5 / 7
番外編
とある魔王様の苦悩
しおりを挟む
その赤子は産声を上げなかった。
目は開く筈も無いが、小さな口も閉ざされたままだった。
誰もが死産かと思った時、一筋の風が吹いた。
それは、赤子の臀部を叩く様にして過ぎて行った。
その風に叱咤されたのかは知らない。
だが、その瞬間、赤子は生命の息吹を上げたのだった。
「…手間を掛けさせおる…」
遠く離れた場所で、小さく呟いた男が居た事を知る者は居ない。
◇
男の目の前で、一人の人間が倒れた。
人間達の間で勇者と呼ばれる者。
希望だと、光だと呼ばれている存在だ。
倒れた傍らには一振りの剣があった。
人々の間から聖剣と呼ばれている物だ。
が、男が持っている剣となんら変わる事は無い。
光が持つから聖剣。
闇が持つから魔剣。
ただ、それだけの事。
「…下らぬ…」
斃れた勇者を、面白くもなさそうに金色の瞳を細めて、ただ一度映しただけで、男は玉座から立ち上がる。
男が手にした魔剣を揮う事無く、傍らに控えていた魔族の手によって勇者は息絶えた。
「魔王様、これで、また暫しの平穏が訪れますね」
「次の勇者が現れるまでに、戦力を整えて置かないと」
「本当に次から次へとウザい」
「あ。また聖剣が消えた」
「光の精霊の仕業だ。素早い」
「掃除掃除」
「死体、人間の城に送り返して来ますね」
そんな言葉を耳にしながら、魔王と呼ばれた男は、床に血を流して倒れる勇者に目を向ける事無く、その場を後にする。
長い戦いが続いて居た。
魔族と人間。
魔王と勇者の戦いが。
人間は勝手に魔族を脅威だと、脅かす者だと、敵だと認定して、争いを仕掛けて来る。
魔族の方から人間に手を出した事は、唯の一度も無い。
人間から仕掛けて来るから、仕方が無く相手をしているだけだ。
自らの命を守る為に。
光の精霊から力を貰った勇者が倒れた今、また人間達は大人しくなるだろう。
そして、新たな勇者が誕生したら、また魔族に戦いを仕掛けて来るのだろう。
それの繰り返しだ。
自分が魔王と呼ばれる様になってから、どれだけの勇者を倒して来たのか。
両の手の指では足りなくなった頃、魔王は数を数えるのを止めた。
ともかくは、暫しの休息を求めて魔王は自室へと向かった。
『…っ…う…っ…う…』
ふと泣き声が聞こえて来て、魔王は目を覚ました。
枕元には窓から差し込む月の光があった。
この夜は満月だった。
『…ふ、…う…っ…』
泣き声は止まない。
頭に直接響く声だった。
僅かな苛立ちを覚えながら魔王はベッドから下り、愛用の黒いローブを身に着け外へと出た。
泣き声のする方へ。
泣き声の聞こえる方へ。
導かれる様に。
誘われる様に。
一時間程掛けて魔王が辿り着いたそこは、広大な森の中にある湖だった。
ただし、歪な。
常なら風に凪いだ湖面に、今宵の満月の夜空が映し出されているのであろうが。
湖の上には、水の塊が浮いていた。
細長い、まるで鏡の様な形をした水の塊が、幾つも幾つも。
それらには、様々な人の様子が映し出されていた。
男女問わず、赤子から成人とされる年代の者達が。
月の光に照らされたそれは、何処か神秘的ですらあった。
そして、その水鏡を覗いている物が。
眩い光に包まれていて、獣なのか人なのか、男なのか女なのか、子供なのか大人なのかは判別がつかない。
「…また、選別しておるのか…」
特に感情を乗せた訳では無いが、魔王のその声音には何処か疲れた響きがあった。
「うん。君に、また殺されてしまったからね」
魔王に声を掛けられたそれは、背後から掛けられた声に驚くでなく、ただ淡々と答えた。
その声は少年の様であり、少女の様であった。
「…こんな事に、何の意味があると云うのだ。光の精霊よ。ただ無駄に命を散らすだけではないか」
「解ってないなあ。光があるから闇がある。闇があるから光が輝く。闇に立ち向かう光ほど綺麗な物は無いんだよ?」
解らぬ。
解りたくないと、魔王は思った。
