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15章 魔女と聖女
第59話 蒼い焔
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魂の選別場は架空の異層だ。魂を具現化し、物質的に扱う仕組みで成っている。血肉を外れた魂の、その行き先を定める場所だ。御使いが選んで導く他は、全てスヴァールがそれを管理している。
善き魂は来世の血肉に、より善き魂は天界に――全人観測儀へと導かれる。来世は御柱との契約であり、信仰で魂は保証される。
ただし、教会が教えぬ事実もあった。来世は決して絶対ではない。
不浄の魂は砕かれる。
御使いが価値なしと判じたものは、砕かれて微細な片となる。それらは朽ちずに吹き溜まり、魂の選別場を真っ白な霧のように満たしてる。
◇
ザイナスは堪らず膝を折り、腕を抱えて呻きを吐いた。息ができない。声も出せない。僅かな身動ぎも苦痛を呼ぶ。身体が痛みに怯えて動かない。
白銀の光がザイナスを苛んでいる。シグルーンの聖像は後背の輪に銀色を塗る。いわゆる後光が彼女の神器だ。それは矢に、槍に鞭にと形を変える。ザイナスの身体を貫くそれは、純粋な痛みだけをザイナスに与えていた。
死にそうに痛いが、死に至らない。あるいはとうに死んでいるが、なおも苦痛が続いている。意識はこうして逃れても、身体の方は動くのも儘ならなかった。
「案ずるな、じき魂を圧し砕く」
シーグリッドは囁いた。人の魂は存外、脆い。血肉の方がしぶといほどで、屍鬼もそうした成り立ちだ。故に、方法は幾つもあった。最も手早いやり方が、閾値を超えた苦痛の投与だ。それが神器の役割のひとつでもある。
だが、おかしい。不自然だ。自我の殻など最初に割れる。こうも苦しむ筈がない。 賞牌が硬く砕け難いとしても、とうに削り出されている筈だった。
苦痛が思考を塗り潰す。壊れた意識が意味のない記憶を吐いている。その幾つもを横から眺めて、ザイナスは独り途方に暮れた。これはいつまで続くのか。
なるほど、墓所の兵士が狂気に逃げる訳だ。逃れようのない痛みなら、意識をどうにかするしかない。ザイナスのように俯瞰する、もしくは信仰に縋る、など。神の娘はそうした修練の果てと聞いたが――いずれ、ザイナスに信仰は不向きだ。それができれば、こんな目にも合ってはいない。
そうする間にもザイナスは、永遠の苦痛の業火に焼かれて続けている。ただ、こうした責め苦には既視感もあり、またか――の思いも何処かにあった。
シーグリッドは表情を変えず、冷えた目でザイナスを見おろし――内心で困惑に眉根を寄せた。何故にこれほどに時間が掛かるのか。
これならば、いっそ。だが、殺してはならない。それは魔女の思う壺だ。魂を、賞牌を苦痛で削って砕く。苦しみに喘ぐ美しい瞬間をもっと――。
想定外の状況に、思考がむずむずとざわついている。否、違う。これはシーグリッドの奥底にあるものだ。人格形成の一隅に澱んだ衝動が励起されている。
さて、どうしたものだろう。このままでは埒が明かない。身体に傷や欠損はないが、痛みで呼吸も儘ならない。そも、此処での呼吸は必要なのか。本当の身体が無事ではいても、無暗に時間を使ってしまえば餓死や衰弱を避けられない。
この身体が本物でないのなら。この世界が異層であるのなら。
地霊術を気兼ねなく試せはしないか。
ふと、ザイナスはそう思い至った。皆のいるところでは使えない。余波が想定できないからだ。そうは決めたが、此処なら違う。迷惑の対象は限定される。
どうせ、限界を待つなら――。
ザイナスの苦痛はいや増している筈だ。吐息に混じる微かな呻き。蹲り震える長い四肢、細い指先。ほつれた髪が頬に貼りつき、汗の雫が輪郭を辿る。
堪らなく、美しかった。
シーグリッドは苦痛を食んで生きて来た。次々に抜け落ちる同輩たちが――彼女らの苦しみ藻掻く姿が自身の生き延びる糧だった。自分も同様にそれを味わい、やがては与える側になった。美しい痛みを。無用の器官と成り果てた子壷が喜び叫ぶ苦痛を。屈した相手の歪む様はシーグリッドをより強固にした。
苦痛を得る者、そして苦痛を与える者が、唯一彼女に情動を呼び起す。それを自覚した刹那、シグルーンとシーグリッドの境界は崩落した。
