恋火

流月るる

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第六話

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 夏休みに突入した。
 高校によっては補習授業が行われたり、夏期講習に行ったりしている。だからか結局は午後から制服を着たまま集まっている。
 同時期に重なるイベントが多く、そのために雇い入れたバイトスタッフも増え始めて、ビル内は雑多な気配に包まれていた。

 いくつかのテーブルを組み合わせて作ったスペースでは、バイトスタッフの女の子たちが軽く雑談を交わしながらも作業を進めている。司が考慮したのか集まったバイトスタッフは経験者が多く、こちらがいちいち指示せずともスムーズに動いてくれる。雑務を引き受けている真夏が、今はバイトスタッフのサポートにもまわっていた。

 陽司の周辺にはパソコン関係に詳しい学生たちが、互いの知識を披露してはネット関係のプラットフォームをつくりあげていた。プログラミングが得意な高校生はまだそう多くない。陽司はなんとか自分の仕事を割り振れる人材を確保したくて、めぼしい人を社員に勧誘すべく誘いをかけている。

 勇は司とともに、イベント実施に関わる他企業との調整に行っていた。

 こちらの企画案は全面的に了承を得られ、美綾が思いつきで口にした『彼女が選ぶ彼女の口紅』のコンセプトの追加も受け入れられた。

 美綾は二日間のイベント内容についてバイトスタッフとともに練り直していた。何度も『青桜』の担当者とやりとりをして、ようやく形になってきたところだ。今度はその詳細を細かく詰めなければならない。

「じゃあ、それぞれ各自で具体的な流れを考えて、それに必要な人員や備品なども一緒にあげてください。途中経過も含めて詳細に記載して、共有できるようにデータ更新を忘れないでください。明後日再度打ち合わせて当日までの全体スケジュールを仕上げます」

 バイトスタッフに伝えると美綾は解散させた。
 彼らにも考えてもらうけれど、美綾は自分でもすべての事項を細かく組み上げていく。全体の流れに沿って、複数のタスクを加えて何パターンも考える。当日の流れを細かく想像しながら、なにが必要でどういう方法が適切か脳内でシミュレーションを重ねた。
 
 できるだけ変更は必要最小限にとどめておきたい。変更があるのは当然だと美綾は思っている。どんなに詳細に詰めても予期しないことが起こったりする。その場合に迅速に対応することも必要だが、できるだけ突発事項がおこらないように様々な想定をすることも必要だった。
 中等部時代に由功に手伝わされたことが役立っている。彼は瞬時に全体像を把握して、どういう方法で実践すべきか道筋を構築するのがうまかった。美綾が細かすぎるくらい考えるのはその影響が大きい。

「九条さん、修正ぐらいなら私もお手伝いできますけど」

 バイトスタッフの女の子の申し出に、美綾は首を緩く振った。

「ありがとう。でも自分で確認しながらやりたいから……報告書だけまとめをお願いしてもいい?」

 はい、と素直に返事が返ってくる。
 『青桜』側のイベント当日の担当者は、こちらから送られる詳細な報告書を見て、ここまで細かく想定しなくても構わないと言ってきたことがある。けれど美綾はあえて、毎度資料を送るようにしていた。

 社会は自分たち子どもが想定するよりずっといいかげんな部分が多い。
 責任ある立場で仕事をし、給料をもらっているのに、それでいいのかと呆れたことが幾度かあった経験から、美綾は自分たちの粗ができるだけ生じないようにしていた。
 『言った、言わない』で余計なトラブルを抱えたくはない。

 美綾は注意点だけ伝えて、報告書の作成を彼女に任せた。
 司が選んだバイトスタッフは優秀だと思う。彼は人を見抜いて適材適所に配置するのが由功なみにうまいようだ。今はバイトでも今回の仕事で評価されれば社員への推薦も可能だ。陽司ではないけれど、有能な人材を発掘するのも美綾に与えられた仕事のひとつだった。

