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第二章

第十六話

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「桧垣くん、休みの日に申し訳ないが、名月くんをうちへ連れてきてもらえないか?」

 副社長にそう依頼されて「なぜですか?」と瞬時に浮かんだ言葉を、桧垣は呑みこんだ。代わりに「わかりました」と不満を隠さずに答えた。これぐらいの反抗は許されてしかるべきだ。
 「何時にどこへ迎えに行けばよろしいですか?」と聞けば、彼女にはまだ連絡を取っていないから君から伝えてくれだの、今日が無理なら明日でも構わないだの、相変わらず曖昧でいい加減なことを言う。
 こんなふうにとぼけまくる彼に詳細説明を求めても無意味だと、彼の秘書についてから存分に学んだ。何か企んでいるのだろうと予想はできても正解には行きつかない。
 桧垣はまともに対峙するのも面倒になって素直に了承した。とりあえず悠花の予定を聞いて副社長と日時調整をすればいいかと考え彼女に電話をかけた。
 電話に出た彼女の、あきらかに泣いていたとわかるくぐもった声に、桧垣はタイミングの悪さを呪った。
 そして涙声の原因にもすぐに思い至る。
 昨夜、余計な火種を蒔いたのは他ならぬ桧垣自身だ。自分の言葉に、動揺を押し隠して悠花を庇う智晃の姿を見て、何の邪魔にもならなかったかと思えばそうではなかったらしい。
 むしろ予想の範疇の中でも最悪に近い状況のようだ。
 智晃と悠花の関係は危うすぎる。
 互いを大切にしているくせに、相手を思い遣りすぎて結果的に傷つけあっているように見える。
 そしてそうなる理由も、悠花の過去と智晃の立場を知れば理解はできた。
 桧垣はやや強引に悠花に居場所を聞き出すと、車で迎えに行った。副社長にも連絡が取れて、一時間後ぐらいには連れていけそうだと伝えれば、スーツなんかでは来ないようにとどうでもいい指示をされる。
 休みの日に、昨日付で辞めた社員を副社長の自宅にまで連れて行くなど、業務外のことだと思うのに断れなかったのは、今回の件への己の責任をどうしても感じてしまうせいだった。
 悠花が実際に辞めた今でもこの結末に納得はいかない。女子社員と噂になることなんかよくある話で、桧垣に限ったことではない。でも今回はいろんな事情が重なった。工藤との件も、智晃との関係も、彼女自身の過去もありとあらゆるものが混ざり合って悠花は針のむしろに追い込まれた。
 会社を辞めるのは、彼女の身の安全を図るためだと言われれば従わざるを得ない。
 それでもまだ桧垣は、悠花と一歩距離を置いていられるはずだった。
 泣いたことを誤魔化して、桧垣の車に乗った悠花は当然のごとく私服だった。
 それを見た瞬間、海で見かけた時に面倒だと思いながら声をかけた自分の奥底にあった感情を自覚してしまった。会社でのスーツ姿も制服姿も、悠花は地味に装っている。それをこれまでは気にしなかったのに、海での姿も、今日の服装も会社での彼女とは随分違っていてかわいらしいと思った。
 智晃と会うための装いだとわかっているにも関わらず――
 海辺で……彼女の額にキスを落としたときは、からかいと八つ当たりでしかなかった。
 智晃に無謀な宣言をした時でさえ、あの男に覚悟を決めろと発破をかけたつもりだった。
 けれど今、自分の腕の中に抱きしめた存在がとても愛しく思える。
 車の助手席で、声を殺し肩を震わせて泣きつづける悠花を抱きしめながら、過去に抱きしめてきた誰とも異なる感情が生まれて、桧垣の心は嵐のように荒れ狂っていた
 泣いていれば涙を拭いたいと思う。
 つらいときは抱きしめて慰めたいと思う。
 背中におろされたふわりとした髪に触れて、やわらかな唇をふさいでしまいたい。
 そんな欲望がふつふつと湧いてきてその事実に自分で驚いている。

「落ち着いたか……?」
「すみ、ません」
「謝らなくていい……」

 これ以上触れないほうがいいと頭ではわかっているのに、桧垣は腕をゆるめると悠花の濡れた頬を指でぬぐった。泣いて無防備になっている悠花は、いまだ濡れたままの眼差しで桧垣をぼんやりと見ている。
 キスをしたい―――切実に思うのに、そんなことをすれば彼女が傷つくこともわかる。
 桧垣はきゅっと唇を噛みしめて、悠花にわからないように頭のてっぺんにだけふわりと唇を寄せた。