こいつが余計な事をしなければ、自分達は静かに過ごせるのに。
勇者さえ居なければ、人間達は怯えながらも、魔族に手を出す事無く日々を過ごして行くのに。
疲れた。
休みたい。
それが、魔王の本音だ。
ただ、安寧の時を過ごしたい。
戦う事無く、ただ安らかに過ごしたい。
勇者が倒れた今、暫しの安息の時は訪れる。
訪れるが、期限付きの安息の時だ。
「ねえ、そんな事よりも。見てよ、この子。面白いんだよ。これだけの闇の中に居ても、心はまっさらなんだ」
何時の事だったかは忘れたが。
魔王と光の精霊が、初めてここで出逢った時。
魔王は眩暈を覚えながら、光の精霊に問うた。
何故、ここに居るのかと。
それに光の精霊は、こう答えた。
魔王の魔力が満ちている場所だから。
光がより輝く場所だから。
と。
このナルシストが。と、魔王は思ったが口には出さなかった。
何を言った処で、こいつには通じないのだから。
むしろ、何かを言えば言うだけ喜ばせてしまう。
だから、魔王は光の精霊に話し掛ける事も、こうして出会う事も止めた。
止めた筈だった。
その筈だったのに。
ここへ来てしまったのは。
『…っ…う…っ…』
この泣き声のせいだ。
止んでいた筈の泣き声が、また聞こえて来た。
今、光の精霊が見ている水鏡からだ。
「これだけの絶望の中に居るのに、凄いよ。どうして死なないんだろう? どうして生きているんだろう? 希望なんて無いのに?」
淡々とした声の中に、何処か歓喜の様な物を滲ませて光の精霊が言った。
魔王も、泣き声に誘われる様にしてその水鏡を見る。
そこには一人の少年、いや、まだ幼児と言っても良いのかも知れない。
その男の子が、暗い部屋の中でベッドの上で頭から布団を被り、膝を抱えて声を押し殺して泣いていた。
この年代の頃ならば、情けなくとも、みっともなくとも、慰めて欲しくて、宥めて欲しくて、声を上げて泣くのだろうに。
少年は抱えた膝に顔を埋めて泣いていた。
何故、こうして隠れる様にして泣いているのだろうか。
その魔王の疑問が伝わったのか、光の精霊が言葉を紡いで行く。
「この子はね、ずっと親から虐待を受けているんだ。殴られるのは当たり前。食事だって作って貰えない。親の決まり文句は何時も同じ"気持ち悪い"、"何でお前が居るんだ"、"死ねばいいのに"って、そう言いながら殴る。蹴る。泣けば止めると思うのか。泣けば構って貰えると思うのか。そう言われて、この子は人前で泣くのを止めた。友人だって居ない。同じ年頃の子と遊んだ事も無い。まあ、こんな不愛想で、笑顔も浮かべない子と遊ぶ子なんて居ないよね。痣を隠す為に、どれだけ暑い日でも長袖を強要されて。けど、それも今日で終わり。この子は、明日施設へと送られる。ぱちんこ屋から、負けて帰って来た母親が、腹いせに、何時もはカーテンを閉めて折檻するのに、閉め忘れてね。それをたまたま回覧板を届けに来た隣人が見て、通報したんだ」
耳に慣れない言葉が聞こえて来て、その小さな男の子が、こことは違う世界の人間なのだと魔王は理解した。
そこまで詳しく過去を視たと云う事は、光の精霊はこの男の子を次の勇者にする気なのだろう。
「んん? 直ぐにはしないよ? まだまだ早いよ。もっともっと絶望を知って欲しい。絶望の中で死んで欲しい。その魂を、僕は優しく導くんだ。優しく真綿で包む様に、僕の光で包み込んであげるんだ。無い事無い事、君の事を話してあげる。魔王は本当は優しいんだって。でも、闇に染められて人を殺せずには居られないんだって。その苦しみから解放出来るのは、僕に選ばれた君だけだよって。選別意識って云うのかな? 自分は選ばれた人間なんだって囁けば、本当に面白いぐらいに、人間って有頂天になるよね? 絶望の中で、そんな話を聞かされたら、この子はどんな反応をするだろう? 誰からも愛される事無く死んだ中で、僕が愛を囁いたら、この子はどんな反応をするんだろう? うん、楽しみだね」
