高鳴るのを感じる。
(やっぱり…私のことちゃんと見てる)

「はい!具体案を詰めています」
梨花が答えると、蒼真は軽くうなずきながら資料を覗き込む。

蒼真は梨花の資料を確認しながらも、わずかに微笑みを絶やさない。
「よし、じゃあ今日中にこの方向性で一度ラフを作ってみよう。僕は後でチェックする」

梨花は胸の奥で小さく拳を握った。
(よし……絶対負けない。春菜さんに、この企画でも、そして――あの人の気持ちでも)

蒼真がデスクに戻って数分後。

梨花は自分の頬がまだほんのり熱いことに気づいて、慌てて冷静さを取り戻すように息を吐いた。

けれど同時に、胸の奥でチリッと小さな焦りが弾けていた。

「……春菜さん、何なのあの余裕」

悔しい。

梨花はキーボードを強めに叩き、資料制作に没頭し始めた。

---

そのころ、春菜は別フロアの打ち合わせスペースでノートPCを開いていた。

プロジェクトの行程表、予算表、進行リスクの洗い出し。
淡々と、丁寧に、確実に仕上げていく。

その横顔は穏やかで、隙がない。

スマホが震える。

蒼真:
昼、空いてる?

春菜は一拍置いて返信する。

春菜:
今のところは。どうかしました?

蒼真:
企画で話したい事があって

春菜:
本当は企画じゃなくて私用ですか?

蒼真:
バレたか

思わず息がこぼれる。
返信はせずそのまま画面を伏せたが、キーボードのリズムは少しだけ軽くなる。

---

一方その頃。

梨花は出来上がったラフ案を画面に映し、満足そうに伸びをした。

「よし…これ、絶対通す…!」

自信のある提案資料。
負けないビジュアル。
自分の“色”をしっかり詰め込んだ一枚。

蒼真に「見る」と言われたラフ。
ここで結果を出せば、一気に距離が縮まる。

---

軽やかな足音。
進行資料を集めフロアを巡回していた春菜が近づいてくる。

いつも通り穏やかなのに、どこか空気が柔らかい。
さっきまで飲んでいたのか、手にはまだ温かそうな紙コップのコーヒー。

「お疲れ様です、相川さん」
笑顔で挨拶する春菜。だが、目は資料にある走る写真のメモにちらりと止まる。

「お疲れ様です、水沢さん」
梨花もにこりと返す。

「……この案、ちょっと面白そうですね」
春菜は指でメモを軽く押さえ、控えめに微笑む。
「海×夕景の構図、確かに拡散力はありそうです」

梨花は息を呑む。
(……あ、褒められた? でも、心の中で“負けない”って気持ちが、勝手に跳ね上がる)

「ありがとうございます! ただ、もっと若い層に刺さる工夫を、追加で考えています。よかったら意見交換しません?」

梨花の声は、いつもより少し熱を帯びる。

「いいですよ」
春菜は穏やかに答えたが、その目は値踏みするようにまっすぐ梨花を見ていた。

梨花も視線を逸らさず、唇の端をわずかに上げる。
(……打ち負かしてやる)

---

机にPC。付箋。

「私は、“見るだけで青春に巻き込まれる画”を作りたいです。風・海・夕日・疾走感!理屈より心に刺さる!見た人の心ぎゅっと掴む感じ!」

春菜は頷きながら聞いて付箋にサラサラと文字を書いている。

「なるほど。導入は同意。でも――」

付箋を一枚、梨花のノートPC脇に貼る。

導線は?
そのあと、どう動かす?

その文字を視界に入れた瞬間、梨花の目が丸くなる。

「……確かに、最後まで見られても次がなければ意味ないか……絶対、私の案の方が刺さると思ったのに」

「あなたのアイデアはちゃんと人の気持ちを掴む力がある。そこは否定しない」

目は笑ってるのに、静かな撃ち合い。

---

「私は逆で、“拡散よりリンク”なんです。見たあと、公式サイト・ふるさと納税・観光ページ・特産PRに一発で繋げる導線設計」

今度は梨花が付箋をひょいと貼る。

ワクワクがないと、人はクリックしません

「……なかなか鋭いですね」

春菜のまつげがわずかに上下する。否定しない。それだけで答えだった。

「テンション設計……考え直さないとですね」

そう言いながらも、梨花の口元はほんの少し上がる。
まるで一撃入れたと思っているボクサーのそれ。

春菜はその表情を見逃さず、ゆっくりと言う。

「でも──入口だけ派手で出口迷子だと、せっかくのワクワクが迷子になりますよ?」

「……っ」

今度は、刺した矢を抜かれてそのまま投げ返された気分になる。

梨花も負けじと目を細める。

「じゃあ出口まで“高揚感つき”で運びましょうか?」

「……できるなら見せてほしいですね」

にこり。
なのに、火花の音しかしない。

---

そのとき。

梨花がふと、春菜の進行表を覗き込む。

「……え、撮影前に地元の人へヒアリングまで入ってる…?」

「撮影で一瞬盛り上がっても、地元が冷めたら意味ないですから」

「………つよ」

春菜は淡々と付け加える。
「……この“走るカット”は否定しきれないですね。視線を奪う力はある。会議で話題になるのは事実」

「ほ、褒めではない言い方選んでません?」

「褒めでもないですけど、貶しでもないです」

「一番ズルいやつ!!」

「でも刺さる人がいるのは認めます。スクロールは止めますね。私なら導線は絶対曲げずに入れますけど」

梨花も負けじと言う。

「こっちも熱量は曲げませんからね」

視線がぶつかる。

相容れない。
でも――ズレてはいない。

---

梨花が最終弾を放つ。

「盛り上げる×導線、両方やったらいいじゃないですか」

春菜は即答しない。
代わりに付箋を一枚、境界線のように机の中央へ落とした。

「主役をどっちに置くか、決めないと。軸がブレたら全部弱くなるので」

「……そうですかぁ?」

語尾は柔らかいのに、目は尖っている梨花。

春菜も表情を崩さず、しかし一歩も引かない。

「弱くなるよりは、決めちゃった方がマシです」

一拍の沈黙。パチ、と空気で火花が鳴った気がした。
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