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1巻
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『お姫様になりたい。そしていつか王子様に迎えにきてほしい』
それは、女の子なら誰もが一度は夢見ること。
私、矢内結愛にとっても「お姫様」は憧れで。
私にとっての「王子様」は駿くんで。
「いつか」は二十歳。
『二十歳だ。二十歳になっても結愛の気持ちが変わらなかったら結婚しよう』
十六歳の時、駿くんに言われた言葉。
それを宝物のようにずっと抱えてきた。
私はあと一か月半で二十歳になる。
私が五歳、駿くんが十五歳で婚約してから十五年――
中学卒業と同時に留学し、ずっと海外で生活していた駿くんが、ようやく日本に帰ってくる。
プロローグ
私は幼い頃、幼稚園が終わると母の親友の家である「高遠家」のお屋敷に預けられていた。
専業主婦だった母が義理の祖母の介護に携わることになったせいだ。
それでも私は寂しくなんかなかった。
広い敷地に建つ大きな洋風のお屋敷は、お城みたいで素敵だったし、大奥様をはじめ、高遠家に関わるみんなが私をかわいがってくれたから。
なにより、ここにいれば王子様に会える。
高遠家の一人息子である高遠駿くん。彼は私の上の兄である颯真くんと同じ年で、私より十歳年上だ。
さらさらの黒い髪、いつも優しく見守ってくれる眼差し、そして私の名前を呼んでくれる穏やかで甘い声。
テレビに出てくる芸能人に負けないくらいかっこよくて、絵本の中の王子様のような存在だった。
その日、私はお手伝いの清さんに見守られながら、高遠家のお屋敷で遊んでいた。
五歳の誕生日プレゼントにもらった、綺麗なドレスを着たお姫様のお人形。その髪をブラシで梳いていると、颯真くんがやってきた。
「結愛……結愛の夢はお姫様になることだよな?」
「うん! お姫様になりたい!」
私は、綺麗なドレスを着たお人形を颯真くんに見せた。
「お姫様には王子様が必要だろう?」
「王子様……」
母が寝る前に読んでくれるお姫様の絵本には、王子様が必ず出てくる。
お姫様の隣には王子様がいるものだ。
「じゃあ、颯真くんが王子様になってくれる?」
王子様がいれば、私もお姫様になれる。だったら颯真くんが王子様になってくれればいい。私をかわいがって、遊んでくれるお兄ちゃんだもの。
期待を込めてお願いしたのに「俺と和真は結愛のお兄ちゃんだから王子様にはなれないんだ」と颯真くんは言う。そして少し寂しそうに笑い、私の頭に手を伸ばした。和真くんというのは、下のお兄ちゃんだ。
「でも駿なら結愛の王子様になれる」
私は颯真くんのうしろに立つ駿くんを見上げた。
「駿くん! 駿くんが結愛の王子様になってくれるの?」
大好きな駿くんが私の王子様になってくれれば、私はお姫様になれる。
問いかけに対して、駿くんが私の目の前で膝をついて、いつものように腕を広げてくれた。私はすかさず飛び込んでいく。お日様みたいな暖かな匂いがして、ほっと安心できる腕。
駿くんは、私をふんわりとお姫様抱っこして、優しくほほ笑んでくれた。
「結愛ちゃん、僕が王子様になってもいい?」
「私は駿くんのお姫様になれる? 駿くんは本当に私の王子様になってくれるの?」
「結愛ちゃんがよければ、喜んで」
私は駿くんの首のうしろに手をまわして「王子様になって、駿くん!」と言った。
この時、いつも優しい両親と高遠のおじさまたちが、複雑な表情で私たちを見守っていたことなど気付かずに。
これにより、駿くんがなにを犠牲にしたのかも気付かずに。
矢内結愛、五歳。
高遠駿、十五歳。
両家の間で、ひっそりと約束が交わされ、私は駿くんの婚約者になった。
婚約を交わしたものの駿くんは、中学卒業と同時に留学し、高校、大学、大学院と海外にいた。
私は小学校に入学すると、長期休みのたびに駿くんの留学先を訪れては、サマースクールに参加したり短期留学をしたりして、駿くんと過ごした。
英語を頑張って覚えて、慣れない海外生活に挑戦できたのも、駿くんに会いたい一心から。
けれど、成長するにつれてわかった気になっていた。
駿くんが海外留学したのは、高遠グループの御曹司としての勉強のためだということ。
私たちの婚約は、親友同士である母たちの「お互い子どもが生まれて異性だったら結婚させたいね」という夢見がちな願いからだったということが。
駿くんが私と婚約した意味と、婚約が母たちの身勝手な夢だけではなかったと知ったのは十六歳の時。
私が矢内家の養女で……私の立場を守るために、駿くんは婚約してくれたのだ。
皮肉にも自分がお姫様になれる立場ではないと知ると同時に、私は駿くんに恋をした。
第一章 二十歳の約束
「大丈夫、だよね?」
私は姿見に、全身を映してくるりとまわった。
オフホワイトの七分袖のワンピースは、襟元と裾に紺色のラインが入って甘さを抑えている。染めたこともなければ、パーマをかけたこともないまっすぐな髪は、脇の下のラインをキープ中。
