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㉗ 雨上がりの声
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夕暮れの廃校。放送室の窓の外には、雨上がりの空が低く垂れ込めていた。
放送室の机の上に、一通の白い封筒が置かれていた。
「月島悠様へ」
少しにじんだ乱れた文字でそう書かれた宛名を、長谷大悟は指先でそっとなぞる。
息を呑むように、その手元を見つめていた。
「……謝らなきゃ、ちゃんと……」
かすれた声が放送室の静寂に落ちた、その時だった。
「――謝る? 誰にですか?」
ドアの音。振り返ると、そこには制服姿の少女――すずりが立っていた。濡れた肩に鞄を提げたまま、驚いたような、けれど真剣な目でこちらを見ていた。
大悟の瞳が揺れる
。
「……君、どうして……もう暗くなるし危ないよ」
「この場所が落ち着くんです」
短くも真っ直ぐな言葉に、大悟は目を伏せた。
しばらく沈黙が流れたあと、ようやく口を開く。
「その封筒……月島さんへの手紙?」
「……謝罪文だよ。……あの人に、憧れてた。ずっと前から。自分の人生が、どうにもならなくなったとき、あの人の声だけが、救いだった」
静かに語られる言葉。その一つひとつに、過去の痛みが滲んでいた。
「……でも、間違えた。いや、間違え続けてた。僕、悠さんを……ストーカーみたいにしてしまったことがある」
すずりの目が一瞬見開かれ、身体がわずかに後ずさった。
「え……?」
小さな息が漏れる。心臓が跳ねる。怖さと戸惑いが、胸をぎゅっと締めつける。
大悟はその視線から逃げず、静かに続けた。
「……妻が妊娠して、家庭の空気が変わっていった。
自分の居場所が、どこにもなくなって……それで、ラジオに逃げた。あの人の声だけが、現実から目を背けられる場所だった。どんどん境界線が曖昧になって、ある日、気づいたら後をつけてた。何十通もメッセージを送って、自宅前で待ったこともある」
すずりは息を呑む。思わず目を伏せ、肩が小さく震える。言葉が出ない。怖くて、でも見捨てられない――複雑な感情が入り混じる。
放送室に、雨上がりの匂いが残っていた。湿った空気の中で、すずりはそっと尋ねた。
「……それで……どうなったんですか?」
「……警察から電話があったんだ。
“あなたの行動で、不安を感じている方がいます”って。
その瞬間、血の気が引いた……何をやってたんだろうって、今でも思う。でも、あのときは……どうしても止まれなかった。怖かったんだ。全部が壊れていくのが」
大悟の声は、しだいにしぼんでいった。
だが、その言葉には、もう逃げようのない真実がこもっていた。
「……でもね、ある夜。悠さんのラジオで、妊娠した妻との向き合い方について話していた回があったんだ」
大悟は目を閉じ、あの夜のことを思い返す。
*
『妻が妊娠したら変わってしまいました。急に家の中のことに敏感になったり、考え方が変わったりして、どう接していいのかわからないんです』
夜。薄暗い部屋で、大悟はイヤホンを耳に当てたまま、身動きもせずに聴いていた。
「戸惑うのは当たり前だよね。でもね、変わったのは妻じゃない。君に家族が増えただけ。安心して、その手で守ってやれ。泣いていい、全部抱きしめろ。それが父親になる一歩だから。その命は、君がいるから安心して生まれてくるんだよ」
その言葉が、胸の奥に突き刺さった。
目の前がぼやけた。
涙が頬を伝った。
(……僕は、何をやっていたんだ)
妻を責めていた。
変わったのは妻のせいだと思っていた。
でも、違った。
僕が、逃げていただけだった。
その夜、大悟は初めて、自分のしていたことの重さに気づいた。
*
「……あの回を聴いて、泣いたんだ。
自分のことを言われてるみたいで。
気づいたんだ。僕が壊してたのは、妻でも悠さんでもなく、自分自身だったって」
すずりは、少し顔を上げ、目をじっと見開く。怖さと驚きがまだ胸に残る。だが、その目には、ほんの少しずつ理解の光も混ざっていった。