そっと、光の精霊に視線を送った魔王に、優しいとすら思える声で光の精霊は残酷な事を口にした。
「…他の世界に関与するのか…」
「んん? 今更だよ? まあ、この子は特別。この子の心が闇に染まるのを見てみたい気もするけどね? ああ、そうなったら次の魔王にすれば良いか。うん、君に取っても悪くは無いよね? 君が魔王になってからどれぐらい経つのかな? 君、強過ぎるから。まあ、この子はそれ以上の魔王になれるかも知れないね?」
そう、今更だった。
光の精霊は勇者となる素質のある者を、勇者が斃れる度に、こうして無限に広がる世界から探し出していた。
己が輝き続ける為に。
今更だと知っているのに、何故それが音として出てしまったのか。
ただ解るのは、この男の子は、死ぬまで孤独を味わい続けるのだと云う事だ。
光の精霊によって。
光によって、闇の中へと突き落とされるのだ。
不憫極まりないが、魔王がどうこうする事は出来ない。
異なる世界への干渉等する気も起きない。
何もしないのなら、手は出さない。
殺そうと向かって来るのならば、それに応えるだけ。
これまでと同じ様に。
ただ、それだけだ。
ただ、それの繰り返しだ。
静かな満月の夜だった。
それからも、それからも、気が付けば満月の夜になると魔王は湖に来ていた。
そして、光の精霊と水鏡を見ていた。
何故、こうしてここに来るのだろうと、内心で魔王は首を傾げる。
水鏡の中の少年は、また布団を被って泣いていた。
きつく目を閉じて。唇を噛みしめて。
同室の者に気付かれない様に。
この泣き方がいけないのだ。
我慢せずに声を出して、皆の前で泣けば良いのに。
幼い頃に受けた仕打ちで、それは出来ないのだろうが。
それでも。
何らかの行動をしなければ、誰も気付かないと云うのに。
気付かれなくて良いと、少年は思って居るのだろうか。
少年の心の内など、知りようもないが。
何時か、何時の日にか、この少年を思い切り泣かせてあげられる存在が現れるのだろうか?
それは、彼が死した後、この光の精霊がするのだろうか?
恐らくは、そうするのだろう。
そうして光に取り込むのだろう。
言葉巧みに、心にも無い愛を囁きながら。
光の愛し子だと、囁きながら。
憐れな物だな。
そう魔王は思ってから、僅かに口元を歪めた。
それは自分も同じだと。
光を輝かせる為に、自分達は存在しているのだと。
人間は光で、魔族は闇。
遥か古代より続く、世の理。
脆くも、弱弱しくも、小さくとも、懸命に生きている人間を、人の命を引き立てる存在。
それが、自分達魔族なのだ。
同情、なのだろうか?
こうして、ここへ来てしまうのは。
この少年が気になるのは。
今回見た少年は、年老いた大人たちに囲まれて白い野菜を切っていた。
それは白菜の漬物だったが、魔王は知らない。
そして、周りの大人達が優しく穏やかな目で見ている事も、少年は気付かない。
その作業を終えて、少年はその白菜の漬物を手に帰路へと着いた。
小さな小屋だと、魔王は思った。
それは、アパートと云う物なのだが、当然魔王は知らない。
ドアの鍵を閉めて、台所に漬物の入った袋を置いて、少年は涙を零した。
『…良いバイト先だなあ。いつもみんな怖い顔してるけど、嫌々なんだろうけど、バイトの度に漬物とかキムチとかくれるんだもんな…。…怒りながらも、色々とダジャレとか教えてくれたし』
ポツポツと呟きながら涙を流す、その少年の涙を拭いたいと、何故か魔王は思った。
泣きながらも、ほわりと笑う少年の姿に、何故か心がざわついた。
暫くしてから、少年は両手で頬を叩いて『よし、明日からも頑張る』と、笑った。
淀みの無い笑顔だった。
まだ微かに濡れている黒い瞳には、何の陰りも見えなかった。
「んん~。本当にこの子、馬鹿の子なんじゃないの? 何で、こうなるのかなあ? 行動まで制限するのは、流石の僕でも躊躇ってしまうなあ。どうしようかなあ」
