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90話 言えない怖さ
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オフィスはまだ静まり返っていて、コピー機の立ち上がる音だけが響いていた。その隣で、梨花の指先が小さく机をトントンと叩く音も、微妙にオフィスに混ざる。
(どうして、蒼真は私とあの人に向ける優しさが違うの? 昨日だって水沢さんばかり見て……私の方が努力してるのに……あー、もう耐えられない!)
その時、春菜が共有デスクに鞄を置いた。梨花は思わずくるりと振り向き、心の奥の苛立ちが指先の動きに力を帯びる。
(私の方が頑張ってるのに、なんでこの人なの……!)
「高瀬社長、昨日の夕方、私のことすごく褒めてくれたんです」
梨花の声には弾みがあり、頬もほんのり赤い。
「『相川さんはのみ込みが早くて助かる』って……もう、嬉しくて仕方なかったです!」
春菜は一瞬、固まる。
(え……? そんなの……社長が誰かを褒めるのは普通のこと……)
しかし梨花は止まらない。さらに一歩近づき、無邪気そうな笑顔を浮かべる。
「水沢さん、いつも忙しそうでミスが多くて困るって、高瀬社長、愚痴ってましたよ? 気をつけてくださいね」
その笑顔の奥には、小さな棘のような鋭さが光っている。
春菜
(嘘……そんなこと言うはずない……)
胸の奥がざわつく。心を落ち着かせようと、パソコンを立ち上げるが、画面の光さえ眩しく感じる。
(……本当のことを聞いて、傷つくのが怖い。“そんなこと言うわけない”って分かってるのに……もし本当だったら、私……もう立ち直れない)
胸のもやもやは消えず、指先の震えも止まらない。
気がつけば昼休み。もやもやを抱えたまま、片隅で蒼真が春菜に声をかけた。
「……昨日のことなんですけど。少しでいいので、話せる時間ありませんか?」
春菜は少し迷い、肩をすくめて小さく笑った。
「すみません。用事があって……今日は早めに帰社します」
本当は“用事”というほどのものではない。ただ、今の気持ちで蒼真の目をまっすぐ見続ける自信がなかった。
蒼真は眉をひそめ、少しだけ口をつぐむ。
「そっか。じゃあまた明日。お疲れさま」
---
翌日の午後。
春菜は、自治体の夏の観光PR用にまとめた現地ヒアリング資料を整理するため、KITE社に来ていた。パソコンの画面を見つめ、細かな数字やグラフを何度も確認する。
「水沢さん、これ……本当にこの形で提出するんですか?」
不意にかけられた梨花の声は、前より明確な“責め”を帯びていた。
春菜が振り向くと、梨花は資料を片手に、少し眉を寄せたまま続ける。
「高瀬社長、昨日言ってたんですよ。
『水沢さんのまとめ、遅くて困る』って。
ヒアリングの資料も“相川さんのほうが早いかも”って」
春菜の指がキーボードの上で止まった。
「……そんなこと、言わないと思う」
「いえ、言ってましたよ」
梨花はきっぱりと言い切る。
「だから、このまとめ、私が引き継いでもいいですよ? スピードは私のほうが出せますし」
言葉の端が鋭く、胸に刺さる。
さらに梨花は、ため息をひとつ落として言った。
「それに……昨日のラフ、色味が違ってたんです。
水沢さんから“色味は任せる感じで”って言われたので、その通りに進めたんですけど……」
春菜は顔を上げる。(任せるなんて言ってない。最終的な色味は“明日また相談する”って話したのに……)
梨花は肩をすくめ、困ったように続けた。
「“任せる”って言われた割には方向性が曖昧で……悩みましたけど、とりあえず提出しました。でも……やっぱりズレてました」
春菜の胸が痛んだ。
(……勝手に提出したうえで、私のせい?
まだ提出の段階じゃなかったのに)
喉の奥に言い返したい言葉が込み上げてくる。
でも今ここで何を言っても――ただの言い訳にしか聞こえない。
春菜は唇を噛み、静かに視線を落とした。
視界の端で、蒼真がその沈み込むような表情に気づいている。
声をかけたい――けれど、今の春菜には重荷になるかもしれない。
そう判断したように、蒼真はそっと視線を外した。
梨花が資料を机に置いたちょうどその時、近くの席の社員が彼女のデスクを覗き込み、明るい声で話しかけた。
「相川さん、このラフのブラッシュアップ、すごく良かったよ。色味も風の流れも、見た瞬間にぱっと入ってくる」
梨花は「え?」と一度だけ驚いた顔をし、それから弾かれたように自分のデスクへ戻る。
そして嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます! スクロールしても止まってもらえるように、インパクトを意識したんです」
社員は何度か頷きながら席へ戻っていく。
そのやり取りを耳にして、蒼真もちらりと梨花の画面を確認した。
「……どれ」
軽く画面を押さえながら目を通し、ふっと微笑んだ。
「この方向で行こう。しっかり形になってる。夏のPRでも注目されると思う。採用で進めようか」
「はい……!」
梨花の声は震えるほど高揚していた。
(やった……社長が、私を認めてくれたんだ)
そんな喜びがそのまま表情に浮かぶ。
一方、春菜は資料を並べ直しながら、その光景を横目で見ていた。
(なんで……よりによって、その笑顔を相川さんに向けるの……?)
