藍色バース

弓川ルツ

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第4章

十八番目の悪戯-7

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 アクアと迅は、寺を出発した後、竜ヶ岩洞で鍾乳洞を探検して、土産物屋で、アクアお目当てのおいしいジェラートを食べた。再び山道をドライブして、迅の家へ向かう。

迅は、アクアの車が駐まっているショッピング・センターではなく、なぜか自宅へ車を駐めた。
愛子は外出していて、夜まで戻らないという。

「少しだけ家へ寄って行かない?  アクアさんに見せたい物があるんだ」

アクアが同意すると、二人は三崎家の離れではなく、母屋へ入った。

迅はアクアを二階へ案内した。
ぎしぎし鳴る狭い階段を上りきると、突き当たりと右手に一間ずつ部屋があった。

迅が突き当たりの部屋を指さして、
「こっちが僕の部屋なんだけど。そっちはね、絢音の部屋なんだ。絢音の部屋に来たことは?」

もちろん二階に上がったのは、初めてなのでアクアは「ない」と答えた。

迅は絢音の部屋へ入るよう、アクアを促し、自分は階下へ降りて行った。

部屋は四畳半くらい。
和室だった。

狭い上に大きな古い箪笥が置かれ、段ボールがいくつも積んであった。
ほとんど物置状態だ。人一人ならどうにか寝転べる程度のスペースがある。

絢音の部屋と呼ばれるのに相応しい物は、箪笥の上に置かれた、写真立てに入っている赤ちゃんの写真と、ピンクの生地に、キリンやゾウなど、可愛い動物の模様の入ったカーテンだけだった。

写真立ての赤ちゃんは、一つは真っ白なベビードレス、もう一つは鮮やかな紅い着物に包まれていた。

アクアは手持ちぶさたに、立ったまま写真を眺めていた。
他にやることがなかった。

ベビードレスの赤ちゃんは、産まれたばかりのようで、退院時のものだろう。
着物のほうの写真では、顔がいくらかふっくらしてきている。おそらくはお宮参りのものだ。

絢音が亡くなったのは生後一ヶ月ほどだったという話だから、この写真が撮られたすぐ後、哀しい出来事が起きたことになる。

階段を上がる足音がして、迅が部屋の入口に立った。
アクアが振り向くと、取っ手のついたガラスのカップを手にしていた。
カップには目盛りがついていて、牛乳が入っていた。

「ミルクだよ。お供えのね。今日は命日なんだ。仏壇にお供えしてるんだけど、僕はこの部屋にもしてる」

迅がカップを少し振るような仕草をした。
部屋に入って来ると、箪笥の上の絢音の写真の前にミルクを供える。

目を閉じ、写真に向かってそっと手を合わせる。
アクアも迅に倣って、手を合わせた。狭
い部屋の中、ごく微かに、ミルクの甘い臭いが漂う。

迅はアクアを畳の上に座らせると、箪笥の上方の小抽斗しを開けて何かを取り出し、アクアに手渡した。

二冊の古ぼけた母子手帳だった。
アクアは戸惑いつつ、二冊の母子手帳を見比べる。

片方は薄いピンク色の表紙に鳥の親子の絵、もう片方は黄色い表紙で、リスの絵がついていた。

母の氏名欄は、どちらも「三崎愛子」となっている。
子の氏名欄はピンク色が、「三崎新一」で、黄色が「三崎綾音」だった。

迅がアクアに渡したのだから、中を見ろという意味なのだろう。アクアは確認の意味で、迅を見た。
「見て」と迅はアクアを促す。

なんとなく愛子に悪いような気がしたが、アクアは最初に、三崎綾音の母子手帳を開いた。

まずは妊娠経過のページ。週数ごとに記録されるようになっていて、子宮底長、腹囲の記録欄の他、蛋白尿など妊婦の健康状態を示す項目がある。
さすがは愛子、妊娠初期の体重は、四十キロに届いていない。痩せすぎだ。

出産及び出産時の子の状態のページ。三十九週で頭位での出産。出生時体重は三二二〇グラム。
異常などは特に書かれていない。

一ヶ月検診の記録のページ。絢音の体重は四四一〇グラムまで増えていた。
保護者の記録欄に几帳面な字で細かく、絢音の成長の様子や心配事が記されている。

以降のページを捲ったが、何も記録されていない。

続いて、アクアが三崎新一の母子手帳を手に取った時、迅が部屋を出ていった。
階下へ行った様子はないので、自分の部屋に戻ったのだろう。

アクアは母子手帳のページを捲る。
妊娠経過に、さっと目を通した。

問題の部分、出生時の状態のページ。

案の定、死産となっていた。愛子は絢音を産む前にも、流産・死産を繰り返したと聞いている。
日付も絢音の出生より二年近く前だった。当然ながら、以降の記録は書かれていない。

