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第2章
不妊-3
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浜松駅のランドマークとなっている高層ビルディングは、JR浜松駅に隣接し、ショッピングやレストラン、ホテルが一体となった複合施設だ。
沢野レディース・クリニックは、ビルのオフィス街の部分である十二階から十五階に、それぞれ診療スペースを構えている。
アクアはエレベータに乗り、十四階で降りた。すぐ左手がクリニック入口になっている。
自動ドアをくぐると、受付のカウンターの箱に診察券を投入した。十四階は入ってすぐ左手が、キッズルームとなっている。
五~六組の親子が中で待機している光景が見えた。キッズルームは心情面に配慮して、子供のいない患者と、子連れの患者の待合室を分離する目的で造られている。
待合室の内装は、四フロアとも統一されている。インテリアや調度品の配置といい、照明といい、ホテルのロビーのような落ち着いた雰囲気だ。
沢野レディース・クリニックは完全予約制だが、今は待合室のソファは、患者で満杯になっている。アクアの視界に入る大勢の患者たちの一人一人が体外受精なわけで、何十万円単位の料金を落としていくのだ。内装くらい、まだまだいくらでも豪華にできるだろう。
幾列かに並べられたソファのすぐ横は、壁を目一杯くり抜いて造られた窓になっており、窓は建物の形状に沿ってカーブしている。
巨大な窓からは、浜松市街の景色や、更に遠くの山々が一望できる。
受付カウンターを飾っている三つの赤ちゃんのぬいぐるみと子宝草の鉢植えが、かろうじて不妊治療のクリニックらしいと言えるだろう。
ほどなく名前を呼ばれて、アクアは中待合室で待機した。胚移植の時はいつも直接ベッドに案内され、クリニック指定の服に着替えて待つのだが、今日は違った。
真正面の診察室の名札を確認する。「湊涼子」とあった。湊先生が今日の担当か。アクアは頭の中で再度、自分の決断を確認する。
今日は胚盤胞を二個、移植してもらおう。双子になったって構わない。むしろ歓迎だ。もし双子なら、男の子と女の子だったらいいのに。
やがてアクアの順番がやってきて、診察室の中に入った。
初めて湊医師と対面した時、アクアは呆気に取られて思わず両耳のピアスの数を数えたものだが、今日も相変わらずである。
それぞれ五個のピアス、付け睫、金髪に近い茶髪、黒いペディキュア。さすがに手の爪は短く切られて、マニキュアも塗られていない。
医者という職業も昔と変わったものだと、つくづく思う。
湊医師は奇麗な指で、カルテを広げて、アクアに見せながら切り出した。カルテには八枚の胚の写真が貼りつけられている。
「とても残念なのですが、八個とも胚盤胞には至りませんでした」
湊医師の申し訳なさげな口調は、まるで客の希望する化粧品の在庫がないと、詫びるかのようだった。
「今回の移植は、キャンセルということで……」
八個の胚の全滅。移植のキャンセル。
思わぬ事態かつ初めての経験に、アクアはただ絶句した。
しっかりしなくては。移植キャンセルは胚盤胞移植の最大のデメリットで、よくあることなのだ。今まで遭遇しなかったのがラッキーなくらいだ。でも、よりにもよって、それが今回だなんて。
「採卵三日後の八分割くらいまでなら、どの胚でも、割とスムーズに行くんですよね。でも、胚盤胞まで到達する確率となると、二十~三十パーセントなんですよ。それにしても、八個ありましたからね。本当に惜しいです」と湊医師は熱心に説明を続けた。
体外受精では大ベテランのアクアだ。今更ここで懇切丁寧に言われなくても、すでに分かっている内容である。
それでもアクアは、素直に頷いて聞いている振りを装った。胚盤胞移植ではなく、初期胚移植にするべきだったのか?
胚盤胞まで人工的に培養するのは、良好胚の選別のため。でも、本当にそうなのだろうか? 培養液と本物の子宮環境に差はないのだろうか?
今更ここでウジウジ後悔しても、意味はない。胚盤胞移植を選んだのは自分だ。誰も責めることなどできない。
アクアは今後の計画を、湊医師に相談した。
採卵のために、強力な排卵誘発を行っている。再び採卵するためには、卵巣の回復を待たねばならず、二~三周期は、期間を空けたほうが良い、という話だった。
「自然周期採卵は、お考えになっていませんか?」
予想された湊医師の提案に、アクアはげんなりとした。
薬を使って卵巣を刺激し、複数の卵子を採卵する刺激周期採卵に対して、薬は使わないか最小限に抑え、自然に成熟した一個~二個の卵子を採卵するのが、自然周期採卵だ。
自然周期採卵の方法も、体外受精の現場で広く用いられている。体に負担を掛けないため、極端な話、毎周期の採卵も可能だ。
アクアの完全な偏見で間違っているのは分かっているが、自然周期採卵は、刺激しても数少ない卵子しか採卵できない、卵巣機能の衰えている患者や、高齢の患者向きであるイメージだ。アクアの場合、刺激周期の採卵により、安定してだいたい七個~十五個が採卵できている。
薬を使わず、採卵できる卵子の数が少ない分、自然周期採卵は費用も安くて済む。その一方、移植できる数も一個、二個なわけで、どうしても非効率的に思えてしまう。
けれども、卵巣の回復を待って、貴重な排卵を無駄にするくらいなら、その間に自然周期採卵にチャレンジしてみても良いのかもしれない。
自然妊娠は絶望的で、ICSIに頼らざるを得ないカップル。奇跡でも起こらなければ、アリツェのように、治療の合間の思わぬ妊娠なんて芸当は不可能だ。
アクアは急に惨めさと苛立ちを感じた。結局その場では、答が出せず、アクアは診察室を出ようとした。
アクアがドアのノブに手を掛けたタイミングで、湊医師が声を掛けた。
「長瀬さんは一度、妊娠されています。一度でも妊娠したという事実は、とても大きな意味があるんですよ。だから絶対にもう一度、妊娠できるって信じて、がんばりましょう」
湊医師はガッツポーズを見せた。アクアは一応笑顔を見せ、丁寧に礼を言って診察室を後にした。涙と動揺を飲み込むだけで精一杯だった。
沢野レディース・クリニックは、ビルのオフィス街の部分である十二階から十五階に、それぞれ診療スペースを構えている。
アクアはエレベータに乗り、十四階で降りた。すぐ左手がクリニック入口になっている。
自動ドアをくぐると、受付のカウンターの箱に診察券を投入した。十四階は入ってすぐ左手が、キッズルームとなっている。
五~六組の親子が中で待機している光景が見えた。キッズルームは心情面に配慮して、子供のいない患者と、子連れの患者の待合室を分離する目的で造られている。
待合室の内装は、四フロアとも統一されている。インテリアや調度品の配置といい、照明といい、ホテルのロビーのような落ち着いた雰囲気だ。
沢野レディース・クリニックは完全予約制だが、今は待合室のソファは、患者で満杯になっている。アクアの視界に入る大勢の患者たちの一人一人が体外受精なわけで、何十万円単位の料金を落としていくのだ。内装くらい、まだまだいくらでも豪華にできるだろう。
幾列かに並べられたソファのすぐ横は、壁を目一杯くり抜いて造られた窓になっており、窓は建物の形状に沿ってカーブしている。
巨大な窓からは、浜松市街の景色や、更に遠くの山々が一望できる。
受付カウンターを飾っている三つの赤ちゃんのぬいぐるみと子宝草の鉢植えが、かろうじて不妊治療のクリニックらしいと言えるだろう。
ほどなく名前を呼ばれて、アクアは中待合室で待機した。胚移植の時はいつも直接ベッドに案内され、クリニック指定の服に着替えて待つのだが、今日は違った。
真正面の診察室の名札を確認する。「湊涼子」とあった。湊先生が今日の担当か。アクアは頭の中で再度、自分の決断を確認する。
今日は胚盤胞を二個、移植してもらおう。双子になったって構わない。むしろ歓迎だ。もし双子なら、男の子と女の子だったらいいのに。
やがてアクアの順番がやってきて、診察室の中に入った。
初めて湊医師と対面した時、アクアは呆気に取られて思わず両耳のピアスの数を数えたものだが、今日も相変わらずである。
それぞれ五個のピアス、付け睫、金髪に近い茶髪、黒いペディキュア。さすがに手の爪は短く切られて、マニキュアも塗られていない。
医者という職業も昔と変わったものだと、つくづく思う。
湊医師は奇麗な指で、カルテを広げて、アクアに見せながら切り出した。カルテには八枚の胚の写真が貼りつけられている。
「とても残念なのですが、八個とも胚盤胞には至りませんでした」
湊医師の申し訳なさげな口調は、まるで客の希望する化粧品の在庫がないと、詫びるかのようだった。
「今回の移植は、キャンセルということで……」
八個の胚の全滅。移植のキャンセル。
思わぬ事態かつ初めての経験に、アクアはただ絶句した。
しっかりしなくては。移植キャンセルは胚盤胞移植の最大のデメリットで、よくあることなのだ。今まで遭遇しなかったのがラッキーなくらいだ。でも、よりにもよって、それが今回だなんて。
「採卵三日後の八分割くらいまでなら、どの胚でも、割とスムーズに行くんですよね。でも、胚盤胞まで到達する確率となると、二十~三十パーセントなんですよ。それにしても、八個ありましたからね。本当に惜しいです」と湊医師は熱心に説明を続けた。
体外受精では大ベテランのアクアだ。今更ここで懇切丁寧に言われなくても、すでに分かっている内容である。
それでもアクアは、素直に頷いて聞いている振りを装った。胚盤胞移植ではなく、初期胚移植にするべきだったのか?
胚盤胞まで人工的に培養するのは、良好胚の選別のため。でも、本当にそうなのだろうか? 培養液と本物の子宮環境に差はないのだろうか?
今更ここでウジウジ後悔しても、意味はない。胚盤胞移植を選んだのは自分だ。誰も責めることなどできない。
アクアは今後の計画を、湊医師に相談した。
採卵のために、強力な排卵誘発を行っている。再び採卵するためには、卵巣の回復を待たねばならず、二~三周期は、期間を空けたほうが良い、という話だった。
「自然周期採卵は、お考えになっていませんか?」
予想された湊医師の提案に、アクアはげんなりとした。
薬を使って卵巣を刺激し、複数の卵子を採卵する刺激周期採卵に対して、薬は使わないか最小限に抑え、自然に成熟した一個~二個の卵子を採卵するのが、自然周期採卵だ。
自然周期採卵の方法も、体外受精の現場で広く用いられている。体に負担を掛けないため、極端な話、毎周期の採卵も可能だ。
アクアの完全な偏見で間違っているのは分かっているが、自然周期採卵は、刺激しても数少ない卵子しか採卵できない、卵巣機能の衰えている患者や、高齢の患者向きであるイメージだ。アクアの場合、刺激周期の採卵により、安定してだいたい七個~十五個が採卵できている。
薬を使わず、採卵できる卵子の数が少ない分、自然周期採卵は費用も安くて済む。その一方、移植できる数も一個、二個なわけで、どうしても非効率的に思えてしまう。
けれども、卵巣の回復を待って、貴重な排卵を無駄にするくらいなら、その間に自然周期採卵にチャレンジしてみても良いのかもしれない。
自然妊娠は絶望的で、ICSIに頼らざるを得ないカップル。奇跡でも起こらなければ、アリツェのように、治療の合間の思わぬ妊娠なんて芸当は不可能だ。
アクアは急に惨めさと苛立ちを感じた。結局その場では、答が出せず、アクアは診察室を出ようとした。
アクアがドアのノブに手を掛けたタイミングで、湊医師が声を掛けた。
「長瀬さんは一度、妊娠されています。一度でも妊娠したという事実は、とても大きな意味があるんですよ。だから絶対にもう一度、妊娠できるって信じて、がんばりましょう」
湊医師はガッツポーズを見せた。アクアは一応笑顔を見せ、丁寧に礼を言って診察室を後にした。涙と動揺を飲み込むだけで精一杯だった。
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