そう言葉にしながらも、光の精霊の声は何処か嬉しそうで楽しそうだ。
自分の思い通りにならない、この少年がたいそうお気に入りの様だ。
光の精霊の力で、少年には周りの人達の好意が伝わらない様になっている。
どれだけ周りが優しくしても、伝わらない様になっている。
その筈なのに。
幼い頃の経験のせいかは知らない。
とにかく、この少年は非常に信じられない程に、打たれ強かった。
一人でこっそりと泣いては、頬を叩いて『頑張る』と己を叱咤する少年の姿を何度も見た。
『頑張る』だったり『頑張れ』だったり『負けるな』だったりを繰り返している内に、少年は青年へとなっていた。
少年が青年になる頃には、魔王も自身の変化に気付いていた。
疲れた。
休みたい。
その気持ちは、まだ胸の中にある。
あるが、それ程に焦燥感を煽る物では無くなっていた。
それに。
何時か死ぬのなら。
何時か勇者に倒されるのなら。
この青年が良いと、そう思う様になっていた。
自分が死ねば、闇の精霊が次の魔王を誕生させるのだろう。
自分の時と同じ様に。
ふと、魔王になってから自分の名を呼ばれなくなったな、と魔王は思った。
もう、遠い昔の事で、自分自身ですらその名を思い出せないが。
まあ、その様な物は不要だと、魔王は小さく笑う。
名前があろうが無かろうが、魔王が魔王である事に変わりは無いのだから。
それは、勇者も同じだ。
勇者にも名前はある。
名前はあるが、周りの者達は名を呼ばずに"勇者"とだけ呼ぶ。
この少年も、何時かは勇者と呼ばれるのだろう。
少年の名を魔王は知らない。
知らなくて良いと思う。
魔王と勇者、互いに相容れぬ存在。
戦う事を定められた存在。
ただ、それだけの存在。
それが、世の理。
少年が青年になって暫く経った頃、壮年と呼ばれるには、まだまだ早い頃。
冬の寒い夜に、彼は四角い塊に撥ね飛ばされて、その生涯に幕を下ろした。
誰からも愛される事無く、誰からも嫌われたままだったと、勘違いしたまま。
そう思わされていたままに。
「…うん。手に入れた。ふふ、楽しみだね? この子はどんな勇者になるのかな?」
光の精霊が、光に包まれて自身の前でふわふわと漂うそれに何事かを囁く。
それは小さくて魔王の耳には届かなかった。
「じゃあね、魔王。次に僕がここに来る時には、違う魔王になっているのかな? それとも、君のままなのかな? まあ、どちらでも構わないけどね?」
その言葉を最後に、光の精霊が消えた。
浮かんでいた水鏡も形を崩し、湖の中へと落ちて行った。
後に残ったのは揺らめく湖面に映る満月と、満月の光に照らされた魔王だけだ。
光に照らされた魔王の顔には、笑みが浮かんでいた。
魔王と呼ばれる者には似つかわしくない、深い慈悲に満ちた笑みだった。
湖面に映る満月を、魔王は暫し見詰めて。
そして、その金色の瞳を深く閉じた。
「…待っておるよ」
誰にともなく魔王は呟いてから、双眸を開き歩き出した。
新たな勇者が間もなく誕生する事を、皆に知らせる為に。
彼は恐らく、過去最強の勇者となるだろう。
面白い。
どの様に成長し、どの様にして、自分に向かって来るのか。
それを、自分はどの様にして迎えるのか。
楽しみだ。
「…ふ…」
声を出して、魔王は笑った。
昂る気持ちのまま、魔王は声を出して笑い続けた。
それは、満月の光に照らされた森の中、何時までも響いていた。
この時の魔王は、まだ知らない。
生まれた傍から、死に向かう勇者の命を救う事になる事を。
その時、魔王は思ったのだ。
人前で泣かないと決めたのは良いが、限度と云う物があるだろうと。
この勇者は、下手したら自分と対峙する前に死ぬかも知れないと。
そうならない様に、勇者を守らなければならないと。
謎の使命に胸を燃やし、魔王は今日も陰からこっそりと勇者を見守るのだった。
目は開く筈も無いが、小さな口も閉ざされたままだった。
