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11章 図書館戦争
第44話 邂逅
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床に呑まれたその瞬間、ザイナスは運悪く椅子から放り出された。
降下が思いの外に長く、藻掻いて笠木を掴まえる。落下するより幾何かは緩い。どうにか墜落の難は逃れた。どうやら椅子は固定され、軌条に沿って走っている。脚の間を覗いて見れば、台座を曳くのが伺えた。
よくよく見れば、椅子の肘掛け、前の脚、座板に引き絞られた帯がある。どうやら椅子から落ちぬよう、固定される仕組みだったようだ。予感に慌てて逃げ出したせいで腰の座りが偶さか悪く、放り出されてしまったらしい。
間もなく、椅子は平らに走り始めた。周囲は明かりもない通路だ。下手に逃げ出して迷うより、大人しく連れて行かれた方が安全だろうか。うっかり罠を踏み抜きかねない自分の厄憑きは自覚している。ザイナスは観念して座り直した。
勿論、この先の方が何倍も剣呑ではあるだろう。
椅子は闇の中を延々と走る。やがて、耳許の風が遠くに抜けた。辺りは変わらず真っ暗だが、どうやら広い場所に出たらしい。否、闇も僅かに仄暗い。距離感の掴めない背中の方で、鉄の滑る音がした。通路の閉じる音だろうか。
椅子は速度を落として静止した。
床下に燈が灯った。所々が飾り硝子になっているようだ。夜の氷上に取り残されたように、ザイナスの椅子は却って濃くなる闇の中に取り残されている。
「スクルド、シンモラ、ヘルフ、フリスト――」
背中に囁く声がした。聖像の伝声管を介さない生の声だ。
「ヒルド、ゲイラ、この声はスルーズ?」
硬い香りに目を遣ると、仄白く煽り照らされた人影が通り過ぎた。長い髪を光沢が滑る。まるで艶やかな蛇の腹だ。ザイナスは溜息まじりに思案した。羽根の囁きが途絶えたかと思えば、どうやら伝信も取り上げられているらしい。
「ずいぶんお仲間がいるようですね、ザイナス・コレット」
ソフィーア・アシェルが向き直り、正面からザイナスを見おろした。下から燈を受けた胸下の他は、白い頬と鋭利な目許だけが薄闇に浮かんでいる。髪と薄絹の黒衣は闇に溶け、蒼く艶のある外套が水面のようにさざなんでいた。
「人が天使を飼うなどと、いったい何が起きているのです」
耳慣れない言い回しに戸惑いつつ、そう見えるのかな、とザイナスは驚いた。
「彼女たちは自由なので」
むしろ、自由すぎるので。ザイナスは従属を強要できない。御柱さえも、それが叶わない。庇護と言い換えられるなら、飼われているのはザイナスの方だ。
「ええと――」
ザイナスはふと、思ったままを口にした。
「貴方を何と呼べば?」
感覚的な問いだった。彼女の名前は知っている。人の身も、御使いも。懐疑は明確な形を成していない。ただ、灯のせいか現実感に乏しい。むしろ、香りに存在を感じる。乾いた紙の硬い匂いだけが、彼女の身体に厚みを作っている。
「ソフィーアと。今は同じ人の身ですから、許しましょう」
何にせよ、指定されるのは有難い。会話の迷いが誤魔化せる。
そも御使いを気軽に呼ぶのは憚られた。無信心と言われた身だが、教会育ちはそういうものだ。ここ最近の騒動で、すっかり箍が緩んでいる。
「さても天使の同盟とは。貴方を護る意味は何でしょう。ましてスルーズがいるのなら、供物と祭壇を聖堂に揃えれば、これを刈れるとわかっている筈」
まいったな、と途方に暮れる。どうやら虎の子の最後の秘密も彼女に知られているらしい。そのザイナスの表情に、ソフィーアは目敏く微笑んだ。
「ラングステンに滞在したスルーズの行動は把握しています。あれは賞牌の刈り方に気づいた。天使の任を優先し、追わなかったのは失策です」
ザイナスは小さく肩を竦めた。
「僕にも理由はわかりません。人でいるのを楽しんでいるようでもあり――」
苦しんでいるようでもあり。
「だから、せめて寿命まで生き延びたい僕と利害が一致したのでは? 賞牌を誰かに独占させず、みな少しでも人生を楽しみたいと考えた」
