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第五話 ひまわり畑の真ん中で
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執務室を出ると、ミーシャは興奮気味に執事のヨゼフに話しかけた。
「あの……レイモンド様って、噂ほど冷たくないのですね! むしろお優しいというか」
「は、はあ? ええと、どこが……」
ヨゼフは、裏返った声で返事をして狼狽える。
「私を追い出さなかったですし……縁談の条件と違ったのに、罵りもされませんでした! それに手元にコーヒーがあったのに、投げつけなかったでしょう? あろうことか、最低限の生活まで保障していただけるなんて!」
指を組んで目を輝かせるミーシャを見て、ヨゼフは眉間に指を当てて呟いた。
「優しいの沸点が低すぎやしませんか? この令嬢、ネガティブなのか、ポジティブなのか……」
「? 何か仰いましたか?」
「いえ、何でもございません。ミーシャ様が屋敷に住まわれることが正式に決定しましたので、お部屋にご案内いたしましょう」
ヨゼフは真面目な顔に戻り、ミーシャの荷物を持って階段を登り始める。ミーシャは後に続きながら、夢見心地で屋敷の中を見渡した。
(なんだか、懐かしい気持ちがするのは何故だろう。この壁紙と、絨毯……それに、壁の絵。この角を曲がると……客室がある気がする。)
角を曲がった先には、思った通りに客室があった。ドアを開けたヨゼフは、入り口近くに荷物を下ろす。
「こちらになります。今までは客室として使っておりましたが、寝具や家具など、必要な物は揃っているはずです。足りない物があれば、お申し付けください」
部屋は屋敷内と違い、暖色で統一されていた。温かみのある毛足の長い絨毯に、天蓋付きのフカフカなベッド。精巧な細工がなされた木製のクローゼットに、丸い鏡のついた可愛らしいドレッサー。
部屋の奥には小さい暖炉まであって、パチパチと音を立てながら薪が燃えている。
「こんな……こんなに素晴らしい部屋を、お借りしてよろしいのですか……!?」
「え、ええ。まあ素晴らしいというか、この屋敷の中では小さい方ですが……」
ヨゼフがごにょごにょ言う声は聞こえず、ミーシャは胸の高鳴りを抑えてクローゼットに触れた。
壁紙も絨毯も家具も……全てが、ミーシャの「好み」だった。
今までこんな感情を、物に対して抱いたことはないというのに。ああ「好み」というのはこういうことなのだと、一瞬で分かってしまった。
派手さはないが、作り手のこだわりと情熱がこもった素晴らしい細工。一つ一つの紋様が意味を成し、神話の物語を形作っている。サンフラワー家の、金に物を言わせた華美な家具とは大違いだ。
興奮のままクローゼットの扉を開けると、一目見ただけで良質と分かる絹のドレスや、暖かそうなコートなどが所狭しと詰まっていた。
「あら、どなたかのお洋服が……」
「いえ、それはこちらでご用意してあったミーシャ様のお洋服です。好みと合うか分かりませんが、手持ちも少ないようですので、しばらくはそちらを。ご要望があれば追加で発注を……」
「こんなに沢山のお洋服を、私に……!?」
ミーシャは驚きのあまり後退りし、ぽかんと口を開けたまま座り込んだ。
その様子にヨゼフも驚き、しばらくすると笑いを堪えるような表情になる。
「こちらだけでなく、社交界用や外出用の夏服もご用意がございます。別室で保管しておりますが……ご覧になりますか?」
「これ以外にも……?」
呆然としているミーシャに手を差し伸べ、ヨゼフはにこやかに続けた。
「ドレッサーの中もご覧になりませんか? 私がセレクトしたもので恐縮ですが、アクセサリーや化粧品なども、良質なものを取り揃えております。寝具やカーテンはありものですが、お望みでしたらお取り替えして……」
「け、結構です! あの、ドレッサーの中を見るのは後日にしておきます。私には刺激が強そうですので……」
だんだん面白くなってきたのか、ヨゼフは横を向いて震えている。ミーシャは回らない頭を抱えて、ヘロヘロと立ち上がった。
「まだお身体も冷えていらっしゃるでしょうし、お風呂に入られますよね? 浴場は一階にございます。入浴補助のため侍女を雇う予定でしたが、ご連絡なくいらっしゃいましたので準備が間に合わず……」