高校を卒業してから覚えたメークはナチュラルに、唇にだけ薄桃色のグロスをのせた。
三月に竣工したばかりの新居は、独特の匂いがする。
無垢の木の床に漆喰の白い壁。吹き抜けの天窓から降り注ぐのは、春らしい柔らかな光。
リビングダイニングの家具は、まだ少し余所者の表情をしている。
冷蔵庫の中には、温めればすぐに食べられる和食のおかずを準備した。
駿くんの書斎となる部屋は、残念ながらまだ段ボールで埋め尽くされているけれど、寝室だけは綺麗に整えた。これで、時差ボケで疲れていても体を休められるはず。
ようやく日本に帰ってくる主を、この新居も私もずっと待っていた。
五歳と十五歳で交わした婚約が、私にとって大切な約束に変わったのは十六歳の時。
『二十歳だ。二十歳になっても結愛の気持ちが変わらなかったら結婚しよう』
矢内家の養女だと知って、動揺して泣きじゃくっていた私に、駿くんはそう言った。
駿くんはずっと私の王子様で、憧れで、大好きで。
けれど、幼い頃の私にはまだその感情が恋かどうかなんてわからなかった。
十六歳のあの日から、私は駿くんを一人の男の人として意識して、もくもく広がる雲みたいに恋心をふくらませていった。
でも、ふくらんでいく私の恋心とは裏腹に、駿くんはなかなか日本に帰ってこなくて、私も高校生になると忙しくて、彼のところに遊びにいくことができなくなった。
インターネット電話やSNSで頻繁にやり取りはしていても、会えない日々は寂しい。
駿くんは本当なら、私の高校卒業と同時に帰国する予定だった。けれど、仕事の関係でどうしても一年延期せざるを得なくなったのだ。
それを知った時、私は不安に襲われた。私が二十歳になるまで待つって言いながら、本当は私から婚約解消を言い出すのを待っているんじゃないか、と思って。
帰国延期が決まった時、私は「本当は日本に帰ってくるつもりなんてないんでしょう!」と駿くんに怒鳴った。
それから「駿くんが帰ってこないなら、私が駿くんのところへ行く!」とぐずぐず泣いた。すると駿くんは「必ず帰ってくるから、結愛に新居を任せるよ」と言ってくれた。そうして建てたのがこの家だ。
高遠家のお屋敷の敷地内に建てた新居には、駿くんの意見を聞きながらも、私の夢を盛大に詰め込んだ。
駿くんが帰ってくるのを信じて、二人で一緒に暮らせる日を夢見て。
中高一貫のお嬢さま学校を卒業した後、私は高遠家のお屋敷で働きながら、新居の出来を見守り、彼の帰国を待っていた。
もうすぐ、駿くんが帰ってくる。
◆ ◆ ◆
矢内家の養女だと、私が知ったのは十六歳の夏。
私はその年の夏休みに、父方の祖母の七回忌に出席していた。
「高遠との婚約なんて、口先だけなんじゃないの?」
法事と会食を終えた雑然とした雰囲気の中、親族がそこかしこで会話している。私はお手洗いにいく途中で聞こえてきた「高遠」という言葉に思わず立ち止まり、耳を澄ました。
「あの子も十六歳になったんでしょう? 結婚できる年齢になったのに具体的な話が出ないのは、やっぱり口約束だけで、なんの確約もとれていないからじゃないの?」
「高遠と繋がりがもてるなら、ってことで正式に引き取って今後も育てることを認めたのに……どこまでも役に立たないわね」
「あんな子引き取らなきゃよかったのよ。あの女の弟と、どこの馬の骨ともわからない女との間にできた子どもなんか!」
高遠、婚約、十六歳、どの言葉も私にあてはまるものだった。
『結愛ちゃんって、お兄さんたちと年が離れているのね』
兄がいると言うと同級生たちは驚いていた。
『似ていないね』
そう言われることも多かった。
私はその場から抜け出して、タクシーで高遠家に乗り付け、その時たまたま帰国していた駿くんに会いに行った。
両親にも兄たちにも真実を問いただすことはできない。
駿くんが日本にいてよかった。
でなければきっと私は夏休みをいいことに、駿くんのいる外国まで向かったに違いない。
日曜日でお屋敷にいた駿くんは、仕事の時とは違う普段着姿だった。
ジーンズに貝ボタンの並んだ明るいグレーのポロシャツ。
制服姿だった私の突然の訪問に驚きながら、駿くんはいつもと同じ優しい笑みを浮かべる。
そんな彼に向かって、私は言った。
「十六歳になったよ。もう結婚できる年だよ。なのにどうして駿くんは結婚の話を進めないの? 私がお父さんとお母さんの実の娘じゃないから?」
言葉にして初めて、涙がぽろぽろこぼれた。
「なんで? どうして?」、そんな言葉ばかりを口走った。
三歳の七五三から始まった家族写真。
幼稚園の入園式、小学校の入学式、颯真くんや和真くんの成人式でも節目ごとに家族みんなで写真を撮ってきた。家族の証のようなそれらがガラスが割れてバラバラになるように飛び散っていく。
「結愛……落ち着いて。矢内のおじさんたちに確認する。結愛には今、おいしいケーキと紅茶を準備させるから。ここで待っていて」
駿くんの部屋の応接スペースで私はソファにもたれかかって泣いていた。