天界はそんなに退屈ですか、とは訊かなかった。慣れない言葉は抵抗がある。
「故に同盟し、おまえを護ると? 天使も堕落したものです」
「貴方も同じ人の身では? ソフィーア」
一拍の沈黙は気のせいか。
「敬意を欠けとまでは言っていませんよ、ザイナス」
ソフィーアは微かに口許を顰めて見せた。
さて、彼女をどう切り崩そうか。ザイナスは幾つかの可能性を併せて思案する。
「ですが、こんな面倒なことをしなくても、もっと簡単に僕を攫えたのでは?」
ザイナスは訊ねた。
「あの白い――霧の掛かったような場所に連れ込むだけで良かったのに」
ソフィーアは微笑んで返した。
「あれは、私も迂闊でした」
ザイナスは彼女の機微を眺めている。
「突然に見つけて気が急いたのです。あのまま攫ってしまっては、要らぬものまで付いて来る。手に入れたいのは貴方の賞牌だけです」
ザイナスは大きく息を吐いた。つまり、身体は余計だと。残ったそれは屍鬼に堕ちる。いずれ意識は残らない。それとも、死後も続くなら、ザイナスの意識は賞牌と屍鬼のどちらに残るのだろう。
思わず思索に気を取られ掛け、ザイナスは我に返って次の足掛かりを探った。
「気掛かりを訊いて貰えますか?」
「命乞いですか?」
「似たようなものです」
素直な言い様に呆れた顔をされたものの、ザイナスは気にせず切り出した。
「地霊術について、聞きそびれていました」
水を被って洗い落したようにソフィーアの表情が掻き消えた。
「意味を書き換えられたとしても、その名は真理で在り得るか、なのですが?」
ザイナスは小部屋で投げた先の問いを繰り返した。
「何故、ただの占事に拘るのです」
ソフィーアは問いで返した。こちらの類は当たりかな、とザイナスは思案する。不信心の宣告前なら単なる趣味で済ませもした。だが今は、どうにも偶然が多すぎる。御使いに出遭ってからは尚の事、そこには道理があるのだろうか。
「神霊の加護なく奇跡が成るのは、何故なんでしょう」
在り得ない。それを改めて言葉にすれば、ザイナスさえも身体が震えた。神なき身にしか発せない問いだ。教会育ちの道徳観には些か以上に反している。
「貴方は柱の威もなしに明日の天気が占えると?」
ソフィーアは表情もなく皮肉を告げた。
地霊術の認識などその程度だ。それは御使いも同様だ。教会と同じか、それ以上に狭い見識と知識しかない。だが、目の前のミストが、知恵の導き手たる智神の使途が告げたのは、追及の断絶だ。
それは彼女の是とする好奇心に反している。
「それなら、天候予測か、天候祈願でしょうか」
ザイナスは脳裏に地霊術の印章を見繕って応えた。
「明日は――そうだな、晴れると良いですね」
ザイナスが微笑むと、ソフィーアは苛々と応えた。
「なるほど、詳しいのですね。ですが、それはただの名です。意味を違えれば真理は歪む。そんな児戯なる言葉の先に神など居ません。在る筈がない」
確かに。自分にはそれが居ないから、今もこんな目に合っている。
「書き換えられた、という事ですか?」
「時間稼ぎはもう止めなさい、ザイナス」
遮るようにソフィーアは言った。
「確かに、貴方の天使はも近くにまで来ています。聴かれているとも知らず、姦しく囀っていますからね。ですが、手遅れ。私の手の方がずっと近くにある」
ソフィーアはザイナスに一歩寄り、胸元に両の手を掲げた。
「此処は、智神の神殿です」
指先の間に白銀の環が現れ、冠を形造った。ミストの神器だ。皆に聞くところ、支配を顕す特異な類で、権域こそ狭いが権能は事象にまで及ぶという。
「それは残念、明日の天気をお楽しみに」
ザイナスは肩を竦めて見せた。頭頂の際にちりちりと冠の気配を感じるや、不意に手摺から手を放した。ソフィーアの両肘を掴んで下から押し上げる。
ソフィーアは動揺に震えた。ザイナスが窮屈そうに身動ぐさまは、予定の通り椅子に縛られているからだ――そう疑いもしなかった。何より、今まで慎重に避けた身体の接触が、こうも感覚を刺激するとは。血肉の五感が御しきれない。