「服……汚してしまってすみません」
「いい、構わない」

 落ち着きを取り戻しつつある悠花から桧垣はなんとか離れた。運転席の背もたれに背中を預けて細く息を吐く。
 悠花はハンカチを取り出して残りの涙を拭っていた。
 副社長のところになど行かずに、このまま自分の部屋に連れて帰ろうかと馬鹿な考えまで浮かぶ。
 曖昧に濁し続けた気持ちを受け入れざるを得なくなると、無意識に抑えてきた欲望が溢れだしそうになる。こんな感情は久しぶりすぎて桧垣はその熱を持て余していた。
 こんな状況で副社長に会えばすぐに見抜かれそうだ。
 いや、彼はとっくに桧垣の気持ちが傾いているのに気づいている。だから、こんなチャンスをくれる。
 休みの日にわざわざ彼女を呼び出して、迎えにまで行かせて、弱っている彼女に付け込むチャンスを。

「副社長の、ところへは……」
「ああ、行く。行かなきゃならないが、もう少しだけ時間があるから、互いに落ち着いた方がいい」

 他の男を好きだと、その相手と両思いだとも知っていて、恋に落ちるなんて馬鹿げている。
 与えられた餌にすぐに食いつくほど飢えていなかったはずなのに。
 副社長の思惑なんかにのせられたくなかったのに。
 自分の恋なんか叶わなければいい、そうすれば悠花は幸せになれる。
 桧垣は無理やりその言葉を己に言い聞かせた。言い聞かせる必要性があることには目をそらして。



 ***



 副社長と夫人に出迎えられて、悠花は「ご無沙汰しております」とぎこちない笑みを浮かべて頭をさげた。

「急に呼び出してすまないね」
「悠花ちゃん、いらっしゃい。桧垣さんも、お休みなのに主人のわがままに付き合ってくれてありがとう」

 桧垣は来慣れているのか、臆せず挨拶を交わして、案内されるまま家に上がる。
 子どものように泣いたせいか、眠気をともなう気だるさが全身を包んでいる。桧垣に無理やり泣かされた気もするけれど、落ち着くまで待ってくれたのも彼だ。車の中で再びメークなおしをしている間も彼は視線をそらしてくれていた。
 抱きしめられたのではなく慰めてくれたのだと思うことで、彼との距離感を元に戻した。桧垣は悠花よりさらに上手で、あっという間にさっきのやりとりをなかったことにした気配がある。
 悠花は慌てて、桧垣を待っている間にスーパーで購入した手土産を夫人に渡した。
 プリンよりもゼリーの方が好きだったと思い出し、フルーツコーナーでおしゃれな瓶に詰められたフルーツがたくさん入ったゼリーを選んだ。
 夫人は喜んでくれて、一緒に食べましょうねと言ってキッチンへと姿を消す。
 副社長夫妻には子どもがいない。
 だから血縁でもない穂高や悠花のこともかわいがってくれた。おそらく秘書となった桧垣も息子のようにかわいがっているに違いない。そんな雰囲気が、彼らの会話でうかがえる。
 応接室に通されて向かい合う形でソファに腰をおろした。
 向かいに副社長、悠花の隣には桧垣が座る。悠花を迎えに来た彼は、連れてきたらそのまますぐに帰るのかと思っていたがそうではないらしい。
 なぜ、副社長が突然呼び出したのか、桧垣を迎えに寄越したのか疑問は抱くものの、それを問うより先に悠花にはすべきことがあった。

「あの、このたびは急に辞めることになってしまい、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 あらためて悠花は深く頭を下げた。
 行先のなかった悠花を拾ってくれたのは副社長だ。感情が危うかった悠花を一時期この家に置いてくれたのも。
 有り余るほどの恩があるにも関わらず、結局恩返しどころか最後まで迷惑をかける羽目になった。
 
「悠花ちゃん……君が謝る必要はない。私の力が及ばず、こんなふうに辞める形になって、こちらこそ申し訳なかった」
「いえ!! そんな!」

 昔と同じように下の名前を呼ばれて胸が熱くなる。

「謝罪合戦はそこまでにしてちょうだい。久しぶりに会えて嬉しいのよ。まあ、元からだったけど、しばらく見ない間に悠花ちゃん綺麗になったわね」

 夫人自らお茶の用意をしてくれるのを見て、悠花は慌てて手伝いを申し出た。
 紅茶と、悠花が持ってきたゼリーをテーブルに置くと、あらためて四人で向き合う。

「悠花ちゃん……今日呼んだのは他でもない。君は会社を辞めたし、距離を置く必要もなくなった。どうかな、次の仕事が決まるまでまたうちで一緒に暮らさないか?」

 単刀直入な副社長の申し出に悠花は言葉を失う。

「申し訳ないが、いまだ君の写真を撮ってばらまいたり、過去を探って噂したりした輩が特定できていない。君の住んでいるマンションのセキュリティは万全だが、就職活動や生活するうえでの外出時には対応できない。うちにいれば送迎もできるし日中は妻もいる。犯人がわかって君の身の安全が保障されるまではうちにいてほしいんだ」
「そこまで甘えるわけにはいきません!!」