移換
これが現でないならば、他者としても扱えるだろうか。得たものを還そう。
シーグリッドの身体が跳ねた。受け身を取る事さえできず、棒切れのようひっくり返った。背が折れるほど反り返り、声にならない悲鳴を上げた。
苦痛だ。死を乞うほどの激痛だった。今まで受けた修練にさえ、これほどの痛みに覚えがない。シグルーンでなければ死んでいた。シグルーンであっても打ちのめされた。身体が砕けるほどの不随意の痙攣を暫し止めようもなかった。
唐突に苦痛が消え失せた。痺れも余韻も何もない。「痛かった」という言葉の記憶だけを残し、体感は急速に薄れて行く。心身に傷がないのが幸いだ。
ザイナスは気怠げに立ち上がり、汗で貼りついた前髪を掻き上げた。ふと、手を止めて片方の目を覆う。閉じた筈の目の先が蒼く照らされた岩肌を見上げている。視線は動くが、ぎこちない。感覚を確かめながら指先を動かしてみる。
ふと、霧を向いた目がシーグリッドと交わった。
横たわったまま、ザイナスを仰いでいる。喘ぐように息を取り込み、今も小刻みに震えている。自身が与えた痛みなら、すぐに途絶えた筈だった。どうやら事情が異なるらしい。痛みの余韻が残っている様子だ。
力を振り絞ったシーグリッドが、苦痛の切れ切れにザイナスに問う。
「私は、美しいか」
震える身体を見おろして、ザイナスは困惑に眉を顰めた。何を言っているのだろう、この御使いは。答えを聞き取る間も持たず、シーグリッドは失神した。
◇
「狭いな」
身体はどうにか動いたが、立ち上がれるほど高さがない。寝返りを打つように転がって、ザイナスは石室を這い進んだ。間近に蒼い灯が揺らいでいる。薪も油もない石敷の上に炎の壁が立っていた。向こうに横たわる影がある。
シーグリッドの神器のせいか、ザイナスの意識は現実と霧の世界に跨っている。石室の身体に意識が向くほど、霧の世界は薄れて行くようだ。
「かなり希薄だ。境を越え掛けているようだな」
失神から醒めたシーグリッドは、ザイナスへの態度が一変していた。ただ、ザイナスとしては、どうにも変心の理由が解らない。ティルダもそうだ。リズベットは原因を明らかにしたが、理屈に至ってはエステルも未だ不明ではある。アベルに唆されたものの、もしや初めから唇を奪う必要などなかったのではないか。
「言っておくが、賞牌を諦めた訳ではない」
距離感を誤り、蒼い炎に炙られた。熱さに思わず身を起こし、石天に頭を打ちそうになる。重なる視界が余計にザイナスの混乱を招いた。
「あれを魔女に渡す訳にはいかない。この場所、あの方法では如何ともし難いと判断しただけだ。おまえを奪うことに躊躇いはない」
シーグリッドは毅然と言った。やれやれだ。横になったまま言われても。
ともあれ、こうして実体の身体と繋がったのは怪我の功名だ。彼女も目覚めているものの、身体が自由に動かせない。ザイナスと異なり十年に及ぶ拘束だ。身体こそ攫われた当日と変わりないが、代謝が極端に落とされているらしく、魔女の術式を解くまでは回復が儘ならないという。
「蒼い炎がその施術だ」
シーグリッドがザイナスに答える。
恐らくスヴァールの術式に加え、古式の聖霊術が編まれている。時を隔離するほどに強力だが、反して術式は脆弱だ。壊すだけなら、それほど難しくはない。
「消すだけでいいの?」
ザイナスが火傷を厭わないなら、の話だが。
シーグリッドは言葉を呑み込んだ。正直、術式を解くのはザイナスの割に合わない。十騎に及ぶ使いがいるなら、救出を待った方が得策だ。この性格といい、あの地霊術といい、ザイナスは人として何処かおかしい。
「思ったより熱いんだけど」
床に何かを探るザイナスの姿は、既に輪郭が溶けていた。現の器を取り戻した以上、魂の選別場には留まれない。じき声も届かなくなる。
表情にこそ出さないものの、シーグリッドは困惑している。修道士でもあるまいに、ザイナスは遺恨を抱いて然るべきだ。なのに、あっけらかんとそれがない。神の娘を凌ぐ割り切り方だ。人そは、そんなものだったか。
賞牌が彼を歪めたとも思えない。砕こうとして思い知ったが、あれはザイナスの魂ではない。恐らく、ザイナスの魂は血肉と分かち難く一体化している。天上の目には魂を欠いた者に映るだろう。もはや人と見分けられない。