御使いの臂力は人の比ではない。ただ冠を頭に載せる。それだけの事だ。
それだけの筈が、儘ならない。冠は両手だ。掲げた手を離せば落ちてしまう。
ソフィーアは腕を押し込むも、ザイナスの腕が閊えていた。身体ごと下に擦り下がる。御使いであれ何であれ、人の可動域は限られている。単純な物理だ。
何足る無様か。ソフィーアが苛立ち、手を払おうと肘を広げたその瞬間、ザイナスが腕の間に滑り込んだ。椅子を蹴り、拡げた腕に身を潜らせて立ち上がる。白銀の冠はザイナスの頭を通り越し、背に回った。ザイナスを一方的に抱き竦める格好だ。息の触れ合う間近の位置で、ソフィーアはその目を覗き込んだ。
冠を手放し、腕を解き、突くなり蹴るなりすれば良い。だが、その手順をソフィーアは迷った。刹那にザイナスが唇を奪う。衣擦れの音が遠退いた。延々と続く無呼吸の狭間に、どちらのものともつかない鼓動だけが鳴っていた。
さて、これで駄目なら万事休すだ、ザイナスは冷静に思案した。状況が今までとは異なっている。彼女が想像の通りなら、御使いたちさえ想定外の事態だ。
息苦しいな。困ったな。この中途半端な舌をどうしよう。
不意にソフィーアの膝が崩れて滑り、ザイナスの首に縋りついた。反射的に抱き止めながら、ようやくザイナスも詰めた呼吸の再開が敵った。
「ソフィーア、ミスト、それとも他の誰か?」
胸許に撓垂れ掛る上気した頬を覗き込み、ザイナスは声を掛けた。
「ええ、ええ。大丈夫――あれは、もういません」
ソフィーアは喘ぐような吐息を漏らした。
別人とは少し違う。同じソフィーアだが意思が異なっている。勿論、ただの思い違いかも知れない。ザイナスにはその変化を信じる以外の選択肢がない。
問いも疑いも山ほどあったが、ザイナスは敢えて呑み込んだ。
「勿論、証明は難しいですけれど」
朱色の頬と、やや過呼吸気味の息を取り戻してソフィーアは自ら答えた。
「これも演技かも知れませんよ?」
思わず緩めた腕に対して、彼女は過剰に体重を預ける。
「あら、もう少しこのままで」
突き放す訳にも行かず、ザイナスはぎこちなく凍りついた。
「ああ、こうやって何人も使いを堕としたのですね」
本当に大丈夫かな。
「あれについては、私も詳しくは申せません。使いも知らない――使いだからこそ知り得ない知識の範疇です。それは、貴方も予想されていたのでは?」
確かに敏い。智神の使途は伊達ではない。胸に頬を擦り寄せたまま、ソフィーアは怨めしげな上目遣いでザイナスを見上げた。
「つまり、さっきのはソフィーアでもミストでもない?」
取り敢えず、これも変化の証左と前向きに受け取る事にした。
「流石に使いのことをよくご存じです。ええ、あれは私を抑え込み、ソフィーアの人格を掌握していました。完全にではありませんが」
ザイナスの対話相手も、正確にはミストではない。あくまで受肉したソフィーアの人格だ。その部分に割り込まれ、乗っ取られていた――という事らしい。
「他の御使い、ですか?」
「スクルドとシグルーンの権能連結ならば、あるいは」
答えるものの、ソフィーアは思案する。
「ですが、あれは貴方の妹で――どうして妹なんです? あれは最も御柱に忠実で、スルーズの次に融通の利かない子ですのに。貴方の賞牌を奪いもせずに何故、妹として在るのですか?」
話がソフィーアの関心に逸れた。とはいえ、リズベットについてはザイナスも理由がよくわからない。妹の正体を知ったのも、つい最近の事だ。
「いずれにしても、使いは迂闊に信用なさいませんように。特に、私を」
話を戻すや、ソフィーアは悪戯な目で囁いた。
「あれは私の知識を利用し、記憶を奪いました。本当に私から消えたのか、正直その確証もありません。記憶に罠を仕掛けた可能性も否定できません」
「罠、ですか?」
「魂なきもの。あれの得意な気の長い罠です。私、あるいは私と同じく、他の使いの身を使ってザイナスさまを炙り出そうとしておりました」
なるほど、ソフィーアだけではない。その可能性は、なくもない。
「現状で、あれの正体の推測は?」
