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第一章

第六話

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 雨が降りそうで降らない灰色の梅雨空の日、智晃は呼び出された実家で久しぶりに晴音はるねと顔を合わせていた。智晃の従兄弟である理人りひととの結婚式の招待状を持ってきていた彼女は、智晃が顔を見せるとは思っていなかったのだろう。曖昧な表情でほほ笑んで頭をさげた。
  いつも顎のラインで切りそろえられていた真っ直ぐな髪が、肩からさらりと流れて見慣れない長さの姿にドキッとする。そんな些細なことで、過去の感情に引き戻す彼女がわずかに憎らしく思えた。
  結婚式にはせめて自分の髪を結いあげたいから初めて髪をのばした、それは晴音のささやかな願いだった。
  病気がちで体の弱い彼女はよく入退院を繰り返していて、入院中の洗髪が大変だからとずっと伸ばしたことがなかった。細くてさらさらな綺麗な髪だから伸ばしたら似合うだろうとは思っていたけれど、それが理人のためであることが彼女らしい。
  晴音には特に明確な病名がついているわけではなかった。言うなれば自律神経の問題。だからこそ根本的な治療法がなく、少し無理をして体力が落ちるとすぐに風邪をひいてしまう。風邪を引けば重症化しやすい。体調が不安定だと、立ったり座ったりの日常動作で眩暈を起こし倒れることもある。入院することも多かったため、家にいるより病院にいる時間のほうが長い、そんな女性だった。
  入院中の祖母の見舞いで偶然知り合った晴音に、惹かれるのに時間はかからなかった。
  晴音の体は弱い。出会ってからずっとそばにいた智晃は、苦しむ姿も嘆く姿も見てきた。そんな中で垣間見せる強さを、他人への優しさを尊敬さえしていた。
  その病院で医師をしていた理人も交えて晴音を支えているうちに、三人の関係が変化する。潔癖さを持つ理人は一患者を特別な目で見ることに躊躇していたし、智晃の晴音への気持ちも知っていた。晴音は体が弱いせいで恋愛には消極的で、智晃のアプローチにもなかなか承諾しなかった。
  晴音の頑なさを解したのは智晃であり理人だった。
  弱さゆえの拒絶だと思っていたものが、そのうち晴音自身が気づかなかった理人への想いが故とわかったときも、自分の体を追い込むほど苦しんだのは晴音のほうだった。
  紆余曲折の末、晴音と理人は付き合い始めたが、いざ結婚となると頑なに拒否をしていた。
  理人を愛しているからこそ、体の弱い役に立たない自分など必要ないと。

  支えたかった、守りたかった、そばにいたかった。

  理人のものになってからも、その願いは智晃の中にずっとある。
  最後通告とも言える結婚式の招待状を目にしてもなお、どこかであがいている自分がいた。
  晴音と理人が付き合いだしてからも、智晃の気持ちはずっと彼女に残っていた。やけになって別の女と付き合ったこともあったけれど、虚しさが増すだけで空虚さは埋まらない。そう気づいてからは無駄な行為もやめて、ただ気持ちのあるがままを受け止めてきた。
  些細なきっかけで二人が別れるようなことがあれば、いつでも自分が割り込むつもりで。
  同時にもう壊れることなく晴音が傷つくことなく幸せになってほしいとも願って。
  晴音と理人は結婚する。
  そろそろ自分は晴音を忘れられるだろうか、過去にできるのだろうか。今もなお、その細い手首をつかんで連れ去りたいという欲望が湧き上がってくるのに。理人の手の届かないところに連れ出してしまいたいと思うのに。
  晴音を愛したように、他の誰かを愛せるとはその時の智晃には到底思えなかった。




  晴音に再会したその夜、どうしても飲みたい気分で、友人が経営するワインバー併設のフレンチレストランに向かった。フランスに行くからしばらく休むと聞かされていたことを忘れていた智晃は、もう一軒のバーに足を踏み入れて、そこで彼女と初めて会った。
  遅い時間帯のバーに、いかにも結婚式帰りで訳ありな様子の女性。
  彼女がまとう空気は危うく、何かあったのだろうと思わせるものが明らかに滲んでいた。酔ってはいないけれど、どことなく目が潤んでいて、男を漁りにきましたと無言で語っているようにも見えた。
  透けた袖からのぞく腕を見てもわかる華奢な体つき。艶やかな黒い髪に派手さのない丁寧な化粧。顔の造作は似ていないのに、浮かべる表情が、雰囲気が、晴音を思い起こさせたのは髪の伸びた晴音と会ったばかりだったせいか。
  愛しているのにあきらめなければいけないと、泣かないくせに泣きそうだった晴音の横顔が重なった。
  隙を見せないように頑ななのにどこか無防備で、密やかな色香と危うげな空気感が滲む。
  初対面の女に、晴音を重ねた自分に嫌気がさした。同時に、彼女が意味深な視線を智晃に向けでもすれば、低俗な誘いに乗ってしまうだろうことも想像できた。
  晴音のような雰囲気をまといながら、軽蔑したくなる行為などしてくれるなと勝手な願いを抱いたくせに。
  あの日、一日中降りそうで降らなかった雨。
  斜めに降り注ぐ細い霧雨のささやかな雨音がなければ、智晃は雨に濡れて歩く彼女に、傘を差しだすようなお節介はしなかっただろう。




