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⑫ やさしさの居場所
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家の前に着くと、すずりの母親が玄関先に立っていた。
メイクばっちり、胸元の開いたラフな服。その隣には若い男が立っている。
「あら、すずり、おかえり。部活?」 「……ただいま」
母の彼氏らしき男が、何のためらいもなく頭に手を伸ばしてきた。
「がんばってるな」
ぽん、と軽く撫でられた瞬間、背筋にひやりとしたものが走る。
重たい手のひらが、自分の存在を雑に扱ってくるようで、首をすくめたくなる。
(……やめて、お父さんでもないくせに)
言葉にはせず、すずりは足早に家の奥へ向かった。
「もーお、ちゃんと挨拶しなきゃだめよ~。ごめんね」
「いいって」
振り返ると、玄関先で母は男と楽しそうにじゃれている。
その声を背中で聞きながら、すずりはしばらく立ち尽くしていた。
(どうしてあんなに笑えるんだろう)
胸の奥で、小さな波がひとつ広がる。
*
部屋のカーテンの隙間から、夕焼けの残りが薄く染みている。
ベッドに横になったまま、スマホも触らず天井だけを見つめる。
(母の軽さ。彼氏の距離感。全部、自分の輪郭だけを際立たせてくるみたいで、苦しい)
その夜、制服のままパーカーを羽織り、玄関をそっと抜け出した。
向かったのは、悠がかつて通っていた、廃校の放送室。
机の上にポータブルラジオを置き、ランタンをつけて放送が始まるのを待つ。
――午後7時。
「こんばんは。“月島悠の夜のよりみちラジオ”の時間です」
穏やかであたたかい声が、静かな部屋に染みてくる。
『妻が妊娠したら変わってしまいました。急に家の中のことに敏感になったり、考え方が変わったりして、どう接していいのかわからないんです』
悠は柔らかな声で続ける。
「戸惑うのは当たり前だよね。でもね、変わったのは妻じゃない。君に家族が増えただけ。安心して、その手で守ってやれ。泣いていい、全部抱きしめろ。それが父親になる一歩だから。その命は、君がいるから安心して生まれてくるんだよ」
声だけが、すずりの中のざらついた部分を、少しずつ溶かしていった。
その頃、スタジオでは――机の向こうから井上が小さく声をかける。
「悠さん、お子さんいたっけ?」
「いないです。でも、こういう相談は今までたくさん聞いてきましたから」
悠はマイクの前で、少し照れたように微笑む。
「井上さんも聞きますよ?」
井上が肩をすくめて、軽く笑った。
「えーじゃあ……」
「どうぞ」と悠が、優しく微笑みながら返す。
そのやりとりは小さく、静かに交わされる。
ラジオ越しに届けられる優しさは、音になって、確かに誰かの心に届いていく。
だけど、その声は、
あの人の優しさは、
全部“誰か”に向けられている気がして、
どうしようもなく、モヤモヤがこみ上げた。
すずりは、スマホを取り出し、メッセージフォームを開く。
*
あめのひの水たまり
「月島さん、カエルって知ってますか?」
「雨が降ると嬉しそうにゲコゲコ鳴くけど、
じつは、水たまりの中でしか生きられないって知ってますか?」
「ぴょんって跳ねるたび、泥がはねて、誰にも見つからない場所に隠れて、それでも、小さな声で、『ここにいるよ』って鳴いてるんです」
「月島さんの声はやさしくて、雨の中で迷子になった子どもを“全部、受け止めるよ”って言ってるみたいで、……だからこそ、怖くなるんです」
「そのやさしさ、ほんとは誰のためのものですか?」
「誰にでも、向けられるやさしさなら、わたしにはもう、いらないかもしれないです」
*
送信ボタンを押したあと、すずりは、
ラジオの声に背を向けた。
窓の外で、またひとつ、カエルが鳴いた。
まるで、“聞こえたよ”と返事をするみたいに。
「……今日も、たくさんのメッセージ、ありがとうございます。
じゃあ、次は――ラジオネーム、“あめのひの水たまり”さんから」
悠の声が少しだけ静かになる。
投稿を読み始めたそのとき、いつもよりほんの少しだけ、間があいた。
「……“月島さん、カエルって知ってますか?”」
メッセージが静かに読まれていく。
そして、最後の一文――
『誰にでも、向けられるやさしさなら、
わたしにはもう、いらないかもしれないです』
悠は、読み終えてから数秒、黙った。
ほんの一瞬、ラジオの向こうに沈黙が流れる。
「……」
マイクの前で息を整えるようにしてから、彼はふっと笑った。
「“あめのひの水たまり”さん、ありがとう。
あなたのメッセージ……すごく、胸に残りました。」
「カエルって、不思議ですよね。子どものころはよく捕まえたけど、雨の日に鳴くのは、“うれしい”からじゃなくて、きっと、“ここにいるよ”って、誰かに伝えたいからなんだろうなって。あなたの言葉で、改めてそう思いました。」
少しだけ、悠の声が低くなる。
「……やさしさって、むずかしいです。
誰にでも向けられることが“強さ”だと思ってたけど、誰かにとっては、それが“届かない”こともあるんだなって……気づかされました。」
彼はほんのわずかに苦笑してから、静かに言葉を継いだ。
「“水たまり”にぴょんって飛びこんできたカエル、泥が跳ねても、ちゃんと気づいてくれる誰かが、いつかそばにいてくれると、いいなって思います。」
「たとえば、夜のラジオで、こんな風に――
あなたの声が、ちゃんと聞こえたよ、って。」
少しの間をおいて、彼は再び穏やかに言った。
「メッセージ、ありがとうございました。また、いつでも、待ってます。」
*
すずりは、その声を聴いていた。
ラジオの小さなスピーカーから流れる声は、
変わらず優しくて、静かで、だけど、今夜だけは――
まるで“自分に返ってきた声”のように感じた。
すずりは目を閉じた。
たしかに、
“聞こえたよ”と、言われた気がした。
外では、まだ、カエルが鳴いている。
メイクばっちり、胸元の開いたラフな服。その隣には若い男が立っている。
「あら、すずり、おかえり。部活?」 「……ただいま」
母の彼氏らしき男が、何のためらいもなく頭に手を伸ばしてきた。
「がんばってるな」
ぽん、と軽く撫でられた瞬間、背筋にひやりとしたものが走る。
重たい手のひらが、自分の存在を雑に扱ってくるようで、首をすくめたくなる。
(……やめて、お父さんでもないくせに)
言葉にはせず、すずりは足早に家の奥へ向かった。
「もーお、ちゃんと挨拶しなきゃだめよ~。ごめんね」
「いいって」
振り返ると、玄関先で母は男と楽しそうにじゃれている。
その声を背中で聞きながら、すずりはしばらく立ち尽くしていた。
(どうしてあんなに笑えるんだろう)
胸の奥で、小さな波がひとつ広がる。
*
部屋のカーテンの隙間から、夕焼けの残りが薄く染みている。
ベッドに横になったまま、スマホも触らず天井だけを見つめる。
(母の軽さ。彼氏の距離感。全部、自分の輪郭だけを際立たせてくるみたいで、苦しい)
その夜、制服のままパーカーを羽織り、玄関をそっと抜け出した。
向かったのは、悠がかつて通っていた、廃校の放送室。
机の上にポータブルラジオを置き、ランタンをつけて放送が始まるのを待つ。
――午後7時。
「こんばんは。“月島悠の夜のよりみちラジオ”の時間です」
穏やかであたたかい声が、静かな部屋に染みてくる。
『妻が妊娠したら変わってしまいました。急に家の中のことに敏感になったり、考え方が変わったりして、どう接していいのかわからないんです』
悠は柔らかな声で続ける。
「戸惑うのは当たり前だよね。でもね、変わったのは妻じゃない。君に家族が増えただけ。安心して、その手で守ってやれ。泣いていい、全部抱きしめろ。それが父親になる一歩だから。その命は、君がいるから安心して生まれてくるんだよ」
声だけが、すずりの中のざらついた部分を、少しずつ溶かしていった。
その頃、スタジオでは――机の向こうから井上が小さく声をかける。
「悠さん、お子さんいたっけ?」
「いないです。でも、こういう相談は今までたくさん聞いてきましたから」
悠はマイクの前で、少し照れたように微笑む。
「井上さんも聞きますよ?」
井上が肩をすくめて、軽く笑った。
「えーじゃあ……」
「どうぞ」と悠が、優しく微笑みながら返す。
そのやりとりは小さく、静かに交わされる。
ラジオ越しに届けられる優しさは、音になって、確かに誰かの心に届いていく。
だけど、その声は、
あの人の優しさは、
全部“誰か”に向けられている気がして、
どうしようもなく、モヤモヤがこみ上げた。
すずりは、スマホを取り出し、メッセージフォームを開く。
*
あめのひの水たまり
「月島さん、カエルって知ってますか?」
「雨が降ると嬉しそうにゲコゲコ鳴くけど、
じつは、水たまりの中でしか生きられないって知ってますか?」
「ぴょんって跳ねるたび、泥がはねて、誰にも見つからない場所に隠れて、それでも、小さな声で、『ここにいるよ』って鳴いてるんです」
「月島さんの声はやさしくて、雨の中で迷子になった子どもを“全部、受け止めるよ”って言ってるみたいで、……だからこそ、怖くなるんです」
「そのやさしさ、ほんとは誰のためのものですか?」
「誰にでも、向けられるやさしさなら、わたしにはもう、いらないかもしれないです」
*
送信ボタンを押したあと、すずりは、
ラジオの声に背を向けた。
窓の外で、またひとつ、カエルが鳴いた。
まるで、“聞こえたよ”と返事をするみたいに。
「……今日も、たくさんのメッセージ、ありがとうございます。
じゃあ、次は――ラジオネーム、“あめのひの水たまり”さんから」
悠の声が少しだけ静かになる。
投稿を読み始めたそのとき、いつもよりほんの少しだけ、間があいた。
「……“月島さん、カエルって知ってますか?”」
メッセージが静かに読まれていく。
そして、最後の一文――
『誰にでも、向けられるやさしさなら、
わたしにはもう、いらないかもしれないです』
悠は、読み終えてから数秒、黙った。
ほんの一瞬、ラジオの向こうに沈黙が流れる。
「……」
マイクの前で息を整えるようにしてから、彼はふっと笑った。
「“あめのひの水たまり”さん、ありがとう。
あなたのメッセージ……すごく、胸に残りました。」
「カエルって、不思議ですよね。子どものころはよく捕まえたけど、雨の日に鳴くのは、“うれしい”からじゃなくて、きっと、“ここにいるよ”って、誰かに伝えたいからなんだろうなって。あなたの言葉で、改めてそう思いました。」
少しだけ、悠の声が低くなる。
「……やさしさって、むずかしいです。
誰にでも向けられることが“強さ”だと思ってたけど、誰かにとっては、それが“届かない”こともあるんだなって……気づかされました。」
彼はほんのわずかに苦笑してから、静かに言葉を継いだ。
「“水たまり”にぴょんって飛びこんできたカエル、泥が跳ねても、ちゃんと気づいてくれる誰かが、いつかそばにいてくれると、いいなって思います。」
「たとえば、夜のラジオで、こんな風に――
あなたの声が、ちゃんと聞こえたよ、って。」
少しの間をおいて、彼は再び穏やかに言った。
「メッセージ、ありがとうございました。また、いつでも、待ってます。」
*
すずりは、その声を聴いていた。
ラジオの小さなスピーカーから流れる声は、
変わらず優しくて、静かで、だけど、今夜だけは――
まるで“自分に返ってきた声”のように感じた。
すずりは目を閉じた。
たしかに、
“聞こえたよ”と、言われた気がした。
外では、まだ、カエルが鳴いている。
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