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第二十二話
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『青桜』から商品サンプルが届いた頃、先日のプレゼンテーションの結果が報告された。驚くべきことにこちらの提案はほとんど受けいれられた。
結果が伝えられると同時に『青桜』側からは新たな指示が入った。
外構デザインの重要性を説明した学生はそのまま設計事務所に呼び出されていった。
勇はどうも工事スケジュールだけでなく、どういう手段を用いたのか見積書も入手していて、プレゼンテーションでは、工事変更しても金額がほとんど変わらないことを強調したようだ。それもあって提案が受け入れられたらしい。
そして、実際の商品サンプルを使用して『SSC』内だけで配信動画を制作する予定だったメンバーも、『青桜』の宣伝広報部に呼び出され、共同で制作することになった。本格的なスタジオと撮影機材を使用できるとあって、グレードの高い映像が作れそうだと、メンバーは喜び勇んで向かった。
司が一時ストップさせていた会場設営の現場でも、提案したイメージに沿う形で変更することに決まった。司は、おまえたちのせいだから手伝いにこいと言って、芸術系と建築系高校の学生を率いて現場に入った。
美綾と真夏は慌ただしく動き回る男の子たちを送り出した後で、結局自分たちが確認さえできなかった彼らのプレゼンテーション資料を見た。
それはとても幻想的な映像だった。
ポップで明るい夏祭りのイメージではなく、レトロで儚くどこか懐かしい温かみのあるもの。
全十二色の色を提灯の明かりに見立てて、幼さを抜け出し大人へと脱皮していくような、少し妖艶ささえ感じる大人びた雰囲気になっていた。
初めてのメイクを――初めての恋に重ねて。
まっさらだった唇に、初めてのせる紅。
無垢だった少女が恋を知って、色香まとう。
それは初恋の――キラキラで喜びに満ち明るくはしゃいだ一面ではなく。
どこか切なさと、苦さが仄かに混ざった――恋の密やかな一面。
それらをノスタルジックな空気で包み込んでいた。
夏祭りの夜、迷子になってふと心細くなる……そんな時に色鮮やかな提灯がまるで光の道しるべとなって行き先を照らしていくように。
プレゼンテーションのためにつくられたにしては、もったいないほど素敵にできていて、真夏はちょっと涙ぐみながら『あいつら無駄なところにエネルギー注ぎすぎ』と憎まれ口を叩いた。
美綾は涙が静かに頬を伝うのをとめることができずに、しばらくその余韻にひたった。
美綾にとって恋は――苦しくて切なくてそれでも消えない火のようなもの。
その火が消えてしまえば暗闇にのまれてなにも残らない。
そう思っていた。
でも紅をひけばもしかしたら、その光に導かれて歩いていけるのかもしれない。映像を見てなんとなくそう思った。
***
美綾は貴影とともにイベント前の最後の『青桜』との打ち合わせに向かった。明日の金曜日からいよいよ会場準備に入り本番の土日を迎える。
美綾は久しぶりに制服を着用した。
貴影もきちんとネクタイを締めている。濃紺のそれは先に赤いラインが入っていて、それだけで有名な中高一貫校だとわかる代物だ。
陽司たちはその後『青桜』と共同で動画を制作し、サイトにアップした。動画は結局三バージョンも作った。本当は学生が提案した候補からどれかひとつを選ぶつもりだったのに、どれも出来栄えがよくて『青桜』側が全部作りたいと言ってきたそうだ。
どのバージョンの動画も再生回数が伸びていて、そのおかげでサイトの閲覧数もあがり、事前モニターの募集は早期に打ち切られた。そして女子中高生を中心に口コミで話題にのぼっている。
発売前から期待値があがったようで、高校生のアイデアと行動力は侮れないなと言われたらしい。