もちろん仕事としての評価だ。春菜だって分かっている。
(こんな感情……持ちたくなかったのに)
胸のざわめきだけが、静かに広がっていった。
---
翌日の昼休み。
社内の片隅で、蒼真はそっと春菜の元へ歩み寄った。
「……水沢さん。本当に何もないならいいけど……そうは見えないし、理由を教えてほしい。」
春菜はほんの一瞬だけ目を伏せ、すぐに柔らかい笑みを作った。
「気のせいですよ。ずっと立て込んでいたから、そう見えただけです。」
「でも……やっぱり無理してるように見える」
視線は春菜の目を探すが、春菜はふわりと目をそらす。
「そんな……本当に、大丈夫ですから」
その仕草を見た瞬間、蒼真の胸にざわりとしたものが広がる。
(やっぱり……避けられてる気がする)
会社を出た春菜は、駅へ向かって早足で歩く。
胸の奥に残ったもやもやから逃げるように、ただ前だけを見て。
「春菜さん」
背後から呼ばれる声。
足が止まる前に、そっと腕を取られた。
「……っ」
驚いて振り返ると、息を切らした蒼真がいた。
「……避けてる理由を教えてほしい」
春菜は腕を引こうとせず、ただ小さく首を振った。
「避けてなんて……いません」
言葉は強めなのに、声がわずかに揺れる。
蒼真は目を細め、静かに問い返す。
「……本当に?ずっと俺から目をそらしてる。今日、話しかけても……嫌われたんじゃないかって」
春菜は胸がぎゅっと締め付けられ、ゆっくりと視線を落とした。
(違う……)
「……それは……絶対、ありえないです……」
その言葉は小さく震えていたけれど、嘘ではなかった。
蒼真の胸に、ほんの一瞬だけ温かさが広がる。
(……嫌われてない。それだけで……)
安堵がのど元まで込み上げる。
けれど――喜びはすぐに、不安が押し流した。
春菜は、言った直後にわずかに後ずさりし、距離を置いた。
その表情は、涙を堪えているようにも見える。
(じゃあ……どうして避けるんだ。
こんな顔で、こんな声で……“ありえない”なんて言うんだ)
胸の奥に混ざったままの安堵と不安が、じわじわと心を締めつける。
春菜は小さく息を吸い、弱々しい笑みを浮かべた。
「……ごめんなさい。今日は……帰ります」
「……待って」
思わず伸びた声は、抑えきれない焦りと切なさが滲んでいた。
(どうして、蒼真は私とあの人に向ける優しさが違うの? 昨日だって水沢さんばかり見て……私の方が努力してるのに……あー、もう耐えられない!)
その時、春菜が共有デスクに鞄を置いた。梨花は思わずくるりと振り向き、心の奥の苛立ちが指先の動きに力を帯びる。
(私の方が頑張ってるのに、なんでこの人なの……!)
「高瀬社長、昨日の夕方、私のことすごく褒めてくれたんです」
梨花の声には弾みがあり、頬もほんのり赤い。
「『相川さんはのみ込みが早くて助かる』って……もう、嬉しくて仕方なかったです!」
春菜は一瞬、固まる。
(え……? そんなの……社長が誰かを褒めるのは普通のこと……)
しかし梨花は止まらない。さらに一歩近づき、無邪気そうな笑顔を浮かべる。
「水沢さん、いつも忙しそうでミスが多くて困るって、高瀬社長、愚痴ってましたよ? 気をつけてくださいね」
その笑顔の奥には、小さな棘のような鋭さが光っている。
春菜
(嘘……そんなこと言うはずない……)
胸の奥がざわつく。心を落ち着かせようと、パソコンを立ち上げるが、画面の光さえ眩しく感じる。
(……本当のことを聞いて、傷つくのが怖い。“そんなこと言うわけない”って分かってるのに……もし本当だったら、私……もう立ち直れない)
胸のもやもやは消えず、指先の震えも止まらない。
気がつけば昼休み。もやもやを抱えたまま、片隅で蒼真が春菜に声をかけた。
「……昨日のことなんですけど。少しでいいので、話せる時間ありませんか?」
春菜は少し迷い、肩をすくめて小さく笑った。
「すみません。用事があって……今日は早めに帰社します」
本当は“用事”というほどのものではない。ただ、今の気持ちで蒼真の目をまっすぐ見続ける自信がなかった。
蒼真は眉をひそめ、少しだけ口をつぐむ。
「そっか。じゃあまた明日。お疲れさま」
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翌日の午後。
春菜は、自治体の夏の観光PR用にまとめた現地ヒアリング資料を整理するため、KITE社に来ていた。パソコンの画面を見つめ、細かな数字やグラフを何度も確認する。
「水沢さん、これ……本当にこの形で提出するんですか?」
不意にかけられた梨花の声は、前より明確な“責め”を帯びていた。
春菜が振り向くと、梨花は資料を片手に、少し眉を寄せたまま続ける。
「高瀬社長、昨日言ってたんですよ。
『水沢さんのまとめ、遅くて困る』って。
ヒアリングの資料も“相川さんのほうが早いかも”って」
春菜の指がキーボードの上で止まった。
「……そんなこと、言わないと思う」
「いえ、言ってましたよ」
梨花はきっぱりと言い切る。
「だから、このまとめ、私が引き継いでもいいですよ? スピードは私のほうが出せますし」
言葉の端が鋭く、胸に刺さる。
さらに梨花は、ため息をひとつ落として言った。
「それに……昨日のラフ、色味が違ってたんです。
水沢さんから“色味は任せる感じで”って言われたので、その通りに進めたんですけど……」
春菜は顔を上げる。(任せるなんて言ってない。最終的な色味は“明日また相談する”って話したのに……)
梨花は肩をすくめ、困ったように続けた。
「“任せる”って言われた割には方向性が曖昧で……悩みましたけど、とりあえず提出しました。でも……やっぱりズレてました」
春菜の胸が痛んだ。
(……勝手に提出したうえで、私のせい?
