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第一章

第十七話

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 「この週末はお花見日和になるでしょう」
  かわいらしい気象予報士の女性が春めいたさわやかな笑顔で告げていた。数日前から先綻び始めた桜はあっというまに満開になっている。一斉に花開いてさっと散っていく儚い様が、桜を愛でたくなる理由だろう。
  日によって、昼間は暑いほど気温が上がる。悠花はどのコートを着ればいいか悩むこの時期の朝が苦手だ。昼間のことを考えれば薄いものがいいし、夜のことを考えれば寒そうに思える。
  彼からのメールはこなくなった。
  けれど土曜日の明日はお花見に行く予定になっている。
  お弁当を作るから桜が咲いたら二人でお花見に行こうと、過去に言ったのは悠花だった。自分から言い出した手前「約束だったよね?」と彼に言われれば断ることはできなかった。「会わない」という選択はしないでほしいと言われた後だったから余計に。
  土曜日の待ち合わせ時間と場所は前回と同じ。
  わくわくして思わず買ってしまったお弁当の雑誌とお弁当箱は役立ちそうだけれど、カラフルな色は今の気分とは裏腹で浮いている。結局彼が好きな食べ物は聞くことができなかった。だから適当に悠花の勝手な味付けでお弁当は作る予定だ。
  窓の外はまぶしいほどの青空が広がっていて、明日もお天気だと教えてくれる。
  けれど悠花の心はずっと曇り空で、時折雨さえ降ってくる。彼と一緒にお花見を楽しむ自分がどうしても想像できずに、幻に終わるような予感もしていた。
  悠花は早目に昼食を終えると、閑散とした秘書部を出て副社長室に向かった。留守番役の秘書の女性が不思議そうに見たけれど、トイレにでもいくと思ったのか特に関心は示さなかった。
  名前を教え合って一週間……いつか呼び出されるとは思っていたから覚悟はしていた。もっと早いのではないかと思っていた分、金曜日の今日であることが不思議だった。彼なら悠花の情報を集めることは簡単に思えた。本人がどう思っていようともそういう力を持っている。きっとそれさえ疑問に思わない。
  そして彼が動けば、副社長に知られるだろうこともわかっていた。
  悠花は応答の言葉を待って重厚な扉をあけた。副社長室の空気はいつも重く感じる。暗い色の家具で統一されているせいだろうか。机の後ろにある窓から見える景色だけが、妙に明るく浮いて見えた。
 「そこに座って」
  座ると沈みやすい柔らかな椅子であると知っているから、注意深く浅く腰かけた。
  副社長は彼の叔父であると言っても血のつながりはない。彼は娘婿の立場だ。出世競争には興味がない人物だったらしいが、世田の娘と結婚したことでその道を歩まざるを得なくなった。この地位を彼が望んで得たのか仕方なくなのか悠花は知る由もない。
  ただ穏やかな空気は彼に似ている気がする。その中に鋭利なものを隠し持っているところも彼は似ているのだろうか。いつも優しいからそこまでは見抜けないけれど。
 「君の素性を調べた人間がいる。それが誰か……君は知っているね」
  単刀直入に切り出されて、悠花は小さく返事をした。きちんと聞こえたかわからない。ただ泣きそうになるのをこらえる。
 「申し訳ありません!知らなかったとはいえ……よりによって副社長の甥の方と。恩を仇で返すような真似をして本当に申し訳ありませんでした。会社は辞めますし、彼にも二度と近づきません。お約束します!」
  悠花はソファからおりると絨毯に膝をついた。下げようとした頭を、副社長が肩に手を置いておさえた。
 「待ちなさい、名月くん。私はまだ何も言っていないよ。調べた相手が誰だとか、だから君にどうしてほしいとか一言も言っていない。いいから座って、私の話を聞いてくれるかな」
 「……は、いっ、すみません」
  思わず出てきてしまった涙を手の甲で乱暴に拭うと、悠花はもう一度座りなおした。謝罪したぐらいですむのかどうかもわからない。でも悠花はとにかく彼に言われた通りにしようと思った。目を合わせるのは怖くて、折り曲げられたスーツの膝に視線を固定した。膝の上でゆるく組まれた手は大きくて暖かそうだ。
 「君のことを調べた人間は二人いる。一人目は工藤氏だ」
  思いもしなかった名前が最初に出て、ぴくりと震えた。確かに工藤は悠花のことを調べて、何もわからなかったと言ってきた。どうして穂高と別れたか、なぜ会社まで辞めたのかしきりに知りたがっていた。
