君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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88話 静かにきしむ距離

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プロジェクトが本格稼働して数日。
フロアは忙しさに熱を帯び、社員の足音や声が絶えない。

春菜は黙々と資料整理を続けていた。
睡眠は取っているのに、胸の奥に沈んだざわつきだけが抜けていかない。

(……昨日の“さすがだね”。また言ってたな)

ただの評価。
そんなことはわかっている。
誰も比べてなんかいないのに、“比較されたような錯覚”だけがじわじわとのしかかる。

胸の奥で、きゅっと痛みが走った。

蒼真が梨花に向けた笑顔。
梨花の頬がうっすら赤くなるのも、見てしまった。

胸の中だけがどうしても納得しない。
(だって、相川さんは蒼真さんを好きなんだよ)

---

「水沢さん、昨日のナレーション案、確認お願いしまーす」

いつも通りの明るい声。
春菜は微笑んでファイルを受け取る。

「ありがとう。じゃあ見るね」

画面を開いた瞬間、隣から梨花の視線が覗き込む。

「ここ、結構変えたんですけど……“地元の声を拾う”ってワード、必要でした?」

「全体の流れを保つならあったほうが……」

説明しようとした瞬間、

「そうですか……まぁ、私はもう少し“目立つ”方向の方が好みですけどね。地味だし」

声の温度がほんの少しだけ下がる。

(なんか今の、嫌味ぽい…)

別の社員が声をかけてきた。

「相川さん、昨日のビジュアル最高でしたよ~!」
「ありがとうございます! 嬉しいです!」

トーンが一瞬で跳ね上がる。
本当に、さっきとは別の人みたいに。

春菜は胸の奥に、ひやりとしたものが落ちてくるのを感じた。

(……気のせいじゃないよね。やっぱり私にだけ当たりが強い……?)

根拠は薄い。
決定的な言葉があったわけでもない。

---

その日の午後。

蒼真が各デスクで短く声をかけていく。

「佐藤さん、午前中お疲れ様。資料の進捗、順調?」

「はい、大丈夫です」

「鈴木さんも、無理しないように」

「ありがとうございます」

春菜が電話対応を終えたタイミングで、蒼真がそばに歩み寄ってきた。

「水沢さん、午前中ずっと立て込んでたでしょう。休憩、ちゃんと取ってますか?」

「え、あ……取ってますよ。大丈夫です」

笑うつもりが、なぜか声がかすれる。

蒼真はそのままフロアを軽く巡回しながら、ほかの社員にも声をかける。

「みんな、昼休みしっかり取るんだぞ」

その自然な動きの中で、春菜には少しだけ向きが変わり、柔らかく続けた。

「無理しないように。プロジェクト長いし、体壊したら元も子もないから」

柔らかい声。あたたかい。
でも今の春菜には、どうしてか刺さる。

(……なんで気づくの。なんで、優しいの)

隣のデスクで梨花がちらりとこちらを見る。
視線はすぐに逸れたが、表情はどこか冷えていた。

(……見られた)

胸がざわつき、手元の資料がにじむ。

「じゃあ午後の会議、後ろの席にいますね」

「はい……お願いします」

たったそれだけの会話なのに、春菜の心臓は妙に早く打っている。

(……私、こんなんじゃだめなのに。今優しくされると泣きそうになる)

梨花は蒼真が春菜との会話が少し長いことに、眉間に皺を寄せた。
しかし蒼真は、あくまで全員に声をかけているように見せている。

---

夕方。
共有デスクで資料を見ていた春菜に、社員が声をかけた。

「水沢さん、来週の現地ヒアリングの件で、ちょっと相談が——」

「あ、はい。大丈夫ですよ」

そう返した瞬間、後ろから蒼真の声がした。

「水沢さん、打ち合わせの進行表、一度一緒に確認しませんか? 時間あります?」

(……“一緒に”)

ほんの微小な言い方。
仕事の話。
だけど、梨花がまたこちらを見たのが気になって、春菜の返事が遅れた。

「……あ、すみません。この後すぐ別の相談があって。
終わったら伺いますね」

蒼真は一瞬、きょとんとした。

ほんの一瞬。

だが、春菜にはその一瞬が胸に痛い。

「……わかった。じゃあ声かけてください」

笑った蒼真の表情が、どこかほつれかけて見えた。

(……いま、変にしちゃった?)

胸の奥が、少し冷たくなる。

---

その夜。

帰宅した春菜は、玄関でバッグを下ろした瞬間、足が止まった。

息が浅い。

(……今日、一度も“心から”笑えなかった)

蒼真の優しさも。
梨花の視線も。
自分の返事の遅さも。

全部が胸に引っかかって、どこにも逃げ場がない。

(なんで私、こんなにぐちゃぐちゃなの……?)

ソファに座り込むと、呼吸がゆっくり乱れてくる。

目頭が熱い。
涙が出るほどではないのに、ずっと込み上げてくる。

(“仕事だから”って言い聞かせても、もう抑えられないよ……)

きしむ。
ぎゅうっと胸の奥が締めつけられる。

そして春菜はようやく気づく。

(……蒼真さんのせいじゃない。私の心の問題だ)

認めたくなかった。
でも、もう限界だった。

ぎゅうっと胸の奥が締めつけられ、心臓が荒くなる。
蒼真が梨花を褒めるたび、胸の中に黒い渦が生まれる。
私だけを見てほしい、私の存在だけを認めてほしい――そのわがままが、嫉妬という鋭い棘となって刺さる。

その時、スマホに蒼真からメッセージが届く。

今日も一日お疲れ様。
進行表のことは大丈夫、急がなくていいからね。
あったかくして、ゆっくり休んで。
おやすみ。

春菜は深く息を吐き、無理に微笑んで返信する。

ありがとうございます。おやすみなさい。

布団に入って目を閉じても、
静かになるどころか、胸の奥でざわつきだけが膨らんでいく。
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