両親の子どもではなかった、兄たちの妹ではなかった。
一瞬で自分が軽い存在になって、紐の切れた風船のような頼りない存在になった気がする。
駿くんは部屋に戻ってきて、まずあたためたタオルを渡してくれた。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をふいても、また出てきてしまうから顔を押さえた。
テーブルのほうからかちゃかちゃとケーキと紅茶が準備される音がする。
駿くんは私の隣に座ると、そっと肩を抱き寄せてくれた。いつも安心できるその腕に私は甘える。
「矢内では一切話題にしないように厳命されていたはずだけど、今のご当主に代わってから拘束力が薄れたみたいだね。おじさんたちには一応許可を得たから、僕から説明する。なにが聞きたい?」
「私のお父さんとお母さんって誰?」
「結愛のお父さんは……矢内のおばさんの弟だ。結愛は姪で、颯真たちとは従兄弟になる。結愛が二歳の時、家族の乗った車が事故にあった。結愛だけが助かったけど、君はその時の事故のショックで記憶を失ったらしい。他に身寄りがなかったから、姉であるおばさんが結愛を引き取った。君が二十歳になったら、君のご両親が真実を知らせるつもりだったんだ」
「お母さんは?」
「それは、ごめん。結愛のお父さんが愛した女性としかわからない。その女性も身寄りがなくて、事情があって素性を隠していたようだ。だから結愛のお父さんも結婚してからは居場所を一切知らせてこなかった。毎回、消印は違うけれど、季節ごとに写真が送られてきていたらしいよ。結愛の小さな頃の写真があるのはそのおかげだった。事故が起きた時おばさんのところに電話が来たのは、お父さんがもしもの時に備えておばさんの連絡先を書き残していたからだ」
実の父は母の弟だった人。実の母は事情を抱えた謎多き女性。
親戚たちのどこの馬の骨ともわからない女という発言は、そこからきていたのだ。
けれど、ささやかでも矢内家と血の繋がりがあって私はほっとしていた。
母は伯母で、兄たちは従兄弟になるけれど、それでも誰の子かわからない他人であるよりずっとマシに思えた。
駿くんの手が私の肩を優しくなでる。
実の娘でなかったショックは大きくて、それでも姪である事実に救われて、そして家族は確かに私を大事に育ててくれたことを思い出す。
私は体を起こして駿くんのポロシャツを掴む。
「駿くんは……知っていたんだよね?」
「知っていた。事故の連絡がきておじさんたちは病院にかけつけた。その間、颯真たちはうちに預けられていたし、それは結愛が退院するまで続いたから。退院してからも、しばらくの間みんなうちで生活していたんだ」
昔からなにかあれば、矢内の親族ではなく高遠の家を頼りにしていた。
母方の実家だと思って過ごせばいいと、清さんたちには言われていて、私は孫のようにかわいがられた。
そんな幼稚園の頃の記憶が、ぼんやりとある。
だから私は駿くんもお兄ちゃんだと思っていた頃があったし、高遠のおじさんとおばさんのことも父と母のように慕っていた。
「私を……引き取るのは反対だったって……聞いた」
「そんなことまで話していたのか」
駿くんはあきれたように言って「再度厳命したほうがいいな」と呟く。
『高遠と繋がりがもてるなら、ってことで正式に引き取って今後も育てることを決めたのに……』
親戚たちは、そうも言っていた。
「私に事情があったから……駿くんは私と婚約したの?」
母親たちの身勝手な願望じゃなかった。私たちの婚約には、もっと切実な事情が隠されていた。
五歳と十五歳で婚約を交わすという不自然さに、私はいつからか目を背けていたのかもしれない。
「結愛」
「そのためだけの婚約で……本当は結婚する気なんかない? 私は十六歳になって、もう結婚できる年になったのに、なんにも決まっていないのは口先だけの約束だったから?」
「結愛、落ち着いて……」
「そう、だよね、私たち十歳も違うんだもの。駿くんからいつ婚約解消されるかってずっと不安だった。でも駿くんは言わないから……大人になれば、このまま結婚できるんじゃないかって。駿くんは待ってくれているんじゃないかって」
「そうだよ、結愛。僕は待っている。君が大人になるまで僕は待つ」
「私、もう大人だよ。十六歳になったんだもの、結婚だってできる!」
自分がなにを言っているのか、もうわからなかった。
実の娘でなかったことのショックと、駿くんとの婚約の本当の理由に気付いて混乱していた。
私たちの関係は、仲のいい兄妹のような距離から変化していない。
本当は駿くんにとって最初から、私は婚約対象になるはずのない存在だった?
駿くんは私のために犠牲になったの?
婚約を解消しなかったのは私の立場を守るためだけで、そこに彼の意思はまったくなかった?
「結婚……する気なんてなくて。私のために駿くんは、犠牲になっただけ?」
ぽろぽろ、ぽろぽろと見開いた目から涙がこぼれ落ちていく。
私は家族の一員ではなくて、婚約は立場を守るためだけのもの?