「入浴補助なんて、とんでもない! 自分のことは自分で出来ます」
「ミーシャ」の幼い頃は分からないが、物心ついてから入浴は一人で行っていた。
「貴族の令嬢が、一人で入浴なんて……。まあ本日の入浴はともかく、侍女のメイドはつけますので」
「私なんかに侍女なんて、結構です!」
「いえ、つけます。伯爵家の妻に一人の侍女もついていないなんて、旦那様の外聞を悪くしますよ?」
ミーシャは「でも……」と黙り込んだ。サンフラワー家ではメイドがついていないどころか、自分がメイドのように働いていたのだが……世間一般ではそうなのか。
「ああ、ではこう言った方が宜しいでしょうか。侍女はすでに雇用されていますが、ミーシャ様が拒否されるならば、解雇することになります。彼女の働き口を奪うのとになりますが」
メイドの少女を路頭に迷わすわけにいかず、押しに負けてメイドがつくことになった。サンフラワー家からミーシャが到着する日時の連絡が無かったので、実際にメイドが来るのは一ヶ月後になるらしい。
ヨゼフは浴場の場所を伝えると、満足げに部屋を出て行った。
・・・・・
入浴を終えてネグリジェに着替え、ミーシャはベッドに横たわる。たっぷりの温かいお湯や上質な石鹸を使い、ゆっくりお風呂に入るのは初めてだった。
フカフカなベッドは肌触りが良く、ほのかに花の香りがする。その香りに包まれると安心出来て、うとうとと心地良い眠気が襲ってきた。
(恐ろしい辺境に嫁ぐと聞いて、怯えていたけれど……。ここには私を怒る人も、害する人もいないのね。殺されかけたりすることもないし。初めてきた場所なのに落ち着くのは、命の危険がないからかしら……。)
夕御飯を運んできたヨゼフが見たのは、ベッドの上で猫のように丸まって眠る、ミーシャの姿だった。ホワイトプラチナの長い髪が大きく広がり、陶器のような白い肌は桃色に上気している。その姿はまるで、作りたてのビスクドールのようだった。
布団をかけるためヨゼフが近付くとミーシャの長い睫毛には涙が溜まり、キラキラと輝いていた。
「どんな夢を見ているのやら……。願わくば夢の中ぐらい、幸せでありますように」
ヨゼフはベッドのサイドテーブルに食事を置くと、静かに退室して行った。
・・・・・
翌朝。ミーシャの部屋を訪れようとしていたヨゼフは、廊下で驚きの光景を目にして立ち止まった。
「……ミーシャ様!? 何をしていらっしゃるのです……!?」
「あ……お早うございます、ヨゼフ様。何をしたら良いか分からず、取り急ぎ廊下のお掃除を……。お食事をお作りした方が宜しかったでしょうか?」
粗末なワンピースにエプロンをつけたミーシャは、額を流れる汗を白い腕で拭った。ミーシャの周りには箒と雑巾つきブラシ、ハタキが一人でに動いており、本人は雑巾で窓を拭いている。
ヨゼフはしばらく固まった後、呆れた顔で眼鏡を指で押し上げた。
「……貴方は形式上、旦那様の妻になられたのですから、そんなことはしなくて良いのです」
「しかし置いてもらっている身ですし、家では……」
「はっきり言いますが、貴方の家は常識外れです。とても貴族の令嬢としての振る舞いではありません。一旦全て忘れてください」
「そ、そんな……」
「それに貴方、元王太子の婚約者でしょう。王妃教育をされていたはずでは? ここでは、王妃になったつもりで振る舞ってください」
ミーシャはショックを受けた顔で、しょんぼりと立ちすくんだ。その間も、魔法掃除具がパタパタと掃除を続けている。
「後ろの箒やハタキも! こっそり魔法を使っていますね!? 今すぐ掃除をやめて下さい!」
「は、はい……」
廊下の広範囲がピカピカになっているのを確認し、「とんでもない令嬢を迎えてしまいましたね……」と、ヨゼフはため息を吐く。
「そのボロ雑巾のような服を着替えて、大人しくクローゼットの中の新しいドレスを着てください」
「あんな高価なドレス、おこがましいです。それにこれ、家から持参した一張羅なのですが……」
「……後で持ち物を確認させてください。思い入れがある物でなければ、全て処分しましょう。必要なものは新品をご用意しますから。……とにかく、旦那様に相応しい格好でなければ、部屋から出しませんからね! ほら、着替え!」
ヨゼフに部屋に押し込まれ、ミーシャはしぶしぶクローゼットを開けた。