誰もが死産かと思った時、一筋の風が吹いた。
それは、赤子の臀部を叩く様にして過ぎて行った。
その風に叱咤されたのかは知らない。
だが、その瞬間、赤子は生命の息吹を上げたのだった。
「…手間を掛けさせおる…」
遠く離れた場所で、小さく呟いた男が居た事を知る者は居ない。
◇
男の目の前で、一人の人間が倒れた。
人間達の間で勇者と呼ばれる者。
希望だと、光だと呼ばれている存在だ。
倒れた傍らには一振りの剣があった。
人々の間から聖剣と呼ばれている物だ。
が、男が持っている剣となんら変わる事は無い。
光が持つから聖剣。
闇が持つから魔剣。
ただ、それだけの事。
「…下らぬ…」
斃れた勇者を、面白くもなさそうに金色の瞳を細めて、ただ一度映しただけで、男は玉座から立ち上がる。
男が手にした魔剣を揮う事無く、傍らに控えていた魔族の手によって勇者は息絶えた。
「魔王様、これで、また暫しの平穏が訪れますね」
「次の勇者が現れるまでに、戦力を整えて置かないと」
「本当に次から次へとウザい」
「あ。また聖剣が消えた」
「光の精霊の仕業だ。素早い」
「掃除掃除」
「死体、人間の城に送り返して来ますね」
そんな言葉を耳にしながら、魔王と呼ばれた男は、床に血を流して倒れる勇者に目を向ける事無く、その場を後にする。
長い戦いが続いて居た。
魔族と人間。
魔王と勇者の戦いが。
人間は勝手に魔族を脅威だと、脅かす者だと、敵だと認定して、争いを仕掛けて来る。
魔族の方から人間に手を出した事は、唯の一度も無い。
人間から仕掛けて来るから、仕方が無く相手をしているだけだ。
自らの命を守る為に。
光の精霊から力を貰った勇者が倒れた今、また人間達は大人しくなるだろう。
そして、新たな勇者が誕生したら、また魔族に戦いを仕掛けて来るのだろう。
それの繰り返しだ。
自分が魔王と呼ばれる様になってから、どれだけの勇者を倒して来たのか。
両の手の指では足りなくなった頃、魔王は数を数えるのを止めた。
ともかくは、暫しの休息を求めて魔王は自室へと向かった。
『…っ…う…っ…う…』
ふと泣き声が聞こえて来て、魔王は目を覚ました。
枕元には窓から差し込む月の光があった。
この夜は満月だった。
『…ふ、…う…っ…』
泣き声は止まない。
頭に直接響く声だった。
僅かな苛立ちを覚えながら魔王はベッドから下り、愛用の黒いローブを身に着け外へと出た。
泣き声のする方へ。
泣き声の聞こえる方へ。
導かれる様に。
誘われる様に。
一時間程掛けて魔王が辿り着いたそこは、広大な森の中にある湖だった。
ただし、歪な。
常なら風に凪いだ湖面に、今宵の満月の夜空が映し出されているのであろうが。
湖の上には、水の塊が浮いていた。
細長い、まるで鏡の様な形をした水の塊が、幾つも幾つも。
それらには、様々な人の様子が映し出されていた。
男女問わず、赤子から成人とされる年代の者達が。
月の光に照らされたそれは、何処か神秘的ですらあった。
そして、その水鏡を覗いている物が。
眩い光に包まれていて、獣なのか人なのか、男なのか女なのか、子供なのか大人なのかは判別がつかない。
「…また、選別しておるのか…」
特に感情を乗せた訳では無いが、魔王のその声音には何処か疲れた響きがあった。
「うん。君に、また殺されてしまったからね」
魔王に声を掛けられたそれは、背後から掛けられた声に驚くでなく、ただ淡々と答えた。
その声は少年の様であり、少女の様であった。
「…こんな事に、何の意味があると云うのだ。光の精霊よ。ただ無駄に命を散らすだけではないか」
「解ってないなあ。光があるから闇がある。闇があるから光が輝く。闇に立ち向かう光ほど綺麗な物は無いんだよ?」
解らぬ。
解りたくないと、魔王は思った。
こいつが余計な事をしなければ、自分達は静かに過ごせるのに。
勇者さえ居なければ、人間達は怯えながらも、魔族に手を出す事無く日々を過ごして行くのに。