賞牌とは、もしやザイナスを見つけ出す為の標ではないのか。
「ザイナス」
聴け、と掛けた声が霧に吸い込まれた。ザイナスの影は既に霧に溶けていた。
善き魂は来世の血肉に、より善き魂は天界に――全人観測儀へと導かれる。来世は御柱との契約であり、信仰で魂は保証される。
ただし、教会が教えぬ事実もあった。来世は決して絶対ではない。
不浄の魂は砕かれる。
御使いが価値なしと判じたものは、砕かれて微細な片となる。それらは朽ちずに吹き溜まり、魂の選別場を真っ白な霧のように満たしてる。
◇
ザイナスは堪らず膝を折り、腕を抱えて呻きを吐いた。息ができない。声も出せない。僅かな身動ぎも苦痛を呼ぶ。身体が痛みに怯えて動かない。
白銀の光がザイナスを苛んでいる。シグルーンの聖像は後背の輪に銀色を塗る。いわゆる後光が彼女の神器だ。それは矢に、槍に鞭にと形を変える。ザイナスの身体を貫くそれは、純粋な痛みだけをザイナスに与えていた。
死にそうに痛いが、死に至らない。あるいはとうに死んでいるが、なおも苦痛が続いている。意識はこうして逃れても、身体の方は動くのも儘ならなかった。
「案ずるな、じき魂を圧し砕く」
シーグリッドは囁いた。人の魂は存外、脆い。血肉の方がしぶといほどで、屍鬼もそうした成り立ちだ。故に、方法は幾つもあった。最も手早いやり方が、閾値を超えた苦痛の投与だ。それが神器の役割のひとつでもある。
だが、おかしい。不自然だ。自我の殻など最初に割れる。こうも苦しむ筈がない。 賞牌が硬く砕け難いとしても、とうに削り出されている筈だった。
苦痛が思考を塗り潰す。壊れた意識が意味のない記憶を吐いている。その幾つもを横から眺めて、ザイナスは独り途方に暮れた。これはいつまで続くのか。
なるほど、墓所の兵士が狂気に逃げる訳だ。逃れようのない痛みなら、意識をどうにかするしかない。ザイナスのように俯瞰する、もしくは信仰に縋る、など。神の娘はそうした修練の果てと聞いたが――いずれ、ザイナスに信仰は不向きだ。それができれば、こんな目にも合ってはいない。
そうする間にもザイナスは、永遠の苦痛の業火に焼かれて続けている。ただ、こうした責め苦には既視感もあり、またか――の思いも何処かにあった。
シーグリッドは表情を変えず、冷えた目でザイナスを見おろし――内心で困惑に眉根を寄せた。何故にこれほどに時間が掛かるのか。
これならば、いっそ。だが、殺してはならない。それは魔女の思う壺だ。魂を、賞牌を苦痛で削って砕く。苦しみに喘ぐ美しい瞬間をもっと――。
想定外の状況に、思考がむずむずとざわついている。否、違う。これはシーグリッドの奥底にあるものだ。人格形成の一隅に澱んだ衝動が励起されている。
さて、どうしたものだろう。このままでは埒が明かない。身体に傷や欠損はないが、痛みで呼吸も儘ならない。そも、此処での呼吸は必要なのか。本当の身体が無事ではいても、無暗に時間を使ってしまえば餓死や衰弱を避けられない。
この身体が本物でないのなら。この世界が異層であるのなら。
地霊術を気兼ねなく試せはしないか。
ふと、ザイナスはそう思い至った。皆のいるところでは使えない。余波が想定できないからだ。そうは決めたが、此処なら違う。迷惑の対象は限定される。
どうせ、限界を待つなら――。
ザイナスの苦痛はいや増している筈だ。吐息に混じる微かな呻き。蹲り震える長い四肢、細い指先。ほつれた髪が頬に貼りつき、汗の雫が輪郭を辿る。
堪らなく、美しかった。
シーグリッドは苦痛を食んで生きて来た。次々に抜け落ちる同輩たちが――彼女らの苦しみ藻掻く姿が自身の生き延びる糧だった。自分も同様にそれを味わい、やがては与える側になった。美しい痛みを。無用の器官と成り果てた子壷が喜び叫ぶ苦痛を。屈した相手の歪む様はシーグリッドをより強固にした。
苦痛を得る者、そして苦痛を与える者が、唯一彼女に情動を呼び起す。それを自覚した刹那、シグルーンとシーグリッドの境界は崩落した。
移換
これが現でないならば、他者としても扱えるだろうか。得たものを還そう。
シーグリッドの身体が跳ねた。受け身を取る事さえできず、棒切れのようひっくり返った。背が折れるほど反り返り、声にならない悲鳴を上げた。