むしろそれが強みなのだけれど。
貴影は期待の高さに逆に失敗はできないと、メンバーやスタッフを窘めて、本番は油断することのないようにと気合いをいれていた。
最終打ち合わせを終えたタイミングで、商品企画担当の女性から声をかけられる。
「そうそう、社内用の商品展示ブースができたのよ。よかったら案内しましょうか?」
美綾は貴影と顔を合わせて、せっかくだからとその言葉に甘えることにした。
***
『青桜』の一階にあったのは小さな美術館のようなおしゃれな空間だ。これまでにつくってきたブランドの化粧品が展示されており、どの時代にどういう商品をつくってきたか一目でその歴史を知ることができる。
最初に目に入ったのは、明るく白い壁に大理石のように光る漆黒の床。
その中にまるで宝石のように商品が並んでいる。
『青桜』の商品は対象年零層が高めだ。
美綾たちのような高校生にとっては大人の女性のための化粧品というイメージが強く、たとえ値段が高くなくても手を出すのにためらう高級感がある。
高校生でもメイクをする女の子はいるけれど、デパートの化粧品売り場は敷居の高い憧れの場所だ。所詮ドラッグストアや雑貨店で購入しているのが現実。
だからこの雰囲気に、美綾はまるで別世界に迷い込んだような気分になった。
彼女のようにスーツをきちんと着こなせる大人の女性には似合っても、制服姿の自分には似合わない。
「こっちよ」
けれど彼女が示したブースを見た途端、美綾の不安はすぐに消し飛んだ。
それは化粧品売り場というよりも、おしゃれなインテリア家具に小さなかわいい文具が並んでいるようだった。
おさめられている台座の色はウォールナット材のような栗色でそこに口紅のカラーサンプルがグラデーションを描いて並んでいる。
「あなたたちの作った映像を見て、いろいろ試行錯誤したの。十代の女の子がためらわずに手にとれるように。ついでに男の子もね。どうかしら」
「ええ、すごくかわいいです! 見ているだけでも楽しい!」
レイアウトやデザインを変えるだけでここまで雰囲気が変化することに美綾は驚いた。ティーンズラインといえどもそれほど子どもっぽさは感じない。
「うちはあまり冒険したがらなくて既存のイメージに固執していたから、こういうきっかけでもなければこんな雰囲気は出せなかったかも」
女性がしみじみ呟く。
「ほんとうはね、元々このティーンズラインは社内でも賛否両論だったの。これまでのうちのイメージが低下するって反対の上層部も多かった。成功しているブランドイメージを覆すのは勇気がいるものだから」
それは美綾にも理解できた。ヒット商品が一つ出てそれで知名度も売り上げも大きくなれば、次はどうしてもそれを守る方向に入ってしまう。そのイメージを守ろうとして冒険ができなくなる。
「せめて価格を抑えたセカンドラインにしてはどうかって意見もあった。でもすでに別ブランド名でそれは出しているから二番煎じになる。企画開発したはいいものの――社内ではどことなく宙ぶらりんになっていた。企画発案者はどうしても『青桜』の名を冠したティーンズラインにこだわっていたけど、もしかしたら失敗するかもしれないって思っていたの」
女性は内緒よ、と言いたげに口元に指を添えた。
美綾はしっかり頷く。
それは最初の頃の打ち合わせ時にも感じていたことだ。司が、新ブランドのイベントに合わせて新ビルのお披露目も兼ねるなんて期待されているのか、と疑問を抱いていたけれど、美綾は保険ではないかと思っていた。
『SSC』に全面的に任せることで、失敗しても『高校生に依頼したせいだ』という言い訳ができる。
新ビルのお披露目がメインだと開き直ることもできる。
たとえ失敗に終わってもいいように逃げ道を作っていたのではないかと。
だから彼らは『SSC』からどんな提案をされようと、あえて異をとなえなかったのではないかと。
