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1巻
1-2
公爵の父親、つまり俺の祖父に当たる人は「古き時代」の遺物そのもの。差別主義、権威主義の集大成のような男だったんだ。自分の権勢欲とプライドを満たすことがすべてだった彼は、息子を「公爵家の繁栄のための道具」として「作った」のだ。これは文字通りの意味で、家柄や容姿などの「条件に合う妻」を親族の中から「選び」、「計画的に子供を作った」。ただ、思い通りにはいかず、子供は一人しかできなかった。それが公爵だ。
公爵は「家門の発展のために尽くせ。お前はそのために存在するのだから」と教えられ、幼い頃から剣や魔法、座学を詰め込まれて育った。母親は「役目は果たした」とばかりにほとんど家に寄りつかず、父親は公爵を叱責するためだけに顔を見せた。家族の団欒も遊びも許されず、言われたスケジュール通りに、寝て起きて食事をして勉強する、それだけを繰り返して公爵は育ったのだった。それが公爵の「普通」。おまけに「生意気な目が気に食わない」「貴族たるもの気持ちを表情に出すな」とことあるごとに父親から暴力を振るわれた。愛などというものは存在しなかった。
父親に施された異常なまでの厳しい貴族教育の結果、公爵は感情を表に出さないことを学び、次第に感情のよくわからない人間になった。そして冷血公爵と言われるようになっていた。貴族学校では、外見や高貴な血筋や能力をもてはやされはした。だけどその一方で「近寄りがたい」と遠巻きにされ、心を許せる友人などできなかった。愛情をかけられることなく、普通を知らぬままただひたすら貴族教育を詰め込まれ、優秀な一方、心が育つことなく欠けたままになってしまった人。それが公爵だったんだ。
息子をそうやって育てた元凶である父親は、趣味である狩りで魔物に襲われ、公爵が二十歳のときにあっけなく命を落とした。こうして公爵はようやく父親の虐待から逃れられた。だけどたった二十歳で突然、筆頭公爵家の当主になってしまう。
ちょうどその頃、王家でも代替わりがあった。貴族至上主義の絶対王政を敷いた前代に替わり「国民なしには王家は成り立たぬ」という今の王様がその座についた。王様は汚職まみれの宰相や側近を一掃。平民に対して偏見のない者を重用し、側近とした。そこで宰相として公爵に白羽の矢が立った。皮肉なことに、これまで受けた厳しい教育が公爵を優秀な領主たらしめた。公爵には、感情が乏しいがゆえに偏見もなかったのだ。主義主張もなく、なんの疑問も持たずに王家に命じられた働きを忠実にこなした。王家に仇なす者は淡々と排除した。公爵は命令やデータを元に動く有能なマシーンだった。
こうしてなまじ優秀であったせいで、その心の欠けに誰にも気付かれることなく、公爵は「優秀な領主」「優秀な宰相」としてここまで生きてきたのだった。
実は、公爵のいびつさに気付いた者もいた。サフィール侯爵家のゲイルとエリアナだ。彼らはその感受性の強さゆえに公爵の心の欠けに気付いた。そして寄り添おうとしたのだった。
このゲイルやエリアナとの出会いにより、公爵も変わりかけてはいたらしい。だけど……エリアナの死によってそれは白紙に戻った。公爵は開きかけた目や心を再び閉ざしてしまったんだ。
色々と事情を知った後で思えば、公爵にも同情の余地はある。俺よりも辛い環境で育ったのかもしれない。だって俺は暴力は振るわれていないし、椅子に縛り付けられて勉強させられてもいなかったから。
でも、だからといって俺を放置したのはよくないし、せめて家庭教師くらいはちゃんとした人を選ぶべきだったよね。でしょ?
文字も読めなかった俺だけど、決して頭が悪かったわけじゃない。たった一人で言葉を覚えたし、様々なことを理解していた。それだけでも十分すごいと思う。
それなのに教師は俺を責めた。「一年で王の前で恥をかかぬレベルの貴族教育をしろ」という無茶ぶりに焦っていたのかもしれない。彼からすると「公爵家の三男」は「公爵家という恵まれた家に生まれながら何もしてこなかった怠惰な三男」に見えたんだろう。教師はこう俺を罵ったんだ。
「あなたは部屋にこもりっきりで勉強も何もしようとしなかった。そう侍女頭に聞いております。恥ずかしいと思いませんか? あなたは公爵家の恥です」
「あなたがしっかりしないと公爵家の顔に泥を塗ることになるのです。教師である私の能力まで問われるのですよ? 寝ている暇などありません! もっと学ぶべきです!」
それだけじゃない。そのうち「覚えが悪い」と言って、自分の鬱憤を晴らすために俺の身体や腕にムチを振るうようになった。
希望を失って自己肯定感なんて皆無だった俺は、すべて自分が悪いのだと思った。だから、叱責や罰も当然のものと受け止め、誰にも辛さを訴えることなく限界まで耐えてしまった。
そのせいでますます教師は調子に乗り、いつしか俺は教師の不満のはけ口になっていた。止める者がいないまま限度を超える体罰。教育は苛烈さを増し、休む暇もないほどの課題が与えられた。それは教育という名の虐待。……頑張りすぎた俺が倒れてしまうほどの。
ある日、ついに俺は高熱を出して意識を失った。外傷と重度の消耗のせいだ。毎日の暴力に加え、ただでさえろくに栄養も与えられていないところに睡眠や休憩まで奪われたんだ。小さな身体に回復のしようもない疲労が積み重なった、その結果だった。
家庭教師もさすがにまずいと思ったんだろう。殺人の罪に問われるよりはマシだと、ここでようやく公爵に報告が上がった。
このとき、朦朧とした俺の中に前世の記憶が流れ込んできた。そして、卓也の記憶がサフィとして俺に融合し始めたんだ。卓也と一緒になった俺から見た世界は、これまでとは少し違って見えた。卓也の知識や記憶のおかげで、色々なことに気付けたんだ。
熱に浮かされながら俺は思った。「俺は悪くないじゃん」って。身体は苦しかったけど、心が楽になった気がした。俺はようやく「自分が悪い」という呪いや絶望から解放され、本当の自分を取り戻したんだ。一気に世界が広がったように感じた。
俺の部屋に駆け付けた公爵は驚愕した。俺の顔がまるで死人のようだったから。
「どういうことだ!? なぜ息子がこのようなことになっている!? 貴様、サフィラスに何をした! ゲイル、ゲイルを呼べ! 伯爵家に使いを出せ! 今すぐにだ!」
こうして、大急ぎで優秀なヒーラーで医者であるゲイルが呼ばれた。
公爵はゲイルが来るまで生きた心地がしなかったという。初めてしっかりと見つめた息子の顔が、それはもう酷いものだったからだ。見るからに血色が悪く、おまけにガリガリに痩せ細っていた。
「きちんと食事をとらせていなかったのか? 公爵家の息子として最低限の世話はするようにと申し付けてあったはずだが……。侍女頭は何をやっていた!? この部屋もなんなのだ、まるで物置ではないか。なぜこのような部屋に?」
公爵は混乱していた。どうしてこんなことになった? まさか「私の目に留まらぬところに」という言葉を曲解された結果だなんて、夢にも思わなかった。わけがわからないが、とにかく息子が酷いことになっている、それだけは理解できたらしい。
「なんということだ……。すまない。まさかこのようなことになっていようとは……ああ、お前はこのような顔をしていたのか……。あの赤子が、いつの間にかこんなに大きく……」
夢うつつでそんな公爵の呟きを聞いた気がする。
医者はすぐにやって来た。母の出産に立ち会ったというゲイルは、二十代半ばくらいの、俺とよく似た金の髪色と緑の瞳を持った美しい男だった。ゲイルは衰弱した俺を見て仰天し、公爵に怒鳴った。
「不敬を承知で申し上げます。エリアナ様が命懸けでお産みになったご子息が、なぜこのようなことに!? 服で見えない箇所に多くの折檻の痕があります。小さな子供になんという酷い真似を!」
公爵は厳しい叱責を甘んじて受けた。その顔色は青を通り越して真っ白だった。無表情ながらもどこか沈痛な色を浮かべ、俺の小さな身体を見つめる。
当時、貴族の教育にある程度の罰は当たり前だった。公爵もそのように育てられており、だから教師の体罰も「教育の一環」だと許容した。だけどそれにも限度がある。高位貴族たる公爵家の息子にたかが一介の家庭教師がこのような暴力を振るうなどと、誰が思うだろうか。
無意識だったのだろう。公爵が呟いた。
「私のサフィラスへの無関心とも思える態度が、このような酷い虐待を許してしまった……。すべては私の責任だ。私が気付くべきだった。もっと息子を気にかけるべきだったのに……」
悲痛な声だった。俺はそれが不思議だった。公爵は俺のことが嫌いだったんじゃないの?
