紺碧に溶ける

あまつかホタテ

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2.郷愁

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 数年ぶりに上がった凪斗の部屋は、以前よりも物が少なくなっていた。彼は、姿を消す前から実家を出て一人暮らしをしていたので、その時にある程度荷物を整理したのだろう。当時住んでいた堀川通のマンションも、昨年中に解約したというから、これまでどこで暮らしていたのか気になるところではあるが、雅臣は何も聞かなかった。

「それで、僕に会うために急いで来てくれたん? 雅臣」

 凪斗は相変わらずの嘘くさい愛想笑いを浮かべ、あっけらかんとした様子で言った。まるで、昨日ぶりに会ったかのような気軽さだ。面食らった雅臣は、同じく何気ない調子で応じた。

「アホか。お前んとこのおばさんにこれを渡しに来たんや」言って、雅臣は適当に包んで来た豆乳ドーナツを差し出す。雅臣にとっては、立派な口実だった。
「アハハッ、ほんま? あんな汗だくで息切らしとったのに?」

 無邪気に笑う凪斗に、雅臣は思わずムッとする。そんな事、凪斗が言うなんて狡いだろう。
 とはいえ、雅臣には今の凪斗が空元気で振る舞っているということが分かっていた。何せ、この男は雅臣どころか家族にさえはっきりと行方を告げずに姿を消していたのだ。あんなに寂しがりで、甘えたで、プライドの高い凪斗が。相当精神的に参っていたはずであるし、やっと戻ってきた今だって、何かしら理由があって帰ってきたに違いない。

「雅臣のドーナツ久しぶりやなぁ。母さん喜ぶわ。ありがとう」

 凪斗の目が、一瞬だけ寂しげな色を宿す。雅臣は、やっぱりな、と思いつつ唇を舐めた。

「……あのさ」
「うん」
「いつ帰ってきたん」

 敢えて直接的に訊ねると、凪斗はまた僅かに気まずそうな顔をした。だがすぐに愛想笑いに戻って、髪に手を伸ばす。こうやって、困った時にすぐ前髪を触るのは、凪斗の癖だ。

「先週や」
「気づかんかったわ」
「せやろなぁ」
「連絡くれればよかったのに」
「……うん」

 少しくらい反省すればいい。バツの悪そうな様子の凪斗を見て、雅臣は内心舌を打った。この一年、雅臣がどんな思いで過ごしていたのか、ほんの少しでも顧みてほしい。
 雅臣は、凪斗が以前と変わりないことを確かめるように、じっとその姿を眺めた。髪は、やや伸びただろうか。痩せているのは元からだし、顔色も悪くはなさそうだ。
 安堵して、雅臣はそっと凪斗の頭に手を置いた。他人から撫でられるのを嫌う凪斗だが、雅臣には許されるという自信があった。

「っ、ちょお」

 こうすると恥ずかしそうに頬を染めるのも、変わらない。口では嫌がりながらも、本音はもっと甘えたいのだとでも言うように、雅臣に近寄ってくるのも昔と同じだ。
 よかった、凪斗だ。ちゃんと凪斗だ。雅臣は、胸が芯から温まってゆくのを感じた。本当に、雅臣の一番大切な人が、幼馴染が、ここへ帰ってきたのだと実感した。

「ナギ」
「ん……?」
「おかえり」

 そう言って、雅臣は凪斗の頭から手を離した。驚いて顔を上げた凪斗の目が、みるみるうちに丸みを帯びてゆく。そうして、真っ白だった頬がほんのり血色を取り戻した。

「マサ、……雅臣。あんな、僕」

 凪斗がそう言った時、突然部屋の外から大きな物音がした。そうして、階段を駆け上がる足音が聞こえてくる。この部屋は三階だ。その足音は、止まることなくどんどん近づいてくる。やがて、凪斗が血相を変えて立ち上がった。

「姉ちゃんや!」

 そう言って凪斗は、まるで相手がこちらに向かってくるのを制するとでもいうように、廊下へ飛び出した。そうして、直後。

「ナギくん! 誰か来てんの!?」

 怒ったような大きな声が、扉のすぐ向こうから響いてきた。ギリギリセーフ、というところか。雅臣は、思わずびくりとして身構える。自分が怒られているわけではないのに、肝が冷えた。