「だから、ありがとう」
こういう瞬間、すべてが報われた気になる。由功はきっとこんな経験を自分たちにしてほしいのだ。
「そういえば九条さんは商品は選んだの?」
言われて美綾ははっとした。イベント担当チームの自分たちがまだ商品の申し込みをしていない。美綾も真夏も仕事に集中しすぎてすっかり忘れていた。
「まだみたいね。せっかくだからここで選んでみたら?」
「いいんですか?」
「もちろん」
「はい。ありがとうございます」
美綾は嬉しくなって絵の具のパレットのように並んだ商品を眺めた。
「あら、九条さんだめよ、自分で選んでは。せっかくだから御嵩くんに選んでもらいなさい」
「オレですか?」
「当然でしょう」
そうだ。コンセプトは――『彼が選ぶ彼女の口紅』。
いたずらっぽく笑いながら女性は携帯のバイブに気がついて耳にあてた。
「しばらく選んでいて、すぐに戻るから」
そう言い残して部屋を出る。女性の後ろ姿を見送ってから美綾は慌てて貴影に声をかけた。
「御嵩くん、いいよ。私自分で選ぶから。御嵩くんはその……彼女の選んであげたら?」
そう言いながらかすかに胸が痛んだ。それを誤魔化すべく美綾はスティック型にするかパレット型にするか考える。メイクには今まで興味がなかった。それにこの場で三色は選びづらい。
スティック型にしようと決めて、カラー選びをする。
改めていろんなカラーがあるのだとびっくりする。
ピンク系、赤系、オレンジ系。
もしくは学校でもつけられるようにクリアにしたほうがいいかもしれない。クリアは元の唇の色を鮮やかにしてくれるとあった。それともあえてグロスにしようか。
貴影もじっとそれらを見つめていた。
彼が彼女のために選ぶのはどんな色だろうか。
無邪気にほほ笑んでいた華乃の姿が思い出される。
ふわふわの肩までの髪。大きな瞳。かわいらしい声をだす唇。
親しみやすくて、誰からもかわいがられるそんなふわりとした優しい印象があったから、淡い桃色なんか似合うかもしれない。
だからだろうか。彼女と一緒にいる時、彼の雰囲気がいつもと違っているような気がしたのは。
いつも落ち着いていて硬質な空気をまとう彼は、彼女と一緒にいると優しい穏やかな雰囲気に変化する。
彼女をとても大事にしていることが伝わるほど――――
「九条、少しこれつけてみて」
サンプル用の紅筆をとって貴影が渡してきた。
口紅の色は実際に唇に色をのせてみないとわからないこともある。唇本来の色の違いで、同じ色でも微妙な差異が生じるからだ。
「私がつけても意味ないと思うけど」
華乃のために選んだ色を自分の唇で確認しても意味がないと思ったが、それでも戸惑うような貴影の選び方がなんだかかわいく思えて、美綾は鏡を見ながら唇に塗った。
その様子を貴影が食い入るように見つめるから、美綾も緊張して手が震えそうになる。
「制服だからあまり合わないかも」
つまらない言い訳をしながら貴影の様子をうかがった。
彼の表情が見たこともないほど柔らかなものになる。
嬉しそうに、愛しそうに淡い笑みを浮かべる彼から美綾は目をそらした。
誰にも見せないだろうそんな表情をして、彼はいつも彼女を見つめているのだろう。
どこまでも甘くて、優しくて、熱くて――自分が大切にされていると愛されていると実感できるような眼差しで。
どくんっと心臓が鳴る。
彼女に向けられているものだと知っているのに、まるで自分が見つめられているのではないかと錯覚しそうだ。
この眼差しを、このほほ笑みを向けられたかった。
彼のそばで笑って、腕をとって、胸にすがりついて、下の名前を呼んでみたかった。
もう火は消えかかっていると思っていたのに、胸の奥が熱くなる。
「九条に似合うよ、その色」
「え?」
「……たぶんあの浴衣を着ても似合うと思う」
あの浴衣――それは彼が選んだ浴衣のことか。臙脂で桔梗柄のあの浴衣?