「結愛! 僕は犠牲になったわけじゃない!」
「嘘っ!! 結婚する気があるなら、どうして私を恋人にしてくれないの! 私がまだ子どもだから? 高校生だから?」
私の肩を抱き寄せようとする駿くんの手を振り払う。
「それとも、矢内の実の娘じゃないから?」
私の言葉はそこで途切れた。
駿くんの唇が私の唇に触れて、それ以上なにか言うのを阻んだから。
初めて触れる他者の唇に頭が真っ白になって、目の前の駿くんが一瞬、誰だかわからなくなる。
「結愛……君はまだ結婚の意味をわかっていない。僕と結婚するってことは僕とキスをするってことだ、その先にも進むってことだ。それがどういうことかわかるか?」
怒りといら立ちが混じったような静かな口調のあと、ふたたび私の口は塞がれた。
強く押し付けられた唇はやわらかい。そんなことを考えていた直後、するりと入り込んできた舌に私は驚く。
そんなキスがあることを知識としては知っていた。でも、現実に自分の口内に他人の舌が入り込む感触は想像したこともなかった。
私を抱きしめているのは、いつもは安心できるはずの腕。
けれど、今はその大きさも強さも私を混乱させ、わずかな恐怖を生み出した。
どうやって息をすればいいのかわからなくて、ただ駿くんの舌に翻弄される。なにが自分の身に起こっているのか把握できない。
家族のようで兄のようで一番信頼していた彼が、男の人だと意識した瞬間。
「やっ! やだっ、駿くん、嫌っ!」
私が駿くんを怖いと感じるなんて、初めてのことだった。
「怖がらせてごめん。でもわかっただろう? 結愛が今、僕に抱いている気持ちは思慕や憧れでしかない。結愛の気持ちがそうである限り、僕も君をそういう対象として見るわけにはいかない。結愛が僕を一人の男として見てくれるようになったら……僕もきちんと向き合う。結愛はまだこれからたくさんの人と出会う。世界が広がっていく。今は恋がわからなくても、僕以外の男に恋する可能性だってある。僕はそういう君の可能性をつぶしたくはない」
涙でぼやけている視界の中に、駿くんの真摯な眼差しがあった。それは、今までと同じ私の知っている駿くんの姿。
でも唇には、激しい熱の余韻が残っている。
「二十歳だ、結愛。二十歳になるまでに他に好きな男ができたら、僕たちの婚約は解消しよう。僕を恋愛対象として見られない時も同じだ。結愛の僕への気持ちが憧れから恋心になり、それが二十歳になっても変わらなかったら、その時は結婚しよう」
「その間に駿くんに好きな人ができたら? それでも解消するの?」
「僕から解消することはない。だから結愛は……あと四年、自由にしていいんだ。僕じゃない男を好きになってもいい」
「私は駿くんが好き」
そう、私は駿くんが好きだ。それは幼い頃から変わらない。
でも駿くんは、寂しそうに私を見て言った。
「うん、知っている」
「こういう好きじゃ、だめなの?」
「……二十歳になっても変わらなかったら、その時はね」
だめとも、いいとも言わずに、駿くんは「二十歳」と期限を区切る。
「婚約者」とは名ばかりで、昔からよく知っていて、ずっと仲良くしてくれる憧れの兄のような存在でしかなかった駿くん。私は彼を、この時初めて一人の男性として意識した。
憧れと恋の違いもわからずにいた私が、恋に囚われ始めた日。
そして「二十歳」という約束に縋りつき始めた日。
◆ ◆ ◆
お屋敷の裏口から続く小道を抜けると、駿くんは立ち止まって新居を見上げた。
「図面や画像では見ていたけど……実物はやっぱり違うな」
駿くんが感嘆の言葉をもらす。
本当は空港まで迎えに行きたかったのに、そのまま一度会社に挨拶に向かうと言われてしまったので、お屋敷に戻ってくるのを待っていた。
駿くんの帰りを待っていたのは私だけじゃない。
お屋敷で働く人たちも、心待ちにしていたのだ。みんなで並んで出迎える。
そうしてひとしきり話したあと、やっと私は新居を案内することができた。
設計士さんにお願いして建てた家は、伝統的な洋風建築のお屋敷とは違う、モダンな佇まいだ。表から見える場所には細長い窓しかなく、シャープな外観をしている。直線的なデザインをやわらげるために、白い壁に、一部こげ茶の板や石のタイルを張ってぬくもりを出した。
駿くんは家を建てると決めた時、ほとんどのことを私に任せてくれた。
最初は私が考えていいのかと躊躇ったけれど、駿くんは「結愛も一緒に住む予定の家だろう?」と私に未来を示唆してくれた。
帰国が延期になって、「日本に帰る気がないんだ!」って泣いた私を宥める意味もあったのかもしれない。
家づくりはいろんなことを決めていかなければならない。
その都度駿くんに相談して、密に話して、離れている寂しさを埋めていった。
私は駿くんに家づくりを任されて、その使命のおかげで帰国が延期になった一年を乗り越えられたところがある。
「駿くん、入って」
私はドキドキしながら、木目調のドアを開けた。
家に入る駿くんの背中を見て、なんだか泣きたくなる。
やっと、やっと駿くんが日本に帰ってきた。