疲れた。
休みたい。
それが、魔王の本音だ。
ただ、安寧の時を過ごしたい。
戦う事無く、ただ安らかに過ごしたい。
勇者が倒れた今、暫しの安息の時は訪れる。
訪れるが、期限付きの安息の時だ。
「ねえ、そんな事よりも。見てよ、この子。面白いんだよ。これだけの闇の中に居ても、心はまっさらなんだ」
何時の事だったかは忘れたが。
魔王と光の精霊が、初めてここで出逢った時。
魔王は眩暈を覚えながら、光の精霊に問うた。
何故、ここに居るのかと。
それに光の精霊は、こう答えた。
魔王の魔力が満ちている場所だから。
光がより輝く場所だから。
と。
このナルシストが。と、魔王は思ったが口には出さなかった。
何を言った処で、こいつには通じないのだから。
むしろ、何かを言えば言うだけ喜ばせてしまう。
だから、魔王は光の精霊に話し掛ける事も、こうして出会う事も止めた。
止めた筈だった。
その筈だったのに。
ここへ来てしまったのは。
『…っ…う…っ…』
この泣き声のせいだ。
止んでいた筈の泣き声が、また聞こえて来た。
今、光の精霊が見ている水鏡からだ。
「これだけの絶望の中に居るのに、凄いよ。どうして死なないんだろう? どうして生きているんだろう? 希望なんて無いのに?」
淡々とした声の中に、何処か歓喜の様な物を滲ませて光の精霊が言った。
魔王も、泣き声に誘われる様にしてその水鏡を見る。
そこには一人の少年、いや、まだ幼児と言っても良いのかも知れない。
その男の子が、暗い部屋の中でベッドの上で頭から布団を被り、膝を抱えて声を押し殺して泣いていた。
この年代の頃ならば、情けなくとも、みっともなくとも、慰めて欲しくて、宥めて欲しくて、声を上げて泣くのだろうに。
少年は抱えた膝に顔を埋めて泣いていた。
何故、こうして隠れる様にして泣いているのだろうか。
その魔王の疑問が伝わったのか、光の精霊が言葉を紡いで行く。
「この子はね、ずっと親から虐待を受けているんだ。殴られるのは当たり前。食事だって作って貰えない。親の決まり文句は何時も同じ"気持ち悪い"、"何でお前が居るんだ"、"死ねばいいのに"って、そう言いながら殴る。蹴る。泣けば止めると思うのか。泣けば構って貰えると思うのか。そう言われて、この子は人前で泣くのを止めた。友人だって居ない。同じ年頃の子と遊んだ事も無い。まあ、こんな不愛想で、笑顔も浮かべない子と遊ぶ子なんて居ないよね。痣を隠す為に、どれだけ暑い日でも長袖を強要されて。けど、それも今日で終わり。この子は、明日施設へと送られる。ぱちんこ屋から、負けて帰って来た母親が、腹いせに、何時もはカーテンを閉めて折檻するのに、閉め忘れてね。それをたまたま回覧板を届けに来た隣人が見て、通報したんだ」
耳に慣れない言葉が聞こえて来て、その小さな男の子が、こことは違う世界の人間なのだと魔王は理解した。
そこまで詳しく過去を視たと云う事は、光の精霊はこの男の子を次の勇者にする気なのだろう。
「んん? 直ぐにはしないよ? まだまだ早いよ。もっともっと絶望を知って欲しい。絶望の中で死んで欲しい。その魂を、僕は優しく導くんだ。優しく真綿で包む様に、僕の光で包み込んであげるんだ。無い事無い事、君の事を話してあげる。魔王は本当は優しいんだって。でも、闇に染められて人を殺せずには居られないんだって。その苦しみから解放出来るのは、僕に選ばれた君だけだよって。選別意識って云うのかな? 自分は選ばれた人間なんだって囁けば、本当に面白いぐらいに、人間って有頂天になるよね? 絶望の中で、そんな話を聞かされたら、この子はどんな反応をするだろう? 誰からも愛される事無く死んだ中で、僕が愛を囁いたら、この子はどんな反応をするんだろう? うん、楽しみだね」
そっと、光の精霊に視線を送った魔王に、優しいとすら思える声で光の精霊は残酷な事を口にした。
「…他の世界に関与するのか…」
