旦那様と僕・番外編

三冬月マヨ

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みくとの別れ

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「あいっててて…ひぃ~沁みるぅ~ッ!」

『ミク、何時モ傷ダラケ。身体、大切ニスル』

 薄暗い森の中で、今日も今日とてあーちゃんはみくの手当てをしていた。
 着物をはだけたみくの背中に、あーちゃんは揉み潰した薬草の汁を塗り付けていた。

「ん~…まあ、そうなんだけどねぇ~…アイツ、興奮すると手が出るんだよねぇ~…」

 開けた胸を両手で隠してみくが苦笑する。
 みくの背後に居るあーちゃんに、その表情は見えない。
 見えるのは、みくの白い背中に残る赤い引っ掻き傷だけだ。
 みくは言った。
 こんな何も無い、山に囲まれた村で、女が一人で生きて行くにはこうするしか無いと。
 何が『こうするしか無い』のかは、あーちゃんには解らない。
 解らないが、怪我をするのは納得が行かなかった。
 自分とは違い、みくは柔らかな身体を持った人間なのだ。
 鋭い爪も牙も無い、ただのか弱い人間なのだ。

『終ワッタ』

 あーちゃんがそう行って、開けた着物を肩まで上げてやれば、みくは『ありがと』と笑って、着物を整える。
 みくとあーちゃんが出逢ってから、一月ひとつきが経っていた。
 ほぼ毎日と言っていいぐらいに、みくはあーちゃんに会いに来ていた。
 それは、拾った猫や犬の様子を見に来ると云った感じかも知れないし、話し相手が欲しかったからなのかも知れない。
 来ればみくは必ずあーちゃんにおにぎりを渡して、二人で食べていた。
 最初あーちゃんは遠慮したが、みくは『ご飯は一人で食べても美味しくない』と言って、あーちゃんの手におにぎりを押し付けた。
 初めて食べた梅干しの酸っぱさに口を窄めれば、みくは腹を抱えて笑っていた。
 その笑顔は本当に無邪気で、それを見ればあーちゃんは何時も仲間から虐められている事を忘れる事が出来た。
 あやかしは人間を喰らう。
 それが、妖の世界での常識だ。
 だが、この世に生まれ落ちてから、あーちゃんは未だ人間を口にした事が無い。
 食べたいとも思わなかった。
 何故、食べなければならないのか。
 食べなくても生きて行けるのに。
 自然の恵みや、野生の獣。
 それだけで事足りるのに。
 その衝動が何処から来るのか、あーちゃんには解らなかった。
 だから、仲間からはいつも『出来損ない』だの『だから弱い』だのと、蔑まれ、時には暴力を揮われたりもした。
 ただ、その衝動が無いせいなのかは解らないが、お蔭で天に陽がある状態でも、あーちゃんはこうして自由に動ける。他の妖達は、身体が重いと言って、陽がある内は暗い闇の中に居る。
 あーちゃんがこうしておにぎりを食べている今、他の妖は暗い洞穴や洞窟、或いは木のうろの中で眠りに付いている。

 ◇

「"みく"と居る時は安らげた。楽しかった。一緒に食べたおにぎりは、何時も美味しかったよ。でもね、そんな日々は長くは続かなかったのさ…」

「…みくちゃん様…」

 西瓜すいかを食べる手を止めて、当時の事を思い出すアタイの耳に、隣に座る雪緒ゆきお君の心配そうな声が掛かる。

「ごめんよ。湿っぽくて、嫌な話だと思うけど、最後まで聞いておくれよ」

 苦笑を零しながら言えば、雪緒君は申し訳無いと云う様に首を振る。

「…はい。お聞きしたいとお願いしたのは僕ですから…。ですが、みくちゃん様がお辛い様でしたら、無理にとは申しません」

「アタイは大丈夫さ。せいは?」

「おいらも、だいじょぶだ! もう少しでとうもろこし焼けるぞ! 早くすいか食べろ!」

 アタイ達から少し距離を置いて、庭に持ち出した七輪でとうもろこしを焼いている星が、団扇片手に真面目な顔で言って来た。

「はいはい」

 軽く肩を竦めて返事をすれば『返事は一回な! 親父殿が言ってたぞ!』と、唇を尖らせて来た。
 星は本当に、あのおっさんが好きだねえ。
 おっさんの云う事ばかり聞いてて将来が不安になるよ。
 星ってば、将来はあのおっさんと同じになるのかね?
 雪緒君のダンナが頭抱えそうだわねえ。

 ◇

『ミク、何カ元気無イ。ドウシタ? 身体オカシイナラ帰ル。寝テレバ治ル』

 その日に来たみくは、青白い顔をして具合が悪そうだった。
 あーちゃんがそう言えば、力の無い笑みを浮かべて『これだけ渡したら帰るつもりだったんだ』と、手にしていたおにぎりをあーちゃんに渡した。