「……その放送、私も聴いてました」
大悟が顔を上げる。
「あの回、すごく心に残ったんです。
……『父親になる一歩』って言葉が、すごく……羨ましくて」
すずりの声が、少しだけ震えた。
「でも、大悟さんは、あの放送を聴いて、変わろうとしたんですよね」
「……うん。でも、それでも……悠さんに、謝らなきゃいけないことは、消えない」
静寂が落ちた。
すずりは封筒には触れず、ただ彼を見つめ続けた。
「……それで、謝りたくて? その手紙を?」
「うん。でも、渡せなかった。今さら何を言っても、許されることじゃない。……たぶん、自分のためなんだ。自己満足でしかない」
すずりは首を振った。
「――それでも、行動することには意味があります。
誰に届かなくても、自分自身には、ちゃんと届くから」
*
しばらく沈黙が続き、すずりはうつむき、小さな声で告げた。
「……私、お父さん、いないんです」
大悟が息をのむ。
「どんな事情があったか、知らないけど。……小さい頃から、ずっとお父さんがいなかったから。
だから、赤ちゃんのお父さんがちゃんといるのに、ひとりで逃げたのは……ずるい、って思いました」
言ってしまってから、自分でも驚いた。
でも胸の奥から込み上げてきたのだ。
私には一度も与えられなかった"お父さん"という存在を、この人は手にしていたのに、自分から手放してしまった。
その理不尽さが、どうしようもなく痛かった。
「でも……今日、こうして話をして、少しわかりました。怖かったんですよね。何かを背負うことも、過去と向き合うことも」
すずりは、大悟の目を見て、穏やかに微笑んだ。
「……でも、お腹の中の子には、届きますよ。今からでも、遅くないです」
その声は、やわらかく、けれど力強かった。
「その子に、ちゃんと伝えてあげてください。『お父さんは、ここにいるよ』って」
大悟の目に、涙が浮かぶ。
手にした封筒を、胸元にそっと抱きしめる。
「……ありがとう」
放送室の中。誰もいないはずの空間に、ふたりの息遣いだけがやさしく残った。
雨上がりの空の下、言葉にできなかった想いが、ようやく静かにほどけていく。
放送室の机の上に、一通の白い封筒が置かれていた。
「月島悠様へ」
少しにじんだ乱れた文字でそう書かれた宛名を、長谷大悟は指先でそっとなぞる。
息を呑むように、その手元を見つめていた。
「……謝らなきゃ、ちゃんと……」
かすれた声が放送室の静寂に落ちた、その時だった。
「――謝る? 誰にですか?」
ドアの音。振り返ると、そこには制服姿の少女――すずりが立っていた。濡れた肩に鞄を提げたまま、驚いたような、けれど真剣な目でこちらを見ていた。
大悟の瞳が揺れる
。
「……君、どうして……もう暗くなるし危ないよ」
「この場所が落ち着くんです」
短くも真っ直ぐな言葉に、大悟は目を伏せた。
しばらく沈黙が流れたあと、ようやく口を開く。
「その封筒……月島さんへの手紙?」
「……謝罪文だよ。……あの人に、憧れてた。ずっと前から。自分の人生が、どうにもならなくなったとき、あの人の声だけが、救いだった」
静かに語られる言葉。その一つひとつに、過去の痛みが滲んでいた。
「……でも、間違えた。いや、間違え続けてた。僕、悠さんを……ストーカーみたいにしてしまったことがある」
すずりの目が一瞬見開かれ、身体がわずかに後ずさった。
「え……?」
小さな息が漏れる。心臓が跳ねる。怖さと戸惑いが、胸をぎゅっと締めつける。
大悟はその視線から逃げず、静かに続けた。
「……妻が妊娠して、家庭の空気が変わっていった。
自分の居場所が、どこにもなくなって……それで、ラジオに逃げた。あの人の声だけが、現実から目を背けられる場所だった。どんどん境界線が曖昧になって、ある日、気づいたら後をつけてた。何十通もメッセージを送って、自宅前で待ったこともある」
すずりは息を呑む。思わず目を伏せ、肩が小さく震える。言葉が出ない。怖くて、でも見捨てられない――複雑な感情が入り混じる。