「おかえり姉ちゃん。声でかい……」
「ただいま! もう! 今日はお姉ちゃんがナギくんとデートしよう思ってたのに! 誰なん!?」
「雅臣や。久しぶりに会うて」
「なんや、今井くんか……ほんならええわ」

 雅臣の名を聞くなり、凪斗の姉——藤乃の声色が和らぐ。凪斗がため息をつくのが、ここからでもよく分かった。
 雅臣は矢庭に立ち上がると、静かに扉を開いて廊下に出た。そうして、姉弟二人の顔を見やる。藤乃と凪斗は、顔立ちはそれほど似ていないものの、纏う雰囲気がそっくりだ。

「お邪魔してます」

 雅臣が顔を出すと、凪斗はぎょっとしたような顔をした。藤乃も、どこかまごついたような反応を見せる。二人の不審な様子に違和感を覚えたがしかし、雅臣はそれを追及するようなことはしなかった。

「ちょっと、コイツ借りてええですか。ナギ、飯食いに行こ」
「えっ」
「ええから。外出ようや」

 雅臣は凪斗の腕を掴むと、藤乃に会釈をして歩き始めた。凪斗は驚いた声をあげたものの、雅臣を振り払うようなことはせず、おとなしくついてくる。やがて、二人は玄関を出ると、すっかり暗くなった空の下で立ち止まった。

「雅臣」外に出てようやく、凪斗が雅臣を引き留める。
「急にどうしたん」
「話しづらいかと思って」
「手ぶらで出てきてもうた」
「別にええやろ。俺がおるし」

 言って、雅臣は先に立って歩き始める。別に、どこか行くあてがあるわけではない。けれども、あのまま家にいて、藤乃にこちらの会話を聞かれるのは凪斗にとって良くないような気がした。
 凪斗は観念したらしく、雅臣の隣に並び立つと、辺りをキョロキョロ見回しながら歩き始めた。いつのまにか外は肌寒くなっていて、冷たい風が吹き抜ける。雅臣は、凪斗に上着を着させなかったのはまずかっただろうかと思ったが、取りに戻るのも億劫だと思った。

「どこ行くん?」

 凪斗は落ち着かない様子だ。もしかしたら、人目を気にしているのかもしれない。当然、この辺りは二人にとって地元であり、特に凪斗は知り合いがたくさんいるだろう。
 雅臣はしばらく逡巡し、頭を掻いた。

「んー。京都駅の方まで行こか?」
「京都駅? 今から?」
「嫌か? ほんなら、歩こか」
「えー」
「タクシー乗ったらすぐや。駅行こ、駅」

 凪斗の家があるのは、鴨川より東側だ。ここから京都駅へ向かうには、川を渡ってかなり南まで移動しなければならない。とはいえ、知り合いに会う確率が低い場所を取るなら、少し遠出した方がいい。
 雅臣は凪斗を連れて、表通りに出ると、適当にタクシーを捕まえた。行き先を告げて、ゆったりと座席に身を預ける。隣に座った凪斗は、緊張した様子で車窓を眺めていた。

「ナギ」

 名を呼ぶと、凪斗はキョトンとした顔で雅臣を振り向いた。明かりの少ない車内と、すっかり暗くなった夜の空気とに包まれて、凪斗の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
 雅臣は、凪斗の顔が好きだった。顔だけではない。声も、体つきも、面倒な性格も、話し方も、凪斗を象っている全てが大切で懐かしい。自分の隣に彼が居ないということが、どれほど大きな喪失かということを、雅臣はこの一年間で嫌というほど思い知らされたのだ。

「何ジッと見てるん」

 ふと、凪斗がはにかんだように笑う。その表情が変わる様や、ふとした瞬間の仕草が、輝かしく思われてならなかった。

「なんもあらへん」

 雅臣はそう言うと、ようやく凪斗から視線を外して、窓の外を見た。やがて、自然と口元が綻ぶ。こんなに穏やかな気持ちになるのは、随分久しぶりだと思った。



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