ラジオの中の届かなかった想い

にまる いお

文字の大きさ
30 / 33

㉚ 雪の夜に

しおりを挟む
雪の気配を孕んだ空の下、すずりは手袋の中の指先に力をこめながら、廃校の前に立っていた。

かつて何度も通った裏門には、「立入禁止」の黄色いテープと、「取り壊し工事のお知らせ」の張り紙。鉄骨の足場が校舎に沿って組まれており、どこかもう、触れることさえためらわれるような空気を纏っていた。

でも、すずりは一歩踏み出した。ぎゅっと背負い直したリュックの中には、受験勉強用のノート。そして――ポケットの奥には、小さな目的がひとつ。

放送室の扉は冷たく、少しだけ引っかかる音を立てて開いた。

……いつかの夕暮れと同じ、静かな空間だった。

棚の上に置かれたままの、ひとつのカセットテープ。古びたラベルには、細い字で「未送信」とだけ書かれている。

(……ごめんなさい)

すずりはそっとそれを手に取ると、ポケットにしまい込んだ。

誰にも気づかれないように、そっと、でも確かに――大切なものを拾い上げるように。

ラジオ局にたどり着いた頃には、空はますます重たくなっていた。細かい雪がちらほらと舞い始めている。

駅前広場に面したガラス張りのスタジオには、ほんのりと灯りがともっていて、通りすがりの人たちが立ち止まっては中を見ている。

その中に、いた。

ヘッドフォンをつけて、マイクに向かって語りかける――月島悠の姿。

すずりはリュックからイヤホンを取り出し、ポータブルラジオのスイッチを入れる。

「……はい、こんばんは。『夜のよりみちラジオ』の時間です。今日もあなたのそばに、ささやかな音の灯りを」

声が、耳に届いた。

そしてその声が、目の前のガラス越しの人物の口元と、ぴたりと重なって動く。

(……本当に、この人だったんだ)

知っていたはずなのに、胸の奥がじんわり熱くなる。画面の向こうでも、録音の中でもない、いま、ここに――確かに存在する「声」。

悠は穏やかに話し続ける。リスナーからの手紙に笑い、街のざわめきに耳を傾ける。

すずりはそっとポケットに手を入れ、あのカセットテープを握った。

かつて、誰にも届かずにしまい込まれた「未送信の声」。でもその声は、すずりに届き、大悟に届き、そして――自分自身を、ここまで導いてくれた。

悠がふと、視線を上げる。

目が合った。

一瞬、マイクの向こうで、彼の目が驚いたようにわずかに見開かれる。そして、すぐに小さく、ゆっくりと微笑んだ。

ガラス越しに、そっと手が振られる。

すずりは、一歩前に出る。

イヤホンの中の声が、まるで呼応するように響いた。

「……どこかで、迷いながら歩いているあなたへ。きっと、大丈夫。いま見えなくても、夜の先には朝がある。だから、ほんの少しだけ立ち止まって。深呼吸してみましょう」

それは、まるで彼女のための言葉だった。

すずりは、初めてこの場所で――誰よりも近くで――その声を、心で聴いていた。

ラジオの放送が静かに終わる。
「……さて、そろそろ終わりの時間です。今夜も聴いてくれて、ありがとう」

悠はヘッドフォンを外し、マイクの前からゆっくり立ち上がった。
ガラス越しに見えるスタジオの外を見やると――すずりの姿はもうなかった。

ほんの一瞬、目の前にいたのに。
悠は小さく息を吐き、外の冷たい空気に顔を向ける。雪の気配を孕んだ夜空は、どこか静かで優しかった。

……数分後。ポケットの中でスマホが震えた。
画面には「すずり」の名前。

「少し時間、もらえませんか?」

短いメッセージに、悠はふっと微笑んだ。



駅前の自販機の前。
すずりが両手で温めていた缶ココアを差し出した。

「月島さん」

「すずりちゃん。……ありがとう」

湯気と一緒に、わずかな沈黙が流れる。
すずりはポケットに入れた手をぎゅっと握りしめ、それから思い切って取り出した。

小さなカセットテープ。

「……あの、これ……」
少し震える声で、彼に差し出す。

「廃校が取り壊される前に、持ってきちゃったんです」

悠はテープを受け取り、指先でラベルをなぞる。
目を細め、柔らかく笑った。

「そうか……大切にしてくれてたんだね。よければこれは、すずりちゃんが持っていて」

「え……いいんですか?」

「うん」

そう言うと、悠はそっと手を伸ばし、すずりの頭にぽん、と軽く触れた。

押しつけるでもなく、重たくもなく。
ただ「ありがとう」と伝えるような、やさしい力加減。

(……全然違う)

母の隣にいた男に無神経に撫でられたときの記憶が、不意に浮かぶ。
あのとき感じた嫌悪感や、自分が小さく扱われる痛み。

けれど今――悠の手から伝わるのは、その逆だった。
尊重されている。信じてもらえている。そんな安心の感触。

「……ありがとうございます、月島さん」

すずりは小さく笑みを返した。
同じ「頭ポン」でも、心に残る意味はまるで違う。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

鷹鷲高校執事科

三石成
青春
経済社会が崩壊した後に、貴族制度が生まれた近未来。 東京都内に広大な敷地を持つ全寮制の鷹鷲高校には、貴族の子息が所属する帝王科と、そんな貴族に仕える、優秀な執事を育成するための執事科が設立されている。 物語の中心となるのは、鷹鷲高校男子部の三年生。 各々に悩みや望みを抱えた彼らは、高校三年生という貴重な一年間で、学校の行事や事件を通して、生涯の主人と執事を見つけていく。 表紙イラスト:燈実 黙(@off_the_lamp)

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

青春リフレクション

羽月咲羅
青春
16歳までしか生きられない――。 命の期限がある一条蒼月は未来も希望もなく、生きることを諦め、死ぬことを受け入れるしかできずにいた。 そんなある日、一人の少女に出会う。 彼女はいつも当たり前のように側にいて、次第に蒼月の心にも変化が現れる。 でも、その出会いは偶然じゃなく、必然だった…!? 胸きゅんありの切ない恋愛作品、の予定です!

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。 舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。 結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。 失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。 やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。 男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。 これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。 静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。 全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...