「んん? 今更だよ? まあ、この子は特別。この子の心が闇に染まるのを見てみたい気もするけどね? ああ、そうなったら次の魔王にすれば良いか。うん、君に取っても悪くは無いよね? 君が魔王になってからどれぐらい経つのかな? 君、強過ぎるから。まあ、この子はそれ以上の魔王になれるかも知れないね?」
そう、今更だった。
光の精霊は勇者となる素質のある者を、勇者が斃れる度に、こうして無限に広がる世界から探し出していた。
己が輝き続ける為に。
今更だと知っているのに、何故それが音として出てしまったのか。
ただ解るのは、この男の子は、死ぬまで孤独を味わい続けるのだと云う事だ。
光の精霊によって。
光によって、闇の中へと突き落とされるのだ。
不憫極まりないが、魔王がどうこうする事は出来ない。
異なる世界への干渉等する気も起きない。
何もしないのなら、手は出さない。
殺そうと向かって来るのならば、それに応えるだけ。
これまでと同じ様に。
ただ、それだけだ。
ただ、それの繰り返しだ。
静かな満月の夜だった。
それからも、それからも、気が付けば満月の夜になると魔王は湖に来ていた。
そして、光の精霊と水鏡を見ていた。
何故、こうしてここに来るのだろうと、内心で魔王は首を傾げる。
水鏡の中の少年は、また布団を被って泣いていた。
きつく目を閉じて。唇を噛みしめて。
同室の者に気付かれない様に。
この泣き方がいけないのだ。
我慢せずに声を出して、皆の前で泣けば良いのに。
幼い頃に受けた仕打ちで、それは出来ないのだろうが。
それでも。
何らかの行動をしなければ、誰も気付かないと云うのに。
気付かれなくて良いと、少年は思って居るのだろうか。
少年の心の内など、知りようもないが。
何時か、何時の日にか、この少年を思い切り泣かせてあげられる存在が現れるのだろうか?
それは、彼が死した後、この光の精霊がするのだろうか?
恐らくは、そうするのだろう。
そうして光に取り込むのだろう。
言葉巧みに、心にも無い愛を囁きながら。
光の愛し子だと、囁きながら。
憐れな物だな。
そう魔王は思ってから、僅かに口元を歪めた。
それは自分も同じだと。
光を輝かせる為に、自分達は存在しているのだと。
人間は光で、魔族は闇。
遥か古代より続く、世の理。
脆くも、弱弱しくも、小さくとも、懸命に生きている人間を、人の命を引き立てる存在。
それが、自分達魔族なのだ。
同情、なのだろうか?
こうして、ここへ来てしまうのは。
この少年が気になるのは。
今回見た少年は、年老いた大人たちに囲まれて白い野菜を切っていた。
それは白菜の漬物だったが、魔王は知らない。
そして、周りの大人達が優しく穏やかな目で見ている事も、少年は気付かない。
その作業を終えて、少年はその白菜の漬物を手に帰路へと着いた。
小さな小屋だと、魔王は思った。
それは、アパートと云う物なのだが、当然魔王は知らない。
ドアの鍵を閉めて、台所に漬物の入った袋を置いて、少年は涙を零した。
『…良いバイト先だなあ。いつもみんな怖い顔してるけど、嫌々なんだろうけど、バイトの度に漬物とかキムチとかくれるんだもんな…。…怒りながらも、色々とダジャレとか教えてくれたし』
ポツポツと呟きながら涙を流す、その少年の涙を拭いたいと、何故か魔王は思った。
泣きながらも、ほわりと笑う少年の姿に、何故か心がざわついた。
暫くしてから、少年は両手で頬を叩いて『よし、明日からも頑張る』と、笑った。
淀みの無い笑顔だった。
まだ微かに濡れている黒い瞳には、何の陰りも見えなかった。
「んん~。本当にこの子、馬鹿の子なんじゃないの? 何で、こうなるのかなあ? 行動まで制限するのは、流石の僕でも躊躇ってしまうなあ。どうしようかなあ」
そう言葉にしながらも、光の精霊の声は何処か嬉しそうで楽しそうだ。
自分の思い通りにならない、この少年がたいそうお気に入りの様だ。
