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89話 また見られている
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眠れなかったせいかもしれない。
胸の奥に抱えたざわつきは、昨夜よりさらに重い。
共有デスクに座り、ため息をつく。頭は働いているはずなのに、心が追いつかない。
(ちゃんと……しなきゃ。大丈夫)
十分ほど経ったころ。
蒼真がふと春菜の席で立ち止まった。
「……水沢さん」
「は、はい?」
「調子悪いですよね。顔色が、本当に白い」
周囲に聞こえないくらいの低い声。
仕事上の配慮。
でも、その声音には微かに焦りがにじんでいる。
春菜はぎこちなく笑った。
「大丈夫、です。寝不足だけで……」
「どうして…寝不足なんですか?」
蒼真は小さく眉を寄せる。
まっすぐに向けられた視線。
胸がぎゅっと痛む。
(どうして寝不足かなんて……言えるわけないよ)
「その……考え事してたら……」
春菜がぼそりと濁すと、蒼真はさらに心配そうに目を細めた。
「仕事のことですか?」
「…はい」
「……本当に。仕事だけ?」
その声音は、上司でも同僚でもなく――
彼女を大切にしている人の声だった。
春菜の胸が一瞬で痛くなる。
(やめて……そういう声で聞かないで)
周囲に人の気配があったため、春菜はゆっくりと笑って見せた。
「大丈夫です。本当に、寝不足なだけですから」
嘘だ。
でも言うしかない。
蒼真はほんの一瞬、言葉を飲み込むように息を止めた。
その仕草だけで、春菜にはわかる。
(気づいてる……)
「……わかりました。無理はしないでください」
その時だった。
少し離れた席から梨花の視線が突き刺さった。
目が合った途端、すぐに逸らされる。
でも、その一瞬で十分だった。
(……また見てる)
原因なんてはっきりしているのに、誰にも言えない。
ただ、苦しい。
---
午前の打ち合わせが終わり、春菜が資料を整えていると――
「水沢さん、このデザイン案、もう少し直してもらえます?」
後ろから梨花が来る。
「この部分、文字の大きさも配置も微妙で、上層部に見せるときに間違いなく減点されます。前回の資料も同じく、私ならこうはしません」
春菜はゆっくりと振り返る。
微笑みを崩さず、声を落ち着けて答える。
「なるほど。指摘ありがとう、考慮して調整してみるね」
内心では、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「でも、ここ、強調したいポイントなんだ。だからこの配置にしているの。意図を理解してもらえるように資料に注釈も付けておくね」
春菜の言葉は柔らかいが、意志ははっきりしている。
梨花はわずかに眉をひそめ、視線を逸らした。
隣で別の社員が声をかける。
「相川さんの修正案もいいけど、水沢さんのまとめ方はやっぱりわかりやすいですね」
だが。
梨花の視線が、鋭く春菜に向けられる。
ほんの一瞬だけ。
しかし、憎悪とも嫉妬ともつかない色がくっきり走った。
春菜はその視線を**“見ないようにした”**。
見てしまえば、胸のざわつきがさらに増えてしまうのがわかっているから。
---
午後の会議では、梨花の視線はさらに鋭くなった。
資料をめくる手の動きに、思わず指摘が口をついて出る。
「この数字、どういう計算ですか?根拠が曖昧すぎて説得力がないです。私は、ちゃんと資料として通る形で出したいです」
春菜は一瞬だけ眉を寄せる。
が、落ち着いた声で答える。
「計算方法はこの通りで正確だよ。根拠も別資料にまとめているから、会議で説明するね。心配なら一緒に確認する?」
その言葉で、梨花は少し口を閉じ、悔しそうに小さく息を吐いた。
春菜は胸の奥に少し重さを感じながらも、視線を前に戻す。
(……疲れる)
心の中で、冷静さと優しさを保つ。
嫉妬や苛立ちはあっても、表情や態度には出さないようにした。
---
その日、自社に戻った春菜は、
自分のデスクで資料の整理を終えると、そっと深呼吸した。
梨花の具体的な指摘や攻撃は胸の奥に重くのしかかる。
けれど――それを受け止められるだけの自分も、確かにいる。
(……焦らず、揺れずに、対応できてるかな)
---
翌日。
席は少し離れている。
なのに、なぜか蒼真の視線が何度もこちらへ向く。
(……見てる)
いや、正確には
“春菜の様子を確認している” という感じ。
――昨日の春菜が、返事を濁したときの
あの一瞬の沈んだ目。
あれが、どうしても頭から離れなかった。
だから蒼真は、無意識に何度も目で追ってしまう。
発言のタイミング、資料をめくる手の速さ。
小さな動作のひとつひとつを、静かに観察している。
会議が終わると、すぐ声をかけてきた。
「水沢さん、話せますか?……なんというか。元気がない気がして」
(気づいてほしくない部分だけ、気づくの……)
春菜は笑ってごまかそうとした。
「大丈夫ですよ。ちょっと立て込んでいるので」
「本当に?」
その言い方が優しくて、春菜の心がまた揺れる。
返事をしようとした瞬間。
「高瀬社長! 次の会議の確認いいですか?」
梨花が三歩ほど駆け寄ってきた。
蒼真はそちらに向き直る。
ただ、その動きがほんの少しだけ遅い。
梨花の顔には、わかりやすい苛立ちが浮かんでいた。
二人の会話を背中で聞きながら、春菜はそっと視線を落とした。
