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しおりを挟む非日常が日常になってゆくというのは、不思議な感覚であった。
徐々に気候が暑くなり、学生たちの服装もそれに合わせて変わりはじめた、初夏の頃合い。
季節は移り変われど、学校生活はとくに変化もなく。俺はいつもどおりの日々を繰り返していた。──たとえ玲利が、女の姿であろうとも。
彼女との付き合いについても、何か特別なことがあるわけでもなく。男の時と同じように、休み時間は一緒に過ごしているし、放課後も二人で遊んだりしていた。言うまでもなく、周囲の知人からは「いつものカップル」と俺たちは見なされているようだ。
然もありなん。これでただの友人と言うほうが無理がある。玲利との関係については、クラスメイトから何か言われても否定はしなかったので、もはや俺たちが恋人同士というのは公然の事実と化していた。
ただ──
玲利本人から、はっきりと想いを告げる言葉はまだ口にされていなかった。
そして、それは俺も同様である。自分の考えや気持ちを、まだ彼女には伝えていなかった。
要するに、なあなあの関係であった。客観的視点からすれば恋人同士であるが、当人たちの合意に基づいているわけではない。確たる言葉による保証のない関係であった。
つまり否定の言葉を口にすれば、すぐに崩れてしまいそうな。
そんな脆さのある、男女の関係でもあった。
「…………はぁ」
雨粒が音を立てる外を眺めながら、俺は悄然とため息をついた。
放課後の昇降口。ほかの生徒たちは、さっさと傘を差して外に出ていくが、俺は立ち尽くしていた。理由は簡単である。……傘を忘れた。
たしかに朝の天気予報で、夕方から雨の可能性がどうたらと言っていたような気がする。なまじ早朝は晴れだっただけに、楽観視してしまったのがまずかった。せめて折り畳み傘でも持ってくれば良かったものを。
「──傘、わすれたの?」
玲利が尋ねながら、こちらを心配そうに見つめてきた。俺のように忘れ物をするはずもなく──彼女の手には当然、雨傘が握られていた。
「降ると思わなくてな……」
「天気予報で言ってたのにー」
「うぐぐ……」
返す言葉もなかった。まあ俺が悪い。今日は雨に濡れながら帰るか──
そう思っていたところで、玲利はニッコリと笑って自分の傘を指差した。
「──入る?」
一つの傘で一緒に──つまり、それは相合い傘を提案する発言にほかならなかった。
……いや、それはちょっと恥ずかしいんだが。
と思いつつ、俺は玲利の顔をうかがった。さすがに男女の相傘の意味を理解しているからか、彼女も笑みの中にほのかな羞恥を混じらせていた。そして同時に、何かを期待するような色も含まれている。
むしろ一緒に入ってほしい、という願いが透けて見えるような表情だった。
「…………」
ここで断るのも、それはそれで……なかなかに気まずい。
善意と厚意と、そして好意に対して、俺が出した結論は──
「……じゃ、お言葉に甘えて。お世話になります」
「えへへ……こちらこそ、よろしくお願いします」
なんだ、この改まった会話は。
微妙な距離感のやり取りに面はゆい感じになりながらも、外に出て傘を広げた玲利の傍らに俺は近寄る。幸いながら傘のサイズは大きめだったので、二人でもなんとか雨をしのげそうだった。
周囲の生徒からは惚気ているように見えるんだろうな、と考えつつ歩きだしたところで──
「あっ、やっぱ俺が傘持つ。二人とも入るようにするの大変だろ」
背が高くて力のある人間が持ち手を握ったほうがいいだろう。俺は傘の柄に、そっと手を伸ばした。わずかに接触した玲利の繊手が、緊張したようにこわばる。
「そ、そう? ……じゃー、お願い」
目を伏せながら頷いた彼女と、持ち手を交代する。左に玲利、右に俺の位置関係だった。
左手で傘を持ちながら、やや彼女のほうへ傘を寄せる。せめて持ち主が濡れないようにする配慮だった。
