ラジオの中の届かなかった想い

にまる いお

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③ 誰にも届かない傘の記憶

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ラジオの本番から一夜明けた朝。悠は珍しく、目覚ましの前に目を覚ました。カーテン越しに射し込む朝の光は柔らかく、遠くから聞こえる鳥の声が静かに一日を始めようとしている。

ぼんやりと天井を見上げながら、悠は昨夜のラジオを思い出していた。あの、少し奇妙で、少しざらついた違和感の残るメール。

──あのリスナーは、誰だったんだろう。

「夜の住人」。

「……耳に残る、か」

つぶやくように口に出すと、自分の声が思った以上に低くて驚いた。胸の奥に、小さなつっかえがあるような感覚が続いている。



夜。番組のスタジオには、変わらぬ顔ぶれが揃っていた。ディレクターの井上が缶コーヒーを片手に台本をチェックしながら言う。

「今日は"今までで一番印象に残ってる雨の日の思い出"、ってテーマね。けっこう届いてるよ。切ないのとか、ちょっと笑えるのとか。」

悠はうなずきながらも、昨夜のことを引きずっているのを隠しきれずにいた。

「悠さん、大丈夫?あんまり眠れてないっしょ。」

「……まあ、ちょっとね。」

井上は何も言わず、そっと缶コーヒーをもう一本、悠の前に置いた。

「夜のよりみちラジオ」が今夜も始まる。

「こんばんは。月島悠です。今日も、あなたの声に寄り添えたらうれしいです。」

いつものように穏やかで優しい声が、スピーカーから流れ始める。

「今夜のテーマは、"印象に残っている雨の日の思い出"。
僕は……小学生のころ、自転車で友達の家に行く途中に土砂降りにあって、思い切り滑って転んだことがあります。結局、友達の家でお風呂を借りたんですけど……その時ね、友達のお母さんに『全身ずぶ濡れじゃない!』って笑われて、タオルで頭ぐるぐる巻きにされたんですよ。……でも、なんかすごく嬉しかったんですよね。

……そんなことを思い出しました。
みなさんは、雨の日のどんな思い出がありますか?」

届いたリスナーメッセージを、順番に読んでいく。

「『悠さん、こんばんは。雨の日って、なんとなく心が静かになる気がします。私は好きです。』……うん、わかる気がする。」

「『この前、雨に打たれて泣きました。でも、顔がぐちゃぐちゃになっても、誰にも気づかれなかったのがちょっと救いでした。』」

井上がぼそっと、「切ねえなあ」とつぶやき、スタジオにちいさな笑いが生まれる。

そして、次のメッセージ。

「『こんばんは、月島さん。
最近うちのベランダにいるカエルが、何かを数えてる気がするんです。
朝になると、目の前の植木鉢をじーっと見て『いち、に、さん…』ってリズムで首を傾げてて。
でも、10までいくと必ず葉っぱの裏に隠れちゃうんです。
なにを数えてるんでしょう?気になって、私も一緒に数えてみたんですけど、答えはわかりませんでした。』」

「……あれ?今日のテーマって"印象に残ってる雨の日の思い出"ですよね?
カエルのカウント日記……いや、いいんですけどね、なんかこう……またですか(笑)?」

「でも、想像してみるとちょっとかわいいかもしれませんね。10まで数えたら隠れちゃうカエル……何を数えてるのか、気になるけど、答えは本人しか知らない。
そういう"わからなさ"も、ちょっと雨っぽいなって思いました。」

井上が苦笑いしながら「このリスナーさん、マイペースだなあ」とフォローを入れた。

「……次は、“四葉のクローバー”さんから。」

悠は深呼吸して、メッセージを読み上げる。

「『こんばんは、月島さん。
雨の中で、あなたに傘を差し出したあの日のこと。
あのとき私は、何でもないふりをしていたけれど、本当は、心臓の音が聞こえそうなくらいドキドキしていました。
でも、その気持ちに蓋をして、笑ってみせることしかできなかった。あの時、名前を呼ばれていたら、きっと私は、壊れていたかもしれません。
……それでも、今日、あの日のことを思い出しました。あなたの声は、変わらず私の傘です。』」

読み終えた瞬間、悠はわずかに息を詰めた。
静かな胸の奥に、ざらりとした感触が走る。

(……雨の中で傘を? 誰だろう、心当たりが……)
記憶を探るように目を細める。
確かに、高校時代にそんな場面があった気もする。
けれど、顔も名前も浮かんでこない。

(……どうして思い出せないんだ)

その「空白」がかえって不安を膨らませていく。
まるで自分だけに向けられたような近さ。
優しいはずの言葉なのに、胸の奥に小さな棘のような違和感が残る。

(四葉のクローバー、きっと優しい人のはずなのに……どうして“夜の住人”を思い出すんだろう。)

小さく首を振り、思考を追い払う。マイクの前に座る自分は、迷ってはいけない。

「……誰かの心に、そんなふうに残る瞬間があったのなら、それは、たったひとつの宝物みたいな記憶なんだと思います。
もし、その時間の中で、僕の声がほんの少しでも、あなたの心に届いていたなら――うれしいです。」

言葉を重ねながらも、耳の奥にはかすかなざわめきがまとわりついていた。
「夜の住人」という名前が、記憶の水面に泡のように浮かび上がる。

(……いや、違う。これはただの思い過ごしだ)

自分に言い聞かせるように、悠は努めて明るい声を作った。

「さて、次のお便りは……」

悠は努めて明るい声を作り、残りの放送を進めていった。雨の思い出を語るリスナーたちの声は、どれも温かく、切なく、時に笑いを誘った。それでも、心の奥では得体の知れない不安が反響し続けていた。

放送後。機材の片づけが終わるのを待って、悠はスタッフルームの隅に置かれた古い木の椅子に腰かけた。

井上が心配そうに声をかける。

「悠さん、ちょっと疲れてない?何かあった?」

「……いや、大丈夫。ちょっと、昔のことを思い出しただけ。」

「昔のこと?」

悠は窓の向こうの夜空を見つめた。

「誰かの傘になったこと、あるかな。井上さんは。」

「傘?……ああ、比喩的な意味で?」

「うん。誰かを雨から守れたことって、あるのかなって。」

井上はしばらく考えてから、ゆっくりと答えた。

「……わからないけど、悠さんの声は確実に、誰かの心に届いてると思うよ。それが傘になってるかもしれないし、温かい部屋になってるかもしれない。形は違っても、きっと誰かを守ってる。」

悠は小さく微笑んだ。

「……ありがとう。」



一方その頃、廃校の放送室では、ラジオの音楽が静かに響いていた。
ひび割れた窓から月明かりが差し込み、静まり返った空間に、ポータブルラジオの音が反響する。

すずりが、机に肘をつき、ラジオの声にじっと耳を澄ませていた。

「やっぱり、今日も素敵な声……」

月島悠の過去の録音テープと、現在のラジオ放送。二つの時間が、この場所で静かに重なり合っている。

すずりは目を閉じて、その重なりに身を委ねていた。
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