苦痛だ。死を乞うほどの激痛だった。今まで受けた修練にさえ、これほどの痛みに覚えがない。シグルーンでなければ死んでいた。シグルーンであっても打ちのめされた。身体が砕けるほどの不随意の痙攣を暫し止めようもなかった。
唐突に苦痛が消え失せた。痺れも余韻も何もない。「痛かった」という言葉の記憶だけを残し、体感は急速に薄れて行く。心身に傷がないのが幸いだ。
ザイナスは気怠げに立ち上がり、汗で貼りついた前髪を掻き上げた。ふと、手を止めて片方の目を覆う。閉じた筈の目の先が蒼く照らされた岩肌を見上げている。視線は動くが、ぎこちない。感覚を確かめながら指先を動かしてみる。
ふと、霧を向いた目がシーグリッドと交わった。
横たわったまま、ザイナスを仰いでいる。喘ぐように息を取り込み、今も小刻みに震えている。自身が与えた痛みなら、すぐに途絶えた筈だった。どうやら事情が異なるらしい。痛みの余韻が残っている様子だ。
力を振り絞ったシーグリッドが、苦痛の切れ切れにザイナスに問う。
「私は、美しいか」
震える身体を見おろして、ザイナスは困惑に眉を顰めた。何を言っているのだろう、この御使いは。答えを聞き取る間も持たず、シーグリッドは失神した。
◇
「狭いな」
身体はどうにか動いたが、立ち上がれるほど高さがない。寝返りを打つように転がって、ザイナスは石室を這い進んだ。間近に蒼い灯が揺らいでいる。薪も油もない石敷の上に炎の壁が立っていた。向こうに横たわる影がある。
シーグリッドの神器のせいか、ザイナスの意識は現実と霧の世界に跨っている。石室の身体に意識が向くほど、霧の世界は薄れて行くようだ。
「かなり希薄だ。境を越え掛けているようだな」
失神から醒めたシーグリッドは、ザイナスへの態度が一変していた。ただ、ザイナスとしては、どうにも変心の理由が解らない。ティルダもそうだ。リズベットは原因を明らかにしたが、理屈に至ってはエステルも未だ不明ではある。アベルに唆されたものの、もしや初めから唇を奪う必要などなかったのではないか。
「言っておくが、賞牌を諦めた訳ではない」
距離感を誤り、蒼い炎に炙られた。熱さに思わず身を起こし、石天に頭を打ちそうになる。重なる視界が余計にザイナスの混乱を招いた。
「あれを魔女に渡す訳にはいかない。この場所、あの方法では如何ともし難いと判断しただけだ。おまえを奪うことに躊躇いはない」
シーグリッドは毅然と言った。やれやれだ。横になったまま言われても。
ともあれ、こうして実体の身体と繋がったのは怪我の功名だ。彼女も目覚めているものの、身体が自由に動かせない。ザイナスと異なり十年に及ぶ拘束だ。身体こそ攫われた当日と変わりないが、代謝が極端に落とされているらしく、魔女の術式を解くまでは回復が儘ならないという。
「蒼い炎がその施術だ」
シーグリッドがザイナスに答える。
恐らくスヴァールの術式に加え、古式の聖霊術が編まれている。時を隔離するほどに強力だが、反して術式は脆弱だ。壊すだけなら、それほど難しくはない。
「消すだけでいいの?」
ザイナスが火傷を厭わないなら、の話だが。
シーグリッドは言葉を呑み込んだ。正直、術式を解くのはザイナスの割に合わない。十騎に及ぶ使いがいるなら、救出を待った方が得策だ。この性格といい、あの地霊術といい、ザイナスは人として何処かおかしい。
「思ったより熱いんだけど」
床に何かを探るザイナスの姿は、既に輪郭が溶けていた。現の器を取り戻した以上、魂の選別場には留まれない。じき声も届かなくなる。
表情にこそ出さないものの、シーグリッドは困惑している。修道士でもあるまいに、ザイナスは遺恨を抱いて然るべきだ。なのに、あっけらかんとそれがない。神の娘を凌ぐ割り切り方だ。人そは、そんなものだったか。
賞牌が彼を歪めたとも思えない。砕こうとして思い知ったが、あれはザイナスの魂ではない。恐らく、ザイナスの魂は血肉と分かち難く一体化している。天上の目には魂を欠いた者に映るだろう。もはや人と見分けられない。
賞牌とは、もしやザイナスを見つけ出す為の標ではないのか。
「ザイナス」
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