 美綾はかすかに息をもらして、そしてすっかり氷が溶けて水っぽくなったコーヒーを口にした。味は薄いし、温い。けれどほんの少し気分を変えるには役に立つ。
 
 壁のホワイトボードに視線を向けて、貴影の今日の動きを再確認する。
 オンラインでのやりとりが可能となっても、やはり直接会って話したほうがいいことはたくさんある。
 小さなイメージの食い違いややり取りの齟齬が大きな損失を招くことがあるからだ。
 だから無駄に思えても打ち合わせに向かう。

 彼は以前口にした通り、企画が固まって以降、美綾を『青桜』には連れて行かなくなった。美綾はせめて裏方の作業ぐらいはできるだけ進めておこうと、気を取り直してパソコンに向かった。


 ***


 貴影はネクタイを緩めながら、足早にロビーを横切っていた。
 『青桜』の本社ビルは通路で外資系ホテルと連結しているため、貴影はホテルのロビーを通り道にすることが多い。会社内だと目立ちすぎる制服姿も、ホテルだと視線が緩和される。夏休みに入ったからか、家族連れが増えているようで数週間前と随分雰囲気が異なっていた。

 『青桜』との打ち合わせは、電話やオンラインでも可能だ。実際向こうの担当者は、わざわざ出向いてこなくても……というニュアンスのことをそれとなく伝えてくるけれど、貴影はあえて訪問の形をとっている。相手の反応を直接肌で感じたほうが会社の空気がよくわかる――いや、自分たちへの感情や思惑が伝わってくる。
 好奇なのか、期待なのか、蔑みなのか、見下しなのか――会社を訪れる高校生という自分を通して、貴影は感覚的に『SSC』に対する評価を分析していた。

 規模の大きな案件に当初は身構えていたものの、プロジェクトは『SSC』主導で進んでいる。
 最初に予想したとおり、基本こちらの提案に対する反対もなければ、無茶な欲求もない。表向きは『高校生という君たちの強みを活かして自由に取り組んでくれ』みたいな大企業の余裕を感じさせるが、根底に『青桜』側の裏事情が見え隠れしていた。
 
 そしてその感覚が強ち間違っていないことを、貴影は今日の打ち合わせで確信した。

「貴影」
「由功」

 スーツ姿の由功を見て、貴影は彼がなぜここにいるかをすぐに悟った。『SSC』は基本的に制服で活動するが、それでも状況によってはスーツを着用したほうがいい場合がある。

「打ち合わせ終わったんだろう? 少しだけコーヒーでも付き合えよ」

 できればすぐに戻って仕事をしたかった。時間があまりないことを由功も知っているはずだ。
 けれどこの男が、この状況で誘ってくるのだからそれ相応の理由があるに違いない。長年の付き合いでそれぐらいはわかる。貴影も由功に話したいことがあったため頷いた。

 ホテルのラウンジは冷房が効いていた。だがさっきまでクライアントの上司連中と対峙して、熱のこもった気分が抜けない自分にはちょうどいい。由功はアイスコーヒーをふたつ店員に頼んだ。

「進行状況は?」
「今のところは順調。特に問題はない」
「オレもさっき『青桜』の社長と話をしたけど、特にクレームは言われなかった」

 実質的に動いてはいなくても由功は『SSC』の責任者としてやらければならないことがたくさんある。
 この時期は特にイベントが重なっているので、由功の挨拶回りも大変なはずだ。貴影もイベントのチーフでないときは、由功の代理で企業への挨拶回りをしたことがあった。
 だからその大変さと面倒くささはよくわかる。それに今回は秘書代わりの美綾がいない。

「九条がいないと、大変じゃないか?」
「まあね、美綾の重要さはわかっていたけど、改めて思い知らされたかな。美綾動けているだろう?」

 
 動けているか? という質問ではなく、確信をもった台詞だった。由功がどれだけ美綾を重用しているかわかるというものだ。

「そうだな。九条は思った以上によく動いているよ。大きなイベントは初めてだろうに周囲ともうまくやっているし、仕事の段取りもいい。いろいろ信頼して任せられる。それに――――」
 