今までは帰国しても、一週間も経たないうちに、すぐに海外へ戻っていった。もうそんな彼を見送る必要もない。
この空間に駿くんがいて、そしてこれからはずっとこの家で過ごしていくのだと思うと、胸がいっぱいになってくる。
玄関の高い天井を見上げる駿くんの横顔に、帰国したばかりの疲れは見えない。
お正月に会った時より髪が少し伸びただろうか。年を重ねても駿くんはあまり変わらないように思える。
いつまでも、私にとっては憧れの王子様のまま。
それは、女の子なら誰もが一度は夢見ること。
私、矢内結愛にとっても「お姫様」は憧れで。
私にとっての「王子様」は駿くんで。
「いつか」は二十歳。
『二十歳だ。二十歳になっても結愛の気持ちが変わらなかったら結婚しよう』
十六歳の時、駿くんに言われた言葉。
それを宝物のようにずっと抱えてきた。
私はあと一か月半で二十歳になる。
私が五歳、駿くんが十五歳で婚約してから十五年――
中学卒業と同時に留学し、ずっと海外で生活していた駿くんが、ようやく日本に帰ってくる。
プロローグ
私は幼い頃、幼稚園が終わると母の親友の家である「高遠家」のお屋敷に預けられていた。
専業主婦だった母が義理の祖母の介護に携わることになったせいだ。
それでも私は寂しくなんかなかった。
広い敷地に建つ大きな洋風のお屋敷は、お城みたいで素敵だったし、大奥様をはじめ、高遠家に関わるみんなが私をかわいがってくれたから。
なにより、ここにいれば王子様に会える。
高遠家の一人息子である高遠駿くん。彼は私の上の兄である颯真くんと同じ年で、私より十歳年上だ。
さらさらの黒い髪、いつも優しく見守ってくれる眼差し、そして私の名前を呼んでくれる穏やかで甘い声。
テレビに出てくる芸能人に負けないくらいかっこよくて、絵本の中の王子様のような存在だった。
その日、私はお手伝いの清さんに見守られながら、高遠家のお屋敷で遊んでいた。
五歳の誕生日プレゼントにもらった、綺麗なドレスを着たお姫様のお人形。その髪をブラシで梳いていると、颯真くんがやってきた。
「結愛……結愛の夢はお姫様になることだよな?」
「うん! お姫様になりたい!」
私は、綺麗なドレスを着たお人形を颯真くんに見せた。
「お姫様には王子様が必要だろう?」
「王子様……」
母が寝る前に読んでくれるお姫様の絵本には、王子様が必ず出てくる。
お姫様の隣には王子様がいるものだ。
「じゃあ、颯真くんが王子様になってくれる?」
王子様がいれば、私もお姫様になれる。だったら颯真くんが王子様になってくれればいい。私をかわいがって、遊んでくれるお兄ちゃんだもの。
期待を込めてお願いしたのに「俺と和真は結愛のお兄ちゃんだから王子様にはなれないんだ」と颯真くんは言う。そして少し寂しそうに笑い、私の頭に手を伸ばした。和真くんというのは、下のお兄ちゃんだ。
「でも駿なら結愛の王子様になれる」
私は颯真くんのうしろに立つ駿くんを見上げた。
「駿くん! 駿くんが結愛の王子様になってくれるの?」
大好きな駿くんが私の王子様になってくれれば、私はお姫様になれる。
問いかけに対して、駿くんが私の目の前で膝をついて、いつものように腕を広げてくれた。私はすかさず飛び込んでいく。お日様みたいな暖かな匂いがして、ほっと安心できる腕。
駿くんは、私をふんわりとお姫様抱っこして、優しくほほ笑んでくれた。
「結愛ちゃん、僕が王子様になってもいい?」
「私は駿くんのお姫様になれる? 駿くんは本当に私の王子様になってくれるの?」
「結愛ちゃんがよければ、喜んで」
私は駿くんの首のうしろに手をまわして「王子様になって、駿くん!」と言った。
この時、いつも優しい両親と高遠のおじさまたちが、複雑な表情で私たちを見守っていたことなど気付かずに。
これにより、駿くんがなにを犠牲にしたのかも気付かずに。
矢内結愛、五歳。
高遠駿、十五歳。
両家の間で、ひっそりと約束が交わされ、私は駿くんの婚約者になった。
婚約を交わしたものの駿くんは、中学卒業と同時に留学し、高校、大学、大学院と海外にいた。
私は小学校に入学すると、長期休みのたびに駿くんの留学先を訪れては、サマースクールに参加したり短期留学をしたりして、駿くんと過ごした。
英語を頑張って覚えて、慣れない海外生活に挑戦できたのも、駿くんに会いたい一心から。
けれど、成長するにつれてわかった気になっていた。
駿くんが海外留学したのは、高遠グループの御曹司としての勉強のためだということ。
私たちの婚約は、親友同士である母たちの「お互い子どもが生まれて異性だったら結婚させたいね」という夢見がちな願いからだったということが。
駿くんが私と婚約した意味と、婚約が母たちの身勝手な夢だけではなかったと知ったのは十六歳の時。
私が矢内家の養女で……私の立場を守るために、駿くんは婚約してくれたのだ。
皮肉にも自分がお姫様になれる立場ではないと知ると同時に、私は駿くんに恋をした。
第一章 二十歳の約束
「大丈夫、だよね?」
私は姿見に、全身を映してくるりとまわった。
