君のすべては僕のもの

流月るる

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1巻

1-2

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 駿くんは一通り玄関を見回したあと、私に視線を向けた。

「結愛、ただいま」
「うん、おかえりなさい」

 日本に帰ってくるたびに繰り返した言葉。
 同じ言葉のはずなのに、違う気がするのはなんでだろう。
 物心ついた頃から、海外留学していた駿くんとは、離れていることのほうが多かった。それなのに、駿くんに恋をして、私の中で婚約の意味合いが変わって、離れていることがだんだんつらくなったのだ。
 でも、もう離れなくてすむ。

「やっと帰ってこられた」

 ほっと安堵あんどしたような駿くんの声は、その言葉を深く実感しているように聞こえた。

「うん、やっと帰ってきてくれた」
「結愛、おいで」
「…………」

 駿くんは変わらない。
 私にとって、駿くんは十歳も年上で、気付いた時にはもう大人の男の人だった。
 無邪気むじゃきな子どもだった頃は、私は広げられたその腕に素直に身をゆだねられたのに。
 お姫様抱っこされるのが嬉しかったのに。
 私はもう素直に腕に飛び込める、小さな女の子じゃない。
 たとえ駿くんに……いまだに子どもだと思われているとしても。

「駿くん……私もう子どもじゃない」

 もうすぐ二十歳になるよ。
 気楽に腕を広げた駿くんへ抗議の意味も込めて、ねてみせる。

「子どもだなんて思ってないよ」

 それでも、昔のように無邪気むじゃきに抱き付くことはできない。
 だって触れれば、私だけがドキドキしているのを見抜かれてしまう。
 私だけが意識しているんだって思い知らされる。

「結愛、僕は日本に戻ってきた。こうして一緒に住むための家もできた。僕がいない間に……二十歳になるまでに、結愛はいつでも自由になれた。猶予ゆうよはあと少しだ、結愛」
「なんで、そんなこと言うの?」

 駿くんが「結愛は自由だ」と言うたびに不安だった。
 突き放されている気がしてしまうから。

猶予ゆうよなんていらない。私は早く駿くんと結婚したいのに……」

 このまま帰国しなかったらどうしようって、心配だった。それに、二十歳を過ぎたら過ぎたで、また別の言い訳をされて結婚を先延ばしにされたらどうしようって不安だったのに。
 今帰ってきたばかりの駿くんが、またどこか遠くへ行きそうに思えて、帰ってきた実感がなくてすがりつきたくなる。

猶予ゆうよはいらない?」

 駿くんがわずかに目を細めて、低くかすれた声を吐き出した。
 いつも優しく私を見つめてくれていた眼差まなざしが、るようにつらぬく。
 私にとって駿くんは小さな頃から誰よりもよく知っている人。
 スーツ姿も、緩みなどひとつもないネクタイの結び目も、額にかかるまっすぐな髪も、穏やかな笑みを浮かべる口元も。
 けれど、この瞬間、初めて私は駿くんが知らない男の人に見えた。
 駿くんが私の腕をつかんで引き寄せた。いつもなら、ふわりとやわらかく背中にまわされる腕が、今はきつく激しく私を抱きしめる。
 それは家族のような、兄のような親しみのある抱擁ほうようとは違っていて、力強さとか、男っぽい香りとかを感じさせるものだった。

「しゅ、駿くん?」
猶予ゆうよはいらないんだろう? 結愛、ここでは僕たちは二人きりだ」

 耳元に吹き込まれた声音こわねは、聞いたこともない熱をはらんでいた。私の心臓は急激に音をたてて存在を主張する。
 二人きりになることなんて、これまでだって何度となくあった。
 腕を広げられれば、私は無邪気むじゃきに飛びついていたけれど、思えば駿くんからこうして手を伸ばされたことはあまりない。
 ましてや、私の髪に指をからめたり、首筋に鼻を押し付けたりするなんて。
 混乱と緊張と羞恥しゅうちで、私の心臓は口から飛び出そうなほどドキドキしている。キスでふさがれているわけでもないのに、息の仕方さえ忘れそうだ。
 咄嗟とっさに逃げ出そうと腕を動かすと、不意にこめかみに唇が押し当てられた。かするような軽いものではなく、強く長く感触を覚えさせるように。