溜息まじりに頷いて、ザイナスは訊ねた。
「その理知は私に高得点です、ザイナスさま」
ソフィーアが嫣然と微笑む。
「正直、私にもまだ確信はございません。ただ、ザイナスさまの賞牌に加え、我ら使いも標的の様子。仮に、魔女と呼びましょうか」
こめかみを押さえようとして、ザイナスは手が塞がっているのを思い出した。ようやく御使いも半数を越えたかと思いきや、さらに得体の知れないものが出た。
「これも御柱の?」
「さて、気紛れであれば私にも。御柱の因果は後先が同時に生じます。地上の我らは時に沿って識るだけ。御心を確かめる術はありません」
前にアベルもそう言ったが、ザイナスは愚痴らずにいられない。不信心が悪いのか、それとも故の不信心か。何を悔い改めれば良いのだろうか。
「ザイナスさま」
ソフィーアが囁く。
「記憶に欠落はありますが、欠けた部分は認識できます。智神の使いを甘く見ないでくださいな。穴はいずれ埋められる、それは時間の問題です」
巧く立ち回りさえすれば魔女の手を擦り抜ける事はできる、と彼女は言う。
「必ず、貴方のお役に立ちます」
暗い熱を帯びた視線はザイナスも腰が引けるほどだった。
「無理に僕といなくても、貴方の自由にして良いんですよ?」
「何を今更。私を穢しておいて、ねえ」
ソフィーアのねっとりとした上目遣いに思わず怖気る。
「自由というなら、ザイナスさまこそ」
ソフィーアの細い指先が無自覚に自身の唇を弄ぶ。
「私を自由にされてはいかが?」
オルガと同じ頃合いの女性だが、性質は真逆だ。陰の気が強い。溶けて纏わりつく腕に、ザイナスは思わず逃げ場を探した。
「もう」
ザイナスの表情に気づいて、ソフィーアは恨めしげな目を向ける。
「ならせめて、もういちど口づけをいたただいても?」
熱い吐息の混じる声で、彼女はザイナスにそう囁いた。
降下が思いの外に長く、藻掻いて笠木を掴まえる。落下するより幾何かは緩い。どうにか墜落の難は逃れた。どうやら椅子は固定され、軌条に沿って走っている。脚の間を覗いて見れば、台座を曳くのが伺えた。
よくよく見れば、椅子の肘掛け、前の脚、座板に引き絞られた帯がある。どうやら椅子から落ちぬよう、固定される仕組みだったようだ。予感に慌てて逃げ出したせいで腰の座りが偶さか悪く、放り出されてしまったらしい。
間もなく、椅子は平らに走り始めた。周囲は明かりもない通路だ。下手に逃げ出して迷うより、大人しく連れて行かれた方が安全だろうか。うっかり罠を踏み抜きかねない自分の厄憑きは自覚している。ザイナスは観念して座り直した。
勿論、この先の方が何倍も剣呑ではあるだろう。
椅子は闇の中を延々と走る。やがて、耳許の風が遠くに抜けた。辺りは変わらず真っ暗だが、どうやら広い場所に出たらしい。否、闇も僅かに仄暗い。距離感の掴めない背中の方で、鉄の滑る音がした。通路の閉じる音だろうか。
椅子は速度を落として静止した。
床下に燈が灯った。所々が飾り硝子になっているようだ。夜の氷上に取り残されたように、ザイナスの椅子は却って濃くなる闇の中に取り残されている。
「スクルド、シンモラ、ヘルフ、フリスト――」
背中に囁く声がした。聖像の伝声管を介さない生の声だ。
「ヒルド、ゲイラ、この声はスルーズ?」
硬い香りに目を遣ると、仄白く煽り照らされた人影が通り過ぎた。長い髪を光沢が滑る。まるで艶やかな蛇の腹だ。ザイナスは溜息まじりに思案した。羽根の囁きが途絶えたかと思えば、どうやら伝信も取り上げられているらしい。
「ずいぶんお仲間がいるようですね、ザイナス・コレット」
ソフィーア・アシェルが向き直り、正面からザイナスを見おろした。下から燈を受けた胸下の他は、白い頬と鋭利な目許だけが薄闇に浮かんでいる。髪と薄絹の黒衣は闇に溶け、蒼く艶のある外套が水面のようにさざなんでいた。
「人が天使を飼うなどと、いったい何が起きているのです」
耳慣れない言い回しに戸惑いつつ、そう見えるのかな、とザイナスは驚いた。
「彼女たちは自由なので」
むしろ、自由すぎるので。ザイナスは従属を強要できない。御柱さえも、それが叶わない。庇護と言い換えられるなら、飼われているのはザイナスの方だ。