「……雨、大丈夫?」
「へーきへーき。むしろお前が濡れないか心配だ」
二人ともとっくに夏服に切り替えていたので、上はブレザーを着ていなかった。ちらりと玲利の上半身に視線を向けると、長袖の白いブラウスが目に映る。真横から覗くと──その女性的な膨らみがやたらと際立っていた。
健全な男子高校生には、さぞや目に悪そうな光景である。いや、目に良いのか。……まあ、どっちでもいいや。
そんなバカげたことを考えながら校門をくぐり、しばらくしたところで──
ひと気が少なくなってきたのを見計らったように、玲利はちょっとだけ体をこちらに近づけてきた。
雨に濡れないため──という大義名分は、普段よりも玲利を積極的にしているようだ。傘を借りている手前、俺も受け入れるしかなかった。ポツポツと雨音が響くなか、俺たちは口数も少なめに隣り合って歩く。
どこか、しんみりとした空気だった。雨だからか通行人の数も少なく、まだ夕方にもなっていないのに薄暗い。寂寥感のようなものさえ感じられた。
そんな気分を紛らわせるかのように──
玲利はそっと俺のほうへ、さらに身を寄せてきた。傘を持っている手の上腕に、彼女の肩が触れる。首もわずかにこちらへ傾けていて、まるで甘えるかのようなしぐさだった。
「玲利」
「なーに?」
「嬉しそうだな」
「うん」
体をくっつけたまま、彼女は幸せそうに笑った。きっと以前から、こんなシチュエーションを願ってきたのだろう。男の時では叶わなかった夢が、女になって実現した──そう思っているのかもしれない。
「お前さ」
「んー」
「……いや、なんでもない」
「えぇー? なにー?」
男に戻りたいか? と尋ねるのをやめた。さすがに、今のタイミングではまずいだろう。
……結局のところ、いまだに玲利の本心については理解できていなかった。
男であることと、女であること。彼女自身はどちらを望んでいるかといえば、後者なのだろう。ただ──その“理由”が気になっている部分だった。
なぜ、女でありたいのか。
女であること自体が“目的”なら、話は単純だ。女性になりたいという願望が達成されて、今の玲利は幸福な状態といえるだろう。
だが、女であることが“手段”に過ぎないなら──はっきり言って、玲利は男に戻るべきだった。
……まあ、本人の意志で戻れるのかどうかも、わからないのだが。
──いろいろと考えを巡らせながら。
俺たちは体を触れ合ったまま、いつもの別れる場所まで到着した。
ここから玲利は住宅街のほうへ、俺は駅のほうへと向かうことになる。傘はなくなってしまうが、まあ多少は濡れても大丈夫だろう。ここまで雨をしのげただけでもありがたかった。
「じゃ、これで──」
「あっ、あのさ」
別れを切り出そうとした俺を、遮るように玲利が声をあげた。
心細さと不安を含んだような、そんな表情を浮かべながら。彼女はおずおずと、言葉を漏らした。
「……うちに使ってないビニール傘があるからさ」
そう言いながら──玲利はどこか切なげに、俺の腕に繊手を絡ませて。くい、と住宅街のほうへ向けて、俺の体を引き寄せた。
「ボクの家まで来て、傘を借りていくのがいいんじゃないかなー……って。五分もかからない距離だし……」
「…………」
「ど、どうかな……?」
──ここまでわかりやすい方便も、なかなかないだろう。
もっと一緒にいたい、とはっきり言わないところは、なんとなく玲利らしい。少しでもそばに、肌を近づけていたいという想いが、その言葉と振る舞いから伝わってきた。
……それはともかく。
「……腕」
「うで?」
「当たってるんだけど」
そう言うと、玲利は自分の胸元に目を向けた。引っ張られた俺の腕は、彼女の柔らかい膨らみに接触している。それを認識した瞬間──玲利は顔を真っ赤にして、あわてて身を離した。
「ごご、ごめんっ」
「いや、いいって。……それより」