 「彼は……君と穂高くんのことをよく知っていたようだね。だから、君にばらまかれた噂話は一切信じなかったようだ。知っていた分……君を信じることができたんだろう。
もう一人は、世田智晃、私の甥だ。私はね、名月くん、智晃が調べざるを得なかった状況になったことが残念だと思っている」
  副社長の言葉の意味がわからなくて悠花は顔をあげた。穏やかさをいつも保っているそれはほんの少し寂しそうだ。
 「驚いたよ。君と智晃がどういうきっかけで出会って、関係を築いていったのか、本当に驚いた。
そして次に不思議だった。関わりはあるのに君たちは互いのことを知らずにいたようだね。まあもういい年齢の大人の男女だ。遊びで関係を持つこともあるだろう。けれど智晃のことも君のことも知っている私には信じられなかった。君たちほど一途に誰かを想ってきた人間を私は知らない。逆に言えば、だから縁を結んだのだとも思った。君が智晃を信じて、自分の過去を素直に話せれば……あいつは君のことを調べたりはしなかったはずだ。智晃を信用できなかったかね……」
  悠花は首を左右に振ると動きを激しくして否定した。
 「信用しなかったわけじゃありません。智晃さんは……信頼できる方です。
 私は確かに智晃さんのことを何も知りませんでしたが……たくさん彼に救ってもらいました。もう二度と穂高以外愛せないと思っていたのに、智晃さんはずっと待ってくれました。名前を知りたくないと言ったのは私の方です。踏み込むことが怖かった。彼に惹かれていくのが怖かった。知らないままなら……いつでも逃げだせると曖昧なまま関係を続けたのは私のせいです。智晃さんはなにも、なにも悪くありません!!」
  そんなことはきっと悠花に言われるまでもなく彼はわかっているだろう。血は繋がっていなくても身内なのだ。自分なんかより智晃のことを信じるはずだ。悠花の言葉を聞いて、副社長はやるせなさそうに顔を傾ける。彼が困った時に見せる癖だと、穂高に教えられたことをこんな時に思い出した。
 「だったら……わざと調べさせたんだね。君に聞けばすぐにわかることを智晃は君には聞かなかった。君は話さなかった。あいつが君のことを知って、噂を知って疑って苦しんだとしても、それでも智晃に調べさせた」
  副社長にそう言葉にされて、悠花は無意識にでもそう思ったことを否定できなかった。
  「知れば嫌う」そういう言い方をすれば、言いたがらない悠花に無理やり聞き出すようなことはしないだろうとも、調べる力があるのなら調べればいいと暗に匂わせたことも。調べられれば汚いものが出てくることは予想がついていた。
  ひとつの物事は相反する立場から見ればまったく正反対の様相を描くことができる。悠花から見れば「そんなつもりはなかった」ことでも、相手から見れば「傷つけられた」と捉えられる。どちらの立場に立って見るかは、それぞれの立ち位置によるしかない。
  むしろ悠花の醜い噂を知って、愛想をつかしてもらえたらいいとどこかで思っていた。「実はこんな女だった」と知って、嫌ってくれればいいと。
 「疑って……苦しむ……。そうですね……そうかもしれません」
  彼は苦しむのか?悠花に嘘をつかれたのかもしれないと騙されていたのかもしれないと知って、傷つくのか?
  自分のことばかり守ろうとして、相手のことを考えられない。
  悠花は自分の汚い部分をこんなとき自覚させられる。
  御曹司だから……会わないほうがいいと考えて。
  嫌ってくれればいいと……彼を苦しめるようなやり方をして。
  自らそう動いているくせに、自分の方が傷ついているとあからさまに見せる。
 「名月くん……君は誤解をしているようだが、私は君たちのことを反対するつもりはない、もちろん会社を辞める必要もない。君がようやく穂高くんとのことにケリをつけて、進み始めた道だからね。だから、こういうやり方で自分を追い詰めるようなことはしてほしくないと思っている。自分のことも智晃のことも傷つけるようなやり方でなく……向き合いたいと思える人間に出会ったのなら、勇気を出して向き合ってほしい。信頼できる相手には、自分から真実を伝えてほしい。智晃がそれに値しないのなら……仕方がないが」
  悠花は両手で顔を覆った。副社長の言葉にどう応えていいかわからない。
  心のどこかで、彼を本当は信頼していないのか?
  わかっているのは、自分が傷つくことが嫌だということだけで、そんな弱くて卑怯な自分が嫌で嫌でたまらなかった。
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