「ええと――」
ザイナスはふと、思ったままを口にした。
「貴方を何と呼べば?」
感覚的な問いだった。彼女の名前は知っている。人の身も、御使いも。懐疑は明確な形を成していない。ただ、灯のせいか現実感に乏しい。むしろ、香りに存在を感じる。乾いた紙の硬い匂いだけが、彼女の身体に厚みを作っている。
「ソフィーアと。今は同じ人の身ですから、許しましょう」
何にせよ、指定されるのは有難い。会話の迷いが誤魔化せる。
そも御使いを気軽に呼ぶのは憚られた。無信心と言われた身だが、教会育ちはそういうものだ。ここ最近の騒動で、すっかり箍が緩んでいる。
「さても天使の同盟とは。貴方を護る意味は何でしょう。ましてスルーズがいるのなら、供物と祭壇を聖堂に揃えれば、これを刈れるとわかっている筈」
まいったな、と途方に暮れる。どうやら虎の子の最後の秘密も彼女に知られているらしい。そのザイナスの表情に、ソフィーアは目敏く微笑んだ。
「ラングステンに滞在したスルーズの行動は把握しています。あれは賞牌の刈り方に気づいた。天使の任を優先し、追わなかったのは失策です」
ザイナスは小さく肩を竦めた。
「僕にも理由はわかりません。人でいるのを楽しんでいるようでもあり――」
苦しんでいるようでもあり。
「だから、せめて寿命まで生き延びたい僕と利害が一致したのでは? 賞牌を誰かに独占させず、みな少しでも人生を楽しみたいと考えた」
天界はそんなに退屈ですか、とは訊かなかった。慣れない言葉は抵抗がある。
「故に同盟し、おまえを護ると? 天使も堕落したものです」
「貴方も同じ人の身では? ソフィーア」
一拍の沈黙は気のせいか。
「敬意を欠けとまでは言っていませんよ、ザイナス」
ソフィーアは微かに口許を顰めて見せた。
さて、彼女をどう切り崩そうか。ザイナスは幾つかの可能性を併せて思案する。
「ですが、こんな面倒なことをしなくても、もっと簡単に僕を攫えたのでは?」
ザイナスは訊ねた。
「あの白い――霧の掛かったような場所に連れ込むだけで良かったのに」
ソフィーアは微笑んで返した。
「あれは、私も迂闊でした」
ザイナスは彼女の機微を眺めている。
「突然に見つけて気が急いたのです。あのまま攫ってしまっては、要らぬものまで付いて来る。手に入れたいのは貴方の賞牌だけです」
ザイナスは大きく息を吐いた。つまり、身体は余計だと。残ったそれは屍鬼に堕ちる。いずれ意識は残らない。それとも、死後も続くなら、ザイナスの意識は賞牌と屍鬼のどちらに残るのだろう。
思わず思索に気を取られ掛け、ザイナスは我に返って次の足掛かりを探った。
「気掛かりを訊いて貰えますか?」
「命乞いですか?」
「似たようなものです」
素直な言い様に呆れた顔をされたものの、ザイナスは気にせず切り出した。
「地霊術について、聞きそびれていました」
水を被って洗い落したようにソフィーアの表情が掻き消えた。
「意味を書き換えられたとしても、その名は真理で在り得るか、なのですが?」
ザイナスは小部屋で投げた先の問いを繰り返した。
「何故、ただの占事に拘るのです」
ソフィーアは問いで返した。こちらの類は当たりかな、とザイナスは思案する。不信心の宣告前なら単なる趣味で済ませもした。だが今は、どうにも偶然が多すぎる。御使いに出遭ってからは尚の事、そこには道理があるのだろうか。
「神霊の加護なく奇跡が成るのは、何故なんでしょう」
在り得ない。それを改めて言葉にすれば、ザイナスさえも身体が震えた。神なき身にしか発せない問いだ。教会育ちの道徳観には些か以上に反している。
「貴方は柱の威もなしに明日の天気が占えると?」
ソフィーアは表情もなく皮肉を告げた。
地霊術の認識などその程度だ。それは御使いも同様だ。教会と同じか、それ以上に狭い見識と知識しかない。だが、目の前のミストが、知恵の導き手たる智神の使途が告げたのは、追及の断絶だ。
それは彼女の是とする好奇心に反している。
「それなら、天候予測か、天候祈願でしょうか」