そんな公爵に向かってゲイルが怒りを露わに食ってかかる。俺にかけられた上掛けをそっとめくると、その細い腕を公爵に見せつけた。
「あなたの息子をしっかりと見てください! ごらんなさい、こんなに痩せて……。栄養が全く足りていない! だから免疫力がなく、傷口からバイ菌が入りこのような高熱が出たのです。通常なら魔力が多い者はある程度は無意識に自己治癒をしているものです。それがこのようになるなど、ありえません! それだけ……治癒すらできぬほど身体が弱っていたのです」
公爵は言葉もなくただ唇を噛みしめ、うな垂れた。立ち尽くしている身体の横で強く握られた拳に爪が食い込み、血がポタリと落ちる。
そんな公爵をゲイルは容赦なく責め立てた。
「失礼ですが、ご子息をどのように扱っていらしたのですか? どうしてこんなになるまで放っておいたのです! 命懸けでこの子を産んだエリアナ様が今のこの子を見たら、なんと言うでしょう?」
ゲイルの言葉に公爵の目がハッと見開かれた。耐えきれぬほどの胸の痛みに襲われ、両手で胸元をぎゅっと押さえる。その口から漏れたのは、まるで血を吐くような慟哭。
「ああ! エリアナ! 私は……エリアナを思い出すのが辛くて、エリアナの死を思い出させるサフィラスを避けていた。お前のせいだと息子にあたってしまいそうな自分から息子を遠ざけ、守っているつもりでいたのだ。結果的に私は息子を……ずっと放置していた……」
俺はどこかむなしい気持ちでそれを聞いていた。遠ざけて守っている? 俺を遠ざけていたのがまさかそんなくだらない理由だったなんて。守るなら、一言、たった一言「お前が大切だよ」って、それだけでよかったのに。それだけで……!!
ゲイルは公爵の弁明を聞き、さらに怒りを募らせた。
「そのような勝手な理由でサフィラス様を冷遇したのですか!? なんという愚かなことを!」
「ゲイルの言う通りだ。愚かだった。わかっている。エリアナの死は息子のせいではない。私は自己憐憫に浸り、言い訳をして、自分の辛さから逃げてきた。そんな私の弱さが息子をここまで傷つけたのだ。ゲイル、頼む。息子を救ってくれ。私の愚かさの犠牲となってしまったこの子を……!!」
「私はエリアナ様をお助けすることができませんでした。それゆえ……公爵家が私の介入を拒むのも当然と、これまで関わるのを控えてきた。でもこのような事態を放ってはおいては亡きエリアナ様に顔向けできません! このままここに置けばこの子まで失ってしまう。この子をお助けする代わりに、この子は私が頂戴いたします! この子が望んでくれるなら私の養子とします!」
公爵は何も言い返せないようだった。
俺はゲイルが俺のために怒ってくれたこと、俺を貰うと言ってくれたことが嬉しくてたまらなかった。身体が重くて声も出せなかったけど、心はかつてないほど安らいでいた。この間もずっとゲイルは俺を優しく抱きしめてくれている。俺の身体を撫でさすってくれている。「もう大丈夫。大丈夫だから」と涙交じりの声でささやいてくれた。これまでの人生で一番幸せ。もう十分だと思った。
「すまない、ゲイル。本当にすまなかった、サフィラス」
霞む目をなんとか凝らすと、公爵が頭を下げているのが見えた。そして彼は悄然と言葉を紡いだ。
「私は……弱い。だから悲しみや苦しみから逃げてしまった。サフィラスを侍女頭に任せっぱなしにし、すべての責任を放棄してしまった。それを『当主は三男を軽んじている』と使用人が判断したのだろう。その結果が現状だ。私は自分の愚かさや弱さのツケを罪のないサフィラスに支払わせてきたのだ。もっと早く向き合うべきだった……」
たぶん、これは公爵が初めて自分を「弱い」と認めた瞬間だった。氷のようだった公爵の表情が崩れた。その声は弱々しく、小さな子供のようだった。
「……親からも家族からも見捨てられ、サフィラスはこのような部屋でたった一人耐えてきたのか……。この小さな身体でどんな気持ちでずっと過ごしていたのだろうな……。私は父親失格だ」
ぐっと胸元を握り締める公爵。まるで痛いものを抱えているかのように。凍てついた心が、ようやく溶け始めているように見えた。公爵は震える声で、なんとか絞り出すようにして言葉を続けた。
「……この子はゲイルに託そう。私に言えることではないが……この子を愛してやってほしい」
そんな公爵にもゲイルは容赦なかった。後悔に暮れる公爵に向かって、ピシャリとこう言ってのけたのだ。
「仰る通りです。何を当たり前のことを! 心に刻んでください、すべてあなたの責任だ! この子を愛する? 当然です! 私はこの子がエリアナ様に宿った瞬間から、ずっと変わることなく愛してきました。言われなくとも大切にします」
公爵の横では幼い兄たちが震えていた。
「ねえ、兄さま。この子、死んじゃうの? 僕が前に『なんで生きてるの?』なんて言ったから? 僕、酷いこと言っちゃった! 本当はお母様の代わりに僕たちが守らなきゃいけなかったのに。ごめんねってまだ伝えてない! この子にまだなんにもしてあげてないのに! どうしよう!」
「大丈夫だ。死なない。死なせてたまるか! お願いします、叔父上! この子を助けてください! 助けてくれたらこれからは私たちで守る! 命懸けで守るから! どうか……お願いだ……!!」
もしかして俺のために泣いているの? ずっとごめんねって言おうとしてたの? てっきり俺を嫌っているんだと思ってた。でも……違ったの……?
俺の目から勝手に涙がポロリとこぼれた。
ゲイルはそんな俺を抱き上げ、頬にそっと手を添えて涙を拭ってくれた。慈しみに満ちた瞳で俺に話しかけ、壊れ物でも扱うかのように丁寧に優しく抱きしめてくれる。
「今まで一人でよく頑張りましたね。気付かなかった私を許してください。もう大丈夫。私はゲイル。これからは私があなたを大切にします。私がそばにいます。たくさん食べて元気になりましょう。元気になったら私と一緒に来てください。私の息子になってください」
俺は生まれて初めて「優しい言葉」をかけられ、撫でられ抱きしめられた。嬉しい。俺は高熱に苦しみながら、幸せな気持ちで微笑んだ。
「ぼく……うまれてよかった……? ぼく、わるくない? ぼくのこと、すき?」
震える小さな声で問う。言葉と共に涙がぼろぼろと溢れて落ちた。
「もちろんです! あなたのお母様もあなたに会うのを楽しみにしていらした。一緒にいてあげられないこと、それだけが心残りだと仰って……。あなたの幸せを願っていらっしゃいました。無事に生まれてくださってありがとうございます。あなただけでもお救いできてよかった。大好きですよ」
「よかった……。ありがと……」
一人ぼっちだった小さな俺は、頑張って、頑張って、ようやく今、求めていた言葉を貰えた。ようやく報われた。あとはもう言葉にならなかった。その言葉を最後に俺の意識は完全に途絶えた。
こうして俺は呪いを解いて自分を取り戻し、完全な俺になった。俺は、強くなった。そして楽観的になった。これからは嫌なことは嫌だとハッキリ言う! エリアナお母様がくれた命だから、思いっきり楽しく笑って生きる! いつ死んでも後悔のないように、大好きな人に大好きだと伝えていきたい。言えないまま死んだ前世の俺の分も。
◆第二章 新しい日常
次に目を覚ましたら状況が一変していた。
俺が死にかけたことで自分のしてきたこと、いや、してこなかったことを後悔した公爵は、ようやく「サフィラス」をしっかりと認識し、「息子」として扱うことにしたらしい。これまでの贖罪をするかのように俺の扱いを激変させた。
まず変わっていたのが部屋。目を覚ました俺は、自分の身体がこれまでの固い寝床ではなく温かな柔らかい寝具に包まれていることに気付いた。
「……ふかふか?」
元々の俺の部屋は打ち捨てられたような場所だった。カーペットすらなく、剥き出しのまま劣化してささくれだった木の床、粗末な木製のベッドに薄い布団という、物置部屋。
それが激変! 寝ている間に豪華絢爛な部屋に移されていたのだ。毛足の長い絨毯が敷かれた床、豪華な飾り付きのベッドに、身体が沈み込むようなふかふかの寝具。絵画や花まで飾られている。これまでの薄暗い湿った部屋とは違って大きな窓があり、そこから柔らかな光が射し込んでいた。なんだか空気自体が澄んでいる気すらする。
「ええー?」
夢でも見ているのかと目をぱちくり。
ふと横を見ると、昨日俺のために怒ってくれたお医者さんのゲイルがベッド横の椅子に座っていた。俺の手を握ったまま、半身をベッドに預けるようにしてうつ伏せで寝入っている。もしかして夜通し看病してくれたのかな? その顔には無精髭が浮かんでいた。疲れたお顔だけど、とってもカッコよき。この人、俺のお父様になってくれるって言ってたよね!
俺はじいっとゲイルを見つめた。ゲイルだけが俺が求めていたものをくれた。まるで気を失うようにして眠りにつく前に感じた気持ちは、満たされた温かなもの。こんなに幸せな気持ちで目覚めるのは初めてだ。俺のため公爵に立ち向かってくれたゲイルに、俺は感動していた。初めて幸せを与えてくれたゲイルに、俺は感謝していた。嬉しくて、幸せで。胸がぽかぽかする。
「……ありがと。ゲイル、だいすき」
一人ぼっちだった俺は、これからはゲイルの息子として幸せになるんだ。これからはゲイルが俺のお父様。なんて素敵なんだろう! 嬉しくてによによしながらそっとゲイルの髭面を撫でた。
「……ふふ。ちくちく」
このちくちくはゲイルが俺を心配してくれた証。そう思ったら、胸の奥から温かなものがふつふつと湧き上がってくる。俺にとっての家族は、亡くなったエリアナお母様。そして必死に俺を庇い、惜しみない愛を感じさせてくれたゲイルなんだと思った。
だから決めた。俺は公爵を捨てる。公爵のあの驚愕した様子や後悔した様子からして、確かにこれまでの俺の窮状は公爵の意図しないものだったんだろう。すべては俺に色々な呪詛を吹き込んでいた意地悪な侍女頭が仕組んだことなんだと思う。侍女頭は明らかに俺に悪意を向けていたし、俺が傷つくことに喜びを見出していたようだったから。十七歳の卓也の記憶がある今の俺には、思い当たる節がたくさんあった。
でも、侍女頭なんてどうでもいい。だって公爵は何も知ろうとせず、俺から目をそらして逃げ続けてきた。ちょっとでも気にかけてくれたら気付いたはずなのに。知らなかったから、そんなつもりはなかったから、なんて言葉で終わり? そんなの納得できない。
愛する人を失った辛さ、悲しみ、苦しみは理解できる。でもそれは本来、自分で乗り越えていくものでしょう? どんな言い訳をしようと、公爵がしたことは「可哀想な私」って自分に酔っていただけ。その辛さに浸りきって、現実から逃げたの。子供の面倒を見るのは親の仕事でしょ。ほんの少しの優しさ、たったそれだけで俺は救われたんだよ? 家族なら、父親なら、どうして一言だけでも声をかけてくれなかったの? それくらいはできたでしょう?
公爵の慟哭を聞いてしまったから、俺は公爵を恨んだり憎んだりできなくなった。だけどもう家族だって思えないの。公爵が後悔しようとどうしようと、俺はもう決めた。公爵が父親だなんて認めないって。ゲイルが俺を貰ってくれるって言っていたから、だから……俺は公爵家を出る。ゲイルの息子になる。俺の家族はゲイル、俺のお父様はゲイルだ。俺はこれからゲイルと一緒にめいっぱい幸せに生きるんだ!
色々と頭の中で考えてぼうっとしていたらしい。気が付いたら、目の前にゲイルの心配そうな顔があった。気遣わしげに俺の顔を覗き込んでいる。
「サフィラス様、どうしたのですか? どこか痛いのですか? 苦しいところがあるのですか? ゲイルに仰ってみてください」
大丈夫だと口を開く間もなく、ゲイルはその手を俺のおでこに当てたり、袖をめくって脈を取ったり身体を撫でたりと大忙し。そんなゲイルの慌てっぷりがおかしくて、嬉しくて。俺は思わず笑ってしまった。
「あはは! だいじょーぶ。もうだいじょーぶ! だってゲイルがいるもん! ちゃんときこえてたの。ゲイル ぼくを助けてくれた!」
初めて声を出して笑った。あんまり声を出してこなかったから、まだ上手に話せないけど。俺、今はとっても幸せなんだよ。この嬉しい気持ちがゲイルに伝わりますように!
大好きって気持ちを込めてにこにこする俺を見て、ゲイルが驚いたように目を見開いた。
「……エリアナにそっくりだ……」
エリアナって俺のお母様だよね。いつの間にか、亡くなったお母様に似た面差しになっていたのかな? そうだといいな。俺を産んでくれたお母様。その命を継いで俺は生きていく。
俺を見て、どこか眩しそうに懐かしそうに微笑むゲイル。
「……ふふふ。可愛いな。サフィラス様はそんな表情で笑うのですね。そのお顔は、いつも微笑んでいたお母様にそっくりですよ? 公爵様がもっと早くサフィラス様と向き合っていれば、あなたの境遇も違ったものになっていたでしょうに……」
そう言うと、俺の頬に手を伸ばして優しく触れた。触れられた箇所から全身に心地よさが広がる。
「いきなりで驚いたでしょう? あなたは怪我のせいで倒れたのです。栄養失調と過労も重なっていらしたので心配で……。驚かせてしまって申し訳ございません」
ゲイルの俺を見る瞳には愛情が溢れていた。そんな瞳で見られたのは初めてだったからちょっと照れくさい。俺は赤くなりながら、ぽかぽかする胸を押さえ、ぷるぷる頭を振った。
「ううん。ありがと。だいじょぶ」
「改めてご挨拶いたします。ゲイルと申します。あなたの亡くなられたお母様の叔父にあたります。お母様とは年齢が近いこともあり、兄妹のように親しくさせていただいておりました。私はヒールという魔法と薬で治療をする医者なんです。あなたのご出産にも立ち会わせていただいたのですよ」
うん。知ってる。俺が生まれる前から見守ってくれていたんだよね? それで俺を愛してくれていたんでしょ! ちゃんと聞いてたもん! 俺は添えられたゲイルの手にすりっと頬を寄せた。いい気持ち! 大きくて優しい手。この手が俺を助けてくれたの。
「あなたのことをずっと心配しておりました。これまで何度も公爵様にあなたに会わせていただきたいとお願いしていたのですが、それも叶わず……。お身体が弱いと聞いておりましたので、きっと他の医師が診ているのだろうと……。お母様をお救いできなかった負い目もあり、無理を通すこともできずにおりました。このような状況になるまで何もできず、申し訳ございません」
俺に向かって頭を深々と下げるゲイル。ゲイルは俺の手をその温かな手でぎゅうっと握ると、俺の目をしっかりと見つめてこう言ってくれた。
「これからは、ゲイルがおそばにおります。サフィラス様さえよろしければ、私の屋敷に来てください。私は寂しい独り身です。跡を継いでくれる子もおりません。どうか、私の息子になっていただけないでしょうか? もしもサフィラス様がいいと言ってくださるのならば、私が公爵様にかけ合います。これまでのあなたへの扱いは、到底許されるものではありません。あなたが許しても私は許しません! 公爵家がごねようと私がなんとかいたしますので、サフィラス様のよろしいようになさってください。公爵家の異論など、この私が認めませんから!」
「……ほんと? だいじょぶ?」
俺、ゲイルのお邪魔になったりしない? ゲイル、公爵にそんなことしちゃっていいの?
ちょっと心配顔をした俺に、ゲイルはニヤリとどす黒い笑みを浮かべてみせた。
「私にもそれなりに伝手はあるのですよ、任せてください」
ひゃあ! カッコよ! ゲイルが本気で「自分の息子に」と思っていることが伝わってきた。このまま公爵家にいるのか、それとも公爵家から籍を抜きゲイルの養子になるか。その選択は俺の知らぬ間に俺自身に委ねられていたようだ。そんなの、もう答えは決まってる!
そのとき、コンコン、と扉がノックされ、男の人の声が。
「失礼。サフィラスは目覚めただろうか?」
入ってきたのは俺の実の父親であるグランディール公爵。その後ろからおずおずと顔を出したのは、ライオネルとリオネルだ。
それに応えたのは、俺ではなくゲイル。ゲイルはさっと俺の姿をその背に隠してくれた。
「サフィラス様は先ほどお目覚めになったばかりです。まだまだ本調子ではございません。明け方にようやく熱が下がったところなのです。このように消耗されている方に、今さらなんのお話ですか? もう十分に頑張っていらしたのです。これ以上、無駄に心を疲れさせぬよう、何かお話があるのなら私がお伺いします。手短に願います」
要約すると「お前らが今さらなんの用なんだ、さっさと出ていけ」だね。ほんとにゲイルってばカッコよすぎない?
庇われた俺は、なんだかくすぐったい気持ちがした。むずかゆいようななんとも言えない恥ずかしさに耐えきれず、俺はそっとゲイルの服の裾を掴む。そして、てれてれと頬を赤らめながらゲイルの名を呼んだ。
「ゲイル、ゲイル」
「どうされました? サフィラス様?」
公爵に対するのとは打って変わって、穏やかな優しい表情で俺に向き直るゲイル。
俺はぎゅっとゲイルに抱きついた。大好きが溢れる。どうしても今伝えたいの。
「まもってくれてありがと。ぼく、ゲイルだいすき。ゲイル、すき!」
とたん、ゲイルの目がぐわっと見開かれた。喉からグゥッて変な音が聞こえる。
「ゲイルもです! ゲイルも、サフィラス様のことが大好きですよ!」
我を忘れたようにぎゅうっと俺を抱きしめるゲイル。ほっぺもくっつけてぎゅうぎゅうだ。
「ぼくもすき! でも、ぎゅうっ、いたい。やさしくぎゅってして!」
抗議したけど、それでも嬉しくて幸せだった。文句を言うのも初めて。何もかもが幸せで嬉しい。
幸せそうな俺たちを見て、存在を全く無視されてしまった形の公爵たちは呆然と立ち尽くしていた。ライオネルが力ない声でこぼす。
「父上。私は前にこの子の笑顔を見てこう思ってしまいました。何を暢気に笑っているのだ、と。でもこの笑顔はあのときの笑顔とは全然違う。あれは笑っていたのではなかった。これ以上私に嫌われないようにと必死で笑いかけていたんですね。私たちは自分の苛立ちをすべて幼いこの子にぶつけていた。この子のせいにすることで母上のいない辛さから目を背けていた。酷いことを言いました。酷いことをしました。気付いたときにすぐに謝るべきだった、助けるべきだったのに……。私にその勇気がなかったために……」
リオネルの顔にも後悔が浮かんでいた。
「この子、こんな顔もできたんだね。僕たちがこの子から笑顔を奪っていたんだ……。僕だってこの子のお兄さまなのに。お兄さまが僕にしてくれるみたいに、僕がこの子にしてあげなきゃいけなかったのに。僕、いっぱいイジメて、ごめんねも言わなかった……」
ライオネルとリオネルはそっと俺に伸ばしかけた手を引っ込めた。自分たちにはそんな資格などないと。
公爵もショックを受けていた。ゲイルこそが俺の本当の親のように見えたから。ゲイルと俺が、どう見ても幸せで仲のいい本当の親子にしか見えなかったから。
「サフィラスはこんな顔をして笑うのか。こんな顔もできたのだな……」
血の繋がった本当の家族である公爵は、俺を無視し、俺の不遇の元凶となった。一方でゲイルは、まるで本当の息子のように俺を愛おしみ、俺を守ろうと公爵に牙を剥いた。そう、本当の家族である公爵を息子の敵だと認識して。公爵はこれまでの俺にとって、まさに「命を脅かす敵」でしかなかったのだから。
「今さら悔やんだところで何になろう。私にできるのはサフィラスの望みを叶えること、それだけだ。サフィラスが何を望もうと、すべて叶えよう。サフィラスの罵倒も甘んじて受けよう。償いきれない罪を、私は犯したのだ」
その声に、俺はふと公爵を見た。その瞬間、俺の口元に浮かんでいた笑みも、瞳の温かな色合いもすっと消えた。公爵を見る俺の目には一切の感情の色がなかった。俺の心は完全に凪いでいた。
「……こうしゃく、ぼくになんのごよう?」
仕方なく言わなければならないことを言う、それだけ。我ながら、まるで紙に書かれた文章をそのまま読んだかのような無機質な響きだった。
幼い声で紡がれた「公爵」という呼称。公爵はまるで針で心臓を刺されたような表情になった。これまで俺が「お父さま」と呼ぶ声には、確かな愛情とすがるような響きがあった。こうなってようやく気付いたのだろう。もう俺の中には公爵たちに対して家族としての愛情などないのだということに。
当たり前だ。俺は生まれてからずっと、最低限の食事と身の周りの世話以外は一人ぼっちで放置されて育った。誰からも愛情を与えられず、虐げられ無視されてきた。公爵は俺の不遇に気付こうとせず、ずっと放置してきたよね? それでも俺は何度も公爵に語りかけ、笑いかけた。それを無視したのは公爵でしょう? そんな相手にどうしてずっと愛情を持ち続けることができるの?
しかも、そんな扱いをしていたのにもかかわらず「避けられないお披露目会のためだ」と無理やり俺に貴族教育を詰め込んだ。最低限の教育すらしなかったくせに、一年でなんとかしろなんて無茶を命じたのだ。追い込まれた教師が俺に体罰を行っているのも知っていて無視した。「教育」に「罰」は必要悪だから、と。俺の命を脅かしたのは、まぎれもなく公爵だ。それで親だなんて思える? 無理だ。
そう、もう遅いんだよ、公爵。
さて、俺はそのままゲイルと共に公爵家を出て……とはならなかった。俺の小さな身体は、長年の栄養不足がたたってすっかり弱ってしまっていたから。
俺の痩せ細った腕や身体を診察したゲイルが、目に涙を浮かべて憤慨。
「魔力が多いおかげでなんとかなっていただけです! 普通の子供だったらとっくにどうにかなっていましたよ!? 本当ならすぐにでも私の屋敷にお連れしたいところですが……。残念ながらまだ移動には耐えられません。絶対安静! あなたに必要なのはたくさんの栄養と休養、そして愛情です!」
まるで自分のことのように悲しみ、怒るゲイル。なんだかそれが嬉しくて面映ゆくて、ついニコニコしてしまう俺。
「サフィラス様、聞いていらっしゃいますか?」
「うふふ。うん、きーてるー。さま、いらないの。サフィがいいの。ふつーにおはなしして?」
家族なんだからフランクに接してほしい。他人行儀なのは寂しいもん。息子なんだもの、敬語とかやめてほしいの。
ゲイルは困ったように眉尻を下げた。そして、こほん、と咳払いして口調を変えてくれた。
「……可愛い笑顔は素敵だが、大事なことなんだぞ? 聞いてるか? ……サフィ?」
「うん。ぼくサフィ。ゲイルお父さま、すき。あんせいだいじ。だいじょぶ、きーてる」
考えるより先に口から出る言葉。すごく幸せで胸がぽかぽか。嬉しくて頬がゆるんじゃう。
不思議なんだけど、目を覚ましたら前世の俺の記憶と小さな俺の記憶が矛盾することなく一人の俺として溶け合っていた。なのに精神はこれまでよりも幼くなってしまった気がする。俺自身でもどうしようもないの。これまで甘えられなかったのを取り戻そうとしているように、思ったままを口にしちゃうし勝手に身体が動いちゃうのだ。感情の起伏も激しいし、特に今は大好きと言える相手がいることが嬉しくてたまらない。気が付けば「ゲイルすき」と口にしている。
もう開き直った。いいもん、子供っぽくたって。ゲイルにはいっぱい甘えさせてもらうんだもん! 抱っこしてもらってチュウしてもらってナデナデしてもらうの!
ゲイルは俺の新しい豪華な部屋に有無を言わさず私物を運び込んだ。公爵たちが口を挟む隙も与えないその手腕には、俺もびっくりである。ゲイルってばやり手!
こんなにできる人なら、どうしてもっと早く俺を迎えにきてくれなかったのかな、なんてちょっとだけ恨めしく思ったりもする。でも、お母様を救えなかった負い目でゲイルなりに相当我慢していたんだろう。時折、「優秀な医者が来ていると思ったから、遠慮したのに……」「こんなことなら無理にでも押しかけるんだった……」なんて不穏な顔で目を光らせているから間違いない。
いずれにしろ、ブチ切れたゲイルは最強だった。当初は俺を連れ出すと息巻いていたんだけど、公爵たちの態度が変化して、俺の待遇が劇的に改善されたことで考えを変えたようだ。渋々「今は移動するほうが身体に悪い」と認め、ここに自分が居座ることにしたのだった。
公爵は「家門の発展のために尽くせ。お前はそのために存在するのだから」と教えられ、幼い頃から剣や魔法、座学を詰め込まれて育った。母親は「役目は果たした」とばかりにほとんど家に寄りつかず、父親は公爵を叱責するためだけに顔を見せた。家族の団欒も遊びも許されず、言われたスケジュール通りに、寝て起きて食事をして勉強する、それだけを繰り返して公爵は育ったのだった。それが公爵の「普通」。おまけに「生意気な目が気に食わない」「貴族たるもの気持ちを表情に出すな」とことあるごとに父親から暴力を振るわれた。愛などというものは存在しなかった。
父親に施された異常なまでの厳しい貴族教育の結果、公爵は感情を表に出さないことを学び、次第に感情のよくわからない人間になった。そして冷血公爵と言われるようになっていた。貴族学校では、外見や高貴な血筋や能力をもてはやされはした。だけどその一方で「近寄りがたい」と遠巻きにされ、心を許せる友人などできなかった。愛情をかけられることなく、普通を知らぬままただひたすら貴族教育を詰め込まれ、優秀な一方、心が育つことなく欠けたままになってしまった人。それが公爵だったんだ。
息子をそうやって育てた元凶である父親は、趣味である狩りで魔物に襲われ、公爵が二十歳のときにあっけなく命を落とした。こうして公爵はようやく父親の虐待から逃れられた。だけどたった二十歳で突然、筆頭公爵家の当主になってしまう。
ちょうどその頃、王家でも代替わりがあった。貴族至上主義の絶対王政を敷いた前代に替わり「国民なしには王家は成り立たぬ」という今の王様がその座についた。王様は汚職まみれの宰相や側近を一掃。平民に対して偏見のない者を重用し、側近とした。そこで宰相として公爵に白羽の矢が立った。皮肉なことに、これまで受けた厳しい教育が公爵を優秀な領主たらしめた。公爵には、感情が乏しいがゆえに偏見もなかったのだ。主義主張もなく、なんの疑問も持たずに王家に命じられた働きを忠実にこなした。王家に仇なす者は淡々と排除した。公爵は命令やデータを元に動く有能なマシーンだった。
こうしてなまじ優秀であったせいで、その心の欠けに誰にも気付かれることなく、公爵は「優秀な領主」「優秀な宰相」としてここまで生きてきたのだった。
実は、公爵のいびつさに気付いた者もいた。サフィール侯爵家のゲイルとエリアナだ。彼らはその感受性の強さゆえに公爵の心の欠けに気付いた。そして寄り添おうとしたのだった。
このゲイルやエリアナとの出会いにより、公爵も変わりかけてはいたらしい。だけど……エリアナの死によってそれは白紙に戻った。公爵は開きかけた目や心を再び閉ざしてしまったんだ。
色々と事情を知った後で思えば、公爵にも同情の余地はある。俺よりも辛い環境で育ったのかもしれない。だって俺は暴力は振るわれていないし、椅子に縛り付けられて勉強させられてもいなかったから。
でも、だからといって俺を放置したのはよくないし、せめて家庭教師くらいはちゃんとした人を選ぶべきだったよね。でしょ?
文字も読めなかった俺だけど、決して頭が悪かったわけじゃない。たった一人で言葉を覚えたし、様々なことを理解していた。それだけでも十分すごいと思う。
それなのに教師は俺を責めた。「一年で王の前で恥をかかぬレベルの貴族教育をしろ」という無茶ぶりに焦っていたのかもしれない。彼からすると「公爵家の三男」は「公爵家という恵まれた家に生まれながら何もしてこなかった怠惰な三男」に見えたんだろう。教師はこう俺を罵ったんだ。
「あなたは部屋にこもりっきりで勉強も何もしようとしなかった。そう侍女頭に聞いております。恥ずかしいと思いませんか? あなたは公爵家の恥です」
「あなたがしっかりしないと公爵家の顔に泥を塗ることになるのです。教師である私の能力まで問われるのですよ? 寝ている暇などありません! もっと学ぶべきです!」
それだけじゃない。そのうち「覚えが悪い」と言って、自分の鬱憤を晴らすために俺の身体や腕にムチを振るうようになった。
希望を失って自己肯定感なんて皆無だった俺は、すべて自分が悪いのだと思った。だから、叱責や罰も当然のものと受け止め、誰にも辛さを訴えることなく限界まで耐えてしまった。
そのせいでますます教師は調子に乗り、いつしか俺は教師の不満のはけ口になっていた。止める者がいないまま限度を超える体罰。教育は苛烈さを増し、休む暇もないほどの課題が与えられた。それは教育という名の虐待。……頑張りすぎた俺が倒れてしまうほどの。
ある日、ついに俺は高熱を出して意識を失った。外傷と重度の消耗のせいだ。毎日の暴力に加え、ただでさえろくに栄養も与えられていないところに睡眠や休憩まで奪われたんだ。小さな身体に回復のしようもない疲労が積み重なった、その結果だった。
家庭教師もさすがにまずいと思ったんだろう。殺人の罪に問われるよりはマシだと、ここでようやく公爵に報告が上がった。
このとき、朦朧とした俺の中に前世の記憶が流れ込んできた。そして、卓也の記憶がサフィとして俺に融合し始めたんだ。卓也と一緒になった俺から見た世界は、これまでとは少し違って見えた。卓也の知識や記憶のおかげで、色々なことに気付けたんだ。
熱に浮かされながら俺は思った。「俺は悪くないじゃん」って。身体は苦しかったけど、心が楽になった気がした。俺はようやく「自分が悪い」という呪いや絶望から解放され、本当の自分を取り戻したんだ。一気に世界が広がったように感じた。
俺の部屋に駆け付けた公爵は驚愕した。俺の顔がまるで死人のようだったから。
「どういうことだ!? なぜ息子がこのようなことになっている!? 貴様、サフィラスに何をした! ゲイル、ゲイルを呼べ! 伯爵家に使いを出せ! 今すぐにだ!」
こうして、大急ぎで優秀なヒーラーで医者であるゲイルが呼ばれた。
公爵はゲイルが来るまで生きた心地がしなかったという。初めてしっかりと見つめた息子の顔が、それはもう酷いものだったからだ。見るからに血色が悪く、おまけにガリガリに痩せ細っていた。
「きちんと食事をとらせていなかったのか? 公爵家の息子として最低限の世話はするようにと申し付けてあったはずだが……。侍女頭は何をやっていた!? この部屋もなんなのだ、まるで物置ではないか。なぜこのような部屋に?」
公爵は混乱していた。どうしてこんなことになった? まさか「私の目に留まらぬところに」という言葉を曲解された結果だなんて、夢にも思わなかった。わけがわからないが、とにかく息子が酷いことになっている、それだけは理解できたらしい。
「なんということだ……。すまない。まさかこのようなことになっていようとは……ああ、お前はこのような顔をしていたのか……。あの赤子が、いつの間にかこんなに大きく……」
夢うつつでそんな公爵の呟きを聞いた気がする。
医者はすぐにやって来た。母の出産に立ち会ったというゲイルは、二十代半ばくらいの、俺とよく似た金の髪色と緑の瞳を持った美しい男だった。ゲイルは衰弱した俺を見て仰天し、公爵に怒鳴った。
「不敬を承知で申し上げます。エリアナ様が命懸けでお産みになったご子息が、なぜこのようなことに!? 服で見えない箇所に多くの折檻の痕があります。小さな子供になんという酷い真似を!」
公爵は厳しい叱責を甘んじて受けた。その顔色は青を通り越して真っ白だった。無表情ながらもどこか沈痛な色を浮かべ、俺の小さな身体を見つめる。
当時、貴族の教育にある程度の罰は当たり前だった。公爵もそのように育てられており、だから教師の体罰も「教育の一環」だと許容した。だけどそれにも限度がある。高位貴族たる公爵家の息子にたかが一介の家庭教師がこのような暴力を振るうなどと、誰が思うだろうか。
無意識だったのだろう。公爵が呟いた。
「私のサフィラスへの無関心とも思える態度が、このような酷い虐待を許してしまった……。すべては私の責任だ。私が気付くべきだった。もっと息子を気にかけるべきだったのに……」
悲痛な声だった。俺はそれが不思議だった。公爵は俺のことが嫌いだったんじゃないの?
そんな公爵に向かってゲイルが怒りを露わに食ってかかる。俺にかけられた上掛けをそっとめくると、その細い腕を公爵に見せつけた。
「あなたの息子をしっかりと見てください! ごらんなさい、こんなに痩せて……。栄養が全く足りていない! だから免疫力がなく、傷口からバイ菌が入りこのような高熱が出たのです。通常なら魔力が多い者はある程度は無意識に自己治癒をしているものです。それがこのようになるなど、ありえません! それだけ……治癒すらできぬほど身体が弱っていたのです」
公爵は言葉もなくただ唇を噛みしめ、うな垂れた。立ち尽くしている身体の横で強く握られた拳に爪が食い込み、血がポタリと落ちる。
そんな公爵をゲイルは容赦なく責め立てた。
「失礼ですが、ご子息をどのように扱っていらしたのですか? どうしてこんなになるまで放っておいたのです! 命懸けでこの子を産んだエリアナ様が今のこの子を見たら、なんと言うでしょう?」
ゲイルの言葉に公爵の目がハッと見開かれた。耐えきれぬほどの胸の痛みに襲われ、両手で胸元をぎゅっと押さえる。その口から漏れたのは、まるで血を吐くような慟哭。
「ああ! エリアナ! 私は……エリアナを思い出すのが辛くて、エリアナの死を思い出させるサフィラスを避けていた。お前のせいだと息子にあたってしまいそうな自分から息子を遠ざけ、守っているつもりでいたのだ。結果的に私は息子を……ずっと放置していた……」
俺はどこかむなしい気持ちでそれを聞いていた。遠ざけて守っている? 俺を遠ざけていたのがまさかそんなくだらない理由だったなんて。守るなら、一言、たった一言「お前が大切だよ」って、それだけでよかったのに。それだけで……!!
ゲイルは公爵の弁明を聞き、さらに怒りを募らせた。
「そのような勝手な理由でサフィラス様を冷遇したのですか!? なんという愚かなことを!」
「ゲイルの言う通りだ。愚かだった。わかっている。エリアナの死は息子のせいではない。私は自己憐憫に浸り、言い訳をして、自分の辛さから逃げてきた。そんな私の弱さが息子をここまで傷つけたのだ。ゲイル、頼む。息子を救ってくれ。私の愚かさの犠牲となってしまったこの子を……!!」
「私はエリアナ様をお助けすることができませんでした。それゆえ……公爵家が私の介入を拒むのも当然と、これまで関わるのを控えてきた。でもこのような事態を放ってはおいては亡きエリアナ様に顔向けできません! このままここに置けばこの子まで失ってしまう。この子をお助けする代わりに、この子は私が頂戴いたします! この子が望んでくれるなら私の養子とします!」
公爵は何も言い返せないようだった。
俺はゲイルが俺のために怒ってくれたこと、俺を貰うと言ってくれたことが嬉しくてたまらなかった。身体が重くて声も出せなかったけど、心はかつてないほど安らいでいた。この間もずっとゲイルは俺を優しく抱きしめてくれている。俺の身体を撫でさすってくれている。「もう大丈夫。大丈夫だから」と涙交じりの声でささやいてくれた。これまでの人生で一番幸せ。もう十分だと思った。
「すまない、ゲイル。本当にすまなかった、サフィラス」
霞む目をなんとか凝らすと、公爵が頭を下げているのが見えた。そして彼は悄然と言葉を紡いだ。
「私は……弱い。だから悲しみや苦しみから逃げてしまった。サフィラスを侍女頭に任せっぱなしにし、すべての責任を放棄してしまった。それを『当主は三男を軽んじている』と使用人が判断したのだろう。その結果が現状だ。私は自分の愚かさや弱さのツケを罪のないサフィラスに支払わせてきたのだ。もっと早く向き合うべきだった……」
たぶん、これは公爵が初めて自分を「弱い」と認めた瞬間だった。氷のようだった公爵の表情が崩れた。その声は弱々しく、小さな子供のようだった。
「……親からも家族からも見捨てられ、サフィラスはこのような部屋でたった一人耐えてきたのか……。この小さな身体でどんな気持ちでずっと過ごしていたのだろうな……。私は父親失格だ」
ぐっと胸元を握り締める公爵。まるで痛いものを抱えているかのように。凍てついた心が、ようやく溶け始めているように見えた。公爵は震える声で、なんとか絞り出すようにして言葉を続けた。
「……この子はゲイルに託そう。私に言えることではないが……この子を愛してやってほしい」
そんな公爵にもゲイルは容赦なかった。後悔に暮れる公爵に向かって、ピシャリとこう言ってのけたのだ。
「仰る通りです。何を当たり前のことを! 心に刻んでください、すべてあなたの責任だ! この子を愛する? 当然です! 私はこの子がエリアナ様に宿った瞬間から、ずっと変わることなく愛してきました。言われなくとも大切にします」
公爵の横では幼い兄たちが震えていた。
「ねえ、兄さま。この子、死んじゃうの? 僕が前に『なんで生きてるの?』なんて言ったから? 僕、酷いこと言っちゃった! 本当はお母様の代わりに僕たちが守らなきゃいけなかったのに。ごめんねってまだ伝えてない! この子にまだなんにもしてあげてないのに! どうしよう!」
「大丈夫だ。死なない。死なせてたまるか! お願いします、叔父上! この子を助けてください! 助けてくれたらこれからは私たちで守る! 命懸けで守るから! どうか……お願いだ……!!」
もしかして俺のために泣いているの? ずっとごめんねって言おうとしてたの? てっきり俺を嫌っているんだと思ってた。でも……違ったの……?
俺の目から勝手に涙がポロリとこぼれた。
ゲイルはそんな俺を抱き上げ、頬にそっと手を添えて涙を拭ってくれた。慈しみに満ちた瞳で俺に話しかけ、壊れ物でも扱うかのように丁寧に優しく抱きしめてくれる。
「今まで一人でよく頑張りましたね。気付かなかった私を許してください。もう大丈夫。私はゲイル。これからは私があなたを大切にします。私がそばにいます。たくさん食べて元気になりましょう。元気になったら私と一緒に来てください。私の息子になってください」
俺は生まれて初めて「優しい言葉」をかけられ、撫でられ抱きしめられた。嬉しい。俺は高熱に苦しみながら、幸せな気持ちで微笑んだ。
「ぼく……うまれてよかった……? ぼく、わるくない? ぼくのこと、すき?」
震える小さな声で問う。言葉と共に涙がぼろぼろと溢れて落ちた。
「もちろんです! あなたのお母様もあなたに会うのを楽しみにしていらした。一緒にいてあげられないこと、それだけが心残りだと仰って……。あなたの幸せを願っていらっしゃいました。無事に生まれてくださってありがとうございます。あなただけでもお救いできてよかった。大好きですよ」
「よかった……。ありがと……」
一人ぼっちだった小さな俺は、頑張って、頑張って、ようやく今、求めていた言葉を貰えた。ようやく報われた。あとはもう言葉にならなかった。その言葉を最後に俺の意識は完全に途絶えた。
こうして俺は呪いを解いて自分を取り戻し、完全な俺になった。俺は、強くなった。そして楽観的になった。これからは嫌なことは嫌だとハッキリ言う! エリアナお母様がくれた命だから、思いっきり楽しく笑って生きる! いつ死んでも後悔のないように、大好きな人に大好きだと伝えていきたい。言えないまま死んだ前世の俺の分も。
◆第二章 新しい日常
次に目を覚ましたら状況が一変していた。
俺が死にかけたことで自分のしてきたこと、いや、してこなかったことを後悔した公爵は、ようやく「サフィラス」をしっかりと認識し、「息子」として扱うことにしたらしい。これまでの贖罪をするかのように俺の扱いを激変させた。
まず変わっていたのが部屋。目を覚ました俺は、自分の身体がこれまでの固い寝床ではなく温かな柔らかい寝具に包まれていることに気付いた。
「……ふかふか?」
元々の俺の部屋は打ち捨てられたような場所だった。カーペットすらなく、剥き出しのまま劣化してささくれだった木の床、粗末な木製のベッドに薄い布団という、物置部屋。
それが激変! 寝ている間に豪華絢爛な部屋に移されていたのだ。毛足の長い絨毯が敷かれた床、豪華な飾り付きのベッドに、身体が沈み込むようなふかふかの寝具。絵画や花まで飾られている。これまでの薄暗い湿った部屋とは違って大きな窓があり、そこから柔らかな光が射し込んでいた。なんだか空気自体が澄んでいる気すらする。
「ええー?」
夢でも見ているのかと目をぱちくり。
ふと横を見ると、昨日俺のために怒ってくれたお医者さんのゲイルがベッド横の椅子に座っていた。俺の手を握ったまま、半身をベッドに預けるようにしてうつ伏せで寝入っている。もしかして夜通し看病してくれたのかな? その顔には無精髭が浮かんでいた。疲れたお顔だけど、とってもカッコよき。この人、俺のお父様になってくれるって言ってたよね!
俺はじいっとゲイルを見つめた。ゲイルだけが俺が求めていたものをくれた。まるで気を失うようにして眠りにつく前に感じた気持ちは、満たされた温かなもの。こんなに幸せな気持ちで目覚めるのは初めてだ。俺のため公爵に立ち向かってくれたゲイルに、俺は感動していた。初めて幸せを与えてくれたゲイルに、俺は感謝していた。嬉しくて、幸せで。胸がぽかぽかする。
「……ありがと。ゲイル、だいすき」
一人ぼっちだった俺は、これからはゲイルの息子として幸せになるんだ。これからはゲイルが俺のお父様。なんて素敵なんだろう! 嬉しくてによによしながらそっとゲイルの髭面を撫でた。
「……ふふ。ちくちく」
このちくちくはゲイルが俺を心配してくれた証。そう思ったら、胸の奥から温かなものがふつふつと湧き上がってくる。俺にとっての家族は、亡くなったエリアナお母様。そして必死に俺を庇い、惜しみない愛を感じさせてくれたゲイルなんだと思った。
だから決めた。俺は公爵を捨てる。公爵のあの驚愕した様子や後悔した様子からして、確かにこれまでの俺の窮状は公爵の意図しないものだったんだろう。すべては俺に色々な呪詛を吹き込んでいた意地悪な侍女頭が仕組んだことなんだと思う。侍女頭は明らかに俺に悪意を向けていたし、俺が傷つくことに喜びを見出していたようだったから。十七歳の卓也の記憶がある今の俺には、思い当たる節がたくさんあった。
でも、侍女頭なんてどうでもいい。だって公爵は何も知ろうとせず、俺から目をそらして逃げ続けてきた。ちょっとでも気にかけてくれたら気付いたはずなのに。知らなかったから、そんなつもりはなかったから、なんて言葉で終わり? そんなの納得できない。
愛する人を失った辛さ、悲しみ、苦しみは理解できる。でもそれは本来、自分で乗り越えていくものでしょう? どんな言い訳をしようと、公爵がしたことは「可哀想な私」って自分に酔っていただけ。その辛さに浸りきって、現実から逃げたの。子供の面倒を見るのは親の仕事でしょ。ほんの少しの優しさ、たったそれだけで俺は救われたんだよ? 家族なら、父親なら、どうして一言だけでも声をかけてくれなかったの? それくらいはできたでしょう?
公爵の慟哭を聞いてしまったから、俺は公爵を恨んだり憎んだりできなくなった。だけどもう家族だって思えないの。公爵が後悔しようとどうしようと、俺はもう決めた。公爵が父親だなんて認めないって。ゲイルが俺を貰ってくれるって言っていたから、だから……俺は公爵家を出る。ゲイルの息子になる。俺の家族はゲイル、俺のお父様はゲイルだ。俺はこれからゲイルと一緒にめいっぱい幸せに生きるんだ!
色々と頭の中で考えてぼうっとしていたらしい。気が付いたら、目の前にゲイルの心配そうな顔があった。気遣わしげに俺の顔を覗き込んでいる。
「サフィラス様、どうしたのですか? どこか痛いのですか? 苦しいところがあるのですか? ゲイルに仰ってみてください」
大丈夫だと口を開く間もなく、ゲイルはその手を俺のおでこに当てたり、袖をめくって脈を取ったり身体を撫でたりと大忙し。そんなゲイルの慌てっぷりがおかしくて、嬉しくて。俺は思わず笑ってしまった。
「あはは! だいじょーぶ。もうだいじょーぶ! だってゲイルがいるもん! ちゃんときこえてたの。ゲイル ぼくを助けてくれた!」
初めて声を出して笑った。あんまり声を出してこなかったから、まだ上手に話せないけど。俺、今はとっても幸せなんだよ。この嬉しい気持ちがゲイルに伝わりますように!
大好きって気持ちを込めてにこにこする俺を見て、ゲイルが驚いたように目を見開いた。
「……エリアナにそっくりだ……」
エリアナって俺のお母様だよね。いつの間にか、亡くなったお母様に似た面差しになっていたのかな? そうだといいな。俺を産んでくれたお母様。その命を継いで俺は生きていく。
俺を見て、どこか眩しそうに懐かしそうに微笑むゲイル。
「……ふふふ。可愛いな。サフィラス様はそんな表情で笑うのですね。そのお顔は、いつも微笑んでいたお母様にそっくりですよ? 公爵様がもっと早くサフィラス様と向き合っていれば、あなたの境遇も違ったものになっていたでしょうに……」
そう言うと、俺の頬に手を伸ばして優しく触れた。触れられた箇所から全身に心地よさが広がる。
「いきなりで驚いたでしょう? あなたは怪我のせいで倒れたのです。栄養失調と過労も重なっていらしたので心配で……。驚かせてしまって申し訳ございません」
ゲイルの俺を見る瞳には愛情が溢れていた。そんな瞳で見られたのは初めてだったからちょっと照れくさい。俺は赤くなりながら、ぽかぽかする胸を押さえ、ぷるぷる頭を振った。
「ううん。ありがと。だいじょぶ」
「改めてご挨拶いたします。ゲイルと申します。あなたの亡くなられたお母様の叔父にあたります。お母様とは年齢が近いこともあり、兄妹のように親しくさせていただいておりました。私はヒールという魔法と薬で治療をする医者なんです。あなたのご出産にも立ち会わせていただいたのですよ」
うん。知ってる。俺が生まれる前から見守ってくれていたんだよね? それで俺を愛してくれていたんでしょ! ちゃんと聞いてたもん! 俺は添えられたゲイルの手にすりっと頬を寄せた。いい気持ち! 大きくて優しい手。この手が俺を助けてくれたの。
「あなたのことをずっと心配しておりました。これまで何度も公爵様にあなたに会わせていただきたいとお願いしていたのですが、それも叶わず……。お身体が弱いと聞いておりましたので、きっと他の医師が診ているのだろうと……。お母様をお救いできなかった負い目もあり、無理を通すこともできずにおりました。このような状況になるまで何もできず、申し訳ございません」
俺に向かって頭を深々と下げるゲイル。ゲイルは俺の手をその温かな手でぎゅうっと握ると、俺の目をしっかりと見つめてこう言ってくれた。
「これからは、ゲイルがおそばにおります。サフィラス様さえよろしければ、私の屋敷に来てください。私は寂しい独り身です。跡を継いでくれる子もおりません。どうか、私の息子になっていただけないでしょうか? もしもサフィラス様がいいと言ってくださるのならば、私が公爵様にかけ合います。これまでのあなたへの扱いは、到底許されるものではありません。あなたが許しても私は許しません! 公爵家がごねようと私がなんとかいたしますので、サフィラス様のよろしいようになさってください。公爵家の異論など、この私が認めませんから!」
「……ほんと? だいじょぶ?」
俺、ゲイルのお邪魔になったりしない? ゲイル、公爵にそんなことしちゃっていいの?
ちょっと心配顔をした俺に、ゲイルはニヤリとどす黒い笑みを浮かべてみせた。
「私にもそれなりに伝手はあるのですよ、任せてください」
ひゃあ! カッコよ! ゲイルが本気で「自分の息子に」と思っていることが伝わってきた。このまま公爵家にいるのか、それとも公爵家から籍を抜きゲイルの養子になるか。その選択は俺の知らぬ間に俺自身に委ねられていたようだ。そんなの、もう答えは決まってる!
そのとき、コンコン、と扉がノックされ、男の人の声が。
「失礼。サフィラスは目覚めただろうか?」
入ってきたのは俺の実の父親であるグランディール公爵。その後ろからおずおずと顔を出したのは、ライオネルとリオネルだ。
それに応えたのは、俺ではなくゲイル。ゲイルはさっと俺の姿をその背に隠してくれた。
「サフィラス様は先ほどお目覚めになったばかりです。まだまだ本調子ではございません。明け方にようやく熱が下がったところなのです。このように消耗されている方に、今さらなんのお話ですか? もう十分に頑張っていらしたのです。これ以上、無駄に心を疲れさせぬよう、何かお話があるのなら私がお伺いします。手短に願います」
要約すると「お前らが今さらなんの用なんだ、さっさと出ていけ」だね。ほんとにゲイルってばカッコよすぎない?
庇われた俺は、なんだかくすぐったい気持ちがした。むずかゆいようななんとも言えない恥ずかしさに耐えきれず、俺はそっとゲイルの服の裾を掴む。そして、てれてれと頬を赤らめながらゲイルの名を呼んだ。
「ゲイル、ゲイル」
「どうされました? サフィラス様?」
公爵に対するのとは打って変わって、穏やかな優しい表情で俺に向き直るゲイル。
俺はぎゅっとゲイルに抱きついた。大好きが溢れる。どうしても今伝えたいの。
「まもってくれてありがと。ぼく、ゲイルだいすき。ゲイル、すき!」
とたん、ゲイルの目がぐわっと見開かれた。喉からグゥッて変な音が聞こえる。
「ゲイルもです! ゲイルも、サフィラス様のことが大好きですよ!」
我を忘れたようにぎゅうっと俺を抱きしめるゲイル。ほっぺもくっつけてぎゅうぎゅうだ。
「ぼくもすき! でも、ぎゅうっ、いたい。やさしくぎゅってして!」
抗議したけど、それでも嬉しくて幸せだった。文句を言うのも初めて。何もかもが幸せで嬉しい。
幸せそうな俺たちを見て、存在を全く無視されてしまった形の公爵たちは呆然と立ち尽くしていた。ライオネルが力ない声でこぼす。
「父上。私は前にこの子の笑顔を見てこう思ってしまいました。何を暢気に笑っているのだ、と。でもこの笑顔はあのときの笑顔とは全然違う。あれは笑っていたのではなかった。これ以上私に嫌われないようにと必死で笑いかけていたんですね。私たちは自分の苛立ちをすべて幼いこの子にぶつけていた。この子のせいにすることで母上のいない辛さから目を背けていた。酷いことを言いました。酷いことをしました。気付いたときにすぐに謝るべきだった、助けるべきだったのに……。私にその勇気がなかったために……」
リオネルの顔にも後悔が浮かんでいた。
「この子、こんな顔もできたんだね。僕たちがこの子から笑顔を奪っていたんだ……。僕だってこの子のお兄さまなのに。お兄さまが僕にしてくれるみたいに、僕がこの子にしてあげなきゃいけなかったのに。僕、いっぱいイジメて、ごめんねも言わなかった……」
ライオネルとリオネルはそっと俺に伸ばしかけた手を引っ込めた。自分たちにはそんな資格などないと。
公爵もショックを受けていた。ゲイルこそが俺の本当の親のように見えたから。ゲイルと俺が、どう見ても幸せで仲のいい本当の親子にしか見えなかったから。
「サフィラスはこんな顔をして笑うのか。こんな顔もできたのだな……」
血の繋がった本当の家族である公爵は、俺を無視し、俺の不遇の元凶となった。一方でゲイルは、まるで本当の息子のように俺を愛おしみ、俺を守ろうと公爵に牙を剥いた。そう、本当の家族である公爵を息子の敵だと認識して。公爵はこれまでの俺にとって、まさに「命を脅かす敵」でしかなかったのだから。
「今さら悔やんだところで何になろう。私にできるのはサフィラスの望みを叶えること、それだけだ。サフィラスが何を望もうと、すべて叶えよう。サフィラスの罵倒も甘んじて受けよう。償いきれない罪を、私は犯したのだ」
その声に、俺はふと公爵を見た。その瞬間、俺の口元に浮かんでいた笑みも、瞳の温かな色合いもすっと消えた。公爵を見る俺の目には一切の感情の色がなかった。俺の心は完全に凪いでいた。
「……こうしゃく、ぼくになんのごよう?」
仕方なく言わなければならないことを言う、それだけ。我ながら、まるで紙に書かれた文章をそのまま読んだかのような無機質な響きだった。
幼い声で紡がれた「公爵」という呼称。公爵はまるで針で心臓を刺されたような表情になった。これまで俺が「お父さま」と呼ぶ声には、確かな愛情とすがるような響きがあった。こうなってようやく気付いたのだろう。もう俺の中には公爵たちに対して家族としての愛情などないのだということに。
当たり前だ。俺は生まれてからずっと、最低限の食事と身の周りの世話以外は一人ぼっちで放置されて育った。誰からも愛情を与えられず、虐げられ無視されてきた。公爵は俺の不遇に気付こうとせず、ずっと放置してきたよね? それでも俺は何度も公爵に語りかけ、笑いかけた。それを無視したのは公爵でしょう? そんな相手にどうしてずっと愛情を持ち続けることができるの?
しかも、そんな扱いをしていたのにもかかわらず「避けられないお披露目会のためだ」と無理やり俺に貴族教育を詰め込んだ。最低限の教育すらしなかったくせに、一年でなんとかしろなんて無茶を命じたのだ。追い込まれた教師が俺に体罰を行っているのも知っていて無視した。「教育」に「罰」は必要悪だから、と。俺の命を脅かしたのは、まぎれもなく公爵だ。それで親だなんて思える? 無理だ。
そう、もう遅いんだよ、公爵。
さて、俺はそのままゲイルと共に公爵家を出て……とはならなかった。俺の小さな身体は、長年の栄養不足がたたってすっかり弱ってしまっていたから。
俺の痩せ細った腕や身体を診察したゲイルが、目に涙を浮かべて憤慨。
「魔力が多いおかげでなんとかなっていただけです! 普通の子供だったらとっくにどうにかなっていましたよ!? 本当ならすぐにでも私の屋敷にお連れしたいところですが……。残念ながらまだ移動には耐えられません。絶対安静! あなたに必要なのはたくさんの栄養と休養、そして愛情です!」
まるで自分のことのように悲しみ、怒るゲイル。なんだかそれが嬉しくて面映ゆくて、ついニコニコしてしまう俺。
「サフィラス様、聞いていらっしゃいますか?」
「うふふ。うん、きーてるー。さま、いらないの。サフィがいいの。ふつーにおはなしして?」
家族なんだからフランクに接してほしい。他人行儀なのは寂しいもん。息子なんだもの、敬語とかやめてほしいの。
ゲイルは困ったように眉尻を下げた。そして、こほん、と咳払いして口調を変えてくれた。
「……可愛い笑顔は素敵だが、大事なことなんだぞ? 聞いてるか? ……サフィ?」
「うん。ぼくサフィ。ゲイルお父さま、すき。あんせいだいじ。だいじょぶ、きーてる」
考えるより先に口から出る言葉。すごく幸せで胸がぽかぽか。嬉しくて頬がゆるんじゃう。
不思議なんだけど、目を覚ましたら前世の俺の記憶と小さな俺の記憶が矛盾することなく一人の俺として溶け合っていた。なのに精神はこれまでよりも幼くなってしまった気がする。俺自身でもどうしようもないの。これまで甘えられなかったのを取り戻そうとしているように、思ったままを口にしちゃうし勝手に身体が動いちゃうのだ。感情の起伏も激しいし、特に今は大好きと言える相手がいることが嬉しくてたまらない。気が付けば「ゲイルすき」と口にしている。
もう開き直った。いいもん、子供っぽくたって。ゲイルにはいっぱい甘えさせてもらうんだもん! 抱っこしてもらってチュウしてもらってナデナデしてもらうの!
ゲイルは俺の新しい豪華な部屋に有無を言わさず私物を運び込んだ。公爵たちが口を挟む隙も与えないその手腕には、俺もびっくりである。ゲイルってばやり手!
こんなにできる人なら、どうしてもっと早く俺を迎えにきてくれなかったのかな、なんてちょっとだけ恨めしく思ったりもする。でも、お母様を救えなかった負い目でゲイルなりに相当我慢していたんだろう。時折、「優秀な医者が来ていると思ったから、遠慮したのに……」「こんなことなら無理にでも押しかけるんだった……」なんて不穏な顔で目を光らせているから間違いない。
いずれにしろ、ブチ切れたゲイルは最強だった。当初は俺を連れ出すと息巻いていたんだけど、公爵たちの態度が変化して、俺の待遇が劇的に改善されたことで考えを変えたようだ。渋々「今は移動するほうが身体に悪い」と認め、ここに自分が居座ることにしたのだった。
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