美綾の脳裏にそれを着て、この口紅を塗った自分の姿が瞬時に浮かぶ。
それはとても残酷で――とびきり甘美な夢。
「彼女に……選んだんじゃないの?」
声が詰まりそうになる。
「彼女にはその色は少し大人っぽいだろう。オレが選んで悪いけど、どう?」
胸の中で広がる熱が目の奥に伝わる。泣くわけにはいかなくて、口紅の色を確かめるように鏡に顔を向けて、唇だけをじっと見つめた。
「ありがとう。すごく素敵だと思う」
震えないように、そう呟くのが精一杯だった。
(期待するって言ったのに――狡いよ)
あの時、彼に気持ちが伝わったかもしれないと思った。
でも、もしかしたら気づかなかったのかもしれない。
いや、気づいていたとしても、告白され慣れている彼からすれば、さらりとかわせる程度のものだったのかもしれない。
だから彼の態度はあの後も変わらなかった。
(あと三日、あと三日だから……)
勝手に勘違いして、無謀な期待を抱く。
これ以上そんな欲深い自分を思い知らされたくない。
だから美綾は心の中で何度となく言い聞かせた。
結果が伝えられると同時に『青桜』側からは新たな指示が入った。
外構デザインの重要性を説明した学生はそのまま設計事務所に呼び出されていった。
勇はどうも工事スケジュールだけでなく、どういう手段を用いたのか見積書も入手していて、プレゼンテーションでは、工事変更しても金額がほとんど変わらないことを強調したようだ。それもあって提案が受け入れられたらしい。
そして、実際の商品サンプルを使用して『SSC』内だけで配信動画を制作する予定だったメンバーも、『青桜』の宣伝広報部に呼び出され、共同で制作することになった。本格的なスタジオと撮影機材を使用できるとあって、グレードの高い映像が作れそうだと、メンバーは喜び勇んで向かった。
司が一時ストップさせていた会場設営の現場でも、提案したイメージに沿う形で変更することに決まった。司は、おまえたちのせいだから手伝いにこいと言って、芸術系と建築系高校の学生を率いて現場に入った。
美綾と真夏は慌ただしく動き回る男の子たちを送り出した後で、結局自分たちが確認さえできなかった彼らのプレゼンテーション資料を見た。
それはとても幻想的な映像だった。
ポップで明るい夏祭りのイメージではなく、レトロで儚くどこか懐かしい温かみのあるもの。
全十二色の色を提灯の明かりに見立てて、幼さを抜け出し大人へと脱皮していくような、少し妖艶ささえ感じる大人びた雰囲気になっていた。
初めてのメイクを――初めての恋に重ねて。
まっさらだった唇に、初めてのせる紅。
無垢だった少女が恋を知って、色香まとう。
それは初恋の――キラキラで喜びに満ち明るくはしゃいだ一面ではなく。
どこか切なさと、苦さが仄かに混ざった――恋の密やかな一面。
それらをノスタルジックな空気で包み込んでいた。
夏祭りの夜、迷子になってふと心細くなる……そんな時に色鮮やかな提灯がまるで光の道しるべとなって行き先を照らしていくように。
プレゼンテーションのためにつくられたにしては、もったいないほど素敵にできていて、真夏はちょっと涙ぐみながら『あいつら無駄なところにエネルギー注ぎすぎ』と憎まれ口を叩いた。
美綾は涙が静かに頬を伝うのをとめることができずに、しばらくその余韻にひたった。
美綾にとって恋は――苦しくて切なくてそれでも消えない火のようなもの。
その火が消えてしまえば暗闇にのまれてなにも残らない。
そう思っていた。
でも紅をひけばもしかしたら、その光に導かれて歩いていけるのかもしれない。映像を見てなんとなくそう思った。
***
美綾は貴影とともにイベント前の最後の『青桜』との打ち合わせに向かった。明日の金曜日からいよいよ会場準備に入り本番の土日を迎える。
美綾は久しぶりに制服を着用した。
貴影もきちんとネクタイを締めている。濃紺のそれは先に赤いラインが入っていて、それだけで有名な中高一貫校だとわかる代物だ。
陽司たちはその後『青桜』と共同で動画を制作し、サイトにアップした。動画は結局三バージョンも作った。本当は学生が提案した候補からどれかひとつを選ぶつもりだったのに、どれも出来栄えがよくて『青桜』側が全部作りたいと言ってきたそうだ。
どのバージョンの動画も再生回数が伸びていて、そのおかげでサイトの閲覧数もあがり、事前モニターの募集は早期に打ち切られた。そして女子中高生を中心に口コミで話題にのぼっている。
