色褪せない幸福を

三冬月マヨ

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【完】

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 奇跡。
 旦那様との出逢いは、そうとしか言い様がありません。
 その日から今日こんにちまで続く日々は、本当に奇跡の様な日々でしたから。

 ◇

 おにぎりを差し出した手首を掴まれました。
 大きな手です。
 天野様の手よりは小さいと思いますが、そもそも体格が違いますから、当然ですよね。
 掌や指のお腹がごつごつしていますのは、お仕事柄なのでしょうか?
 厳しい視線も、そのせいなのでしょうか?
 ですが、不思議と怖いとは思いませんでした。

『お食べになりますか?』

 もう一度、僕は目の前に立ちます、細い目をしましたお役人様に、声を掛けました。

『…貰おう。…お前は食ったのか?』

 僕の手から、そっとおにぎりを受け取りながら、お役人様がそう聞いて来ます。
 不思議なお方ですね? この避難所へ来て、初めてその様な事を聞かれました。
 お役人様方は、戸惑いながらお礼を言い、村の方々は『こんな物しかないのか』と、罵倒を浴びせて来ました。温かいおにぎりは、立派なご馳走なのですのに、と、悲しくなりました。
 お役人様の問いに『いいえ』と返事を返しましたら、お役人様は細い目を軽く見開いて『天野!』と、あやかしから僕を助けて下さった、お役人様のお名前を呼びました。
 いったいどうしたのでしょうか?
 僕がおにぎりを食べなかった事で、天野様が責められるのでしょうか?
 僕のお食事は、何時も一番最後でしたから、皆様方がお食事を終えた後にと、天野様にお話しをしたのですが。

雪坊ゆきぼう、ちょっと行こうか』

 その様な事を考えていましたら、目の細いお役人様とのお話を終えた天野様の大きな手が、ぽんと僕の肩に置かれました。
 そして『これ、貰って行くぞ』と、長机の上にあります、おにぎりが乗ったお皿と豚汁をお盆へと乗せて、片手でそれを持ち、一方の手で僕の肩を押しました。付いて来いと云う事でしょう。ですが、まだ、おにぎりも豚汁も配り終えていませんのに。それを気にします僕に天野様は『いいからいいから』と、白い歯を見せて笑います。
 ぐいぐいと押されて、よいしょと持ち上げられて、気が付いたら僕は、お役人様方が乗って来ました車の中に居ました。
 何事かと思う僕に、天野様がおにぎりと豚汁を勧めて来ます。まだ、食べていない方が居るから食べられませんと言っても、天野様は『いいからいいから』と、笑うばかりでした。
 この時に、お役人様と僕の親族の方との間で、お話がされていたのでしょう。
 真っ暗だった闇に薄い光が差し込む頃、僕は荷物とも言えない荷物を膝の上に乗せて、車の中で、かちかちに固まっていました。右隣には、目の細いお役人様が。左隣には天野様が座っています。
 一体全体、何だと云うのでしょうか? と、混乱します僕を乗せて車は走ります。がたがたと音を立てながら。小さな村が更に小さくなり、大きな川を越えて、朝焼けの桃色と紫色が混じったお空が青色になった頃に、車はこれまでに見た事も無い、大きな建物の前で止まりました。
 車から下りた僕は、思わず呆然と見上げてしまいました。二階建ての大きな大きな建物です。両手を幾ら広げても、横の幅も縦の高さにも足りません。車が置かれた敷地はとても広く、村の避難所の何倍あるのかも解りません。
 ああ、でも。
 ぐるりと辺りを見渡して、緑が…木々や草花が少ないですねと、僕は思いました。
 僕は、こちらで何をするのでしょう? と首を傾げます。村の役場の何倍もある建物です。沢山の方が働いているのでしょう。お掃除に炊事…僕が何人居ても、一日では、到底終わりそうにありません。
 目眩を起こしそうになっていましたら『こっちこっち』と、天野様に呼ばれました。
 目の細いお役人様は、既に建物の中に入ってしまった様です。他の方々は、車の荷台にあります幌を開けて、中の荷物を下ろしていましたので、お手伝いをしようとしましたら『うん、雪坊はこっちな』と、ひょいっと、妖から助けて下さった時と同じ様に、天野様の脇に抱えられてしまいました。
 何故でしょう?
 そして、そのまま天野様はずんずんと、建物の中へと入って行きます。
 すれ違う方々が『なんだなんだ』と見て来ますが、天野様は『散れ散れ』と、手を振りながら歩みを進めます。
 そして、一つのお部屋の戸を開けて、そこにあります柔らかい長椅子へと、僕を座らせました。

『ここで待っていてくれ。あ、眠かったら寝てて良いからな』

 待っていろと言われましたら、大人しく待つ以外に僕に選択肢はありません。
 眠って良いと言われましても、この柔らかい長椅子は落ち着きません。僕が眠る場所は、硬い床の上が殆どでしたから。
 天野様の背中を見送った後、僕はそのお部屋を観察する事にしました。
 重厚そうな机の上には、紐で閉じられた書類の束が幾つかあります。その脇にあります鳥の羽の飾りがついた長細い物は何でしょう?
 机の後ろには、やはり大きな本棚があり、色々な書物が収められていました。
 そこから横に視線をずらせば、やはり大きな窓があります。透明度の高い硝子は、万が一にでも割りましたら、大変な事になりそうです。
 本当に、何故、僕がこの様な処に居るのでしょう?
 ここは、僕が居て良い場所ではないと思います。
 机の上に無造作に置かれている紙一つにしても、茶色くない真っ白なそれは、とても高価な物の筈です。まかり間違って破いてしまったとしても、僕には到底弁償等出来ません。
 この、長椅子を覆っています柔らかい布も、破いてしまいましたら…。
『ひえっ』と僕は情けない声を出して、長椅子からそろそろと床へと下りました。
 硬い木の床の上で正座をして、ほっと息を零しましたが、よくよく考えなくても、僕が着ています着物は、お世辞にも綺麗だとは言えませんし、今は渇いていますが泥水で汚れていたのでした。
 慌てて僕が座っていた場所を見ますが、幸い汚れがある様には見えませんでしたので、また、ほっと息を吐きます。が。僕が乗って来ました車は大丈夫なのでしょうか? と云う不安が脳裏を過りました。天野様に乗せられました時は、まだ着物は湿っていた様に思います。車は、とても高価な物です。もしも、汚してしまっていたら…。

『待たせたな。帰るぞ』

 あわあわとしていましたら、かちゃりと戸が開き、灰色の着物を着たお方が入って来ました。その後ろに、やはり着物に着替えました天野様のお姿が見えました。
 はて? と、床に正座したまま僕は首を傾げます。
 僕に『待て』と言いましたのは、天野様です。
 こちらの、前髪で目が隠れてしまっている、初対面のお方には、何も言い付けられていないと思うのですが?

『って、何故、床に?』

 首を傾げたままの僕に、そのお方は背後の天野様を振り返ります。

『ゆかりん、ゆかりん、雪坊、お前だって気付いていないみたいだぞ?』

『高梨と呼べ! …ああ、そうか名乗って無かったか。高梨だ』

 白い歯を見せて笑います天野様に得心が行ったのか、その方…高梨様が名乗って下さいましたので、僕は床に手をついて頭を下げます。

『ご丁寧にありがとうございます、高梨様。失礼ですが、どちらの高梨様でしょうか?』

 ぴしっとした音が聴こえた気がしました。
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