ザイナスは脳裏に地霊術の印章を見繕って応えた。
「明日は――そうだな、晴れると良いですね」
ザイナスが微笑むと、ソフィーアは苛々と応えた。
「なるほど、詳しいのですね。ですが、それはただの名です。意味を違えれば真理は歪む。そんな児戯なる言葉の先に神など居ません。在る筈がない」
確かに。自分にはそれが居ないから、今もこんな目に合っている。
「書き換えられた、という事ですか?」
「時間稼ぎはもう止めなさい、ザイナス」
遮るようにソフィーアは言った。
「確かに、貴方の天使はも近くにまで来ています。聴かれているとも知らず、姦しく囀っていますからね。ですが、手遅れ。私の手の方がずっと近くにある」
ソフィーアはザイナスに一歩寄り、胸元に両の手を掲げた。
「此処は、智神の神殿です」
指先の間に白銀の環が現れ、冠を形造った。ミストの神器だ。皆に聞くところ、支配を顕す特異な類で、権域こそ狭いが権能は事象にまで及ぶという。
「それは残念、明日の天気をお楽しみに」
ザイナスは肩を竦めて見せた。頭頂の際にちりちりと冠の気配を感じるや、不意に手摺から手を放した。ソフィーアの両肘を掴んで下から押し上げる。
ソフィーアは動揺に震えた。ザイナスが窮屈そうに身動ぐさまは、予定の通り椅子に縛られているからだ――そう疑いもしなかった。何より、今まで慎重に避けた身体の接触が、こうも感覚を刺激するとは。血肉の五感が御しきれない。
御使いの臂力は人の比ではない。ただ冠を頭に載せる。それだけの事だ。
それだけの筈が、儘ならない。冠は両手だ。掲げた手を離せば落ちてしまう。
ソフィーアは腕を押し込むも、ザイナスの腕が閊えていた。身体ごと下に擦り下がる。御使いであれ何であれ、人の可動域は限られている。単純な物理だ。
何足る無様か。ソフィーアが苛立ち、手を払おうと肘を広げたその瞬間、ザイナスが腕の間に滑り込んだ。椅子を蹴り、拡げた腕に身を潜らせて立ち上がる。白銀の冠はザイナスの頭を通り越し、背に回った。ザイナスを一方的に抱き竦める格好だ。息の触れ合う間近の位置で、ソフィーアはその目を覗き込んだ。
冠を手放し、腕を解き、突くなり蹴るなりすれば良い。だが、その手順をソフィーアは迷った。刹那にザイナスが唇を奪う。衣擦れの音が遠退いた。延々と続く無呼吸の狭間に、どちらのものともつかない鼓動だけが鳴っていた。
さて、これで駄目なら万事休すだ、ザイナスは冷静に思案した。状況が今までとは異なっている。彼女が想像の通りなら、御使いたちさえ想定外の事態だ。
息苦しいな。困ったな。この中途半端な舌をどうしよう。
不意にソフィーアの膝が崩れて滑り、ザイナスの首に縋りついた。反射的に抱き止めながら、ようやくザイナスも詰めた呼吸の再開が敵った。
「ソフィーア、ミスト、それとも他の誰か?」
胸許に撓垂れ掛る上気した頬を覗き込み、ザイナスは声を掛けた。
「ええ、ええ。大丈夫――あれは、もういません」
ソフィーアは喘ぐような吐息を漏らした。
別人とは少し違う。同じソフィーアだが意思が異なっている。勿論、ただの思い違いかも知れない。ザイナスにはその変化を信じる以外の選択肢がない。
問いも疑いも山ほどあったが、ザイナスは敢えて呑み込んだ。
「勿論、証明は難しいですけれど」
朱色の頬と、やや過呼吸気味の息を取り戻してソフィーアは自ら答えた。
「これも演技かも知れませんよ?」
思わず緩めた腕に対して、彼女は過剰に体重を預ける。
「あら、もう少しこのままで」
突き放す訳にも行かず、ザイナスはぎこちなく凍りついた。
「ああ、こうやって何人も使いを堕としたのですね」
本当に大丈夫かな。
「あれについては、私も詳しくは申せません。使いも知らない――使いだからこそ知り得ない知識の範疇です。それは、貴方も予想されていたのでは?」
確かに敏い。智神の使途は伊達ではない。胸に頬を擦り寄せたまま、ソフィーアは怨めしげな上目遣いでザイナスを見上げた。
「つまり、さっきのはソフィーアでもミストでもない?」
取り敢えず、これも変化の証左と前向きに受け取る事にした。
