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第2章
不妊-10
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レストランの外へ出たものの、行くあてがあるわけではない。三階のさっきの休憩コーナーに行ってみたが、混雑していて座れるスペースはない。
アクアは居場所を求めて、人で賑わう館内を彷徨った。結局また二階に戻ってきて、迅と偶然に出会った辺りの水槽の前に立った。
悔しい。
いったい自分は、名古屋くんだりまで来て、何をやっているのだろう。ちょっと好みのタイプの異性に誘われたからといって、自分の立場を忘れ、ホイホイやって来たりして。
自分のバカさ加減に腹が立って、居たたまれない。しかもミントと桜まで巻き込んだ。
迅だって内心では、アクアが本当に名古屋までやってくるなんて、思っていなかったのかもしれない。
アクアは、急に自分が恥ずかしくなった。
アクアは海の中を眺める。魚、魚、いろんな魚。人魚姫。
幼い頃、ミントは、アクアを人魚姫だと思い込んでいた。王子に愛されなかったため、哀しい運命を辿った人魚姫。人間になれなかったエリン。淘汰されるべき血筋?
水槽が、魚たちが、涙でぼやける。
どうか、泣いているのが周りの人に分かってしまわないように。誰もアクアに気がつかないように。
このままいっそ、絵本の人魚のように消えてしまえば、楽になれるのかもしれない……。
誰かがアクアの隣に立った。見られている気配を強く感じる。アクアが泣いているのを無遠慮に観察しているかのようだ。
アクアは少しだけ横を向いて、隣の人物を確認した。
迅がアクアを見つめていた。これほど混雑した中で、よくアクアを見つけたものだ。
アクアは迅を無視して、ぼやけた水槽を眺め続ける。
アクアが場所を移動しようと決意したその時、いきなり迅の指が伸びてきて、アクアの頬の涙を拭った。
アクアは驚いたせいで体が固まった。けれども、不思議と不快ではなかった。体の反応とは逆に、心が急に和らいでいく。
迅はアクアの緊張を感じ取ったのか、素早く指を引っこめた。
「すみませんでした」
アクアは一瞬、迅の謝罪が、たった今の行為に対してだと思った。
「あんなこと言って。誰だって普通、怒りますね。僕が全面的に悪かったんです。今になって、よく分かってきました」
「本当にそう。やっと分かるなんて遅すぎるよ」
アクアは、迅を見ようとせず、水槽に向かったまま答えた。
「嫌われたかな?」
「大嫌い」
即答してから、アクアは迅の様子をそっと窺った。迅は目を伏せて水槽に顔を向ける。
「迅君は人の気持ちってものが、全然、分かってないね。精神科の先生って言うけど、迅君はヤブ医者だよ」
アクアが意地悪く言うと、迅は「本当にそうです」と頷いた。
「私、とても傷ついた」
アクアは両手を水槽のガラスに当てる。硬いが冷たくはなかった。
「迅君の言っていることが間違ってないって思ったから」
「そんなことない。間違ってないのは、アクアさんのほうです」
気がついたら、涙は止まっていた。アクアは魚たちの一団が、限られた世界で旅を続ける様子を無意識に目で追う。
「僕は、養子なんです」
あまりに意外な言葉だった。思わず迅を振り返り、横顔を凝視する。
「養子?」
迅はしっかり頷いた。
養子。養子……。迅が養子。ということは?
「迅君がってこと? 本当に?」
「嘘なんて言いませんよ」
迅が微笑みながら答える。
「じゃあ、愛子さんとは……」
迅は首を振った。
「血の繋がりは一切ありません」
アクアは動揺のあまり、絶句した。迅が養子だったとは。だとすると、愛子が迅の話をあまりしなかった理由は、迅が血の繋がらない子供だからなのか。
二人の容姿を思い浮かべる。小柄な愛子と長身の迅。顔立ちはどうだろう。確かに、似てはいない。
「知らなかった……。全然」
「そりゃあ、そうでしょう。母も僕もわざはわざ人に言って回ったりしてるわけじゃないし」
アクアは考え込んだ。迅が養子なら、愛子には実子は存在しないことになる。絢音を除いては。
「他にも僕に訊きたいことがありますか? 養子のことは、今度また詳しく話しますよ。でも、今はレストランに戻らないと」
迅はアクアを促すように視線を動かした。
「うん」
アクアは上の空で返事をした。実はかなり空腹を感じていた。ミントも心配しているだろう。料理もとっくに出来上がっているに違いない。だが、たった今知った事実とここまでの迅との会話の経緯による刺激が大きすぎて、気持ちがついていけない。
それでも二人はレストランに向かって歩き出す。
歩きながらアクアは、愛子に不妊の悩みを話した記憶を思い起こす。あの時、どんなふうに相談したのだろう?