オフホワイトの七分袖のワンピースは、襟元と裾に紺色のラインが入って甘さを抑えている。染めたこともなければ、パーマをかけたこともないまっすぐな髪は、脇の下のラインをキープ中。
高校を卒業してから覚えたメークはナチュラルに、唇にだけ薄桃色のグロスをのせた。
三月に竣工したばかりの新居は、独特の匂いがする。
無垢の木の床に漆喰の白い壁。吹き抜けの天窓から降り注ぐのは、春らしい柔らかな光。
リビングダイニングの家具は、まだ少し余所者の表情をしている。
冷蔵庫の中には、温めればすぐに食べられる和食のおかずを準備した。
駿くんの書斎となる部屋は、残念ながらまだ段ボールで埋め尽くされているけれど、寝室だけは綺麗に整えた。これで、時差ボケで疲れていても体を休められるはず。
ようやく日本に帰ってくる主を、この新居も私もずっと待っていた。
五歳と十五歳で交わした婚約が、私にとって大切な約束に変わったのは十六歳の時。
『二十歳だ。二十歳になっても結愛の気持ちが変わらなかったら結婚しよう』
矢内家の養女だと知って、動揺して泣きじゃくっていた私に、駿くんはそう言った。
駿くんはずっと私の王子様で、憧れで、大好きで。
けれど、幼い頃の私にはまだその感情が恋かどうかなんてわからなかった。
十六歳のあの日から、私は駿くんを一人の男の人として意識して、もくもく広がる雲みたいに恋心をふくらませていった。
でも、ふくらんでいく私の恋心とは裏腹に、駿くんはなかなか日本に帰ってこなくて、私も高校生になると忙しくて、彼のところに遊びにいくことができなくなった。
インターネット電話やSNSで頻繁にやり取りはしていても、会えない日々は寂しい。
駿くんは本当なら、私の高校卒業と同時に帰国する予定だった。けれど、仕事の関係でどうしても一年延期せざるを得なくなったのだ。
それを知った時、私は不安に襲われた。私が二十歳になるまで待つって言いながら、本当は私から婚約解消を言い出すのを待っているんじゃないか、と思って。
帰国延期が決まった時、私は「本当は日本に帰ってくるつもりなんてないんでしょう!」と駿くんに怒鳴った。
それから「駿くんが帰ってこないなら、私が駿くんのところへ行く!」とぐずぐず泣いた。すると駿くんは「必ず帰ってくるから、結愛に新居を任せるよ」と言ってくれた。そうして建てたのがこの家だ。
高遠家のお屋敷の敷地内に建てた新居には、駿くんの意見を聞きながらも、私の夢を盛大に詰め込んだ。
駿くんが帰ってくるのを信じて、二人で一緒に暮らせる日を夢見て。
中高一貫のお嬢さま学校を卒業した後、私は高遠家のお屋敷で働きながら、新居の出来を見守り、彼の帰国を待っていた。
もうすぐ、駿くんが帰ってくる。
◆ ◆ ◆
矢内家の養女だと、私が知ったのは十六歳の夏。
私はその年の夏休みに、父方の祖母の七回忌に出席していた。
「高遠との婚約なんて、口先だけなんじゃないの?」
法事と会食を終えた雑然とした雰囲気の中、親族がそこかしこで会話している。私はお手洗いにいく途中で聞こえてきた「高遠」という言葉に思わず立ち止まり、耳を澄ました。
「あの子も十六歳になったんでしょう? 結婚できる年齢になったのに具体的な話が出ないのは、やっぱり口約束だけで、なんの確約もとれていないからじゃないの?」
「高遠と繋がりがもてるなら、ってことで正式に引き取って今後も育てることを認めたのに……どこまでも役に立たないわね」
「あんな子引き取らなきゃよかったのよ。あの女の弟と、どこの馬の骨ともわからない女との間にできた子どもなんか!」
高遠、婚約、十六歳、どの言葉も私にあてはまるものだった。
『結愛ちゃんって、お兄さんたちと年が離れているのね』
兄がいると言うと同級生たちは驚いていた。
『似ていないね』
そう言われることも多かった。
私はその場から抜け出して、タクシーで高遠家に乗り付け、その時たまたま帰国していた駿くんに会いに行った。
両親にも兄たちにも真実を問いただすことはできない。
駿くんが日本にいてよかった。
でなければきっと私は夏休みをいいことに、駿くんのいる外国まで向かったに違いない。
日曜日でお屋敷にいた駿くんは、仕事の時とは違う普段着姿だった。
ジーンズに貝ボタンの並んだ明るいグレーのポロシャツ。
制服姿だった私の突然の訪問に驚きながら、駿くんはいつもと同じ優しい笑みを浮かべる。
そんな彼に向かって、私は言った。
「十六歳になったよ。もう結婚できる年だよ。なのにどうして駿くんは結婚の話を進めないの? 私がお父さんとお母さんの実の娘じゃないから?」
言葉にして初めて、涙がぽろぽろこぼれた。
「なんで? どうして?」、そんな言葉ばかりを口走った。
三歳の七五三から始まった家族写真。
幼稚園の入園式、小学校の入学式、颯真くんや和真くんの成人式でも節目ごとに家族みんなで写真を撮ってきた。家族の証のようなそれらがガラスが割れてバラバラになるように飛び散っていく。
「結愛……落ち着いて。矢内のおじさんたちに確認する。結愛には今、おいしいケーキと紅茶を準備させるから。ここで待っていて」
