紺碧に溶ける

あまつかホタテ

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1.吉報?

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 俺には幼馴染がおる。

 それも、とびきり厄介な。




 京都市内某所。古い街並みを残す商店街の一角で、こぢんまりとした店に灯が灯っている。秋が訪れ、夕方の今時分はほんの数週間前に比べてずっと暗くなった。薄暗くなったアーケードの下、「今井豆腐店」という看板の立つその建物の前で、老婦人が丸い腰を摩っていた。

「それにしても、坊ちゃんが跡を継いでくれはってよかったわ。先代はもう、あれやからね。歳やし」
「いやいや、親父かてまだピンピンしてますよ。俺一人じゃ心許ない言うて、今も裏で目光らせてますし」
「そうなん? それは大層やなぁ」

 婦人と向かい合ったカウンターの中、今井雅臣はカラカラと笑い声を上げた。この婦人は、雅臣の父の若い頃から通っているという常連客だ。創業百年を超えるこの店で、跡取りとして生まれた雅臣にとっては、親戚のおばあさんのような存在だった。
 いつも通りに湯葉と豆腐を包み、手渡そうとしたところで、婦人があっと声を上げる。

「せや雅臣くん。聞かはった? 八代堂の末っ子はん、帰ってきやったんですって」
「え?」

 八代堂の末っ子。
 そう言われて、思わずぎくりとする。しかし、その動揺を努めて顔に出さないようにしながら、雅臣はへえ、と相槌を打った。

「そうなんですか。あいつ、もう一年以上連絡もしてけぇへんで」
「せやろぉ。まぁ、あそこはお兄ちゃんがしっかりしたはるから、お店のことは心配あらへんけど。あの子、可愛いらしかったのにねぇ」
「愛嬌だけは一人前ですからね。一年もどこほっつき歩いとったんやろ」
「ほんまにねぇ。けど、戻ってきはったんならよかったわ。ねぇ、挨拶には来やれへんの? 確か同級生やったやんね。雅臣くん」
「はい」

 同級生。たしかに、そうだ。だが、雅臣と彼はそんな浅い関係ではない。
 雅臣は、商店街の出口の方を見やった。あの突き当たりを曲がってすぐのところに、八代堂はある。ここから店舗の影は見えない。それでも、いつもあの角からこちらへ歩いてきていた男の姿が、今にもそこに見えそうな気がした。

「……ほな、おばちゃんこれ。入れときますよ」

 雅臣は急に気分が落ち着かなくなり、今すぐにここを飛び出したくなった。包んだ荷物を、急いで婦人のシルバーカーの中に詰め込んで、時計を見る。時刻は十七時を回ったところだ。もう店じまいをしたって、早すぎやしないだろう。

「毎度おおきに。帰り気ぃつけてくださいね」
「ハイハイ、ありがとう。ほなまたねぇ」

 婦人は何かを察したのだろう、探るような目で雅臣を見上げ、ニヤリと笑うと、優雅に歩き始めた。雅臣は、彼女を見送ることもせず、また商店街の角の方へ目を向ける。

——ナギ。

 当然、そこに雅臣が期待するような人影はない。かぶりを振る。それでも、芽生えてしまった感情は消えない。

——帰ってきたってほんまなんか。

 連絡もなかった。この一年間、電話にも出てくれなかった。最後に会った時も、充分に会話をしたとは思えない。彼の居ない一年間は、雅臣にとって時が止まったかのように味気のない日々だった。

——なんで、……。

 雅臣は深々とため息をつくと、もう一度だけ角を見やり、店じまいを始めた。



 雅臣には、八代凪斗という名の幼馴染がいる。それも、幼稚園から高校までずっと同じ場所で学生生活を送っていたほどの腐れ縁だ。
 凪斗は何事につけても優秀な人物であった。学業のみならず、一緒に習っていた稽古事においても、算盤から舞踊にいたるまで華々しい成績を残していた。雅臣が彼に負けなかったのは、特技の剣道くらいである。
 しかしながら、一見完璧な人間であるかのように思われる凪斗も、性格の面では大いに問題があった。それが起因したのだろう、先ごろ老婦人に言われたように、彼はある日突然姿を眩ませてしまったのである——そしてそれは、昨年の夏のことだった。

 雅臣は急いで閉店作業を終えると、真っ直ぐに商店街を飛び出した。行き先は自宅ではない。八代堂の前を通り過ぎ、そちらも暖簾が外されていることを確かめてから、住宅街へ向かって走った。
 歩き慣れているはずの道が、やけに長く感じる。信号を待つ間さえもどかしい。時刻は十八時過ぎ。まだ他人の家を訪ねても許される時間だろう。
 ほどなくして、雅臣は懐かしい一軒家の前で足を止めた。八代、と表札のかかったその家には、幼い時分に何度も足を運んだ。しかし、凪斗が居なくなってからというもの、彼の家族とさえあまり連絡を取らなくなっていた。

「はぁ……」

 わざと大きなため息をひとつ。久しぶりに走ったので、息があがっている。汗を拭い、呼吸を整えるのももどかしいままに、インターホンを押した。
 返事を待ちながら、もう一度汗を拭う。今になって、こんな突然押しかけてよかったのだろうかなどと、冷静な考えが頭に浮かんだ。理性のブレーキとは、こんな時ばかり遅れてやってくるものだ。妙な緊張を覚え、ため息をつく。しばらく待つが、応答はない。
 もう一度インターホンを押そうか。それとも、日を改めるべきか。と、悩む雅臣の背後から、不意に小さな声が聞こえた。

「雅臣……?」

 それは、呼びかけたというよりも、呟いたような小さな声だった。雅臣は、弾かれるような勢いで振り向いた。そうして声の主を認め、息を呑む。ほんの数メートル先に立つ彼は、切れ長な目をやんわり細め、雅臣を見つめていた。

「やっぱり雅臣や」

 そこには、雅臣が探し求めていた人物が立っていた。ナギ——凪斗。雅臣は、夢でも見ているような、あるいは一瞬のうちに過去へタイムスリップでもしたような気分になった。

「ナギ」

 その三日月のような目を、夜空のような髪を、真っ直ぐに捉える。
 雅臣は、ついさっきまで頭の中を占めていたあらゆる言葉を失った。ただ、久しぶりに会う幼馴染の前で、どんな挨拶をすればいいか分からず、呆然と彼のことを見つめるしかできなかった。
 長らく止まっていた時間が、ゆっくりと流れ始める。雅臣の体の中で、滞っていた血液がぬくもりを取り戻した。
 長い沈黙。やがて、凪斗の方が痺れを切らしたように、困った顔で笑い始める。二人の間に、柔らかくぬるい風が吹いた。

「家、上がってく?」

 凪斗の唇が動くごとに、雅臣の世界に色が宿っていく。そこから紡がれる声によって、ぼんやりしていた意識が鮮明に浮かび上がった。

「……、……うん」

 雅臣が頷くと、凪斗はひどく懐かしそうに雅臣に向かって笑った。



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