『子供がついに授からなかった未来を想像すると、苦しくて眠れなくなるんです』
確かに愛子に言った。もちろん、愛子には実子がいると思っていたから言えたのだ。
あの時の愛子は、アクアの言葉に傷つかなかっただろうか。
アクアは居場所を求めて、人で賑わう館内を彷徨った。結局また二階に戻ってきて、迅と偶然に出会った辺りの水槽の前に立った。
悔しい。
いったい自分は、名古屋くんだりまで来て、何をやっているのだろう。ちょっと好みのタイプの異性に誘われたからといって、自分の立場を忘れ、ホイホイやって来たりして。
自分のバカさ加減に腹が立って、居たたまれない。しかもミントと桜まで巻き込んだ。
迅だって内心では、アクアが本当に名古屋までやってくるなんて、思っていなかったのかもしれない。
アクアは、急に自分が恥ずかしくなった。
アクアは海の中を眺める。魚、魚、いろんな魚。人魚姫。
幼い頃、ミントは、アクアを人魚姫だと思い込んでいた。王子に愛されなかったため、哀しい運命を辿った人魚姫。人間になれなかったエリン。淘汰されるべき血筋?
水槽が、魚たちが、涙でぼやける。
どうか、泣いているのが周りの人に分かってしまわないように。誰もアクアに気がつかないように。
このままいっそ、絵本の人魚のように消えてしまえば、楽になれるのかもしれない……。
誰かがアクアの隣に立った。見られている気配を強く感じる。アクアが泣いているのを無遠慮に観察しているかのようだ。
アクアは少しだけ横を向いて、隣の人物を確認した。
迅がアクアを見つめていた。これほど混雑した中で、よくアクアを見つけたものだ。
アクアは迅を無視して、ぼやけた水槽を眺め続ける。
アクアが場所を移動しようと決意したその時、いきなり迅の指が伸びてきて、アクアの頬の涙を拭った。
アクアは驚いたせいで体が固まった。けれども、不思議と不快ではなかった。体の反応とは逆に、心が急に和らいでいく。
迅はアクアの緊張を感じ取ったのか、素早く指を引っこめた。
「すみませんでした」
アクアは一瞬、迅の謝罪が、たった今の行為に対してだと思った。
「あんなこと言って。誰だって普通、怒りますね。僕が全面的に悪かったんです。今になって、よく分かってきました」
「本当にそう。やっと分かるなんて遅すぎるよ」
アクアは、迅を見ようとせず、水槽に向かったまま答えた。
「嫌われたかな?」
「大嫌い」
即答してから、アクアは迅の様子をそっと窺った。迅は目を伏せて水槽に顔を向ける。
「迅君は人の気持ちってものが、全然、分かってないね。精神科の先生って言うけど、迅君はヤブ医者だよ」
アクアが意地悪く言うと、迅は「本当にそうです」と頷いた。
「私、とても傷ついた」
アクアは両手を水槽のガラスに当てる。硬いが冷たくはなかった。
「迅君の言っていることが間違ってないって思ったから」
「そんなことない。間違ってないのは、アクアさんのほうです」
気がついたら、涙は止まっていた。アクアは魚たちの一団が、限られた世界で旅を続ける様子を無意識に目で追う。
「僕は、養子なんです」
あまりに意外な言葉だった。思わず迅を振り返り、横顔を凝視する。
「養子?」
迅はしっかり頷いた。
養子。養子……。迅が養子。ということは?
「迅君がってこと? 本当に?」
「嘘なんて言いませんよ」
迅が微笑みながら答える。
「じゃあ、愛子さんとは……」
迅は首を振った。
「血の繋がりは一切ありません」
アクアは動揺のあまり、絶句した。迅が養子だったとは。だとすると、愛子が迅の話をあまりしなかった理由は、迅が血の繋がらない子供だからなのか。
二人の容姿を思い浮かべる。小柄な愛子と長身の迅。顔立ちはどうだろう。確かに、似てはいない。
「知らなかった……。全然」
「そりゃあ、そうでしょう。母も僕もわざはわざ人に言って回ったりしてるわけじゃないし」
アクアは考え込んだ。迅が養子なら、愛子には実子は存在しないことになる。絢音を除いては。
「他にも僕に訊きたいことがありますか? 養子のことは、今度また詳しく話しますよ。でも、今はレストランに戻らないと」
迅はアクアを促すように視線を動かした。
「うん」
アクアは上の空で返事をした。実はかなり空腹を感じていた。ミントも心配しているだろう。料理もとっくに出来上がっているに違いない。だが、たった今知った事実とここまでの迅との会話の経緯による刺激が大きすぎて、気持ちがついていけない。
それでも二人はレストランに向かって歩き出す。
歩きながらアクアは、愛子に不妊の悩みを話した記憶を思い起こす。あの時、どんなふうに相談したのだろう?
『子供がついに授からなかった未来を想像すると、苦しくて眠れなくなるんです』
確かに愛子に言った。もちろん、愛子には実子がいると思っていたから言えたのだ。
あの時の愛子は、アクアの言葉に傷つかなかっただろうか。
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