発売前から期待値があがったようで、高校生のアイデアと行動力は侮れないなと言われたらしい。
むしろそれが強みなのだけれど。
貴影は期待の高さに逆に失敗はできないと、メンバーやスタッフを窘めて、本番は油断することのないようにと気合いをいれていた。
最終打ち合わせを終えたタイミングで、商品企画担当の女性から声をかけられる。
「そうそう、社内用の商品展示ブースができたのよ。よかったら案内しましょうか?」
美綾は貴影と顔を合わせて、せっかくだからとその言葉に甘えることにした。
***
『青桜』の一階にあったのは小さな美術館のようなおしゃれな空間だ。これまでにつくってきたブランドの化粧品が展示されており、どの時代にどういう商品をつくってきたか一目でその歴史を知ることができる。
最初に目に入ったのは、明るく白い壁に大理石のように光る漆黒の床。
その中にまるで宝石のように商品が並んでいる。
『青桜』の商品は対象年零層が高めだ。
美綾たちのような高校生にとっては大人の女性のための化粧品というイメージが強く、たとえ値段が高くなくても手を出すのにためらう高級感がある。
高校生でもメイクをする女の子はいるけれど、デパートの化粧品売り場は敷居の高い憧れの場所だ。所詮ドラッグストアや雑貨店で購入しているのが現実。
だからこの雰囲気に、美綾はまるで別世界に迷い込んだような気分になった。
彼女のようにスーツをきちんと着こなせる大人の女性には似合っても、制服姿の自分には似合わない。
「こっちよ」
けれど彼女が示したブースを見た途端、美綾の不安はすぐに消し飛んだ。
それは化粧品売り場というよりも、おしゃれなインテリア家具に小さなかわいい文具が並んでいるようだった。
おさめられている台座の色はウォールナット材のような栗色でそこに口紅のカラーサンプルがグラデーションを描いて並んでいる。
「あなたたちの作った映像を見て、いろいろ試行錯誤したの。十代の女の子がためらわずに手にとれるように。ついでに男の子もね。どうかしら」
「ええ、すごくかわいいです! 見ているだけでも楽しい!」
レイアウトやデザインを変えるだけでここまで雰囲気が変化することに美綾は驚いた。ティーンズラインといえどもそれほど子どもっぽさは感じない。
「うちはあまり冒険したがらなくて既存のイメージに固執していたから、こういうきっかけでもなければこんな雰囲気は出せなかったかも」
女性がしみじみ呟く。
「ほんとうはね、元々このティーンズラインは社内でも賛否両論だったの。これまでのうちのイメージが低下するって反対の上層部も多かった。成功しているブランドイメージを覆すのは勇気がいるものだから」
それは美綾にも理解できた。ヒット商品が一つ出てそれで知名度も売り上げも大きくなれば、次はどうしてもそれを守る方向に入ってしまう。そのイメージを守ろうとして冒険ができなくなる。
「せめて価格を抑えたセカンドラインにしてはどうかって意見もあった。でもすでに別ブランド名でそれは出しているから二番煎じになる。企画開発したはいいものの――社内ではどことなく宙ぶらりんになっていた。企画発案者はどうしても『青桜』の名を冠したティーンズラインにこだわっていたけど、もしかしたら失敗するかもしれないって思っていたの」
女性は内緒よ、と言いたげに口元に指を添えた。
美綾はしっかり頷く。
それは最初の頃の打ち合わせ時にも感じていたことだ。司が、新ブランドのイベントに合わせて新ビルのお披露目も兼ねるなんて期待されているのか、と疑問を抱いていたけれど、美綾は保険ではないかと思っていた。
『SSC』に全面的に任せることで、失敗しても『高校生に依頼したせいだ』という言い訳ができる。
新ビルのお披露目がメインだと開き直ることもできる。
たとえ失敗に終わってもいいように逃げ道を作っていたのではないかと。
だから彼らは『SSC』からどんな提案をされようと、あえて異をとなえなかったのではないかと。
「だから、ありがとう」
こういう瞬間、すべてが報われた気になる。由功はきっとこんな経験を自分たちにしてほしいのだ。
「そういえば九条さんは商品は選んだの?」
言われて美綾ははっとした。イベント担当チームの自分たちがまだ商品の申し込みをしていない。美綾も真夏も仕事に集中しすぎてすっかり忘れていた。
「まだみたいね。せっかくだからここで選んでみたら?」
「いいんですか?」
「もちろん」
「はい。ありがとうございます」
