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2.JUNとカガリ

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 顔合わせから一ヶ月後のこと。今日は、台本の読み合わせだ。ヒナキは集合時間より随分早く現場に到着し、台本を何度も読み返していた。
「これはタチアオイ。僕の名前と似てる」
 主人公の橘花アオイは、子供の頃から病を患っていて、二十歳まで生きられないだろうと宣告されているキャラクターだ。このドラマは、心優しい彼がクラスメイトの不良少年・火野カガリを救うところから物語が始まる。
 もう少し柔らかい雰囲気で言ったほうがいいのかな。そう思い、ヒナキが再び口を開こうとした時。
「おはようございます」
 突然、透き通った声が飛び込んできた。慌てて顔を上げる。すると、会議室の入り口にURANOSのボーカル、JUNが立っていた。
「JUNくん! おはよう」
 ヒナキはすかさず立ち上がり、挨拶をした。彼の姿を見るだけでも胸が躍るというのに、こうして共に仕事をできるだなんていまだに信じられない。
 しかし、JUNはヒナキの姿を一瞥すると、すぐに目を逸らしてしまった。初めて会った時とは違って、愛想が感じられない。
「……おはようございます」
——あれ?
 何か気に障るようなことでもしてしまったのだろうか。JUNはヒナキから顔を背け、離れた位置の席に座った。それから、無言で台本を開く。
「JUNくん、あの……今日の台本合わせ、よろしくね」
「よろしくお願いします」
 JUNの視線は台本から少しも動かない。
——なんなんだ? 無視……は、されてないけど。
 ヒナキは愕然として、それきりかける言葉を見失ってしまった。一体どうしたんだろう。JUNのあんな暗い顔は、これまで見たことがない。
 とはいえ、ヒナキが知っているのはステージ上のJUNだけだ。彼の私生活も、性格も、何一つ知らない。
——もしかして、JUNって素はおとなしいのかな。
 ライブの時の彼も、ラジオやテレビに出ている彼も、決してお喋りというわけではない。しかし、礼儀正しくて、音楽とは常に真摯に向き合っていて、ファンのことも大切にしている。そして、ライブのMCでは詩的と言えるほどの熱いメッセージを飛ばしてくれて……。それがヒナキの知っている「URANOSのJUN」だ。
 それが今は、人形のように澄ました顔で黙りこくっているなんて。と、物思いに耽っていたところ、突然JUNの目がヒナキを捉えた。
「高永さん」
「えっ、なに?」
「そんなにジロジロ見ないでもらえますか」
「えっ? あ……ごめん」
 しまった。ついうっかり、眺めてしまっていた。ヒナキはため息をつき、台本に向き直った。胸がツンと痛くなる。
 JUNって、こんな感じだったっけ? ヒナキの中にあった「URANOSのJUN」という理想像に亀裂が走る。
 確かに、まだ面識を持って日が浅い間柄でじっと眺めるのは失礼だったかもしれない。しかも、相手はアイドルや俳優ではなくバンドマンなのだ。それも、ついこの間まで高校生だったような。
——それにしたって、そんな言い方しなくてもいいのに。
 こんな業界にいる以上、誰かに冷たく接されることは慣れている。けれど、あのJUNにそれをされるときついものがある。歳下の彼に対して理想を抱き過ぎていたのかもしれないが、それでも今まで信じていたJUNの人物像と違いすぎる。
「はぁ……」
 他のスタッフや役者に悟られないよう、台本で顔を隠した。なんだか、今日一日もう頑張れないような気がする。今朝起きた時は最高にハッピーだったのに。ヒナキは先ほどよりも小さな声で台本のセリフを繰り返しながら、時折ボールペンをカチカチ鳴らした。
「みなさんおはようございます! 読み合わせ始めましょうか」
 脚本や監督が入ってきて、ヒナキはようやく顔を上げた。ほどなくして、それぞれが台本を手に席につく。
「今日は第1話と第5話のシーンをやりますからね」
