君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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1話 青と白のスーツ

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朝のホームに吹く風は、五月の陽射しにしてはまだ冷たかった。

水沢春菜みずさわはるなはベージュのトートバッグを肩にかけ、電車を待つ人の列に並んでいた。バッグの中では資料ファイルがカタカタと音を立てている。肌寒さもあって、指先が少しこわばっていた。

「取引先への初単独訪問」——営業職になって半年、ようやく任された小さな仕事だった。相手は、今業界で注目される若手経営者、高瀬蒼真たかせそうまが社長を務める広告代理店「KITE」。

春菜が勤めるのは、総合PR会社「クリエイト・パートナーズ」。イベント企画から撮影、広報戦略まで幅広く手がける会社で、新規クライアント開拓は重要な課題だった。KITEは大手広告代理店出身の高瀬社長が3年前に立ち上げた急成長企業で、既に業界で頭角を現している。そんな会社との提携が実現すれば、と上司は期待していた。

「社長が直接対応してくださるなんて……」

小さくつぶやいた時、電車が滑り込んできた。大手広告代理店出身で業界でも注目される経営者が、なぜ自分のような若手営業と?不安と緊張で、車内に乗り込みながらも、春菜はスマホでプレゼン資料を最後に確認する。数字も、提案内容も、何度も見直したはずなのに、どこか他人事のように感じられた。

---

午前十時。KITE社の受付ロビー。

無機質なガラス張りの空間に、ところどころウッド調の家具が置かれていて、洗練されているのにどこか温かみがある。春菜は来客用ソファに座り、膝の上にファイルを乗せて深呼吸した。

「失礼します。KITEの高瀬です。お待たせしました」

声を聞いて立ち上がった瞬間、春菜は少し驚いた。

高瀬蒼真は、想像していたより若く見えた。白いシャツに紺のジャケット、その清潔感ある装いに、シャープな目元と落ち着いた声。思っていたよりもずっと、話しやすそうな雰囲気をまとっている。

「クリエイト・パートナーズの水沢春菜です。本日はお時間いただき、ありがとうございます」

精一杯、社会人らしい笑顔を作る。相手がどんなにフランクに接してきても、「相手は社長」という事実は、頭の隅にこびりついて離れなかった。

---

会議室に通されてからのやりとりは、思ったよりも進めやすかった。

「PR業界も、競争が激しくなってますね」

蒼真は春菜の説明を聞きながら、率直に現状を口にした。

「はい……新しい会社も増えて、差別化が難しくなっています。ただ、私たちは企画から撮影、制作まで一貫してサポートできるのが強みでして……」

春菜は緊張しながらも、自分なりに準備してきた提案を続けた。蒼真は時折うなずきながら、細かく資料に目を通し、必要な点だけを的確に質問してくる。無駄な雑談も、威圧的な態度も、一切ない。

(この人、噂通りすごいのかも……)

春菜は少しずつ、肩の力を抜くことができた。大手出身の実力派経営者と聞いていたが、威圧的でも高圧的でもない。むしろ、相手の話をきちんと聞こうとする姿勢が伝わってくる。

「具体的には、どのようなサポートをしていただけますか?」

「イベント企画でしたら、会場選定から当日運営まで。撮影が必要でしたら、カメラマンの手配も可能です。広報戦略のご相談にも対応しております」

「なるほど。では、まず小さな案件から始めさせていただいて、お互いの進め方を確認できればと思います」

会話の間、蒼真がふと目を合わせてくる瞬間があった。何気ない、ほんの一秒。それでも春菜は、きちんと自分の話を聞いてくれているのだと感じた。

---

提案を終えた帰り道、春菜は駅までの道を歩きながら、ほっと息をついた。

(思ったより、話しやすい人だった)

蒼真の対応は、予想していた高圧的な態度とは正反対だった。こちらの提案も、最後まで真剣に聞いてくれた。業界の実力者でありながら、威圧的でもなく、馬鹿にするでもなく、ただひとりの営業担当として接してくれた。

「次回、具体的な企画案をお持ちします」

別れ際の彼の言葉を思い出しながら、春菜は歩いた。

(なんだか、いい人だったな)

そう思った時、ふとスマホの画面に映った自分の顔が、少し安堵の表情を浮かべているのに気づいた。

初回の商談としては、悪くない手応えだった。

◆◆◆

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