色褪せない幸福を

三冬月マヨ

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【二】

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 本当に、僕は驚いていたのですよ。
 ですが、この当時の僕は、それを顔に出すと云う事が出来なかったのです。
 もう、驚く…心を動かす事象等起きない、ただただ決まった、決められた日々を過ごすだけ、この身体が動かなくなるまでそれは続く物だと、幼心に思っていましたから。
 それでしたのに。
 一番風呂と云うだけでも、槍が降るのでは思いましたのに、文字通り湯水の様に使って良いとは、何の拷問なのでしょう?
 何処にも破れや解れ、薄い処の見当たらない綺麗で柔らかい着物も、僕が袖を通しても本当に良いのでしょうか?
 心臓が止まるのではと思いながらお風呂を済ませ、お茶の間へ行きましたら。

 チョコ…ちょこれいとを差し出されました。

 真っ青なお空に、黄色いお星様が散りばめられた、きらきらとした箱は、僕の目を引きました。
 その中から、黒い小さな板が出て来て、これまでに嗅いだ事の無い匂いに、僕の心臓は更にどきどきとしました。
 奥様から片手で差し出されたそれを両手で受け取って、恐る恐る口を付けて、僕は目を丸くしました。実際に丸くなっていたのかは、解りませんが。
 ぱきりと音を立てて、口の中に入って来たちょこれいとは、そろりと舌を動かすと溶けてしまうのです。お砂糖の甘さとは違う、苦みもある甘さに、僕は更に目を丸くしました。
 ちょこれいと。
 と、僕は頭の中で繰り返します。
 これは、まさに嗜好品です。
 嗜好品の中の嗜好品です。
 次があるだなんて、僕は望みませんでした。
 ですから、忘れない様に、ゆっくりとじっくりと小さく啄んでは口の中で転がしていました。
 そんな時です。
 旦那様の手が伸びて来て僕の鼻を摘んだのは。
 何時もでしたら、誰かがこの様な…躾をする動作をしましたら、身体が強張るのですが、ちょこれいとに気を取られていたからでしょうか?
 何も気負う事等なく、僕は鼻を摘まれていたのです。
 何故でしょう?
 これは、躾なのでしょうか?
 痛みも何もない、これは躾なのでしょうか?
 僕の手とは違い、大きな手です。
 僅かでも力を入れたら、僕の鼻なんてもげてしまうと思います。
 ですのに、僕の鼻がもげる事はありませんでしたし、奥様は綺麗な箱ごと、ちょこれいとを僕に下さいました。
 本当に、明日は槍が降るかも知れません。
 そう、内心でびくびくとしていましたら、夕餉を共にですとか、僕の、僕だけのお部屋がありますとか言われて、これは槍よりも凄い物が降るに違いないと思いましたし、はて? 槍より凄い物とは何なのでしょう? と、わたわたとしてしまいました。
 物置が駄目なのならば、押し入れで良いと愚図ぐずる僕を旦那様がお布団に押し付けたのは、今はもう懐かしい笑い話で良い思い出ですね。
 健康診断にも、本当に驚きました。
 診療所は、どうしようもなく具合の悪い時にしか行かない物と思っていましたから。
 本当に毎日が驚きの連続でした。
 今思えば、それは旦那様方も同じでしたのですけれど。
 それまでの、僕の常識が…常識だと思っていた事が、ゆっくりとですが覆されて行きます。
 急がず焦らず、僕の歩みに合わせて。
 ここは、この場所は、泣いても笑っても拗ねても怒っても良い場所なのだと、ゆっくりと時間を掛けて教えて下さいました。
 それは、大変もどかしかったのだと思います。
 ですが、時間を掛けなければ、僕は受け入れる事が出来なかったでしょう。
 幼い頃から躾けられたそれは、一朝一夕で変わる物ではないのですから。
 僕の言葉遣いも、奥様は最初の頃は首を傾げていましたが。

『ゆき君が頑張って、自分なりに覚えた言葉だものね。もう、それはゆき君の言葉よね』

 と、優しく笑って、無理に直す様な事はしませんでしたが。

『ゆき君が、ここはこうした方が良いかもって思った時に役立つ様に』

 と、お伽話を聞かせる様にして、様々な言葉遣いを教えて下さいましたね。
 ゆっくり、ゆっくりと。
 何時も優しい笑顔で。
 ああ、そう云えば僕がおたえさんを『お妙さん』とお呼びした時には、大きく目を見開いて愕然としていましたね。

『わ、私も! 奥様ではなくて鞠子まりこと呼んで頂戴!』

 と、お願いされた時は、本当に困りましたが。
 だって、奥様は奥様ですから。
 奥様のお名前をお呼びしても良いのは、旦那様だけですから。
 何時でしたか、奥様を『母の様だ』と思った事がありました。
 ですが、実の母を思い出しました今は、それは違うと言えます。
 奥様は…『姉』です。その方がしっくりと来ますね。
 実際に奥様は『弟』と儚くなる時に、言葉にされていましたからね。
 あの様な場でしたのに、呆けた様な旦那様のお声が可笑しかったですね。
 あれも、奥様なりの気遣いだったのでしょうか?
 その真意を訊ねる事は叶いませんが。
 年月が経ちまして、再会したお妙さんの様子を見る限り、それは間違いではないと思います。
 お妙さん…お別れの時に、僕は情けなくも泣いてしまったのですよね。
 あの時は、何故、あんなにも泣いてしまったのか解りませんでしたが…それは、きっと…命があるままのお別れだったからなのでは? と、思いました。
 せい様とのお別れも、そうでした。
 また会える。
 生きていれば、また会える。
 それが、どうしようもなく切なく感じてしまったのでしょうね。
 それまでの、大切な方とのお別れは『死』を伴っていた物でしたから。
 会いたくても、どれ程願っても、二度と叶わない物でしたから。
 諦めて、飲み込む事しか出来なかったお別れでしたから。
 また、お妙さんが言葉や態度で示して見せた様に、僕はお妙さんの事を祖母の様に思っていましたから。
 短い間しか過ごす事の出来なかった、祖母の姿を重ねていたのでしょうね。
 そんなお別れは『季節ごとの便りを』と云う、お妙さんの提案で何とか収まった感じでしょうか?
 それが無かったら、ぐずぐずと何時までも引き留めて、引き摺っていたと思いますから。
 再会の際には、互いに笑顔で叶えられて本当に良かったです。
 お妙さんの娘さんとお孫さんには、本当に心から感謝しなければいけませんね。
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