駿くんの部屋の応接スペースで私はソファにもたれかかって泣いていた。
両親の子どもではなかった、兄たちの妹ではなかった。
一瞬で自分が軽い存在になって、紐の切れた風船のような頼りない存在になった気がする。
駿くんは部屋に戻ってきて、まずあたためたタオルを渡してくれた。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をふいても、また出てきてしまうから顔を押さえた。
テーブルのほうからかちゃかちゃとケーキと紅茶が準備される音がする。
駿くんは私の隣に座ると、そっと肩を抱き寄せてくれた。いつも安心できるその腕に私は甘える。
「矢内では一切話題にしないように厳命されていたはずだけど、今のご当主に代わってから拘束力が薄れたみたいだね。おじさんたちには一応許可を得たから、僕から説明する。なにが聞きたい?」
「私のお父さんとお母さんって誰?」
「結愛のお父さんは……矢内のおばさんの弟だ。結愛は姪で、颯真たちとは従兄弟になる。結愛が二歳の時、家族の乗った車が事故にあった。結愛だけが助かったけど、君はその時の事故のショックで記憶を失ったらしい。他に身寄りがなかったから、姉であるおばさんが結愛を引き取った。君が二十歳になったら、君のご両親が真実を知らせるつもりだったんだ」
「お母さんは?」
「それは、ごめん。結愛のお父さんが愛した女性としかわからない。その女性も身寄りがなくて、事情があって素性を隠していたようだ。だから結愛のお父さんも結婚してからは居場所を一切知らせてこなかった。毎回、消印は違うけれど、季節ごとに写真が送られてきていたらしいよ。結愛の小さな頃の写真があるのはそのおかげだった。事故が起きた時おばさんのところに電話が来たのは、お父さんがもしもの時に備えておばさんの連絡先を書き残していたからだ」
実の父は母の弟だった人。実の母は事情を抱えた謎多き女性。
親戚たちのどこの馬の骨ともわからない女という発言は、そこからきていたのだ。
けれど、ささやかでも矢内家と血の繋がりがあって私はほっとしていた。
母は伯母で、兄たちは従兄弟になるけれど、それでも誰の子かわからない他人であるよりずっとマシに思えた。
駿くんの手が私の肩を優しくなでる。
実の娘でなかったショックは大きくて、それでも姪である事実に救われて、そして家族は確かに私を大事に育ててくれたことを思い出す。
私は体を起こして駿くんのポロシャツを掴む。
「駿くんは……知っていたんだよね?」
「知っていた。事故の連絡がきておじさんたちは病院にかけつけた。その間、颯真たちはうちに預けられていたし、それは結愛が退院するまで続いたから。退院してからも、しばらくの間みんなうちで生活していたんだ」
昔からなにかあれば、矢内の親族ではなく高遠の家を頼りにしていた。
母方の実家だと思って過ごせばいいと、清さんたちには言われていて、私は孫のようにかわいがられた。
そんな幼稚園の頃の記憶が、ぼんやりとある。
だから私は駿くんもお兄ちゃんだと思っていた頃があったし、高遠のおじさんとおばさんのことも父と母のように慕っていた。
「私を……引き取るのは反対だったって……聞いた」
「そんなことまで話していたのか」
駿くんはあきれたように言って「再度厳命したほうがいいな」と呟く。
『高遠と繋がりがもてるなら、ってことで正式に引き取って今後も育てることを決めたのに……』
親戚たちは、そうも言っていた。
「私に事情があったから……駿くんは私と婚約したの?」
母親たちの身勝手な願望じゃなかった。私たちの婚約には、もっと切実な事情が隠されていた。
五歳と十五歳で婚約を交わすという不自然さに、私はいつからか目を背けていたのかもしれない。
「結愛」
「そのためだけの婚約で……本当は結婚する気なんかない? 私は十六歳になって、もう結婚できる年になったのに、なんにも決まっていないのは口先だけの約束だったから?」
「結愛、落ち着いて……」
「そう、だよね、私たち十歳も違うんだもの。駿くんからいつ婚約解消されるかってずっと不安だった。でも駿くんは言わないから……大人になれば、このまま結婚できるんじゃないかって。駿くんは待ってくれているんじゃないかって」
「そうだよ、結愛。僕は待っている。君が大人になるまで僕は待つ」
「私、もう大人だよ。十六歳になったんだもの、結婚だってできる!」
自分がなにを言っているのか、もうわからなかった。
実の娘でなかったことのショックと、駿くんとの婚約の本当の理由に気付いて混乱していた。
私たちの関係は、仲のいい兄妹のような距離から変化していない。
本当は駿くんにとって最初から、私は婚約対象になるはずのない存在だった?
駿くんは私のために犠牲になったの?
婚約を解消しなかったのは私の立場を守るためだけで、そこに彼の意思はまったくなかった?
「結婚……する気なんてなくて。私のために駿くんは、犠牲になっただけ?」
ぽろぽろ、ぽろぽろと見開いた目から涙がこぼれ落ちていく。
私は家族の一員ではなくて、婚約は立場を守るためだけのもの?