 アイスコーヒーが運ばれてきて貴影は一旦そこで言葉を切った。あれだけ打ち合わせの最中にも水分をとっていたのにと思いながら、喉の渇きを覚えて口に含んだ。

「それにクライアントに気に入られている。イベント担当責任者の部長が、今度九条をパーティーに呼びたいと申し出てきた」
「ふうん、返事はしたのか?」
「オレが答えられるはずがない。保留してきた」

 担当者との打ち合わせの最中に、様子を見に来た部長が開口一番に言ったのは『今日も九条さんは来ていないのかな?』だった。終わり間際だったので担当者は気を利かせて先に部屋を出て、そこで直接申し出をされたのだ。
 パーティーへの誘いはよくあることだ。高校生企業というもの珍しさと興味本位で近頃はさらに増えている。
 
 由功も、相手の思惑は承知の上で『SSC』の宣伝を兼ね、人脈を築いたり、クライアントを確保するために積極的に出席していた。だから仕事にプラスになるのであれば貴影でも判断ができる。
 けれど、どのような趣旨でどれぐらいの規模なのか話を聞いているうちに、プライベートの意味合いが濃いことに気づいた。

「パーティーで自分の息子に会わせたい……そんなニュアンスのことを匂わされた」

 向こうも地位のある大人だ。はっきりと口にはしない。けれど高校生相手だからか、息子や娘と同年代かそれより下なためか、年配者ほど不意に本音をもらしやすい。

「やっぱりか……」
「知っていたのか?」
「美綾が気に入られているのは気づいていたよ。今回の依頼だって……そんな意図があるかもしれないとは思っていた」
「知っていて彼女をチームに加えたのか!?」
 
 つい声が大きくなって貴影は途中で抑えた。
 最初に彼女を『青桜』に連れてきた時の不躾な視線を覚えている。制服姿というだけで注目を浴びるのは必然。でも回数を重ねるごとに不快なものが紛れ込むようになった。

 美綾の雰囲気は独特だ。整った顔立ちや華奢なスタイル以上に、同年代の女の子よりも落ち着いて大人びた雰囲気が目を惹く。おとなしそうで儚げにも見えるのに、しっかりした芯の強さも持ち合わせている。
 年配者からは理想的な娘を体現しているように見えるだろう。
 けれど、若い男からは――そういう・・・・対象として見られている。
 だから企画が固まって以降、貴影は美綾をここにはできるだけ連れてこないようにしてきた。
 由功だってそんなことは重々承知だろうに、この依頼に意図があることに気づいていながら、美綾をチームにいれたのか。

 この男の真意はいつも見えないけれど、美綾のことは特別に大事にしていたと思っていた。

「パーティーには美綾も連れまわしたからな……その弊害か、他の企業からも挨拶に来るときは美綾も一緒にとは、これまでも言われてきた。今年になってそういう意図を含んだパーティーの誘いも増えている。個人的なパーティーはオレのほうで全部断っているから彼女は何も知らないけど。『青桜』だけじゃないってことだ」

 由功は椅子に背中を預けて深く腰をうずめた。貴影が思う以上に、美綾個人に対する注目度は高いのだろう。
 チームに加えて表舞台に立たせれば、クライアントが『青桜』でなくとも申し出はされたということか。

「まあ、でも今回はサブチーフとして動いているからな……美綾に黙って断ることもできないか」
「九条に言うのか?」
「言わないわけにはいかない。行くかどうかは美綾が決めればいい。断ってもオレがフォローする」

