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㉚ 雪の夜に
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雪の気配を孕んだ空の下、すずりは手袋の中の指先に力をこめながら、廃校の前に立っていた。
かつて何度も通った裏門には、「立入禁止」の黄色いテープと、「取り壊し工事のお知らせ」の張り紙。鉄骨の足場が校舎に沿って組まれており、どこかもう、触れることさえためらわれるような空気を纏っていた。
でも、すずりは一歩踏み出した。ぎゅっと背負い直したリュックの中には、受験勉強用のノート。そして――ポケットの奥には、小さな目的がひとつ。
放送室の扉は冷たく、少しだけ引っかかる音を立てて開いた。
……いつかの夕暮れと同じ、静かな空間だった。
棚の上に置かれたままの、ひとつのカセットテープ。古びたラベルには、細い字で「未送信」とだけ書かれている。
(……ごめんなさい)
すずりはそっとそれを手に取ると、ポケットにしまい込んだ。
誰にも気づかれないように、そっと、でも確かに――大切なものを拾い上げるように。
ラジオ局にたどり着いた頃には、空はますます重たくなっていた。細かい雪がちらほらと舞い始めている。
駅前広場に面したガラス張りのスタジオには、ほんのりと灯りがともっていて、通りすがりの人たちが立ち止まっては中を見ている。
その中に、いた。
ヘッドフォンをつけて、マイクに向かって語りかける――月島悠の姿。
すずりはリュックからイヤホンを取り出し、ポータブルラジオのスイッチを入れる。
「……はい、こんばんは。『夜のよりみちラジオ』の時間です。今日もあなたのそばに、ささやかな音の灯りを」
声が、耳に届いた。
そしてその声が、目の前のガラス越しの人物の口元と、ぴたりと重なって動く。
(……本当に、この人だったんだ)
知っていたはずなのに、胸の奥がじんわり熱くなる。画面の向こうでも、録音の中でもない、いま、ここに――確かに存在する「声」。
悠は穏やかに話し続ける。リスナーからの手紙に笑い、街のざわめきに耳を傾ける。
すずりはそっとポケットに手を入れ、あのカセットテープを握った。
かつて、誰にも届かずにしまい込まれた「未送信の声」。でもその声は、すずりに届き、大悟に届き、そして――自分自身を、ここまで導いてくれた。
悠がふと、視線を上げる。
目が合った。
一瞬、マイクの向こうで、彼の目が驚いたようにわずかに見開かれる。そして、すぐに小さく、ゆっくりと微笑んだ。
ガラス越しに、そっと手が振られる。
すずりは、一歩前に出る。
イヤホンの中の声が、まるで呼応するように響いた。
「……どこかで、迷いながら歩いているあなたへ。きっと、大丈夫。いま見えなくても、夜の先には朝がある。だから、ほんの少しだけ立ち止まって。深呼吸してみましょう」
それは、まるで彼女のための言葉だった。
すずりは、初めてこの場所で――誰よりも近くで――その声を、心で聴いていた。
ラジオの放送が静かに終わる。
「……さて、そろそろ終わりの時間です。今夜も聴いてくれて、ありがとう」
悠はヘッドフォンを外し、マイクの前からゆっくり立ち上がった。
ガラス越しに見えるスタジオの外を見やると――すずりの姿はもうなかった。
ほんの一瞬、目の前にいたのに。
悠は小さく息を吐き、外の冷たい空気に顔を向ける。雪の気配を孕んだ夜空は、どこか静かで優しかった。
……数分後。ポケットの中でスマホが震えた。
画面には「すずり」の名前。
「少し時間、もらえませんか?」
短いメッセージに、悠はふっと微笑んだ。
*
駅前の自販機の前。
すずりが両手で温めていた缶ココアを差し出した。
「月島さん」
「すずりちゃん。……ありがとう」
湯気と一緒に、わずかな沈黙が流れる。
すずりはポケットに入れた手をぎゅっと握りしめ、それから思い切って取り出した。
小さなカセットテープ。
「……あの、これ……」
少し震える声で、彼に差し出す。
「廃校が取り壊される前に、持ってきちゃったんです」
悠はテープを受け取り、指先でラベルをなぞる。
目を細め、柔らかく笑った。
「そうか……大切にしてくれてたんだね。よければこれは、すずりちゃんが持っていて」
「え……いいんですか?」
「うん」
そう言うと、悠はそっと手を伸ばし、すずりの頭にぽん、と軽く触れた。
押しつけるでもなく、重たくもなく。
ただ「ありがとう」と伝えるような、やさしい力加減。
(……全然違う)
母の隣にいた男に無神経に撫でられたときの記憶が、不意に浮かぶ。
あのとき感じた嫌悪感や、自分が小さく扱われる痛み。
けれど今――悠の手から伝わるのは、その逆だった。
尊重されている。信じてもらえている。そんな安心の感触。