美綾は嬉しくなって絵の具のパレットのように並んだ商品を眺めた。
「あら、九条さんだめよ、自分で選んでは。せっかくだから御嵩くんに選んでもらいなさい」
「オレですか?」
「当然でしょう」
そうだ。コンセプトは――『彼が選ぶ彼女の口紅』。
いたずらっぽく笑いながら女性は携帯のバイブに気がついて耳にあてた。
「しばらく選んでいて、すぐに戻るから」
そう言い残して部屋を出る。女性の後ろ姿を見送ってから美綾は慌てて貴影に声をかけた。
「御嵩くん、いいよ。私自分で選ぶから。御嵩くんはその……彼女の選んであげたら?」
そう言いながらかすかに胸が痛んだ。それを誤魔化すべく美綾はスティック型にするかパレット型にするか考える。メイクには今まで興味がなかった。それにこの場で三色は選びづらい。
スティック型にしようと決めて、カラー選びをする。
改めていろんなカラーがあるのだとびっくりする。
ピンク系、赤系、オレンジ系。
もしくは学校でもつけられるようにクリアにしたほうがいいかもしれない。クリアは元の唇の色を鮮やかにしてくれるとあった。それともあえてグロスにしようか。
貴影もじっとそれらを見つめていた。
彼が彼女のために選ぶのはどんな色だろうか。
無邪気にほほ笑んでいた華乃の姿が思い出される。
ふわふわの肩までの髪。大きな瞳。かわいらしい声をだす唇。
親しみやすくて、誰からもかわいがられるそんなふわりとした優しい印象があったから、淡い桃色なんか似合うかもしれない。
だからだろうか。彼女と一緒にいる時、彼の雰囲気がいつもと違っているような気がしたのは。
いつも落ち着いていて硬質な空気をまとう彼は、彼女と一緒にいると優しい穏やかな雰囲気に変化する。
彼女をとても大事にしていることが伝わるほど――――
「九条、少しこれつけてみて」
サンプル用の紅筆をとって貴影が渡してきた。
口紅の色は実際に唇に色をのせてみないとわからないこともある。唇本来の色の違いで、同じ色でも微妙な差異が生じるからだ。
「私がつけても意味ないと思うけど」
華乃のために選んだ色を自分の唇で確認しても意味がないと思ったが、それでも戸惑うような貴影の選び方がなんだかかわいく思えて、美綾は鏡を見ながら唇に塗った。
その様子を貴影が食い入るように見つめるから、美綾も緊張して手が震えそうになる。
「制服だからあまり合わないかも」
つまらない言い訳をしながら貴影の様子をうかがった。
彼の表情が見たこともないほど柔らかなものになる。
嬉しそうに、愛しそうに淡い笑みを浮かべる彼から美綾は目をそらした。
誰にも見せないだろうそんな表情をして、彼はいつも彼女を見つめているのだろう。
どこまでも甘くて、優しくて、熱くて――自分が大切にされていると愛されていると実感できるような眼差しで。
どくんっと心臓が鳴る。
彼女に向けられているものだと知っているのに、まるで自分が見つめられているのではないかと錯覚しそうだ。
この眼差しを、このほほ笑みを向けられたかった。
彼のそばで笑って、腕をとって、胸にすがりついて、下の名前を呼んでみたかった。
もう火は消えかかっていると思っていたのに、胸の奥が熱くなる。
「九条に似合うよ、その色」
「え?」
「……たぶんあの浴衣を着ても似合うと思う」
あの浴衣――それは彼が選んだ浴衣のことか。臙脂で桔梗柄のあの浴衣?
美綾の脳裏にそれを着て、この口紅を塗った自分の姿が瞬時に浮かぶ。
それはとても残酷で――とびきり甘美な夢。
「彼女に……選んだんじゃないの?」
声が詰まりそうになる。
「彼女にはその色は少し大人っぽいだろう。オレが選んで悪いけど、どう?」
胸の中で広がる熱が目の奥に伝わる。泣くわけにはいかなくて、口紅の色を確かめるように鏡に顔を向けて、唇だけをじっと見つめた。
「ありがとう。すごく素敵だと思う」
震えないように、そう呟くのが精一杯だった。
(期待するって言ったのに――狡いよ)
あの時、彼に気持ちが伝わったかもしれないと思った。
でも、もしかしたら気づかなかったのかもしれない。
いや、気づいていたとしても、告白され慣れている彼からすれば、さらりとかわせる程度のものだったのかもしれない。
だから彼の態度はあの後も変わらなかった。
(あと三日、あと三日だから……)
勝手に勘違いして、無謀な期待を抱く。
これ以上そんな欲深い自分を思い知らされたくない。
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