君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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2話 きみの隣にいる男

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仕事帰りの夕方、春菜は都内の路地裏にある小さなビストロの前で足を止めた。暖色のランプに照らされた入り口の扉を見つめ、ふうと一息吐く。

「あれ、やっぱ春菜じゃん。おつかれ」

軽やかな声がして、背後から男が近づいてくる。栗色の髪を無造作に撫でつけた彼——桐島優斗きりしまゆうとは、春菜の大学時代からの恋人だった。

「寒いし、早く入ろ。予約してるから」

促されるまま店内に入り、2人は奥の小さなテーブル席へ座る。キャンドルの火が揺れて、2人の影が壁に柔らかく映る。

---

グラスを合わせて乾杯すると、春菜はほっと肩の力を抜いた。

「今日ね、例の広告代理店の件で打ち合わせだったの」

「KITEの? あの若い社長?」

「うん、高瀬蒼真って人。思ってたより話しやすくて……でも、すごく集中力がある人だった。資料を見る目が真剣で」

春菜が言葉を探すように口ごもると、優斗はちょっと意地悪そうに笑った。

「……ふーん? 惚れた?」

「ち、ちがうし! そういうのじゃなくて!」

真っ赤になって反論する春菜に、優斗は「冗談だよ」と笑いながらワインを口にした。

(ほんと素直で可愛いな、春菜は)

優斗はそう思ったが、言葉にはしなかった。でも、春菜の表情を見ていると、何か違和感を覚えた。いつもなら、もっと素直に仕事の話をしてくれるのに。

---

同じ時間、KITE社のオフィスでは、夕方の陽射しが会議室の窓から差し込んでいた。

蒼真は春菜が帰った後、彼女の提案資料を机の上に広げていた。内容は予想していた通り、まだ粗削りな部分もある。だが、その中に光る何かがあった。

(真面目で、一生懸命で……)

最初に目が合ったとき、彼女の瞳には確かな緊張があった。それでも逃げることなく、最後まで自分の提案を伝えようとしていた。そのまっすぐさに、蒼真は少しだけ心を動かされていた。

多くの営業担当者と会ってきたが、水沢春菜という人には、どこか他の人とは違う印象を受けた。技術的な巧みさではなく、もっと根本的な何か。

(……興味深い人だった)

そう思いながら、蒼真は資料を丁寧に閉じた。

---

店を出て、肌寒い夜を歩く帰り道。優斗のスマホが小さく震えた。春菜が歩いている横で、彼は通知を見て少し表情を変えた。

「誰から?」

「えっ」

春菜が振り返ると、優斗は一瞬だけ目を泳がせてから、いつもの笑顔に戻った。

「大学時代の友達だよ。ちょっと今度飯食おうって言われて」

「ふうん」

春菜は特に気にした様子もなく、歩き続けた。優斗は安堵の表情を浮かべたが、同時に複雑な気持ちも抱いていた。

---

夜。優斗の部屋の灯りがつく。リビングに入ると、ソファには先に帰っていた男がいた。落ち着いた色のシャツ、細い指、読みかけの本。

「遅かったね」

「うん。春菜とごはん食べてた」

「また?」

優斗は苦笑いを浮かべてジャケットを脱ぎ、男の隣に座った。

「春菜は、大切な人だから……でも」

彼はその人の肩に軽く触れた。

「俺の本当の気持ちは、ちゃんとここにあるから」

男は本を閉じて、優斗を見つめた。

「いつまで続けるつもり?」

「……もう少しだけ」

優斗の声は、どこか疲れたような響きを含んでいた。

---

一方その頃、春菜はひとりの部屋でベッドに転がっていた。

優斗との時間は楽しかった。でも——。

(……なんで、あの人のことを考えてるんだろう)

春菜は枕に顔を埋めた。今日の打ち合わせで、蒼真と目が合った瞬間のことが頭から離れない。

(優斗がいるのに、こんなこと考えちゃダメだよね)

罪悪感と混乱で胸がざわざわする。きっと、仕事で緊張したから変な気持ちになっただけ。そう自分に言い聞かせた。

でも、どうしてだろう。あの真剣な眼差しや、資料に目を通す横顔が、心のどこかに引っかかって取れない。

(……ただの憧れ、だよね)

そう思いながらも、自分の胸が少しだけ熱くなるのを感じて、春菜は困惑していた。

蒼真の「次回、具体的な企画案をお持ちします」という言葉を思い出す。また会える。そう思った瞬間、胸が小さく跳ねた。

(……やだ、わたし)

春菜は布団を被って、自分の気持ちに向き合うことを避けるように目を閉じた。でも、心の奥で何かが確実に変わり始めていることを、彼女は薄々感じていた。
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