 悠花はそれ以上の言葉を遮るようにして言い放った。
 むしろ仕事を失った今、あのマンションに居続けることも難しいと悠花は思っていた。家賃は相場より低く抑えられているが、それでも仕事が見つかるまでどれぐらいかかるかわからない。運よく見つかっても家賃を支払えるほど給料をもらえるかも。何よりこれ以上彼らに甘えるわけにはいかない。

「大丈夫です……私、仕事も早急に見つけますし、給料に見合った場所への引っ越しも考えています。もうこれ以上副社長に甘えるわけにはいきません」
「私は、彼女の荷物をこちらへ運ぶために呼ばれたと考えてよろしいですか?」
「さすが桧垣くん、勘がいいね」
「桧垣さん! 待ってください」

 勝手に話を進めようとする桧垣に悠花は叫ぶ。見れば桧垣はにやりと笑みを浮かべて悠花を見ていた。

「ここが嫌なら……オレの部屋に連れて行く」
「あら」
「ほう」

 開いた口が塞がらないとはこのことだと悠花は思う。桧垣は何食わぬ顔をして、夫人のいれた紅茶を口にして「おいしいです」と普段会社では見せないにこやかな表情を浮かべていた。

「勝手なこと……言わないでください」
「勝手じゃない。君の身が危ないのは確かだ」
「会社を辞めたんです。噂をばらまいた人も、これ以上私につきまとう必要はないはずです」
「男漁りして、それがバレて会社を辞めた女だ。それも今回が初めてじゃない。悪い噂にまみれた女なら何をしたって構わない、そんなふうに暴走する男がいないとは限らない。君は過去にもそれで危険な目にあったんだろう? だったら周囲に守ってもらうべきだ、甘えるべきだ。放置してオレたちに後味悪い思いをさせたいのなら別だが」

 桧垣の言葉に悠花はなんの反論もできなかった。穂高との時、確かに危険な目にあった。だからしばらくは副社長の元にお世話になったのだ。
 桧垣の言う通り、危険がないとは言えない。だから今週は会社の送迎を副社長付の運転手がしてくれた。今日だってタクシーを使って人通りの多い場所を選んだ。

「ここにお世話になるか、オレの部屋に来るか、君が選べるのはこの二つだけだ。どうする?」
「桧垣さんにお世話になるわけにはいきません」
「だったら決まりだな。とりあえず数日必要な荷物をこちらに運べばいいですか? いずれは引っ越しもお考えですか?」
「いや、引っ越しまではしなくていいだろう。決着がついて落ち着くまでのしばらくの間だ。マンションの家賃は気にしなくていい。桧垣くんには申し訳ないが手伝いを頼まれてくれるか?」
「はい」

 嫌だ、と悠花は思う。これ以上優しい彼らに甘えたくはない。何より彼らは穂高を、そして智晃を思い出させる。目の前の夫人は智晃の叔母にあたるのだ。副社長が知っているのだから、彼女も当然知っているだろう。
 大切な甥にこんな女がまとわりついていると知って、どう思われているかもわからないのに。

「嫌です……これ以上甘えるのも、ご迷惑をおかけするのも嫌です」
「悠花ちゃん」
「私……ここを離れようと思っています。まったく知らない土地に行って、就職先を探すつもりです。誰も、誰も私を知らないところに行きます。もう私のせいで、大切な人を苦しめたり傷つけたりしたくない。お願いします……これ以上私に逃げ場を与えないでください」

 悠花は立ち上がると深く頭を下げた。
 とうとう口にした。
 契約を終えて就職先を探そうと思ったとき、ここを離れたほうがいいのかもしれないと思っていた。ゴールデンウィークに結婚した友人のところに行ったのも、現地での就職状況を知るためだった。友人は悠花の考えに賛同してくれた。
 誰も悠花の過去など気にしない場所に、穂高とも一切かかわりあいのない場所に行く。
 智晃とも……別れることはなくとも、距離が置ける場所に。
 遠距離でも関係が続くかどうかは、どのカップルも通る試練だ。
 遠距離であれば関係が続いても彼の迷惑にはならないかもしれない。
 智晃が遠距離恋愛に耐えられないと言えば別れればいい。距離に負ける関係ならそれまでだ。