 貴影はなんとなく煮え切らないものを感じる。邪なものを含んでいるとわかっているのに、判断を彼女に委ねるのか。

「九条をチームに加えるのは今後はやめたほうがいい。おまえがそばにいないせいか、見ていてハラハラする」

 『SSC』内では陽司たちが注意して見守っている。美綾自身も気をつけて動いている。

「無防備で隙だらけで危ういって?」
「ああ」

 今回の申し出は美綾が断っても影響はないだろう。でも今後は? 仕事に支障が出る状況にでもなったら彼女は簡単に自分を犠牲にしそうだ。

「オレがそばにいないせいじゃない。元々そういう子だ。だからオレがずっと手元においていた」
「だったら!」
「ずっと、そばにおくわけにもいかない。かといって安易に手放すわけにもいかない。だから――――」

 由功の眼差しが射るように貴影を貫く。

「だから、おまえに託した」

 いつもと違う由功の声音と、醸し出される空気に貴影は緊張を覚える。
 思わせぶりな口調、なにもかもを見透かしているような力強い眼差し。
 特別扱いして大事にしてきた女の子を――託した――誰に?
 貴影は否定するように首を横に振った。

「オレに託されても困る。オレは九条のそばにはいられない。彼女を守ることはできない」
「恋人がいるから?」
「そうだっ!」

 由功は皮肉気に口元を歪めた。

「だからだろう。恋人がいるおまえなら美綾には手を出さない。けれどチームのメンバーになれば仲間としては守ろうとする。オレは彼女の世界を少しだけ広げたいんだ……オレのそばにいるだけじゃいつまでたっても……美綾は幸せになれない」

 由功のそばにいるのに幸せになれない? そんな台詞、本人の口からこうして聞いても信じられない。
 美綾が口を滑らせた通り、二人は付き合ってはいないのだろう。
 けれど傍からみても由功がどれだけ美綾を大事にしているか、美綾が由功を信頼しているかは伝わってくる。二人の間にしかわからない事情があるとしても、友人としての関係を超えるのも時間の問題でしかないと思っていた。

「パーティーに参加するかどうか、息子の紹介を受けるかどうかは美綾が決めればいい。あの部長は癖があるけど、息子はいい男だよ。美綾さえ気に入れば託す相手として信頼できる」

 由功の言葉の意味がうまく入ってこない。
 これまでも守ってきたのなら、これからも守っていけばいい。
 それだけ大事にしていながらどうして美綾を他の男に託そうとするのか。

「でもオレとしては美綾には、好きになった男と幸せになってほしいけど」

 貴影は大きく目を見開いた。
 美綾は限りなく由功に一番近い女の子だ。あれだけ由功のそばにいて、大事にされているのに由功以外の男を好きだなんて信じられなかった。

「好きな男がいるのか?」
「いる」
「おまえじゃなくて?」
「残念ながら」
「だったらそいつに託せよ!」

 由功は知っているのだ。美綾が好きな男が誰なのか。

「それができない。でももう解放してやりたい」

 謎かけのような言葉。けれど由功が意味深に吐き出す言葉を繋ぎ合わせれば答えが見えなくもない。

 由功は目を伏せると、アイスコーヒーを飲み干す。
 貴影はなにも言えずにただ目の前のグラスを見つめる。
 結露が浮かぶガラスの表面が涙のような線を描いた。

 それほど大事にしていて、どうして自分の手で幸せにしないのか。
 叶わない相手を好きなら……強引にでも自分に向かせればいい。由功にならできるはずだ。

(なんでオレに託す!)
 
「今からまだ寄るところがあるから行くよ」

 由功はそう言うと伝票を手にして立ち上がった。
 貴影は頷くことさえできずに、去って行く由功の背中をぼんやりと見送った。
 氷がからんと溶ける音が聞こえて、グラスに手を伸ばした。
 曖昧で思わせぶりで意味深な由功の言葉がいつまでも耳に残る。

 不意に浮かびかけたものを貴影は慌てて打ち消した。
 これ以上、心を乱されたくはなかった。
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