「結愛、家の中を案内して」

 やがて駿くんはするりと私から離れた。
 私の混乱など放置して玄関を上がっていく。

「結愛」

 名前を呼ばれて差し出された手に、反射的に指を伸ばした。


 部屋の中なのに、なんで手をつないでいるんだろう。
 疑問を抱いても口にはできない。
 駿くんとこうして手をつないだのは小学生以来だ。それに、こんなふうに指と指をからめるようなつなぎ方はしたことがなかった。
「こっちがリビング、こっちがダイニングとキッチン」などとモデルルームの案内人のごとく説明しながらも、私は動揺しっぱなしだった。
 この家に入ってから、駿くんの雰囲気が違う。
 からんだ指先でいたずらをするみたいに私の手の甲をなぞったり、振り返って抱き寄せるみたいに腕を伸ばしては「結愛、こっちはなに?」と収納の扉を指したりする。
 距離が近付くたびに、駿くんの体温とか匂いとかを感じて、私はただただ混乱していた。

「結愛の部屋はここ?」
「うん」

 二階に上がって、ファミリースペースの向かいにある扉を開く。
 壁の一面だけ淡い紫色の小花模様の入った壁紙を貼った部屋は、カーテンとベッドカバーも似た色合いとデザインにして、ヨーロピアンと北欧風ほくおうふうが混じり合ったような雰囲気だ。
 窓辺にカウンターデスクと収納棚をそなえ付けたので、部屋にある家具はベッドだけ。
 高校を卒業してから、私はお屋敷に住み込みで働いている。私の荷物はまだそこに置いたままだ。
 この家に私の部屋も準備するように言われたけれど、一緒に暮らしていいのか自信がなかったから。

「荷物はまだ入れてない?」
「うん。駿くんに聞いてからにしようと思って。あ、ここが駿くんの寝室」

 駿くんの寝室の壁紙は一部が暗いグレー。ここにも大きなベッドが入っているだけだ。
 駿くんは部屋に入ると、ベッドのスプリングの具合でも確かめるかのように、そこに腰をおろす。手をつないだままの私は自然にその隣に座る形になった。
 不意に「ここでは僕たちは二人きりだ」という駿くんの言葉がよみがえる。
 今までは帰国すると駿くんはお屋敷で過ごしていた。当然そこには、お屋敷の使用人たちがいて、二人きりになることはない。
 思えば駿くんは、私が成長するにつれて二人きりになることを避けていた気もする。
 ここは駿くんの寝室で、私たちは彼のベッドに並んで座っていて、この家には完全に私たち二人だけだ。
 そう意識した途端とたんつないでいた駿くんの手に力が加わった。
 まるで私が逃げ出そうとしたことに気付いたみたいに。

「結愛はどうしたい?」
「え?」
「二十歳になるまでは、けじめをつけてお屋敷にいる? それとも今夜からここで暮らす?」

 私は、駿くんがやっと日本に帰ってきたことと、一緒にいられることだけで嬉しいと思っていた。
 ここに二人で住むつもりで家づくりだってしてきた。
 駿くんは私を見つめながら、ネクタイに手をかけてゆっくりと緩めた。
 その仕草が色っぽくて、ほおがかあっと熱くなる。
 きっと今、私の顔は真っ赤になっている気がする。

「結愛、僕たちはずっと離れて暮らしていた。婚約は名ばかりで、顔は合わせていても、兄と妹のような関係でやってきた。でも、僕は君の兄ではないし、君は妹じゃない」

 あたりまえのことを、あえて口にした駿くんに私は驚いていた。

「結愛……わかっている?」

 私はいつのまにか口の中にまった唾液だえきをこくんと呑んだ。
 まっすぐに私を見る駿くんの目から逃げ出したいのに、むしろひきつけられる。

「う、ん、駿くんは兄じゃないよ」
「僕を男として意識している?」
「しているよ! 私は駿くんが好きだし、今だって……ドキドキしているもの」
「結愛。男のベッドでそんな無邪気むじゃきなことを言うもんじゃない」

 つないでいた手が離れて、肩にまわったかと思ったら、背中がふわんとスプリングのきいたベッドにもれた。私の頭の横に駿くんがひじをつく。見上げた先にものすごく近付いた顔があった。

「駿、くん?」
「結愛には、僕が兄じゃないってことをわかってもらわなきゃならない」
「わかっている、よ」
「そうかな?」

 駿くんの大きな手が私のほおを包んだ。体重など一切かかっていない。けれど、駿くんから発せられる強い威圧感いあつかんで、身動きがとれない。

「二人きりだとわかっていて警戒心けいかいしんもなく、こうして押し倒されながら抵抗もしないのに?」

 ほおに触れた手がゆっくりと私の髪をく。そうしてまたほおから耳、首筋へと辿たどっていく。肌をかする長い指先は、安堵あんどよりも緊張を生み出す。
 どくんどくんと速くなる鼓動が耳に届いた。
 二人きりの静かな部屋で聞こえるのは、自分の心臓の音と緊張で吐き出す息遣いだけ。