その小さな沈黙が、今日いちばん胸が痛かった。
胸の奥に抱えたざわつきは、昨夜よりさらに重い。
共有デスクに座り、ため息をつく。頭は働いているはずなのに、心が追いつかない。
(ちゃんと……しなきゃ。大丈夫)
十分ほど経ったころ。
蒼真がふと春菜の席で立ち止まった。
「……水沢さん」
「は、はい?」
「調子悪いですよね。顔色が、本当に白い」
周囲に聞こえないくらいの低い声。
仕事上の配慮。
でも、その声音には微かに焦りがにじんでいる。
春菜はぎこちなく笑った。
「大丈夫、です。寝不足だけで……」
「どうして…寝不足なんですか?」
蒼真は小さく眉を寄せる。
まっすぐに向けられた視線。
胸がぎゅっと痛む。
(どうして寝不足かなんて……言えるわけないよ)
「その……考え事してたら……」
春菜がぼそりと濁すと、蒼真はさらに心配そうに目を細めた。
「仕事のことですか?」
「…はい」
「……本当に。仕事だけ?」
その声音は、上司でも同僚でもなく――
彼女を大切にしている人の声だった。
春菜の胸が一瞬で痛くなる。
(やめて……そういう声で聞かないで)
周囲に人の気配があったため、春菜はゆっくりと笑って見せた。
「大丈夫です。本当に、寝不足なだけですから」
嘘だ。
でも言うしかない。
蒼真はほんの一瞬、言葉を飲み込むように息を止めた。
その仕草だけで、春菜にはわかる。
(気づいてる……)
「……わかりました。無理はしないでください」
その時だった。
少し離れた席から梨花の視線が突き刺さった。
目が合った途端、すぐに逸らされる。
でも、その一瞬で十分だった。
(……また見てる)
原因なんてはっきりしているのに、誰にも言えない。
ただ、苦しい。
---
午前の打ち合わせが終わり、春菜が資料を整えていると――
「水沢さん、このデザイン案、もう少し直してもらえます?」
後ろから梨花が来る。
「この部分、文字の大きさも配置も微妙で、上層部に見せるときに間違いなく減点されます。前回の資料も同じく、私ならこうはしません」
春菜はゆっくりと振り返る。
微笑みを崩さず、声を落ち着けて答える。
「なるほど。指摘ありがとう、考慮して調整してみるね」
内心では、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「でも、ここ、強調したいポイントなんだ。だからこの配置にしているの。意図を理解してもらえるように資料に注釈も付けておくね」
春菜の言葉は柔らかいが、意志ははっきりしている。
梨花はわずかに眉をひそめ、視線を逸らした。
隣で別の社員が声をかける。
「相川さんの修正案もいいけど、水沢さんのまとめ方はやっぱりわかりやすいですね」
だが。
梨花の視線が、鋭く春菜に向けられる。
ほんの一瞬だけ。
しかし、憎悪とも嫉妬ともつかない色がくっきり走った。
春菜はその視線を**“見ないようにした”**。
見てしまえば、胸のざわつきがさらに増えてしまうのがわかっているから。
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午後の会議では、梨花の視線はさらに鋭くなった。
資料をめくる手の動きに、思わず指摘が口をついて出る。
「この数字、どういう計算ですか?根拠が曖昧すぎて説得力がないです。私は、ちゃんと資料として通る形で出したいです」
春菜は一瞬だけ眉を寄せる。
が、落ち着いた声で答える。
「計算方法はこの通りで正確だよ。根拠も別資料にまとめているから、会議で説明するね。心配なら一緒に確認する?」
その言葉で、梨花は少し口を閉じ、悔しそうに小さく息を吐いた。
春菜は胸の奥に少し重さを感じながらも、視線を前に戻す。
(……疲れる)
心の中で、冷静さと優しさを保つ。
嫉妬や苛立ちはあっても、表情や態度には出さないようにした。
---
その日、自社に戻った春菜は、
自分のデスクで資料の整理を終えると、そっと深呼吸した。
梨花の具体的な指摘や攻撃は胸の奥に重くのしかかる。
けれど――それを受け止められるだけの自分も、確かにいる。
(……焦らず、揺れずに、対応できてるかな)
---
翌日。
席は少し離れている。
なのに、なぜか蒼真の視線が何度もこちらへ向く。
(……見てる)
いや、正確には
“春菜の様子を確認している” という感じ。
――昨日の春菜が、返事を濁したときの
あの一瞬の沈んだ目。
あれが、どうしても頭から離れなかった。
だから蒼真は、無意識に何度も目で追ってしまう。
発言のタイミング、資料をめくる手の速さ。
小さな動作のひとつひとつを、静かに観察している。
会議が終わると、すぐ声をかけてきた。
「水沢さん、話せますか?……なんというか。元気がない気がして」
(気づいてほしくない部分だけ、気づくの……)
春菜は笑ってごまかそうとした。
「大丈夫ですよ。ちょっと立て込んでいるので」
「本当に?」
その言い方が優しくて、春菜の心がまた揺れる。
返事をしようとした瞬間。
「高瀬社長! 次の会議の確認いいですか?」
梨花が三歩ほど駆け寄ってきた。
蒼真はそちらに向き直る。
ただ、その動きがほんの少しだけ遅い。
梨花の顔には、わかりやすい苛立ちが浮かんでいた。
二人の会話を背中で聞きながら、春菜はそっと視線を落とした。
その小さな沈黙が、今日いちばん胸が痛かった。
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