まだ提出の段階じゃなかったのに)
喉の奥に言い返したい言葉が込み上げてくる。
でも今ここで何を言っても――ただの言い訳にしか聞こえない。
春菜は唇を噛み、静かに視線を落とした。
視界の端で、蒼真がその沈み込むような表情に気づいている。
声をかけたい――けれど、今の春菜には重荷になるかもしれない。
そう判断したように、蒼真はそっと視線を外した。
梨花が資料を机に置いたちょうどその時、近くの席の社員が彼女のデスクを覗き込み、明るい声で話しかけた。
「相川さん、このラフのブラッシュアップ、すごく良かったよ。色味も風の流れも、見た瞬間にぱっと入ってくる」
梨花は「え?」と一度だけ驚いた顔をし、それから弾かれたように自分のデスクへ戻る。
そして嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます! スクロールしても止まってもらえるように、インパクトを意識したんです」
社員は何度か頷きながら席へ戻っていく。
そのやり取りを耳にして、蒼真もちらりと梨花の画面を確認した。
「……どれ」
軽く画面を押さえながら目を通し、ふっと微笑んだ。
「この方向で行こう。しっかり形になってる。夏のPRでも注目されると思う。採用で進めようか」
「はい……!」
梨花の声は震えるほど高揚していた。
(やった……社長が、私を認めてくれたんだ)
そんな喜びがそのまま表情に浮かぶ。
一方、春菜は資料を並べ直しながら、その光景を横目で見ていた。
(なんで……よりによって、その笑顔を相川さんに向けるの……?)
もちろん仕事としての評価だ。春菜だって分かっている。
(こんな感情……持ちたくなかったのに)
胸のざわめきだけが、静かに広がっていった。
---
翌日の昼休み。
社内の片隅で、蒼真はそっと春菜の元へ歩み寄った。
「……水沢さん。本当に何もないならいいけど……そうは見えないし、理由を教えてほしい。」
春菜はほんの一瞬だけ目を伏せ、すぐに柔らかい笑みを作った。
「気のせいですよ。ずっと立て込んでいたから、そう見えただけです。」
「でも……やっぱり無理してるように見える」
視線は春菜の目を探すが、春菜はふわりと目をそらす。
「そんな……本当に、大丈夫ですから」
その仕草を見た瞬間、蒼真の胸にざわりとしたものが広がる。
(やっぱり……避けられてる気がする)
会社を出た春菜は、駅へ向かって早足で歩く。
胸の奥に残ったもやもやから逃げるように、ただ前だけを見て。
「春菜さん」
背後から呼ばれる声。
足が止まる前に、そっと腕を取られた。
「……っ」
驚いて振り返ると、息を切らした蒼真がいた。
「……避けてる理由を教えてほしい」
春菜は腕を引こうとせず、ただ小さく首を振った。
「避けてなんて……いません」
言葉は強めなのに、声がわずかに揺れる。
蒼真は目を細め、静かに問い返す。
「……本当に?ずっと俺から目をそらしてる。今日、話しかけても……嫌われたんじゃないかって」
春菜は胸がぎゅっと締め付けられ、ゆっくりと視線を落とした。
(違う……)
「……それは……絶対、ありえないです……」
その言葉は小さく震えていたけれど、嘘ではなかった。
蒼真の胸に、ほんの一瞬だけ温かさが広がる。
(……嫌われてない。それだけで……)
安堵がのど元まで込み上げる。
けれど――喜びはすぐに、不安が押し流した。
春菜は、言った直後にわずかに後ずさりし、距離を置いた。
その表情は、涙を堪えているようにも見える。
(じゃあ……どうして避けるんだ。
こんな顔で、こんな声で……“ありえない”なんて言うんだ)
胸の奥に混ざったままの安堵と不安が、じわじわと心を締めつける。
春菜は小さく息を吸い、弱々しい笑みを浮かべた。
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