「結愛」

 つややかな熱のこもった声が目の前の唇からこぼれる。
 同時に駿くんの親指が私の唇をゆっくりなぞった。
 そこにいるのは、幼い頃からしたってきた兄のような人じゃない。
 怖い、そう感じた自分にびっくりした。
 私の心中に気付いたように、駿くんもぴくりとふるえ、そして目を細めて私を見下ろす。
 この人は……誰?
 こんな駿くんは、知らない。
 よく知っているはずなのに、見知らぬ男の人に見えて体が勝手に固まる。

「結愛、僕にちゃんと恋をして。僕は君を一人の女性として見るし、君にも僕を男として意識してもらう。そのうえで、君には答えを出してほしいんだ」

 私は恋をしているよ、駿くんが好きだよ。
 そう言いたいのに口にできない。
 怖い、そう思う自分がいるのも事実だから。

猶予ゆうよがいらないなら、今夜からここで僕と一緒に暮らそう」

 にっこりと駿くんが綺麗きれいに笑う。
 それはいつも目にしていた穏やかな笑みとは違っていて、私はあやつられた人形のように、こくんとうなずくことしかできなかった。


   ◆ ◆ ◆


「駿くん、この箱の中身はここに出していいの?」
「ああ、あとで整理するからとりあえずそうして」

 駿くんは帰国後、土日合わせて五日間の休みを確保していた。その間にいろんな手続きをするために外出したり、荷物の整理をしたり、この家での生活基盤きばんを整えている。
 私もお屋敷の仕事はお休みして、駿くんの手伝いをした。
 駿くんはお屋敷を任せていた執事しつじ斉藤さいとうさんや家政婦の清さんに、今後の指示と私の処遇しょぐうについても話す。
 私はお屋敷内に自室を確保したまま、この家で一緒に駿くんとの生活を始めることになった。
『私が二十歳になるまで』という約束はどうやら彼らにも把握はあくされていたらしく、最初は正式に結婚が決まる前から同居を始めることに難色なんしょくを示していた。
 けれど、駿くんは「このままの距離感で結愛が結婚に応じても意味がない」というようなことを語って説得した。
 すると斉藤さんと清さんは顔を見合わせて、結果仕方なさそうに受け入れてくれたのだ。
「僕にちゃんと恋をして」と駿くんは言った。
 私はちゃんと駿くんに恋をしている。
 駿くんのことが好きだし、駿くんのそばにいたいし、結婚したいと思っている。
 でも駿くんは首を横に振る。
 まるで私の気持ちがまだ恋になっていないとでも言いたげだ。
 私は納得できないけど。
 段ボール箱から本や雑誌を取り出して、棚のいた場所にしまった。

「結愛、これもそっちに」

 と言って、駿くんが同じ棚に雑誌を置いた時、指先が触れた。
 咄嗟とっさに手を引いてしまう。
 バラバラと床に雑誌が落ちた。
 気まずい!
 一緒に暮らし始めて数日……駿くんの思惑通りなのかどうかわからないけれど、私は彼との距離感がうまくつかめなくなっていた。
 考えてみれば、こんなに長い時間一緒にいるのは初めてなのだ。
 海外留学中も長期休みには遊びに行っていたし、帰国時にも会っていた。インターネット電話だって頻繁ひんぱんにやっていた。
 好きな人がやっと帰ってきて、さらに一緒に暮らせることになった。
 喜んでいいはずなのに、私は気の休まる暇もなく、ずっと緊張した日々の中にある。

「結愛、大丈夫か?」
「大丈夫!」

 分厚い海外雑誌は重みがあるから、足先にでも落ちていれば痛いだろう。幸いかすった程度で済んだので、私はすぐに拾おうとかがんで手を伸ばした。
 駿くんにその手をつかまれて、やっぱり引こうとしたのに今度はできなかった。
 反射的に顔を上げると、私と同じように床にかがんだ駿くんが、じっと私を見る。
 熱を秘めた眼差まなざしは、帰国して時々見せるようになったもの。

「結愛。僕は意識してほしいんであって、おびえさせたいわけじゃない」
「……おびえているわけじゃない」

 駿くんは私の手首からそっとその手をずらして指をからめてきた。

「そうかな?」
「駿くんがいつもと違うから、わからなくなって……」
「違うだろうね、僕は結愛には兄のような振る舞いしかしてこなかった。男としての僕と一緒にいるのは怖い?」

 数日一緒に暮らした中で、私は確かに混乱している。
 昔と同じように優しく見守ってくれたり、同じ距離を保ったりすることもあれば、こんなふうに急激に踏み込んできたりもする。

「怖がらせたいわけじゃないし、おびえられるのも嫌われるのも望んでない。結愛が落ち着かないなら、お屋敷に戻っても構わないよ」
「怖くないの、そうじゃなくてずかしいだけなの。私の答えは決まっているし、気持ちだって変わらない! お屋敷には戻らない!」

 からみ合った手を引かれ、私は駿くんの腕の中に収められた。
 逃げ出したいと思うのは怖いからじゃない、ずかしいからだ。

「だったら慣れて」
「…………」

 返事の代わりに、私は強張こわばった体から少しずつ力を抜いた。
 今までは大好きだった腕の中。安心して身をゆだねられた場所。
 でも今はドキドキのほうがまさって、落ち着かない。
 男として意識させられて、私の中にあった駿くんへの好意がどんどん形を変えていく。
 あたりまえにあった駿くんへの「好き」という気持ちは、あこがれや思慕しぼや親愛の延長線上にあって、温かで優しいものだった。
 けれど今は、戸惑いや緊張、そして羞恥しゅうちが加わって、いろんな色がぐるぐる混ざり合っている感じだ。
 これが「恋」なら、心臓がいくつあっても足りないと思う。
 駿くんの手が私のほおを包んだ。
 その合図のような仕草に、私は反射的に目を閉じる。
 額にこめかみにほおにとってくる唇は、私の中に一つずつ熱をともしていく。
 小さいけれど力強いその熱は、いずれ体中に広がっていきそうだ。
 キスは唇以外の場所にそそぎ、手は腕や背中などに触れていく。

『駿くんこそ私のこと、どう思っているの!?』

 そう、最初にこんな風に触れられた時に聞いた。
 すると駿くんは、『二十歳になるまで僕は言葉にはしない。君に流されてほしくないから』と言った。
 そうして私に触れながら『わからない?』と聞いてきた。
 駿くんは言葉でないもので、私に気持ちを伝えてくる。
 自分の勘違いだったら怖いとおびえる時もあれば、私はこのまま与えられる感情を信じていいのだと思える時もある。
 私は駿くんに「怖いわけじゃない」と示すために、勇気を出して腕を伸ばして抱き付いた。
 胸にあふれる愛しさが駿くんに伝わればいいと願って。


   ◆ ◆ ◆


 一緒に暮らし始めて数週間、私は同居生活のリズムに少しずつ慣れ始めていた。
 今日も朝からキッチンの白い天板てんばんの上に木のまな板を置いて、冷蔵庫から取り出した野菜を切り分ける。
 前日の夜からひいた出汁だしを火にかけて、二合炊きの土鍋にも火をつけた。
 炊飯器ではなく土鍋でご飯を炊くのは、少量でも早くおいしく炊けるから。
 ぐつぐつ沸騰ふっとうしたらすぐに火を弱火にしないといけないから、音に気をつけて調理する。
 昨夜のうちに下ごしらえを済ませていた、小松菜のおひたしを小鉢こばちに盛る。今日のお魚はさわら味噌みそ漬け。これはお屋敷で働く料理長からのおすそけ。焦げやすいので火加減は要注意だ。
 木目のトレイをふたつ準備して、食べ物を盛ったうつわを並べているとダイニングの扉が開く。

「おはよう、結愛」
「おはよう、駿くん」

 駿くんはまだセットしておらずサラサラの髪のままで、薄い水色のシャツと淡いグレーのスラックス姿だ。
 そうして私を背後から抱きしめてくる。
 最初にこうされた時は、びっくりしてお料理の入ったうつわをぶちまけてしまった。駿くんは笑いながら『毎朝するからすぐに慣れるよ』って言って一緒に片付けてくれた。
 その時はまさか本当に毎朝こうされるとは思っていなかったけれど。
 男としての駿くんを見せられた当初は「怖い」という気持ちが確かにあった。駿くんが同じ空間にいることにドキドキしすぎて、家事を言い訳に逃げ出した時もある。
 駿くんは、私の様子をうかがいながら、慣れ親しんでいた雰囲気を出したり、あえて壊したりして、それを繰り返すことで私を慣れさせていった。
 十歳も年上なんだから、私が彼のてのひらの上で転がされるのは仕方がないと思う。
 駿くんの手がお腹にまわって、ぎゅっと抱きしめる。
 背後から包むように抱きしめられると、駿くんの大きさがリアルに感じられる。それに、馴染なじんだ香りに安堵あんどさえ覚え始めていた。
 そうして顔を上げると、唇がってくる。
 ほおに額にこめかみに、唇以外の場所にはあますことなくキスされた。
『どうして唇にはしないの?』という問いは『歯止めが利かなくなるからだ』と憮然ぶぜんとして言われて以来、口にしていない。
 十六歳で初めてした時は、怖いだけだったキス。
 今は、どんなキスをしてくれるんだろうかと期待さえし始めている。そのたびに、私は駿くんが好きなんだなと日々想いを実感する。
 だって、駿くんを求めているから。
 兄じゃない、男としての駿くんをもっと知りたいと思い始めているから。

「緊張しなくなったな……」
「駿くんが、慣れてって言った」
「緊張していたのもかわいかったし、こうして慣れてくれるのも嬉しいけど、結愛が二十歳になるまで耐えられるかな……」

 眉間みけんにしわを寄せて、駿くんがうなる。

「耐えなくてもいいよ」

 私の誕生日はもうすぐだ。
 そして私の答えはとうに決まっている。
 こうして駿くんに触れられるたびに、本当は無理やりにでも奪ってくれればいいのにと思っている。同居し始めて、駿くんは私の思考をそんなふうに塗り替えた。
 だからといって、私からキスをしかけたり、誘ったりなんてできないんだけど。

「結愛、朝から僕を暴走させるつもり?」

 ……しないくせに、という気持ちで見上げると、駿くんが私を小さくにらむ。そして、はあっとため息をついてから、くすっと笑った。

「ここまで我慢したんだ。約束はきちんと守る。今日もうまそうだな、ごはんにしようか?」

 やっぱりあっさり私を手放して、駿くんはダイニングの椅子いすに座った。
 駿くんは知らない。
 こうして抱きしめられるたびに、私の体が変化していることを。
 体の奥に甘いものが満ち始めていることを。
 私もそれを誤魔化ごまかしたくて、食事の準備にとりかかることにした。


 駿くんは必ず最初にお味噌みそしるを口にする。お味噌みそしるは、出汁だしをきかせればお味噌みその量は少しでいい。出汁だしとお野菜のうまみとが溶けて、同じお味噌みそを使っても毎朝違う味になる。
 海外生活が長かった駿くんは、その反動のように和食が好きだ。
 そして、駿くんがお味噌みそしるを口にして、ふっと表情をゆるめたのを見て私は今日も上手にできたんだとほっとする。
 それを確かめてから私も食事を口に運び始めた。

「今夜、夕食いらないんだっけ?」
「んー。結愛のごはんのほうがおいしいんだけど。残念ながら会食が入っている」
「うん、わかった」

 土鍋で炊いた炊き立てのごはんは、ふっくら艶々つやつやしている。
 口の中に入れると甘みがふわっと広がって、とてもおいしい。
 さわらも焦げ付かずに味噌みその味が染みているし、料理長にお礼を言わなきゃ。

「結愛……二十歳の誕生日だけど」

 おもむろに切り出されて、私はおはしを置いて背筋を伸ばした。

「あ、うん」

 知らず鼓動が大きくなってくる。

「二十歳だからみんなでお祝いしたいだろうけれど、僕と二人だけでいい?」

 母からも、誕生日当日どうするつもりなのかという連絡がきていた。二十歳の誕生日は金曜日だから、家族でのお祝いは日曜日でも構わないわよ、と言ってくれたのは、この日が特別だと知っているからだ。

「駿くん、仕事は大丈夫なの?」
「結愛の大事な二十歳の誕生日だからね、昼間は仕事だけど夜はなにがあってもける」
「駿くんと二人がいい」

 大切な、ずっと心待ちにしていた二十歳の誕生日。
 特別な日はやっぱり駿くんと二人きりがいい。
 颯真くんたちは、いろいろ言ってくるかもしれないけど、そこはお母さんに任せよう。

「ああ、じゃあ、レストランを予約するから一緒に食事をしよう。そうだな、せっかくだからもっとかわいくしてもらおうか? 今のままでも結愛はかわいいけど、誕生日だからお姫様みたいになろう?」
「もうお姫様って年じゃないよ」


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