「流石に使いのことをよくご存じです。ええ、あれは私を抑え込み、ソフィーアの人格を掌握していました。完全にではありませんが」
ザイナスの対話相手も、正確にはミストではない。あくまで受肉したソフィーアの人格だ。その部分に割り込まれ、乗っ取られていた――という事らしい。
「他の御使い、ですか?」
「スクルドとシグルーンの権能連結ならば、あるいは」
答えるものの、ソフィーアは思案する。
「ですが、あれは貴方の妹で――どうして妹なんです? あれは最も御柱に忠実で、スルーズの次に融通の利かない子ですのに。貴方の賞牌を奪いもせずに何故、妹として在るのですか?」
話がソフィーアの関心に逸れた。とはいえ、リズベットについてはザイナスも理由がよくわからない。妹の正体を知ったのも、つい最近の事だ。
「いずれにしても、使いは迂闊に信用なさいませんように。特に、私を」
話を戻すや、ソフィーアは悪戯な目で囁いた。
「あれは私の知識を利用し、記憶を奪いました。本当に私から消えたのか、正直その確証もありません。記憶に罠を仕掛けた可能性も否定できません」
「罠、ですか?」
「魂なきもの。あれの得意な気の長い罠です。私、あるいは私と同じく、他の使いの身を使ってザイナスさまを炙り出そうとしておりました」
なるほど、ソフィーアだけではない。その可能性は、なくもない。
「現状で、あれの正体の推測は?」
溜息まじりに頷いて、ザイナスは訊ねた。
「その理知は私に高得点です、ザイナスさま」
ソフィーアが嫣然と微笑む。
「正直、私にもまだ確信はございません。ただ、ザイナスさまの賞牌に加え、我ら使いも標的の様子。仮に、魔女と呼びましょうか」
こめかみを押さえようとして、ザイナスは手が塞がっているのを思い出した。ようやく御使いも半数を越えたかと思いきや、さらに得体の知れないものが出た。
「これも御柱の?」
「さて、気紛れであれば私にも。御柱の因果は後先が同時に生じます。地上の我らは時に沿って識るだけ。御心を確かめる術はありません」
前にアベルもそう言ったが、ザイナスは愚痴らずにいられない。不信心が悪いのか、それとも故の不信心か。何を悔い改めれば良いのだろうか。
「ザイナスさま」
ソフィーアが囁く。
「記憶に欠落はありますが、欠けた部分は認識できます。智神の使いを甘く見ないでくださいな。穴はいずれ埋められる、それは時間の問題です」
巧く立ち回りさえすれば魔女の手を擦り抜ける事はできる、と彼女は言う。
「必ず、貴方のお役に立ちます」
暗い熱を帯びた視線はザイナスも腰が引けるほどだった。
「無理に僕といなくても、貴方の自由にして良いんですよ?」
「何を今更。私を穢しておいて、ねえ」
ソフィーアのねっとりとした上目遣いに思わず怖気る。
「自由というなら、ザイナスさまこそ」
ソフィーアの細い指先が無自覚に自身の唇を弄ぶ。
「私を自由にされてはいかが?」
オルガと同じ頃合いの女性だが、性質は真逆だ。陰の気が強い。溶けて纏わりつく腕に、ザイナスは思わず逃げ場を探した。
「もう」
ザイナスの表情に気づいて、ソフィーアは恨めしげな目を向ける。
「ならせめて、もういちど口づけをいたただいても?」
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冷え切った屋敷で彼女を待っていたのは、無表情な夫と、心に傷を負った三人の連れ子たち。 「僕たちに、母はいりません」 初対面で突きつけられた三つの拒絶。しかし、クラリスは諦めなかった。
「称号はいりません。私が欲しいのは――あなたたち三人の『ママ』になれる日だけです」
得意の生活魔法『灯(ともしび)』で凍えた部屋を温め、『鎮(しずめ)』の歌で夜泣きを癒やし、家政手腕で荒れた食卓を立て直す。 クラリスの献身的な愛情は、頑なだった子供たちの心を解きほぐし、やがて不器用な夫の氷の心さえも熱く溶かしていく。
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