「結愛! 僕は犠牲になったわけじゃない!」
「嘘っ!! 結婚する気があるなら、どうして私を恋人にしてくれないの! 私がまだ子どもだから? 高校生だから?」
私の肩を抱き寄せようとする駿くんの手を振り払う。
「それとも、矢内の実の娘じゃないから?」
私の言葉はそこで途切れた。
駿くんの唇が私の唇に触れて、それ以上なにか言うのを阻んだから。
初めて触れる他者の唇に頭が真っ白になって、目の前の駿くんが一瞬、誰だかわからなくなる。
「結愛……君はまだ結婚の意味をわかっていない。僕と結婚するってことは僕とキスをするってことだ、その先にも進むってことだ。それがどういうことかわかるか?」
怒りといら立ちが混じったような静かな口調のあと、ふたたび私の口は塞がれた。
強く押し付けられた唇はやわらかい。そんなことを考えていた直後、するりと入り込んできた舌に私は驚く。
そんなキスがあることを知識としては知っていた。でも、現実に自分の口内に他人の舌が入り込む感触は想像したこともなかった。
私を抱きしめているのは、いつもは安心できるはずの腕。
けれど、今はその大きさも強さも私を混乱させ、わずかな恐怖を生み出した。
どうやって息をすればいいのかわからなくて、ただ駿くんの舌に翻弄される。なにが自分の身に起こっているのか把握できない。
家族のようで兄のようで一番信頼していた彼が、男の人だと意識した瞬間。
「やっ! やだっ、駿くん、嫌っ!」
私が駿くんを怖いと感じるなんて、初めてのことだった。
「怖がらせてごめん。でもわかっただろう? 結愛が今、僕に抱いている気持ちは思慕や憧れでしかない。結愛の気持ちがそうである限り、僕も君をそういう対象として見るわけにはいかない。結愛が僕を一人の男として見てくれるようになったら……僕もきちんと向き合う。結愛はまだこれからたくさんの人と出会う。世界が広がっていく。今は恋がわからなくても、僕以外の男に恋する可能性だってある。僕はそういう君の可能性をつぶしたくはない」
涙でぼやけている視界の中に、駿くんの真摯な眼差しがあった。それは、今までと同じ私の知っている駿くんの姿。
でも唇には、激しい熱の余韻が残っている。
「二十歳だ、結愛。二十歳になるまでに他に好きな男ができたら、僕たちの婚約は解消しよう。僕を恋愛対象として見られない時も同じだ。結愛の僕への気持ちが憧れから恋心になり、それが二十歳になっても変わらなかったら、その時は結婚しよう」
「その間に駿くんに好きな人ができたら? それでも解消するの?」
「僕から解消することはない。だから結愛は……あと四年、自由にしていいんだ。僕じゃない男を好きになってもいい」
「私は駿くんが好き」
そう、私は駿くんが好きだ。それは幼い頃から変わらない。
でも駿くんは、寂しそうに私を見て言った。
「うん、知っている」
「こういう好きじゃ、だめなの?」
「……二十歳になっても変わらなかったら、その時はね」
だめとも、いいとも言わずに、駿くんは「二十歳」と期限を区切る。
「婚約者」とは名ばかりで、昔からよく知っていて、ずっと仲良くしてくれる憧れの兄のような存在でしかなかった駿くん。私は彼を、この時初めて一人の男性として意識した。
憧れと恋の違いもわからずにいた私が、恋に囚われ始めた日。
そして「二十歳」という約束に縋りつき始めた日。
◆ ◆ ◆
お屋敷の裏口から続く小道を抜けると、駿くんは立ち止まって新居を見上げた。
「図面や画像では見ていたけど……実物はやっぱり違うな」
駿くんが感嘆の言葉をもらす。
本当は空港まで迎えに行きたかったのに、そのまま一度会社に挨拶に向かうと言われてしまったので、お屋敷に戻ってくるのを待っていた。
駿くんの帰りを待っていたのは私だけじゃない。
お屋敷で働く人たちも、心待ちにしていたのだ。みんなで並んで出迎える。
そうしてひとしきり話したあと、やっと私は新居を案内することができた。
設計士さんにお願いして建てた家は、伝統的な洋風建築のお屋敷とは違う、モダンな佇まいだ。表から見える場所には細長い窓しかなく、シャープな外観をしている。直線的なデザインをやわらげるために、白い壁に、一部こげ茶の板や石のタイルを張ってぬくもりを出した。
駿くんは家を建てると決めた時、ほとんどのことを私に任せてくれた。
最初は私が考えていいのかと躊躇ったけれど、駿くんは「結愛も一緒に住む予定の家だろう?」と私に未来を示唆してくれた。
帰国が延期になって、「日本に帰る気がないんだ!」って泣いた私を宥める意味もあったのかもしれない。
家づくりはいろんなことを決めていかなければならない。
その都度駿くんに相談して、密に話して、離れている寂しさを埋めていった。
私は駿くんに家づくりを任されて、その使命のおかげで帰国が延期になった一年を乗り越えられたところがある。
「駿くん、入って」
私はドキドキしながら、木目調のドアを開けた。
家に入る駿くんの背中を見て、なんだか泣きたくなる。
やっと、やっと駿くんが日本に帰ってきた。
今までは帰国しても、一週間も経たないうちに、すぐに海外へ戻っていった。もうそんな彼を見送る必要もない。
この空間に駿くんがいて、そしてこれからはずっとこの家で過ごしていくのだと思うと、胸がいっぱいになってくる。
玄関の高い天井を見上げる駿くんの横顔に、帰国したばかりの疲れは見えない。
お正月に会った時より髪が少し伸びただろうか。年を重ねても駿くんはあまり変わらないように思える。
いつまでも、私にとっては憧れの王子様のまま。
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