「副社長……彼女をちょっとお借りします。隣室を使わせていただいていいですか?」
「無茶はするなよ」

 桧垣は、怒りを含んだ声で言ったかと思えば、悠花の腕をつかんでひっぱった。応接室の隅にある扉に悠花を連れて行く。

「桧垣さん! 離して」

 応接室の隣の部屋は壁一面が書棚で埋め尽くされていた。四畳半ほどのスペースに、天井までの高さの書棚がぐるりと取り囲んでいる。明り取りの窓にはレースのカーテンがかけられ、やわらかな明かりが薄暗い部屋をほんのり浮かび上がらせていた。
 扉をやや乱暴に閉めると、悠花の体をわずかな壁に押し付ける。
 副社長の自宅で何をするつもりかと、悠花も負けじと桧垣を睨み上げた。

「逃げるつもりか! あいつから」
「違う!」
「どうせ、あいつには言っていないんだろう! 大事なことを知らされない男がどれだけ惨めな思いをするか、君はわかっていなさすぎる!!」
「今日伝えるつもりだった! でも言えなかった。再就職は厳しいんです! 桧垣さんだってご存じでしょう!」
「契約が円満に終えていても、そのつもりだったんじゃないのか!?」

 桧垣の言葉に口を噤む。悠花はうまい言い訳も思い浮かばずに唇を噛む。
 選択肢としてはずっと心の中にあった。
 もし円満に契約を終えていれば、小さな会社でも雇ってもらえたかもしれない。智晃の会社にだって、その先の彼との未来だって、あるかもしれないと本当は思い描いた。
 それは本当に、幻みたいに儚すぎて……現実的じゃなかったけれど。

「音が……聞こえるんです」
「何のだよ」
「すべてが、壊れる音がずっと耳に聞こえていた。幸せになんかなれない。幸せになんかできない。自分の存在がどれだけ他人を苦しめるか、嫌ってほど思い知らされるだけで、未来なんか見えなかった。これ以上巻き込みたくない。副社長も、智晃さんも、あなたも」

 ずっと、重苦しく響く音が聞こえていた。
 低くかすかなその音は次第に大きくなっていき、今は悠花を責めるように頭の中で鳴り響いている。
 悠花の背中に腕がまわされた。きつく強く桧垣に抱きしめられる。悠花を泣かせるための抱擁ではなく、どこか感情を揺さぶるその強さに悠花は目を閉じた。

「オレが守る」

 破壊の音の隙間を縫って、真剣な声音が耳に届いた。
 体の中心にずしんと重みを与える声と言葉は、それが彼の本心だと告げてくる。

「桧垣さんは同情しているだけです。もしくは罪悪感を抱いているだけ。私なんかにふりまわされないで!」
「違う!」
「恋とか愛とか信じていないんでしょう! 錯覚です。私があまりにかわいそうな状況にいるから気になるだけ。責任の一端を感じているから見離せないだけ! 同情しているだけ! 私が愛しているのは智晃さんです!!」
「……それでも構わない」
「私のことは放っておいて!」
「無理だ!」

 うぬぼれるなと罵ればいいのに。おまえなんかなんとも思っていないと言えばいいのに。
 彼は悠花が誰を好きか知っているくせに。

「結婚しよう」
「言わないで……」
「海外転勤の希望を出す。逃げたいならオレが連れて行く。一人で遠くへなんか行かせない。これ以上一人で泣かせたくない」

 悠花はきつく抱きしめる桧垣の腕の中で必死に首を横に振る。嵐のような桧垣の情熱が怖い。こんなに強い気持ちをぶつけられたら逃げ出せなくなってしまう。そしてそんなふうに想ってくれる相手を再び傷つけるだろう未来は容易に想像できる。
 いや、もうきっと桧垣のこともとっくに苦しめている。
 誰も愛さないでほしい。
 悠花は初めてそう思う。
 そうだ、穂高にも桧垣にも……智晃にも、自分など愛さないでほしかった。

「悠花……好きだ」
「なが、されないでっ」
「好きだ」
「聞きたくないっ」
「オレに君を守らせてくれ」

 何も聞きたくない。何も見たくない。何も感じたくない。
 強くそう願った悠花はふっと意識が遠のいた。がくっと崩れ落ちた体を支える強い腕が悠花を包み込んだ。
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