  初対面の女がどうなろうと構わないはずなのに放っておけなかったのは、智晃自身が痛みを抱えていて、彼女の痛みに同調してしまったせいだ。
  いや、初めて目にした時から……晴音に似ていると感じてしまったせいだ。
  そっと肩に触れたときも、ふらついた体を支えるために腰に腕をまわしたときも、警戒しているくせに無防備に見上げてきた目にも、印象が重なった。
  けれど彼女は「壊れたい」とまでこぼしながら、智晃が意図的に引いた線を越えてきたりはしなかった。正当性を主張するための予防線を張ったものの、彼女が男としての智晃を求めれば一夜の慰めになってもよかった。いやおそらく根底にそれがあったから、ホテルに連れ込んだともいえる。そうしてよくある男女の一晩の過ちを犯していれば、むしろ二度と会いたくないと思ったに違いない。
  けれど彼女は求めてはこなかった。
  誰よりも愛した相手の結婚が決まったと深く傷ついていても。
  初対面の男に「壊れたい」と泣き言を言っても。
  偶然にしては皮肉な一致。
  同じ傷で苦しみ、痛みを抱えた自分たちが出会ったのが必然だと思えるほど、報われない想いに囚われているもの同志、傷を舐めあいたいと思ったのは智晃のほうだった。
  なのに彼女が求めたのは手を繋ぐことだけ。
  ゆるやかに、触れているかどうかわからないほどささやかに。




  傘を差しだしたこと、ホテルに連れこんだのに抱かなかったこと、馴染みのバーテンダーにもし彼女がバーに訪れたら教えてほしいと頼んだこと。
  何もかもが智晃らしくない行動で、晴音と理人の結婚を実感したせいなのか、彼女に晴音を重ねてしまったせいなのか、今でもわからない。
  互いに意図的に作りだした偶然。それらを積み重ねて「会いたい」という気持ちに抗えないまま、智晃は彼女との関係を築いてきた。
  晴音と理人の結婚式に出席した後の週末、バーに向かおうとする彼女の背中を見かけた時に、晴音に似ているというよりも、自分に似ているのかもしれない、そう認識した。
  誰かに愛されたい、愛したい、甘えたい、甘やかしたい、一人でいたくない。
  途端、彼女が「一人は嫌」と泣き出した日の夜を思い出し、彼女もこんな感情に包まれていたのだと同調しそうになった。
  偶然バーで会うだけの、未だに互いに名前も教えあわない彼女に、手に入れられなかった、そして永遠に手の届かない存在になった晴音を重ねて、代わりにしようとしている。
  泣きそうな表情をしないでほしい。そう彼女に勝手な願いを抱く。
  それは晴音がする表情にとてもよく似ていて、顔かたちは別人なのに智晃は重ねてしまう。
  優しくして、甘やかして、慈しんであげたい。
  いや、泣きたいのも、優しくして、甘やかして、慈しんでほしいのも自分。
  本当はずっとその唇をふさいで、味わい尽くしたかった。服の下の肌に触れたかった。痕跡を残さずに抱き合うことに虚しさと同時に相反する優しさを感じる。
  抱きたいと、触れたいと、唇をふさぎたいと思っていた。
  それは晴音の代わりだと。

  体を重ねても名前を聞かなかったのは、一晩だけの関係で終わればいいとどこかで願っていたせいだ。

  晴音の代わりに抱いたかもしれないと、一度抱けば満足してもう会わずにいられるかもしれないという期待さえあった。名前も知らない、約束をしているわけでもない相手と、会わずにいることは簡単なはずだったのに。
  一線を越えても、尚。
  一線を越えたからこそ、尚。

  「会いたい」気持ちは消えるどころか、増していった。

  智晃に何かを求めているくせにそれを見せず、警戒しているくせに無防備で、「会いたい」気持ちがどこから来るのか、考えることを拒み、怖いと怯えながら寄り添ってくる。
  彼女の揺らぎに、引き込まれたのは智晃の方が先だった。
  糸のように細い雨に濡れながら、大粒の涙を頬につたわらせて、すがりつくその目を見た時からきっと、彼女に囚われていたのだと。
  晴音の代わりなどではなく、最初から彼女自身に惹かれていたのだと。 
  彼女は気づいているのだろうか。
  智晃の言葉がどれだけ卑怯か。獲物を狙った男が、逃がさないためにどれだけ手段を選ばないか。
  愛した女は晴の字を持っていたけれど、あの日からずっと雨の中にいる気がした。
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