「ごめんよ…。…具合が、良くなるまで…暫くは来られないよ…。それ、を言いたくてさ…」

『無理ハ駄目ダ。村マデ送ッテ行ク』

「いや、気持ちは有り難いけどさ、アンタが来たら騒ぎに…」

『オレ、姿消セル。仲間…ハ、出来ナイ。ダカラ、支エテ行ク。出口、マデハ担グケド』

「…へ? わっ、またかいっ!?」

 そう言うが早いか、あーちゃんはみくを肩に担ぎ、森の出口まで歩き出した。
 そして森を出て姿を消して、みくを支えて歩いて村へ近付けば、何とも言えない嫌な空気が漂っていた。
 みくを見る、村人の目が悪意に満ちていたからだ。
 厄介者を見る様な、蔑む様な、そんな目だった。
 ヒソヒソとボソボソと、話の内容は聞き取れないが、その表情から良くない話だと想像が付く。
 みくの家へと入り、敷きっぱなしだった布団に、その身体を横たえた。
 家の中で人目が無いから、あーちゃんはみくに見える様に姿を現している。

「…悪いね。…嫌な思いを…させちまったね。何時もの、事だから、気にしな…いでおくれよ。アタイが若くて綺麗だから…妬んで…いるのさ…」

 確かにみくの言う通りに、村で見た人間は、どれも肉の硬そうな骨ばった身体をしていた。

『ソレ、自分デ言ウ事ナノカ?』

 あーちゃんが首を傾げれば、みくは目を細めて笑う。
 その笑顔は何時もの元気な笑顔とは違い、何処か儚く消えてしまいそうに見えた。

「アタイが…言わなきゃ…誰が言うんだい? 今日はありがと。…風邪だと思うから、直ぐに良くなるよ。そしたら…また会いに行くから。今日の…おにぎりは力が…入らなくてさ、崩れ易いと思うから…気を付けて…食べて、おくれよ?」

 その言葉にあーちゃんは頷き、みくの頭を軽く撫でてから再び姿を消し、人目が無いのを確認してから外へと出た。
 村から出るまでに、あーちゃんは様々な話を聞いた。

『あの女の男の一人が、病で…』、『あの女も…』、『他の男にも…』

 それらの言葉は、やはりヒソヒソとボソボソとしていて、あーちゃんには良く聞き取れなかった。
 森へ帰り、ポロポロと崩れていくおにぎりを、一人で食べた。

『ミクガ言ウ通リ、ダ…一人ハ…美味シクナイ…』

 そして数日後、あーちゃんはみくを村へ戻した事を後悔した。


 血の匂いが森の入口から漂って来ていた。
 その血の匂いには覚えがあり、あーちゃんは嫌な予感を覚えながら、その匂いのする場所へと走った。
 今日は月が消える日だった。
 今は夕方だ。
 どう云う理屈かは知らない。
 ただ、この日は妖の力が、能力が強くなる。
 全身に力が漲る。
 普段は動けない仲間達が動き出す。
 陽が完全に落ちる前に、と、あーちゃんは走った。

『…ミク…ッ…!!』

「…ああ…馬鹿だ、ね…出て来ち、まった…」

 森の入口付近に、みくが倒れていた。
 顔を殴られたのだろうか?
 頬は痛いくらいに腫れ上がり、鼻から血は流れているし、艶やかだった唇は切れて、今は血で赤く染まっている。
 這いずって来たのか、顔にも着物にも土が付いていた。
 着崩れた着物から見える白く美しかった肌は、あちらこちらに血が付いており、内出血もしている様だった。足を見れば、草履は履いていなくて裸足だった。

「…早く…お逃げ…。…役人に…アタ、イを…見られ、たく…なくて…アイツら…アタイ、を…妖に喰わせようと…ここ、に捨て…て…」

『ミク、何ヲ言ッテイル?』

 みくが何を言っているのか、あーちゃんには解らなかった。
 けど、解る事が一つだけあった。
 みくの命の火が消えようとしている事。
 ただ、それだけは理解出来た。
 白く細く綺麗だったみくの指先をそっと握れば、そこに在る筈の温もりは今にも消えそうな程に冷たかった。

「…馬鹿な…男で…さ、病が…怖く、なった…んだろ…ね…。…仲間…連れて…今日が…何の日か…忘れて…アタ、イを…殴っ、て…」

 みくは虚ろな瞳をあーちゃんへ向けて話す。
 その瞳に力は無く、あーちゃんの姿を捉えているのかすら怪しかった。

『ミク、駄目…話サ、ナイデ…』

 喉が痛くて、あーちゃんは上手く言葉を話せなかった。
 それがどうしようもなくもどかしくて、話せない代わりにとばかりに、両手でみくの小さな冷たい手を包み込んだ。
 それに安堵したのかは解らない。
 解らないが、みくはとても穏やかな顔で微笑んだ。
 血と土に塗れているのに。
 それでも。
 今まで見たどの笑顔よりも、あーちゃんには綺麗に見えた。

「…泣か…ないで…。…どうせ…アタイは死ぬ、から…食べておくれよ…そうしたら、アンタは…仲間から虐められ、なく…なるん…だろ…?」

『イ、ヤ…ダ…食ベ、ナイ…』

「馬鹿…だね…でも、そんな…あーちゃんが…アタ、イは…好き…だ、よ…だから…役人…逃げて…生きて…」

 その言葉と同時に、あーちゃんの手に包まれていた筈のみくの手が、するりと抜けて地面に落ちた。
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