放送室に、雨上がりの匂いが残っていた。湿った空気の中で、すずりはそっと尋ねた。
「……それで……どうなったんですか?」
「……警察から電話があったんだ。
“あなたの行動で、不安を感じている方がいます”って。
その瞬間、血の気が引いた……何をやってたんだろうって、今でも思う。でも、あのときは……どうしても止まれなかった。怖かったんだ。全部が壊れていくのが」
大悟の声は、しだいにしぼんでいった。
だが、その言葉には、もう逃げようのない真実がこもっていた。
「……でもね、ある夜。悠さんのラジオで、妊娠した妻との向き合い方について話していた回があったんだ」
大悟は目を閉じ、あの夜のことを思い返す。
*
『妻が妊娠したら変わってしまいました。急に家の中のことに敏感になったり、考え方が変わったりして、どう接していいのかわからないんです』
夜。薄暗い部屋で、大悟はイヤホンを耳に当てたまま、身動きもせずに聴いていた。
「戸惑うのは当たり前だよね。でもね、変わったのは妻じゃない。君に家族が増えただけ。安心して、その手で守ってやれ。泣いていい、全部抱きしめろ。それが父親になる一歩だから。その命は、君がいるから安心して生まれてくるんだよ」
その言葉が、胸の奥に突き刺さった。
目の前がぼやけた。
涙が頬を伝った。
(……僕は、何をやっていたんだ)
妻を責めていた。
変わったのは妻のせいだと思っていた。
でも、違った。
僕が、逃げていただけだった。
その夜、大悟は初めて、自分のしていたことの重さに気づいた。
*
「……あの回を聴いて、泣いたんだ。
自分のことを言われてるみたいで。
気づいたんだ。僕が壊してたのは、妻でも悠さんでもなく、自分自身だったって」
すずりは、少し顔を上げ、目をじっと見開く。怖さと驚きがまだ胸に残る。だが、その目には、ほんの少しずつ理解の光も混ざっていった。
「……その放送、私も聴いてました」
大悟が顔を上げる。
「あの回、すごく心に残ったんです。
……『父親になる一歩』って言葉が、すごく……羨ましくて」
すずりの声が、少しだけ震えた。
「でも、大悟さんは、あの放送を聴いて、変わろうとしたんですよね」
「……うん。でも、それでも……悠さんに、謝らなきゃいけないことは、消えない」
静寂が落ちた。
すずりは封筒には触れず、ただ彼を見つめ続けた。
「……それで、謝りたくて? その手紙を?」
「うん。でも、渡せなかった。今さら何を言っても、許されることじゃない。……たぶん、自分のためなんだ。自己満足でしかない」
すずりは首を振った。
「――それでも、行動することには意味があります。
誰に届かなくても、自分自身には、ちゃんと届くから」
*
しばらく沈黙が続き、すずりはうつむき、小さな声で告げた。
「……私、お父さん、いないんです」
大悟が息をのむ。
「どんな事情があったか、知らないけど。……小さい頃から、ずっとお父さんがいなかったから。
だから、赤ちゃんのお父さんがちゃんといるのに、ひとりで逃げたのは……ずるい、って思いました」
言ってしまってから、自分でも驚いた。
でも胸の奥から込み上げてきたのだ。
私には一度も与えられなかった"お父さん"という存在を、この人は手にしていたのに、自分から手放してしまった。
その理不尽さが、どうしようもなく痛かった。
「でも……今日、こうして話をして、少しわかりました。怖かったんですよね。何かを背負うことも、過去と向き合うことも」
すずりは、大悟の目を見て、穏やかに微笑んだ。
「……でも、お腹の中の子には、届きますよ。今からでも、遅くないです」
その声は、やわらかく、けれど力強かった。
「その子に、ちゃんと伝えてあげてください。『お父さんは、ここにいるよ』って」
大悟の目に、涙が浮かぶ。
手にした封筒を、胸元にそっと抱きしめる。
「……ありがとう」
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