君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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87話 違和感の午後

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社内のフロアは、昨日より少しだけ賑やかになっていた。
梨花は朝から集中し、昨日まとめたラフをさらにブラッシュアップしている。
画面には、海×夕景の構図に疾走感を加えたカット。色味や風の流れまで細かく描き込まれていた。

(よしよし)
胸の奥で小さな拳を握る。

軽やかな足音が近づいてくる。
蒼真が資料を片手に現れた。

「おはよう、相川さん。昨日の案、完成した?」

「はい!」
梨花はモニターを向け、資料も差し出す。

蒼真は画面を覗き込み、わずかに眉を動かした。
「なるほど……疾走感と高揚感が、すごく出てるね」

声には驚きと、ほんの少し楽しそうな響き。
だがその顔は、あくまで“優秀なスタッフを評価する社長”のものだ。

「ありがとうございます! 風や夕日の色味も調整してみました。ここで見る人を一気に引き込むイメージです」

梨花の声は熱を帯びていく。

蒼真は画面の一部分を指で押さえながら、
「このカット、特にインパクトがあるね。スクロールが止まる気がします」

そのトーンは柔らかいが、仕事としての評価はブレがない。

(……近い……!)
梨花は胸の鼓動を感じていたが、蒼真は自然体のままだ。

「この方向で一度テスト投稿も考えてみよう。反応を見ながら微調整できると思う」

「はい! ラフのバリエーションもいくつか作ります!」

蒼真はかすかに笑みを含ませる。
(……なかなかセンスがある)

――この「笑み」も、あくまで仕事が順調な時のものだった。

---

数日後。
会議室には前よりも熱があった。
テスト投稿の反応は上々で、社内でも話題になっている。

「このカット、やっぱり効いてるな」
モニターの前で蒼真がそう言い、軽く笑った。

梨花が息を呑む。
「本当ですか……!うれしいです!」

そのとき、ドアが開く。

「お疲れさまです」
春菜が資料を抱えて入ってきた。

春菜の目は、一瞬で二人の距離を捉えた。
近すぎるわけではない。
けれど――蒼真の目が“楽しそう”なのは、否応なく伝わってくる。

蒼真が自然に振り向く。
「水沢さん、ちょうどよかった。相川さんの案、すごく反応がいいんですよ」

「そうなんですね、勉強になります」

春菜は笑顔を保ちながら資料を置いた。
だが、指先はほんの少しだけ震えた。

(蒼真さん……嬉しそうだな)

胸の奥にざわめきが湧く。
仕事だから理解できる。
でも、理解とは別に、心が反応してしまう。

---

会社を出て、ようやく息を吐いた。
家に帰り、部屋の静けさの中で、胸のざわつきが強くなる。 

(相川さん、いいねって……そんな嬉しそうに言わなくても)

頭の中で、蒼真の声が何度もリフレインする。
笑いながら話す彼と、それに照れる梨花。
あの光景が、焼きついて離れない。

家に帰り、バッグをソファに落とした。
部屋は静か。時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。

声に出してみる。
「仕事だから、だよ。社長が社員を褒めるのは、いいこと」
思考を整えるように、ゆっくりと言葉を並べる。

「モチベーションアップ。チームの士気。……そういうやつ」

でも、胸の奥はまったく静まらない。
むしろ、言葉にするたびに小さく波が立っていく。

「……なのに、なんで私、こんなにモヤモヤしてるの」
ソファに倒れ込み、目を閉じる。

(わかってるのに……悔しい)

---

翌朝十時。
春菜はいつも通り共有デスクにノートPCを置き、資料の整理を始めた。

ふと目をやると、数メートル先で蒼真が梨花に指示を出している。

「このカット、もう少し柔らかい光にしようか」
「了解です! 波の反射、昨日も考えてたんですよ~」

蒼真は軽く頷き、
「さすがだね」と言う。

(……さすが、か)

その言葉だけで胸がチクリと痛む。

そこへ蒼真が巡回の流れで春菜の前に立った。

「水沢さん、体調……大丈夫ですか?」

「え?……大丈夫です。元気ですよ」
春菜はにこやかに笑う。

けれど、春菜の笑顔を見た瞬間、蒼真の声がほんの少し柔らかくなった。

「そうですか。なら、良かったです」

無意識の変化。

少し離れた席で梨花がその様子を見ていた。

(……なにあれ)
(……あの人だけ、特別扱い?ムカつく)

胸の奥でじわっとした嫉妬が広がる。

もちろん蒼真は全く気づいていない。
ただの“業務的な確認”のつもりだった。

それでも、梨花にはそうは見えなかった。

---

「水沢さん、昨日の修正版、チェックお願いします」
梨花が明るく声をかける。

「ありがとう。確認するね」

「文言、“地域の魅力を再発見”って入れたんですけど……堅いですか?」

「悪くないよ。ただナレーションと合わせるなら少しくだけさせても」

「ふーん……やっぱり。計算して“きます”ね。さすが」

梨花はにっこりと笑った。
だが、その目だけが笑っていない。
ほんのわずか、頬の動きがぎこちない。

春菜は気づきかけ、すぐに自分を否定する。
(気のせい、だよね)

---

翌日。

「おはようございますー!」
梨花の明るい声がフロアに響く。

春菜はコーヒーを口に含み、PCを静かに立ち上げた。
(……普通に、普通にしていよう)

数分後、進行確認のために梨花のデスクへ。

「相川さん、昨日の修正版、見せてくれる?」

梨花の手が止まり、ゆっくりと笑う。
「……いいですよ。少し柔らかくしてみました」

「うん、いいね。数字も残してバランスがとれてる」

「……ふぅん。なるほど。上層部向けが好きなんですね」

声は甘い。
だが、語尾だけがわずかに冷えていた。
その一言に、近くにいた社員がちらりとこちらを見る。

「じゃあ、私は若い層向けに別案を作っておきますね」
梨花は“何事もない”という顔で微笑む。

春菜はにこりと笑って――それ以上、反応を見せなかった。

そのあと、別の社員が話しかける。

「相川さん、この素材どうかな?」
「わぁ、すごい綺麗ですね! 使っていいんですか?」

声が弾む。
さっきまで春菜に向けていた硬さは跡形もない。

春菜はペンキャップをくるくる回しながら、息をそっと吐いた。
(……やっぱり、私のときだけ……違う?)

胸がぴくっと縮む。
だが、すぐに自分の中で押し殺す。

(考えすぎ……仕事のこと考えよ)
(……でも、あの間だけは――)

春菜は自分の胸のざわつきを、そっと飲み込んだ。
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