 ヒナキはパラパラと台本のページを捲り、第一話の冒頭シーンを開いた。一番最初は、火野カガリと脇役たちのやりとりだ。
 監督の合図で、JUNと数名の俳優たちが合わせを始める。不良少年のカガリが、教師たちに言いがかりをつけられるシーンだった。
「火野! お前が中村を不登校に追い込んだんだろう!」
「違えっつってんだろ!」
 ヒナキは息を呑んだ。JUNの声はよく通るし、色気がある。怒っているシーンのはずなのに、艶やかで綺麗だ。
——ああ、本当にいい声だな。
 うっとりと聞き入りながらも、周囲に悟られないよう気を引き締める。
「お前の生活態度は目に余る。生活指導室から再三の通達があっただろう」
「矯正してやる」
 ここから、教師たちの体罰が始まる。冒頭からヘビーだ。ヒナキは彼らの読み合わせを見守りながら、自分の出番までの行数を目で追った。この後、ヒナキの演じるアオイがカガリを助けに入るのだ。
「お前みたいな社会のゴミは……」
 ここだ。ヒナキはすっと息を吸い込んで、肩の力を抜いた。
「榊先生、そんなに怖い顔してどうしたんですか?」
 優しく。穏やかに。でも、芯は強く。よかった、さっきまでより上手く行った。表情も繊細に。ヒナキは俳優としての知名度はそこそこなものの、芸歴だけはそれなりにある。
「お前……」
 カガリの方を見て、それから教師たちの方を見て。アオイはにっこりと微笑んだ。
「こんなところで大声を出していたから、何事かと思ったら。先生たちが寄って集って、生徒を虐めてるんですか?」
「なっ……何を言っているんだ、橘花。お前には関係ない。早く下校しなさい」
「僕、火野君に話があって探していたんですけど……帰らなきゃだめですか?」
「え、俺?」
「うん」
 アオイは、いわゆる優等生の部類に入る生徒だ。教師らはそそくさとその場を去り、アオイとカガリだけが残された。
「火野君、大丈夫?」
「はぁ? うっせーよ。余計なことしてんじゃねぇ……つーかテメェ誰だよ」
「アハハッ、酷いなぁ。クラスメイトなのに……。僕は橘花アオイ。よろしくね」
 カガリは目を丸くして、アオイを見つめた。このあとはセリフがない。黙ってアオイの差し出した手を取り、立ち上がったところで場面転換だ。
「いいね! 高永君、すごくいい感じだよ。JUN君も初めてにしては上出来だ」
 監督の声で、空気が変わった。ヒナキは役から戻って、監督に頭を下げる。
「このまま少し続けてみようか」
「はい!」
 次のシーンは、アオイがカガリの怪我の手当てをする場面だ。
「火野君は、本当はそんなに酷い人じゃないでしょ。不器用なだけ」
「はぁ? うるせ……痛って!」
「あっ、ごめんね。ちょっと沁みるよ」
 ここで、カガリがアオイの顔を見つめる。この時、カガリの中でアオイへの恋心が芽生えるのだ——ト書きにはそう書いてある。
「お前……綺麗な顔してるな」
「え……?」
 一瞬、ヒナキは役を忘れていた。JUNの声があまりにも心を揺さぶったのだ。しかしすぐに我に返り、次のセリフを読み上げる。
「ねぇ、友達になろうよ。火野君」
「フン、友達なんて断りを入れてなるもんでもねぇだろ。だが……この借りは返さねぇとな」
 ふと台本から目を上げると、JUNと——いや、火野カガリと目が合った。カガリはアオイをじっと見つめ、ゆっくり口を開く。
「俺のことはカガリって呼べよ。アオイ」
 カガリの口元に、ふわりと笑みが浮かんだ。
——ああ、どうしよう。こんなのずるい。
 ヒナキは懸命に自我を振り払おうとしたが、もはや胸の高鳴りを抑えられなかった。
 演じているとわかっていても、JUNの笑顔に心が奪われてしまう。これは決してアオイの気持ちではない。
 しかし、ヒナキはなんとか表情を繕うと、アオイの笑みを浮かべた。
「うん。よろしくね、カガリ」
 これは、随分きつい撮影の日々が待ち受けていそうだ。ヒナキは心のうちで静かに覚悟した。




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