「……ありがとうございます、月島さん」
すずりは小さく笑みを返した。
同じ「頭ポン」でも、心に残る意味はまるで違う。
かつて何度も通った裏門には、「立入禁止」の黄色いテープと、「取り壊し工事のお知らせ」の張り紙。鉄骨の足場が校舎に沿って組まれており、どこかもう、触れることさえためらわれるような空気を纏っていた。
でも、すずりは一歩踏み出した。ぎゅっと背負い直したリュックの中には、受験勉強用のノート。そして――ポケットの奥には、小さな目的がひとつ。
放送室の扉は冷たく、少しだけ引っかかる音を立てて開いた。
……いつかの夕暮れと同じ、静かな空間だった。
棚の上に置かれたままの、ひとつのカセットテープ。古びたラベルには、細い字で「未送信」とだけ書かれている。
(……ごめんなさい)
すずりはそっとそれを手に取ると、ポケットにしまい込んだ。
誰にも気づかれないように、そっと、でも確かに――大切なものを拾い上げるように。
ラジオ局にたどり着いた頃には、空はますます重たくなっていた。細かい雪がちらほらと舞い始めている。
駅前広場に面したガラス張りのスタジオには、ほんのりと灯りがともっていて、通りすがりの人たちが立ち止まっては中を見ている。
その中に、いた。
ヘッドフォンをつけて、マイクに向かって語りかける――月島悠の姿。
すずりはリュックからイヤホンを取り出し、ポータブルラジオのスイッチを入れる。
「……はい、こんばんは。『夜のよりみちラジオ』の時間です。今日もあなたのそばに、ささやかな音の灯りを」
声が、耳に届いた。
そしてその声が、目の前のガラス越しの人物の口元と、ぴたりと重なって動く。
(……本当に、この人だったんだ)
知っていたはずなのに、胸の奥がじんわり熱くなる。画面の向こうでも、録音の中でもない、いま、ここに――確かに存在する「声」。
悠は穏やかに話し続ける。リスナーからの手紙に笑い、街のざわめきに耳を傾ける。
すずりはそっとポケットに手を入れ、あのカセットテープを握った。
かつて、誰にも届かずにしまい込まれた「未送信の声」。でもその声は、すずりに届き、大悟に届き、そして――自分自身を、ここまで導いてくれた。
悠がふと、視線を上げる。
目が合った。
一瞬、マイクの向こうで、彼の目が驚いたようにわずかに見開かれる。そして、すぐに小さく、ゆっくりと微笑んだ。
ガラス越しに、そっと手が振られる。
すずりは、一歩前に出る。
イヤホンの中の声が、まるで呼応するように響いた。
「……どこかで、迷いながら歩いているあなたへ。きっと、大丈夫。いま見えなくても、夜の先には朝がある。だから、ほんの少しだけ立ち止まって。深呼吸してみましょう」
それは、まるで彼女のための言葉だった。
すずりは、初めてこの場所で――誰よりも近くで――その声を、心で聴いていた。
ラジオの放送が静かに終わる。
「……さて、そろそろ終わりの時間です。今夜も聴いてくれて、ありがとう」
悠はヘッドフォンを外し、マイクの前からゆっくり立ち上がった。
ガラス越しに見えるスタジオの外を見やると――すずりの姿はもうなかった。
ほんの一瞬、目の前にいたのに。
悠は小さく息を吐き、外の冷たい空気に顔を向ける。雪の気配を孕んだ夜空は、どこか静かで優しかった。
……数分後。ポケットの中でスマホが震えた。
画面には「すずり」の名前。
「少し時間、もらえませんか?」
短いメッセージに、悠はふっと微笑んだ。
*
駅前の自販機の前。
すずりが両手で温めていた缶ココアを差し出した。
「月島さん」
「すずりちゃん。……ありがとう」
湯気と一緒に、わずかな沈黙が流れる。
すずりはポケットに入れた手をぎゅっと握りしめ、それから思い切って取り出した。
小さなカセットテープ。
「……あの、これ……」
少し震える声で、彼に差し出す。
「廃校が取り壊される前に、持ってきちゃったんです」
悠はテープを受け取り、指先でラベルをなぞる。
目を細め、柔らかく笑った。
「そうか……大切にしてくれてたんだね。よければこれは、すずりちゃんが持っていて」
「え……いいんですか?」
「うん」
そう言うと、悠はそっと手を伸ばし、すずりの頭にぽん、と軽く触れた。
押しつけるでもなく、重たくもなく。
ただ「ありがとう」と伝えるような、やさしい力加減。
(……全然違う)
母の隣にいた男に無神経に撫でられたときの記憶が、不意に浮かぶ。
あのとき感じた嫌悪感や、自分が小さく扱われる痛み。
けれど今――悠の手から伝わるのは、その逆だった。
尊重されている。信じてもらえている。そんな安心の感触。
「……ありがとうございます、月島さん」
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