「うう……まぶしい」
クローゼットの中には、派手さはないが繊細な装飾がなされたドレスたちが、窮屈そうに並んでいる。生地に触れただけでその上質さが分かり、ミーシャの体が震え上がった。
過去にも王妃教育で登城するため、高価なドレスを着用したこともあった。しかしそれは体裁を気にする家族が用意したもので、無駄な飾りがゴテゴテ付いた華美なドレスは、儚げなミーシャには全く似合っていなかった。
そのドレスも普段は妹のダリアが着ていて、登城の際に借りただけだったのである。家にいる時はずっと同じワンピースを着用しており、その方が体に馴染んでいるほどだ。
「どれも、素敵すぎるわ……」
並んだドレスの中から一番シンプルなものを選び、恐る恐る取り出す。ミーシャの瞳と同じコバルトグリーンの生地に白いリボンの飾りがついた、美しいドレスだ。
身につけてみると、ぴったりと肌に吸い付くように柔らかい。外側は厚手の生地なのに、重さを感じないほど軽やかだ。
「もしかしたら……似合っている、かもしれない」
鏡に映った自分の姿を見て、無意識にそう呟いていた。初めての感情に、緩む頬を手のひらで押さえる。
深みのあるグリーンのドレスに、柔らかにウェーブを描く白金の髪が映えていた。クルリと回ってみると、たっぷりとしたフリルがふわりと大きく円を描く。
廊下からヨゼフの咳払いが聞こえ、慌てて身支度を整える。王妃教育で習ったことを思い出し、軽く化粧をして、髪飾りを選んで……。
「ど、どうでしょうか……」
おずおずと廊下に出たミーシャを見て、ヨゼフは黙って眉を上げた。
「……良いでしょう。良くお似合いです。今後は侍女がつきますから、メイクや髪はもう少し華やかにするとして……本日は、及第点です」
「ありがとうございます……!」
似合っている、などと褒められたことは初めてで、ミーシャは綻ぶように微笑んだ。
ヨゼフはその笑顔に見惚れた後、我に帰ったように咳払いをする。
「私は午前中別の仕事がございますから、屋敷内を見て回られてはいかがでしょうか? 詳しい説明は午後いたしますので。……旦那様の執務室と、プレートのかかった部屋以外は、自由にお入りいただいて結構です」
・・・・・
ミーシャは軽やかな足取りで、屋敷の中を探検していた。
初めて、人から褒められた。
それに、自分の意志で「好きな」ドレスやアクセサリーを選んだのも、初めてだった。
今までは「好き」という感情が分からなかったのに、ここに来てから色んな「好き」が見つかる。
与えられた温かくこじんまりとした部屋も、柔らかく肌に馴染むこのドレスも、お風呂で使った花の香りがする石鹸も……とても好ましく感じた。
「好き」を見つけるたび、何も無かった自分が、形作られていく気がする。
浮き足だった気持ちで撫でた階段の手すりまでも、滑らかで優しく、愛おしく感じた。
そんな気持ちで階段を降りていると、いつの間にか屋敷の地下に来てしまっていたようだ。大理石の敷かれた地下は屋敷の中でも一際寒く、ひやりとした空気が足元から登ってくる。
戻らなければ……そう思っているのだが、自然と足が廊下の奥へと進んでしまう。足音だけが響く廊下で引き寄せられるように辿り着いた先には、金のプレートのかかったドアがあった。
(このドア……知っている。開け方も……)
ミーシャは催眠にかかったように、古びた真鍮のドアノブに触れた。そのままある歌の一節を口ずさみながら、メロディに合わせて魔力を流す。
カチリ、と小さな音を立てて、鍵が開いた感覚があった。ミーシャは不思議と落ち着いた気持ちで、ゆっくりとドアを開く。
部屋の中は、小さな隠れ家のようになっていた。
近くにあったランプに光を灯すと、大小様々な本で埋め尽くされた壁が照らし出される。国の歴史や伝承、御伽噺や子供向けの絵本まで……。
部屋の中央には暖炉があり、側には古びたロッキングチェアが置かれている。暖炉は長い間使われていないようで、厚い埃に覆われていた。
埃っぽい部屋の空気に咽せていると、部屋の奥に置かれていた何かにぶつかる。
ミーシャは導かれるように、「それ」を覆う布を取り外した。
それは、一枚の大きな肖像画だった。
ひまわり畑の中央で、鮮やかな野菜が入った籠を抱えている少女。
その髪は淹れたての紅茶のように鮮やかな赤で、二束の三つ編みに結われている。そばかす混じりの白い顔は幸せそうに、満面の笑みを讃えていた。
「これ……『私』……?」
ミーシャはそっと絵の中の少女に触れ、呟いた。
「あの……レイモンド様って、噂ほど冷たくないのですね! むしろお優しいというか」
「は、はあ? ええと、どこが……」
ヨゼフは、裏返った声で返事をして狼狽える。
「私を追い出さなかったですし……縁談の条件と違ったのに、罵りもされませんでした! それに手元にコーヒーがあったのに、投げつけなかったでしょう? あろうことか、最低限の生活まで保障していただけるなんて!」
指を組んで目を輝かせるミーシャを見て、ヨゼフは眉間に指を当てて呟いた。
「優しいの沸点が低すぎやしませんか? この令嬢、ネガティブなのか、ポジティブなのか……」
「? 何か仰いましたか?」
「いえ、何でもございません。ミーシャ様が屋敷に住まわれることが正式に決定しましたので、お部屋にご案内いたしましょう」
ヨゼフは真面目な顔に戻り、ミーシャの荷物を持って階段を登り始める。ミーシャは後に続きながら、夢見心地で屋敷の中を見渡した。
(なんだか、懐かしい気持ちがするのは何故だろう。この壁紙と、絨毯……それに、壁の絵。この角を曲がると……客室がある気がする。)
角を曲がった先には、思った通りに客室があった。ドアを開けたヨゼフは、入り口近くに荷物を下ろす。
「こちらになります。今までは客室として使っておりましたが、寝具や家具など、必要な物は揃っているはずです。足りない物があれば、お申し付けください」
部屋は屋敷内と違い、暖色で統一されていた。温かみのある毛足の長い絨毯に、天蓋付きのフカフカなベッド。精巧な細工がなされた木製のクローゼットに、丸い鏡のついた可愛らしいドレッサー。
部屋の奥には小さい暖炉まであって、パチパチと音を立てながら薪が燃えている。
「こんな……こんなに素晴らしい部屋を、お借りしてよろしいのですか……!?」
「え、ええ。まあ素晴らしいというか、この屋敷の中では小さい方ですが……」
ヨゼフがごにょごにょ言う声は聞こえず、ミーシャは胸の高鳴りを抑えてクローゼットに触れた。
壁紙も絨毯も家具も……全てが、ミーシャの「好み」だった。
今までこんな感情を、物に対して抱いたことはないというのに。ああ「好み」というのはこういうことなのだと、一瞬で分かってしまった。
派手さはないが、作り手のこだわりと情熱がこもった素晴らしい細工。一つ一つの紋様が意味を成し、神話の物語を形作っている。サンフラワー家の、金に物を言わせた華美な家具とは大違いだ。
興奮のままクローゼットの扉を開けると、一目見ただけで良質と分かる絹のドレスや、暖かそうなコートなどが所狭しと詰まっていた。
「あら、どなたかのお洋服が……」
「いえ、それはこちらでご用意してあったミーシャ様のお洋服です。好みと合うか分かりませんが、手持ちも少ないようですので、しばらくはそちらを。ご要望があれば追加で発注を……」
「こんなに沢山のお洋服を、私に……!?」
ミーシャは驚きのあまり後退りし、ぽかんと口を開けたまま座り込んだ。
その様子にヨゼフも驚き、しばらくすると笑いを堪えるような表情になる。
「こちらだけでなく、社交界用や外出用の夏服もご用意がございます。別室で保管しておりますが……ご覧になりますか?」
「これ以外にも……?」
呆然としているミーシャに手を差し伸べ、ヨゼフはにこやかに続けた。
「ドレッサーの中もご覧になりませんか? 私がセレクトしたもので恐縮ですが、アクセサリーや化粧品なども、良質なものを取り揃えております。寝具やカーテンはありものですが、お望みでしたらお取り替えして……」
「け、結構です! あの、ドレッサーの中を見るのは後日にしておきます。私には刺激が強そうですので……」
だんだん面白くなってきたのか、ヨゼフは横を向いて震えている。ミーシャは回らない頭を抱えて、ヘロヘロと立ち上がった。
「まだお身体も冷えていらっしゃるでしょうし、お風呂に入られますよね? 浴場は一階にございます。入浴補助のため侍女を雇う予定でしたが、ご連絡なくいらっしゃいましたので準備が間に合わず……」
「入浴補助なんて、とんでもない! 自分のことは自分で出来ます」
「ミーシャ」の幼い頃は分からないが、物心ついてから入浴は一人で行っていた。
「貴族の令嬢が、一人で入浴なんて……。まあ本日の入浴はともかく、侍女のメイドはつけますので」
「私なんかに侍女なんて、結構です!」
「いえ、つけます。伯爵家の妻に一人の侍女もついていないなんて、旦那様の外聞を悪くしますよ?」
ミーシャは「でも……」と黙り込んだ。サンフラワー家ではメイドがついていないどころか、自分がメイドのように働いていたのだが……世間一般ではそうなのか。
「ああ、ではこう言った方が宜しいでしょうか。侍女はすでに雇用されていますが、ミーシャ様が拒否されるならば、解雇することになります。彼女の働き口を奪うのとになりますが」
メイドの少女を路頭に迷わすわけにいかず、押しに負けてメイドがつくことになった。サンフラワー家からミーシャが到着する日時の連絡が無かったので、実際にメイドが来るのは一ヶ月後になるらしい。
ヨゼフは浴場の場所を伝えると、満足げに部屋を出て行った。
・・・・・
入浴を終えてネグリジェに着替え、ミーシャはベッドに横たわる。たっぷりの温かいお湯や上質な石鹸を使い、ゆっくりお風呂に入るのは初めてだった。
フカフカなベッドは肌触りが良く、ほのかに花の香りがする。その香りに包まれると安心出来て、うとうとと心地良い眠気が襲ってきた。
(恐ろしい辺境に嫁ぐと聞いて、怯えていたけれど……。ここには私を怒る人も、害する人もいないのね。殺されかけたりすることもないし。初めてきた場所なのに落ち着くのは、命の危険がないからかしら……。)
夕御飯を運んできたヨゼフが見たのは、ベッドの上で猫のように丸まって眠る、ミーシャの姿だった。ホワイトプラチナの長い髪が大きく広がり、陶器のような白い肌は桃色に上気している。その姿はまるで、作りたてのビスクドールのようだった。
布団をかけるためヨゼフが近付くとミーシャの長い睫毛には涙が溜まり、キラキラと輝いていた。
「どんな夢を見ているのやら……。願わくば夢の中ぐらい、幸せでありますように」
ヨゼフはベッドのサイドテーブルに食事を置くと、静かに退室して行った。
・・・・・
翌朝。ミーシャの部屋を訪れようとしていたヨゼフは、廊下で驚きの光景を目にして立ち止まった。
「……ミーシャ様!? 何をしていらっしゃるのです……!?」
「あ……お早うございます、ヨゼフ様。何をしたら良いか分からず、取り急ぎ廊下のお掃除を……。お食事をお作りした方が宜しかったでしょうか?」
粗末なワンピースにエプロンをつけたミーシャは、額を流れる汗を白い腕で拭った。ミーシャの周りには箒と雑巾つきブラシ、ハタキが一人でに動いており、本人は雑巾で窓を拭いている。
ヨゼフはしばらく固まった後、呆れた顔で眼鏡を指で押し上げた。
「……貴方は形式上、旦那様の妻になられたのですから、そんなことはしなくて良いのです」
「しかし置いてもらっている身ですし、家では……」
「はっきり言いますが、貴方の家は常識外れです。とても貴族の令嬢としての振る舞いではありません。一旦全て忘れてください」
「そ、そんな……」
「それに貴方、元王太子の婚約者でしょう。王妃教育をされていたはずでは? ここでは、王妃になったつもりで振る舞ってください」
ミーシャはショックを受けた顔で、しょんぼりと立ちすくんだ。その間も、魔法掃除具がパタパタと掃除を続けている。
「後ろの箒やハタキも! こっそり魔法を使っていますね!? 今すぐ掃除をやめて下さい!」
「は、はい……」
廊下の広範囲がピカピカになっているのを確認し、「とんでもない令嬢を迎えてしまいましたね……」と、ヨゼフはため息を吐く。
「そのボロ雑巾のような服を着替えて、大人しくクローゼットの中の新しいドレスを着てください」
「あんな高価なドレス、おこがましいです。それにこれ、家から持参した一張羅なのですが……」
「……後で持ち物を確認させてください。思い入れがある物でなければ、全て処分しましょう。必要なものは新品をご用意しますから。……とにかく、旦那様に相応しい格好でなければ、部屋から出しませんからね! ほら、着替え!」
ヨゼフに部屋に押し込まれ、ミーシャはしぶしぶクローゼットを開けた。
「うう……まぶしい」
クローゼットの中には、派手さはないが繊細な装飾がなされたドレスたちが、窮屈そうに並んでいる。生地に触れただけでその上質さが分かり、ミーシャの体が震え上がった。
過去にも王妃教育で登城するため、高価なドレスを着用したこともあった。しかしそれは体裁を気にする家族が用意したもので、無駄な飾りがゴテゴテ付いた華美なドレスは、儚げなミーシャには全く似合っていなかった。
そのドレスも普段は妹のダリアが着ていて、登城の際に借りただけだったのである。家にいる時はずっと同じワンピースを着用しており、その方が体に馴染んでいるほどだ。
「どれも、素敵すぎるわ……」
並んだドレスの中から一番シンプルなものを選び、恐る恐る取り出す。ミーシャの瞳と同じコバルトグリーンの生地に白いリボンの飾りがついた、美しいドレスだ。
身につけてみると、ぴったりと肌に吸い付くように柔らかい。外側は厚手の生地なのに、重さを感じないほど軽やかだ。
「もしかしたら……似合っている、かもしれない」
鏡に映った自分の姿を見て、無意識にそう呟いていた。初めての感情に、緩む頬を手のひらで押さえる。
深みのあるグリーンのドレスに、柔らかにウェーブを描く白金の髪が映えていた。クルリと回ってみると、たっぷりとしたフリルがふわりと大きく円を描く。
廊下からヨゼフの咳払いが聞こえ、慌てて身支度を整える。王妃教育で習ったことを思い出し、軽く化粧をして、髪飾りを選んで……。
「ど、どうでしょうか……」
おずおずと廊下に出たミーシャを見て、ヨゼフは黙って眉を上げた。
「……良いでしょう。良くお似合いです。今後は侍女がつきますから、メイクや髪はもう少し華やかにするとして……本日は、及第点です」
「ありがとうございます……!」
似合っている、などと褒められたことは初めてで、ミーシャは綻ぶように微笑んだ。
ヨゼフはその笑顔に見惚れた後、我に帰ったように咳払いをする。
「私は午前中別の仕事がございますから、屋敷内を見て回られてはいかがでしょうか? 詳しい説明は午後いたしますので。……旦那様の執務室と、プレートのかかった部屋以外は、自由にお入りいただいて結構です」
・・・・・
ミーシャは軽やかな足取りで、屋敷の中を探検していた。
初めて、人から褒められた。
それに、自分の意志で「好きな」ドレスやアクセサリーを選んだのも、初めてだった。
今までは「好き」という感情が分からなかったのに、ここに来てから色んな「好き」が見つかる。
与えられた温かくこじんまりとした部屋も、柔らかく肌に馴染むこのドレスも、お風呂で使った花の香りがする石鹸も……とても好ましく感じた。
「好き」を見つけるたび、何も無かった自分が、形作られていく気がする。
浮き足だった気持ちで撫でた階段の手すりまでも、滑らかで優しく、愛おしく感じた。
そんな気持ちで階段を降りていると、いつの間にか屋敷の地下に来てしまっていたようだ。大理石の敷かれた地下は屋敷の中でも一際寒く、ひやりとした空気が足元から登ってくる。
戻らなければ……そう思っているのだが、自然と足が廊下の奥へと進んでしまう。足音だけが響く廊下で引き寄せられるように辿り着いた先には、金のプレートのかかったドアがあった。
(このドア……知っている。開け方も……)
ミーシャは催眠にかかったように、古びた真鍮のドアノブに触れた。そのままある歌の一節を口ずさみながら、メロディに合わせて魔力を流す。
カチリ、と小さな音を立てて、鍵が開いた感覚があった。ミーシャは不思議と落ち着いた気持ちで、ゆっくりとドアを開く。
部屋の中は、小さな隠れ家のようになっていた。
近くにあったランプに光を灯すと、大小様々な本で埋め尽くされた壁が照らし出される。国の歴史や伝承、御伽噺や子供向けの絵本まで……。
部屋の中央には暖炉があり、側には古びたロッキングチェアが置かれている。暖炉は長い間使われていないようで、厚い埃に覆われていた。
埃っぽい部屋の空気に咽せていると、部屋の奥に置かれていた何かにぶつかる。
ミーシャは導かれるように、「それ」を覆う布を取り外した。
それは、一枚の大きな肖像画だった。
ひまわり畑の中央で、鮮やかな野菜が入った籠を抱えている少女。
その髪は淹れたての紅茶のように鮮やかな赤で、二束の三つ編みに結われている。そばかす混じりの白い顔は幸せそうに、満面の笑みを讃えていた。
「これ……『私』……?」
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