彼女が雨に濡れないように、俺のほうから歩み寄る。そして体の向きは──駅ではなく、住宅街の道へと変えた。
「……傘、借りようかな」
「ほんとっ? ありがとう」
「なんでお前が感謝するんだよ」
「えへへ……」
ニコニコと笑みを浮かべながら、玲利はふたたび肩をしなだれかかるように寄せてくる。体を触れ合わせたまま、俺たちはゆっくりと歩きだした。──玲利の家へと。
大通りから遠ざかる道を、彼女に案内されながら進む。当然ながら、住宅街の路地はほとんど人影がなかった。ひっそりとした空間で二人っきりの時間を、玲利は楽しそうに満喫している。
「ボクの両親、共働きだからさ……。仕事帰りに急に雨が降った時、コンビニでビニール傘を買って帰るみたい。そのせいで、傘が溜まるいっぽうなんだよね」
「あー、捨てるにしても面倒だからな……。俺んちも、傘立てにビニール傘が何本もあるなぁ」
そんな雑談を繰り広げつつ、気づけば玲利の家もすぐそこに現れ。けっこうな広さで築年数もさほど経っていない住宅は、なかなかの邸宅っぷりだった。
あまり玲利の家庭事情については聞いたことがないが、普段の学校生活で小遣いに困っている様子がなさそうなのを見ると、それなりに裕福な家であることはうかがえた。ブルジョアというやつだろうか。
「ちょっと待っててね」
玄関の軒下でようやく傘を下ろしたところで、玲利はバッグを探りはじめた。そして、すぐに鍵を取り出してドアを解錠する。
戸口は開いたままにして、玲利は中に入ると玄関の収納棚を開いた。そこから一本のビニール傘を取り出すと、「これでいいかな?」と俺に見せる。コンビニに置いてあるような変哲のないタイプで、とくに問題もなさそうだった。
「……ありがとな。わざわざ傘まで貸してくれて」
「ううん、気にしないで。……あっ、返さなくてもいいからね」
むしろ返却されても、廃棄する手間が増えるだけで困るのだろう。俺は苦笑しながら「わかった」と頷いて──玲利の手から傘を受け取った。
──その瞬間、にこやかだった玲利の笑顔が、少し寂しげなものに変わった。
傘の受け渡しが済んだ今、もう俺が留まる理由がなくなったからだろう。あとは帰るだけ……つまりお別れだった。
毎日、顔を合わせているというのに。妙に玲利の情緒が感傷的なのは、陰鬱さのある天気のせいだろうか。あるいは、恋人のように相合い傘をした時との落差がつらいのかもしれなかった。
切なさに堪えかねたように──
玲利は俯きがちの顔で、こちらを上目遣いで見ながら、おずおずと口を開いた。
「ね、ねぇ……」
声は少し震えている。緊張していることは明らかだった。言いにくい話なのだろう。
俺はできるだけ穏やかに、「どうした」と聞き返した。玲利は言葉を紡ごうとして、迷って口を閉ざすのを繰り返す。それでも勇気を振り絞ったのか、ゆっくりと話しはじめた。
「さ、さっきも言ったけどさ……ボクのお父さんも、お母さんも……共働きでさ……」
「うん」
「……帰ってくるのが、夕方過ぎだから」
「うん」
「……ぃ……家に、遊んで……いかない? お、お茶くらいは、出すから……」
…………。
いや、それは。さすがに。
そこまでの提案は予想していなかったので、俺は返事に困って無言になってしまった。
家に寄って遊ぶ──そんなことは、まあ親友同士では普通のことだろう。だが……今の玲利が、俺のことをただの親友と見なしていないことは言うまでもなかった。
年頃の男女が、屋根の下に二人っきりでいたら。その後の展開に何か不穏なものを想像してしまうのは、無理からぬことである。
もし、万が一。何かを迫られた時に、俺は玲利を傷つけずに対応できるかと言われると、なかなかに微妙だった。関係が気まずいものになるのは絶対に避けたい。だから自信のない展開には持っていきたくなかった。
そんなことを思いながら、ようやく思考の渦から抜け出した俺が口にしたのは──
「いや、やめとくよ」