光の精霊の力で、少年には周りの人達の好意が伝わらない様になっている。
どれだけ周りが優しくしても、伝わらない様になっている。
その筈なのに。
幼い頃の経験のせいかは知らない。
とにかく、この少年は非常に信じられない程に、打たれ強かった。
一人でこっそりと泣いては、頬を叩いて『頑張る』と己を叱咤する少年の姿を何度も見た。
『頑張る』だったり『頑張れ』だったり『負けるな』だったりを繰り返している内に、少年は青年へとなっていた。
少年が青年になる頃には、魔王も自身の変化に気付いていた。
疲れた。
休みたい。
その気持ちは、まだ胸の中にある。
あるが、それ程に焦燥感を煽る物では無くなっていた。
それに。
何時か死ぬのなら。
何時か勇者に倒されるのなら。
この青年が良いと、そう思う様になっていた。
自分が死ねば、闇の精霊が次の魔王を誕生させるのだろう。
自分の時と同じ様に。
ふと、魔王になってから自分の名を呼ばれなくなったな、と魔王は思った。
もう、遠い昔の事で、自分自身ですらその名を思い出せないが。
まあ、その様な物は不要だと、魔王は小さく笑う。
名前があろうが無かろうが、魔王が魔王である事に変わりは無いのだから。
それは、勇者も同じだ。
勇者にも名前はある。
名前はあるが、周りの者達は名を呼ばずに"勇者"とだけ呼ぶ。
この少年も、何時かは勇者と呼ばれるのだろう。
少年の名を魔王は知らない。
知らなくて良いと思う。
魔王と勇者、互いに相容れぬ存在。
戦う事を定められた存在。
ただ、それだけの存在。
それが、世の理。
少年が青年になって暫く経った頃、壮年と呼ばれるには、まだまだ早い頃。
冬の寒い夜に、彼は四角い塊に撥ね飛ばされて、その生涯に幕を下ろした。
誰からも愛される事無く、誰からも嫌われたままだったと、勘違いしたまま。
そう思わされていたままに。
「…うん。手に入れた。ふふ、楽しみだね? この子はどんな勇者になるのかな?」
光の精霊が、光に包まれて自身の前でふわふわと漂うそれに何事かを囁く。
それは小さくて魔王の耳には届かなかった。
「じゃあね、魔王。次に僕がここに来る時には、違う魔王になっているのかな? それとも、君のままなのかな? まあ、どちらでも構わないけどね?」
その言葉を最後に、光の精霊が消えた。
浮かんでいた水鏡も形を崩し、湖の中へと落ちて行った。
後に残ったのは揺らめく湖面に映る満月と、満月の光に照らされた魔王だけだ。
光に照らされた魔王の顔には、笑みが浮かんでいた。
魔王と呼ばれる者には似つかわしくない、深い慈悲に満ちた笑みだった。
湖面に映る満月を、魔王は暫し見詰めて。
そして、その金色の瞳を深く閉じた。
「…待っておるよ」
誰にともなく魔王は呟いてから、双眸を開き歩き出した。
新たな勇者が間もなく誕生する事を、皆に知らせる為に。
彼は恐らく、過去最強の勇者となるだろう。
面白い。
どの様に成長し、どの様にして、自分に向かって来るのか。
それを、自分はどの様にして迎えるのか。
楽しみだ。
「…ふ…」
声を出して、魔王は笑った。
昂る気持ちのまま、魔王は声を出して笑い続けた。
それは、満月の光に照らされた森の中、何時までも響いていた。
この時の魔王は、まだ知らない。
生まれた傍から、死に向かう勇者の命を救う事になる事を。
その時、魔王は思ったのだ。
人前で泣かないと決めたのは良いが、限度と云う物があるだろうと。
この勇者は、下手したら自分と対峙する前に死ぬかも知れないと。
そうならない様に、勇者を守らなければならないと。
謎の使命に胸を燃やし、魔王は今日も陰からこっそりと勇者を見守るのだった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
55
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる