Ocean&Blue

雪原

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1.深夜0時まで

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 マキシム・エヴァレットの大統領就任の祝賀会は、ロランス海岸、エヴァレットカンパニーの経営である老舗高級リゾートホテル「デラ・パレット」で開かれた。
 
 レイン・ドレイク陸軍少尉にしてみれば、このホテルが誰の持ち物だろうとどうでもよかった。このホテルは少尉の給料では食事をするのもためらわれるような場所だが、今は彼の上官と共にエヴァレットに招かれている。もっと言ってしまえば、今日のエヴァレットの新大統領就任の祝賀会もどうでもよかった。彼にとって大事なのは、今、自分の横で、陸軍少佐の軍礼装もきらびやかに、済ましきった顔で着座してワインを嗜んでいる、自分の上官だった。

 レインはリーフェルトの手が気になって仕方がない。レインを魅了してやまない美しい手が、優雅にワイングラスを掴み、官能的にナイフとフォークを操る。視界の端にちらつくだけで、レインの動悸が大きくなる。
 テーブルのエスプリあふれる会話も、マキシム・エヴァレットの演説も、レインの耳にはロクに届いていなかった。彼の頭を今占めているのは、その手の持ち主を、今晩どうやって口説くかだった。

「それで考えた結果がこれなんですか」
 ヒュー・リーフェルトはあてがわれた客室で、自分の部下であり、この恋でどちらかが死ぬことになるならあなたを殺す、と言った一回り年下の男を呆れたように見つめた。
 レインはベッドの端に腰かけて、うつむきながらも上目遣いで、上官であり、命がけで惚れた年上の男を見た。
「いえ、もう俺が気の利いたことをいうなんてことを、少佐は期待してないと思いまして」
 リーフェルトの形のいい、すらりと長い指が、自身の形の良い顎をつまんだ。
「期待してなかったわけではありませんが」
「……すみません……」
 レインはガックリとうなだれた。なのでレインには見えなかったが、リーフェルトはその頭を見て、面白そうに微笑んだ。

 彼は今までの三十四年間の人生で、女にも男にも何度も口説かれた。詩的な表現もあれば、稚拙な表現もあり、時には脅しめいた圧力もあった。だが、部屋に入るなりベッドに押し倒され、上ずった声で、「抱きます、いいですよね」と迫られたのは初めてだった。
 そこは男同士、そしてリーフェルトは実戦部隊の指揮官であり、優男の見た目に反して武術の師範代である。自分を押し倒しているレインをあっという間に押し返し、逆手を取ってベッドに押し倒し返して、さっさと自由の身になり、しょげている少尉を見下ろしているという訳である。

 ところで、とリーフェルトが問いかけた。
「君が私を抱くんですか」
 え、とレインが顔を上げる。
「そのつもりだったんですが」
 リーフェルトは首を傾げた。
「君、基本的にストレートでしょう?男の抱き方を知ってるんですか」
 レインはきょとんとした顔をした。それから頬を赤らめた。
「な、何とかなるでしょう」
 リーフェルトは困ったような顔をする。
「女性と同じように考えてもらっては困るんですが」
「ですよね……その、少佐は」
「はい?」
「少佐は、その……男性の経験って……どっちの……」
 耳まで赤くして聞く部下を見下ろし、ふーっとリーフェルトがため息をついた。
「私は節操ないんです。女も抱けますし、男を抱くのも、男に抱かれるのも構いません。ただ、一回りも年下の男に抱かれたことはありませんが」
「……。」
「でもまあ、いいですよ」
「えっ」
「君の好きにすればいい、と最初に言ったのは私ですからね。でも今すぐはダメです。そうですね……午前0時に来てください」
 レインは咄嗟に自分の腕時計を見た。今は午後十時を少し過ぎたところだ。
 リーフェルトは続けた。
「制服は着替えてきてください。汚したくありませんし、第一こんなにボタンが大量についている服、脱がすのも脱がされるのも手間ですよ。言うまでもありませんが、ちゃんとシャワーを浴びてきてください。必要なものは私が準備します。では、一旦解散」
 まるで軍隊の命令のごとくリーフェルトは指示を出し、レインは部屋から追い出された。

