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第一章

第二十七話

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 智晃が出て行ってドアが閉まるのを見届けてから、桧垣は勢いのままソファに腰をおろした。柔らかすぎる素材は体を深く沈めていく。そんな姿を誰かが見れば、らしくないと驚くだろうけれど、この部屋の主をはじめ人目は一切ない。桧垣は髪をかきむしると、はあっとため息をついた。
  面倒事は嫌いだし余計な世話などやかない。仕事だから秘書として面倒くさい副社長の世話はしているけれど、本来こんな役職だって出世に結びつかなければ辞退したいぐらいだった。
  名月悠花のことを頼まれた時だって、上司の命令でなければ関わりたくない案件だった。
  桧垣は思考を仕事に戻そうと、副社長のスケジュールを頭に思い浮かべる。この会議の終了は予定よりもいつも長引く。そのあとは少し休憩をとらせて、処理待ちの書類に機嫌よく目を通してもらって、今週末で終わるSコンサルティングとの契約について再確認させて、今後の日程を調整し、名月悠花の契約更新の件をどんな形で伝えるか……そこまで考えて結局元に戻った思考に自分で呆れた。
  彼女の仕事ぶりは評価されている。正社員の打診をどうして断るのか、事情を知らない秘書部長などは首をかしげるが、副社長も自分も精神的に落ち着けば受け入れるだろうと楽観的に見ていたところがある。副社長は口にはしないけれど、正社員になった暁には事務ではなく秘書としておそらく自分の近くに配属するつもりもあったのだと思う。
 「好きな女の不安ぐらいとりのぞけよ!」
  足元のテーブルに蹴りをいれようとして堪える。
  海岸で、悠花の姿を見かけた副社長の策略であんな場所で車から降ろされ、思惑通りに動きたくなかったのに彼女に声をかけた。
  あれは多分間違った行動だったのだと今は思う。
  遠くから様子を見ておかしなところがなければ、そのまま放置していればよかったのだ。
  見慣れないかわいらしい感じの服装も、いつも結んでいる髪がやわらかく覆う背中も、泣きそうな横顔も見なければ声などかけなかった。
  「会わないほうがいい」と言いながら、「会いたい」気持ちを隠せない。
  世田智晃から離れたほうがいいと思っているくせに、できずにいることに苦しんでいる。
  わざわざ「結婚」まで引き合いにだして、立ち止まっていた背中を押し出してやったのに、週明けの彼女の表情は思いつめたままだった。あげくのはてに次回の契約更新はしないので、必要なら次の人間を探してほしいとまで言ってきたのだ。
  詳しく話を聞こうとしたところで、副社長からすぐに来るよう連絡が入ったため、彼女に理由を問い詰めることもできずにいる。なんでそんな展開になっているのか腹が立ってやったことは、仕事中にも関わらずプライベートな内容を暴露して相手の男にやつあたりしただけだ。
  「不安に思うな」「過去など関係ない」そう断言してやればいいだけのことじゃないのか?
  貶めるような噂など無視して、周囲の言葉など気にせずに、自分だけが本当の彼女の姿を知っていれば。
  そこまで考えて、世田智晃の立場だと簡単ではないのかもしれないと思い直す。神城穂高でさえ……守れなかったのだ。中心の立場にいる人間にとっては、そんな悪意が経営の足をひっぱる可能性がある。
 「大変だな……御曹司も」
  最後まで桧垣の挑発にはのらなかった。わずかに動揺は見て取れたけれど、始終冷静に見えて余計に腹が立った。
  主のいない立派な机が静かにそこに佇んでいる。
  副社長の思惑にのりたくなくてあがいている。あの人に命じられると、拒むのにかなりエネルギーを消耗するのだ。だから、彼らを直接けしかけるほうが手っ取り早い。
  恋だの愛だのに振り回されてぐだぐだしているのを見守れるのは、自分には関係ない間だけだ。わが身にふりかかる火の粉は早目に振り払いたい。そうでなければ、その火の粉にやけどを負わされるのは自分になってしまう。
 「今ならまだ、見守れる……。これ以上オレを振り回すな」
  悠花が救いを求めてきたのはあれが初めてだった。「会いに行くなと命令してほしい」と言われた瞬間、彼女の想いの深さを垣間見た。この会社にきてからずっと一人で耐えてきて、周囲の目に留まらないように息をひそめて生きてきて、いつまでこんな立場に居続けるつもりなのかと苛立つこともあった。そんな彼女が感情を露わにして懇願してきたのだ。
  「恋愛感情」なんていうまやかしを桧垣は信じていない。一時の感情がもたらすものに永遠を強いるから人は混乱する。
  愛し続けることができるか、守り続けることができるか、幸せにすることができるか悩むから。
  そんなものに答えも正解もない。
  だから彼らも早く気が付けばいい。
 「今」の感情の継続が「未来」でしかないことに。




  ***




 「今夜はバーに行こうと思います」
  金曜日の夕方、悠花はそのメールを智晃に送った。何気ないメールのやりとりは減り、たまに思い出したように彼からくるメールに返信をするだけだったから、自分から送るのは本当に久しぶりだった。
  「今夜は仕事なのでバーには行けません。一人だから気をつけて」とすぐにきた返信内容は予想通りだった。彼が今週忙しく働いていたことは悠花も知っている。そして今日でこの会社で仕事をするのが最後のために、役員たちとの会食が組み込まれていることも。
  わかっていたからこそバーに行こうと思ったのだし、来られないことを知っていたから知らせるメールを送ることもできた。「バーに行く」イコール「今夜会いませんか?」というメッセージ性はもう失われているとは思ったけれど、黙ったまま行くのは気が引けた。
  いつものように駅ビルに向かって夕食を済ませる。一人でここに訪れるのも久しぶりすぎて、飲食店が一部リニューアルしていることに気づいた。悠花は慣れた店に通うタイプだったけれど、今夜はあえて新しいお店に足を踏み入れた。
  数種類ある小鉢の中から4種類のおかずを選ぶ日替わりメニューを選ぶ。ごはんとお味噌汁はお代わり自由だと言われたけれど、せずともよいボリュームがあった。野菜サラダと、小松菜と豚肉のお浸し、チキンカツの柚子胡椒風味、明太子の卵焼きを選んだ。こんな献立なら見た目も味わいも様々で楽しいなと思う。
  食事を終えるとお手洗いに向かって、バーに向かう装いにアレンジした。髪はおろしてふんわりとスプレーする。バッグの中にしまっていた薄い水色のストールを首に巻けば、施された大きめの花の刺繍で華やかになった。
  彼の名前を知らなかった頃、バーでしか会わなかった頃、こうして悠花は自らを飾り立てた。日頃の地味な姿とは異なる、どちらかといえば穂高のそばにいたときのような格好は、悠花を浮かれさせていた気がする。
  「会いたい」理由などわからず、ただもし会えたらと期待して、約束を交わすようになってからは、少しでも彼への印象をよくしたくて。「女」としての自分を意識して、新しい恋に踏み出せるかもしれない期待に揺らいで、ただそれだけでよかったのに。
  悠花は桜色の淡い口紅をのせると口角をひきしめた。
  笑っているような口元にしてみても目はなんだか泣きそうだった。




  ***




  地面から伸びるスポットライトの隙間を縫って扉を開ける。彼と待ち合わせしていた頃の時間帯よりも早いせいか客はまばらで、久しぶりに姿を見せた悠花にバーテンダーの彼がわずかに目を見張った。
  それだけでまだ覚えてもらえていたのだとほっとする。座る頻度の多かった端の席に案内されて、「こんばんは」と挨拶を交し合った。
  「お久しぶりです」とか「お元気でしたか?」とか来なかったことを責めるような言葉は一切漏らさない。バーテンダーはただやわらかい笑みを浮かべて、メニューを差し出した。
  カウンターの小さなアレンジは、赤いカーネーションとバラの組み合わせ。薄いピンク色のリボンが巻かれてかわいらしい雰囲気だ。そういえば来月は母の日があるなと、その花を見て思い出す。
  今年も花だけは忘れずに贈ろうと、もう数年顔を見ていない母の顔が浮かぶ。会いに帰ることはなくても、メールのやりとりはしていた。かかってくる電話には出られない。声を聞けば泣いてしまうだろう気がして、そうすれば「たまには顔を見せて」という甘い言葉に応じそうになる。悠花のせいで、実家にまで被害が及んだ当初は、父も家を継いだ兄も怒っていたけれど、妨害がおさまって半年もすれば態度は軟化していた。帰らないのは悠花の意志でそこに勝手な贖罪を含めているだけにすぎない。
  しばらくはまだ戻れそうにないと、懐かしさに泣きそうになる前に思考を切り替えた。
 「季節のカクテルをお願いします」
 「かしこまりました」
  メニューも見ずに頼んで、悠花はそっと店内に視線をはしらせた。テーブル席に二人組の女性、カウンター席には、ぽつりぽつり間をあけて男性客やカップルが座っている。
  彼と出会ってからもうすぐ季節が一巡する。曖昧ながらも積み重ねてきた時間は、過去の傷を癒し悠花を新たな場所に連れ出してくれた。マンションと会社の往復だけの毎日で、誰とも深く関わらずひっそりと生きてきた毎日に、色を与えてくれた。
  プライベートなことを何一つ知らずにいることを逃げ場にして、それでも甘えて支えられて過ごしてきた日々を思い出す。
  このバーに来るのを、最後にするつもりもあったし、何か一歩を踏み出すきっかけにもしたかった。
 「今日は、イチゴです。楽しめるのはあともう少しですね」
  グラスには薄くスライスされたいちごが花弁のように飾られていた。淡いピンク色に甘ったるい香り。悠花はグラスを手にするとそっと口に含んだ。甘さとさわやかさと、どこか懐かしいミルクのような味がかすかにする。それらが泡で甘みを抑えている。
 「おいしいです。本当に、おいしい」
  光りに揺らめくピンク色を見ながら、悠花はゆっくりと思い出していた。
  穂高の結婚が決まったことを知った日の絶望。諦めていたつもりだったのにわずかな望みを抱いていた愚かさに、自分を壊したくなった。この男を誘ったらどうなるだろうか、そんな目で彼を見ながらも、誘いをかけることはできなかった。でもきっとあんな瞬間にでも、どこか彼に惹かれていたのかもしれない。そうでなければ差し出された傘に甘えて縋りついたりしなかった。
  初めて会った夜にもし体を重ねていたら、悠花はきっと後悔して、二度とこの店には近づかなかったに違いない。
  悠花はゆっくりと味わうようにカクテルを飲む。
  テーブルを照らすペンダントライトのガラスも、定位置に置かれたボトルのラベルも、落ち着きのあるBGMも、こんなふうに覚えてはいなかっただろう。
  あの夜ただそばにいてくれたから、手をつないでくれたから、一緒に夜明けを待ってくれたから、悠花はもう一度会えたらという期待と、もう会えなければいいというあきらめとを抱いてここへ来た。心の中の矛盾はもうずっと初めから植えつけられていた。
  花火の音から逃げ込むように飛び込んで得た再会、一週間おきの金曜日だけ訪れることを決めた自分だけのルール。互いの傷を舐めあうように、初めて肌をさらして、次会えなければもう二度とこないと決めて訪れたバー。来なければいいと思いながら、ドアが開くたびに落胆していた勝手な自分。駅でつかまれた手が、互いに抱いていた戸惑いを、叶えられなかった過去の恋を吐露させた。
  細い糸を手繰り寄せて、繋ぎ合って、危うい関係を成立させてきた。
  そこに浅はかな思惑など何一つなかった。
  ただ「会いたい」それを繰り返してきただけ。
  たとえ名前を知っても、それを繰り返していくのだと思っていた。
  悠花は袖に隠れていたブレスレットを引き出して、指先でなぞった。彼が「決してはずさないで」と言った時に、奥底の熱を感じ取った。「何があってもはずさない」と叫んだときに抱いていた感情は、表に出せない気持ちを伝えたかった。
  「好き」と言えなくても「名前」を教え合わなくても、「会いたい」と思う気持ちに一片の嘘も混じっていないと確認しあってきた。
  後悔しているのか、本当に彼との出会いを後悔しているのか。
  深く傷ついた夜に始まった出会いは、この一年、心を救ってくれたのではなかったか。
  もう一度、穂高を愛した以上に、人を愛せることに、安堵さえしたのではなかったか。
  心が変わっていくことに怯えながらも、心が変わるからこそ得られた救いがあることを、時間をかけて感じてきたはずなのに。
  それらをすべて後悔の名のもとに、なかったことにしようとしている。
  穂高を忘れるために、二人の関係を終わらせるためにしてきた努力、それと同じことをすればきっとどんなに苦しくても時間がかかっても、今度も彼を忘れることはできるだろう。
  でも同じ苦しいのであれば、終わらせる努力をするよりも、続ける努力をしていきたい。
  いつまで逃げても過去は変わらない。
  変えられるのは未来だけで、変えるのは自分自身だ。
  だって智晃は……名前を知って彼が告げたのは「好きだ」という言葉だったのだから。
  悠花は花びらになったいちごを口に含んだ。
  あの優しい人を苦しめたくはない。
  離れたほうがいいことも、終わらせた方がいいことも、もう会わないほうがいいこともきっとひとつの正解だ。
 「甘酸っぱい……」
  恋はこんな感じだった。
  それをゆっくり思い出した。
  彼に対して揺れに揺れて、いまも矛盾を抱えて、悩んで考えても、苦しんで泣いても、結局恋をしてしまえば甘酸っぱいものしか残らない。
  やっぱりこのバーは好きだ。
  たとえ、智晃との関係が破たんしても、思い出に塗れたこの場所に胸が痛んでも、通い続けたいと思うほどには。
  この店にしてはめずらしく、やや乱暴にドアが開けられて、目を向ける。
  悠花はそこに姿を現した人物を見て、やっぱりここは好きだと改めて思った。
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