きっぱりと断る回答だった。
それを言った直後、玲利の表情が悲しそうに曇った。見たくない顔だった。だから俺は、言葉を続けた。
「その代わりさ」
これは代案だ。
性急すぎる玲利に代わって、俺がほかの提案をするわけである。ただ彼女のことを拒絶するわけではないことを、ちゃんと伝えたかったのだ。
「空いている土曜か日曜に──デートしようぜ」
平然と言ったからだろうか。
玲利は驚いたように俺を見て、それから戸惑ったような感情を浮かべつつ、か細い声で聞き返してきた。
「ぁ……一緒に、遊ぶ……ってこと? うん……次の日曜なら……」
「いや、だから遊ぶんじゃないって」
「えっ……?」
「デートだよ」
言葉を失くしてこちらを見つめる玲利の表情は、いまだに意味が呑みこめていない様子だった。だが、徐々に“デート”が男女のそれを指していることを理解しはじめたのだろうか。顔色には、普段の明るさが戻りつつあった。
「……デートって、そのデート?」
「そう、そのデート」
「…………」
単語を咀嚼した玲利は、うぶな少女のように頬を赤らめた。百面相とは、このことだろうか。悲しんだり喜んだり、感情の起伏が激しいやつだった。
……そんな玲利を見るのも、楽しいものだけど。
「帰宅したあとで、連絡してもいいか? 計画を相談して立てたいし」
「計画……」
「デートプランってやつだ」
「デートプラン……」
言葉を反復するだけの玲利は、頭の処理が追いついていないようだ。……自分から家には誘ったくせに、デートに誘われただけでのぼせ上るのか。やっぱり攻めに弱いタイプなのだろうか。
さっきの沈痛な面持ちはなんだったのか。一転して嬉しさに満ちた表情の玲利は、もじもじと恥ずかしそうに赤面しながらも、俺に甘ったるい声を送る。
「た、楽しみにしてるね……。えへへ……初めてだね、デートなんて……」
「ああ、ちゃんと計画も練っておかないとな。行きたいところ、玲利も考えておいてくれ」
「うん……」
すっかり元気そうな顔色の玲利は、いつにも増して嬉しそうな様子だった。“デート”という、友達以上の関係でおこなわれる行為の意味は大きいのだろう。俺自身も、ただの遊びではなく真剣なものとして、それを捉えていた。
──そろそろ、結論を出さなければならない。
そう思っていた。だから、デートに誘うというのはタイミング的にもちょうど良かった。
俺の考えに、そして言葉に。玲利がどのように感じて、どのように応じるのか。
近いうちに、それは明らかになるだろう。その時、俺と彼女の関係がどう変わるのか。今はまだわからなかった。
「──じゃ、またあとで。傘、ありがとな」
「うん、気をつけてね。……夕方まで、ボクもお店とかいろいろ調べておこーかな」
「気が早いな。週末まで日があるってのに……」
「それだけ期待しているから……ねっ?」
ニッコリと小首をかしげてアピールする彼女は、ずいぶんと可愛らしいしぐさだった。玲利がもと男だと知っていても、大半の男性はどきりとしてしまうのではなかろうか。
俺はそんなことを思いつつも、玲利と別れてふたたび帰路につきはじめた。
雨音だけが響く薄暗い道は、どこか物憂い気分にさせられる。湧き上がる孤独感のようなものは──隣に玲利の姿がないからだろうか。
「デート、かぁ……」
どこか他人事のように呟いた。まさか俺が、女の子とデートをする日が来ようとは。しかも相手が、女になった親友などという……。
複雑な心境になりながらも、俺は覚悟を決めつつあった。
デートの最後には、きちんと本心を伝えようと。もしかしたら、それが玲利にとって望ましくないことだとしても。はっきりと言うつもりだった。
──はたして彼女は、どう思うのだろうか。
ただ、悲しんだり嫌悪したりはしないでほしい。
俺はせつに、そう願った。
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