 レインが甘く考えていたのは本当のところだった。
 勢いで「抱きます」と言ったものの、男を抱いたことのないレインにしてみれば、実際何をどうすればいいのか、よくわからない。いざその場になったら、どうにかなると思ったのだ。童貞を捨てた時も、そんな感じでどうにかなった。
 レインが童貞を捨てたのは士官学校卒業の時で、その後、ラミナのようなガールフレンドと数回経験しただけで、女性経験はあったが豊富とは言えなかった。ましてや男と寝るなど、今の今まで想像したことすらなかったのである。

 対してリーフェルトは十五の頃から未亡人をたぶらかし、士官学校の後輩や、エヴァレット家の弁護士だった男と関係して、全員を「殺して」いる。リーフェルトの友人であるクジェルカははっきりとは言わなかったものの、その他にも数多の男女が彼を通り過ぎていったようなのだ。

 エグいよな、とレインは思う。それでいてあの男はご清潔そうな顔で、その瞳に影を宿し、あの綺麗な手で人を誘惑するのだ。魔性、というのはああいうことを言うのではないか、とレインは思う。
 レインはリーフェルトに命令された通り、シャワーをしっかり浴びた。困ったことに、レインの身体はこれからの情事を予測していて、すでに自己主張を始めている。
「落ち着けよ、おまえ」
 レインは”自分自身“に語りかけた。「秒で終わったらみっともないぞ」

 制服を着ていくわけにはいかないから、レインは昼に着ていたTシャツとハーフパンツを身につけた。冴えないな、と我ながら思う。もっとスマートに迫りたいのに。
 レインが腕時計で時間を確認するのはこれで四度目だった。二十三時十五分。時間が経つのが遅い。
 はぁ、とレインは自室のベッドに寝転がった。複雑怪奇な天井の装飾を眺めながら思う。我ながらこんなことになるとは思わなかった。

 リーフェルトが死に追いやった三人も、最初はこんな風にときめきながら彼と関係を持ったのだろう。そうして抜き差しならぬところまで追いつめられて、泥沼にはまったと知った時は、そこから抜け出すには死しかないことを悟ったのだ。未亡人は鉄道に飛び込み、士官候補生は屋上から飛び降り、弁護士は首を吊った。そしてリーフェルトはそのどれについても、表面上は何の感慨も抱いていないように見える。
 この前、“アヴァン”でリーフェルトと飲んだ“死神”という名のワインを思い起こす。あれはリーフェルト自身のようだった。

 自分は四人目にはならない、四人目になるくらいなら少佐を殺す、とレインは大見えを切った。だが自信はなかった。惚れたが負け、という言葉を思い出す。
 他の三人の内心は知る由もない。だけど想像はできる。惚れて、その身体まで手に入れたのに、心は手に入らない……時間が経てば愛よりも絶望の方が大きくなるのではないか。
 そうと分かっていても、リーフェルトの魔力は自分を掴んで離さない。自分だけが彼の前に跪き、愛を乞うだけの関係。きっと彼らは口にしただろう。自分の事を、少しでも愛してくれているのか、一度でいい、愛の言葉が欲しいと。

 リーフェルトはそれに対して、何を言ったのだろうか。レインは思い出す。「私は他人に興味がないんですよ」というあの言葉を。
 何を言ったにせよ、リーフェルトの言葉は三人に命を捨てさせるのだ。永遠に得ることのないものを乞い続ける地獄から、逃れたい一心で。

 うーん、とレインは唸った。……それを重々承知で、自分はリーフェルトと関係を持とうとしている。寝たら終わりだ。今度は永遠に手に入る見込みのない心が欲しいと、苦悶することになる。ある意味、身体は簡単に手に入る。愛がなくても関係は持てる。だが、心はそうはいかない。
 本当にいいのか、俺は絶対に四人目にはならないのか?……レインは悶々とした。
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