ラジオの中の届かなかった想い

にまる いお

文字の大きさ
27 / 33

㉗ 雨上がりの声

しおりを挟む
夕暮れの廃校。放送室の窓の外には、雨上がりの空が低く垂れ込めていた。

放送室の机の上に、一通の白い封筒が置かれていた。
「月島悠様へ」
少しにじんだ乱れた文字でそう書かれた宛名を、長谷大悟は指先でそっとなぞる。
息を呑むように、その手元を見つめていた。

「……謝らなきゃ、ちゃんと……」

かすれた声が放送室の静寂に落ちた、その時だった。

「――謝る? 誰にですか?」

ドアの音。振り返ると、そこには制服姿の少女――すずりが立っていた。濡れた肩に鞄を提げたまま、驚いたような、けれど真剣な目でこちらを見ていた。
大悟の瞳が揺れる

「……君、どうして……もう暗くなるし危ないよ」

「この場所が落ち着くんです」

短くも真っ直ぐな言葉に、大悟は目を伏せた。
しばらく沈黙が流れたあと、ようやく口を開く。

「その封筒……月島さんへの手紙?」

「……謝罪文だよ。……あの人に、憧れてた。ずっと前から。自分の人生が、どうにもならなくなったとき、あの人の声だけが、救いだった」

静かに語られる言葉。その一つひとつに、過去の痛みが滲んでいた。

「……でも、間違えた。いや、間違え続けてた。僕、悠さんを……ストーカーみたいにしてしまったことがある」

すずりの目が一瞬見開かれ、身体がわずかに後ずさった。
「え……?」
小さな息が漏れる。心臓が跳ねる。怖さと戸惑いが、胸をぎゅっと締めつける。

大悟はその視線から逃げず、静かに続けた。

「……妻が妊娠して、家庭の空気が変わっていった。
自分の居場所が、どこにもなくなって……それで、ラジオに逃げた。あの人の声だけが、現実から目を背けられる場所だった。どんどん境界線が曖昧になって、ある日、気づいたら後をつけてた。何十通もメッセージを送って、自宅前で待ったこともある」

すずりは息を呑む。思わず目を伏せ、肩が小さく震える。言葉が出ない。怖くて、でも見捨てられない――複雑な感情が入り混じる。

放送室に、雨上がりの匂いが残っていた。湿った空気の中で、すずりはそっと尋ねた。
「……それで……どうなったんですか?」

「……警察から電話があったんだ。
“あなたの行動で、不安を感じている方がいます”って。
その瞬間、血の気が引いた……何をやってたんだろうって、今でも思う。でも、あのときは……どうしても止まれなかった。怖かったんだ。全部が壊れていくのが」

大悟の声は、しだいにしぼんでいった。
だが、その言葉には、もう逃げようのない真実がこもっていた。

「……でもね、ある夜。悠さんのラジオで、妊娠した妻との向き合い方について話していた回があったんだ」

大悟は目を閉じ、あの夜のことを思い返す。



『妻が妊娠したら変わってしまいました。急に家の中のことに敏感になったり、考え方が変わったりして、どう接していいのかわからないんです』

夜。薄暗い部屋で、大悟はイヤホンを耳に当てたまま、身動きもせずに聴いていた。

「戸惑うのは当たり前だよね。でもね、変わったのは妻じゃない。君に家族が増えただけ。安心して、その手で守ってやれ。泣いていい、全部抱きしめろ。それが父親になる一歩だから。その命は、君がいるから安心して生まれてくるんだよ」

その言葉が、胸の奥に突き刺さった。
目の前がぼやけた。

涙が頬を伝った。

(……僕は、何をやっていたんだ)
妻を責めていた。

変わったのは妻のせいだと思っていた。

でも、違った。

僕が、逃げていただけだった。

その夜、大悟は初めて、自分のしていたことの重さに気づいた。



「……あの回を聴いて、泣いたんだ。
自分のことを言われてるみたいで。
気づいたんだ。僕が壊してたのは、妻でも悠さんでもなく、自分自身だったって」

すずりは、少し顔を上げ、目をじっと見開く。怖さと驚きがまだ胸に残る。だが、その目には、ほんの少しずつ理解の光も混ざっていった。

「……その放送、私も聴いてました」

大悟が顔を上げる。

「あの回、すごく心に残ったんです。
……『父親になる一歩』って言葉が、すごく……羨ましくて」

すずりの声が、少しだけ震えた。

「でも、大悟さんは、あの放送を聴いて、変わろうとしたんですよね」

「……うん。でも、それでも……悠さんに、謝らなきゃいけないことは、消えない」

静寂が落ちた。

すずりは封筒には触れず、ただ彼を見つめ続けた。

「……それで、謝りたくて? その手紙を?」

「うん。でも、渡せなかった。今さら何を言っても、許されることじゃない。……たぶん、自分のためなんだ。自己満足でしかない」

すずりは首を振った。

「――それでも、行動することには意味があります。
誰に届かなくても、自分自身には、ちゃんと届くから」



しばらく沈黙が続き、すずりはうつむき、小さな声で告げた。
「……私、お父さん、いないんです」

大悟が息をのむ。

「どんな事情があったか、知らないけど。……小さい頃から、ずっとお父さんがいなかったから。
だから、赤ちゃんのお父さんがちゃんといるのに、ひとりで逃げたのは……ずるい、って思いました」

言ってしまってから、自分でも驚いた。

でも胸の奥から込み上げてきたのだ。

私には一度も与えられなかった"お父さん"という存在を、この人は手にしていたのに、自分から手放してしまった。

その理不尽さが、どうしようもなく痛かった。

「でも……今日、こうして話をして、少しわかりました。怖かったんですよね。何かを背負うことも、過去と向き合うことも」

すずりは、大悟の目を見て、穏やかに微笑んだ。

「……でも、お腹の中の子には、届きますよ。今からでも、遅くないです」

その声は、やわらかく、けれど力強かった。

「その子に、ちゃんと伝えてあげてください。『お父さんは、ここにいるよ』って」

大悟の目に、涙が浮かぶ。

手にした封筒を、胸元にそっと抱きしめる。

「……ありがとう」

放送室の中。誰もいないはずの空間に、ふたりの息遣いだけがやさしく残った。

雨上がりの空の下、言葉にできなかった想いが、ようやく静かにほどけていく。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

鷹鷲高校執事科

三石成
青春
経済社会が崩壊した後に、貴族制度が生まれた近未来。 東京都内に広大な敷地を持つ全寮制の鷹鷲高校には、貴族の子息が所属する帝王科と、そんな貴族に仕える、優秀な執事を育成するための執事科が設立されている。 物語の中心となるのは、鷹鷲高校男子部の三年生。 各々に悩みや望みを抱えた彼らは、高校三年生という貴重な一年間で、学校の行事や事件を通して、生涯の主人と執事を見つけていく。 表紙イラスト:燈実 黙(@off_the_lamp)

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

青春リフレクション

羽月咲羅
青春
16歳までしか生きられない――。 命の期限がある一条蒼月は未来も希望もなく、生きることを諦め、死ぬことを受け入れるしかできずにいた。 そんなある日、一人の少女に出会う。 彼女はいつも当たり前のように側にいて、次第に蒼月の心にも変化が現れる。 でも、その出会いは偶然じゃなく、必然だった…!? 胸きゅんありの切ない恋愛作品、の予定です!

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。 舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。 結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。 失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。 やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。 男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。 これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。 静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。 全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...