哀しい母子手帳だ。絢音も新一も。

アクアも引き出しの奥に、エコー写真と共に、エリンの母子手帳を大切にしまってある。

迅が部屋に入ってきて、アクアの横に並ぶような形で、窮屈そうに座った。
茶色い封筒を手にしている。

「見たよ」と、アクアは迅の目を見ながら、二冊の母子手帳を返した。
アクアの表情に何かを感じたのか、迅の目つきが優しげになる。

迅は封筒の中からまた一冊の母子手帳を出した。
さっきの二冊に比べて新しそうだ。

迅はアクアを意味ありげに見つめながら、母子手帳を差し出した。

オレンジの表紙の母子手帳は、ペンギンの家族の絵だった。
母の氏名は「三崎愛子」で子の氏名は「三崎ニナ」となっている。

アクアはページを開き始めた。帝王切開での出産。出生時体重一八七二グラム。

出生? 死産ではない。
それに、かなり小さい。

早産かと思ったら違う。三十九週での出産だ。

思いついて、出生届欄に戻ってみた。
確かに三崎ニナで、出生届けが出されている。

愛子にはもう一人、実子がいた……?

一ヶ月検診のページを開く。

何も記入されていない。

ざっと後のページを確認したが、やはりニナの母子手帳も哀しい母子手帳らしい。

アクアは、出生の日付を確認する。絢音より十二年後。

「ニナって、誰なの?」

アクアは迅に問いかけた。

「愛子さんが産んだ子供だよ。生後二十九日で、入院したまま息を引き取った。僕はニナを妹だと思っている。だけど愛子さんは、ニナのこと、誰にも話さないんだ」

迅はいったん黙る。
アクアは次の言葉を待った。

迅はそっと、アクアの手から母子手帳を取り上げると、ページを開く動作をした。
中を見るのが目的ではなくて、単に手に取って、弄んでいるだけのようだ。

「ニナはね、一八トリソミーだったんだ」

アクアは思わず迅の顔を見上げた。
迅もアクアを見つめ返す。

「きらきら星のメンバーなら、説明しなくても分かるよね」

アクアはぎこちなく頷いた。
ごく簡単にではあるが、知識はあった。

一八トリソミーは十八番目の染色体が一本過剰な状態で、重篤な先天性異常を引き起こす。
心疾患は必発、全身の奇形。
予後は厳しく、九十パーセントの一八トリソミー児が1才までに死亡するという。

トリソミーで最も発生頻度が高く、よく知られているのが、二十一トリソミーだ。
いわゆるダウン症である。

愛子が一八トリソミーの赤ちゃんを出産していたという事実に、アクアは衝撃を受けた。

「愛子さんは、生きているニナに、とうとう会うことはなかったんだ。一度もNICUに現れなかった。愛子さんがショックを受けないように、父をはじめとする周りの人たちが、会わないほうがいいって、愛子さんに忠告していた。多分どうしたら良いのか、愛子さんはずっと悩んでいたと思う。そのうち、ニナは死んでしまった。なぜか愛子さんは、今日までずっと、ニナなど存在しなかったかのように振る舞っている」

迅は母子手帳を閉じて、表紙を眺めた。

「ニナの母子手帳だけは、僕の部屋で保管しているんだよ」

アクアは愛子のことを考えていた。
流産や死産を繰り返し、やっとの思いで無事に出産した絢音を喪った。

迅を養子に引き取り、十二年後に再び実子を授かった。
しかし、産まれたのは、一八トリソミー児だった。

おそらく最後の妊娠、出産に違いない。

なんという壮絶な体験だろう。

「原則、NICUでは両親以外ニナに会えないことになっていた。でも、ニナの病状は重かった。外形的な奇形だけではなく、内臓にも命に関わる奇形があったんだ。医師から、いつ亡くなるかもしれないと言われていた事情もあって、僕が会うのを特別に許可されたんだ」

迅は母子手帳を封筒にしまった。
姿勢を変えて膝を立てると、膝の上に頬杖をつき、遠くを見るような目つきになった。

「愛子さんが妊娠したのを知ってからというもの、僕はひたすら赤ん坊が無事に産まれてくるのを祈り続けた。僕が幼稚園の時、愛子さんは一度、流産してるんだ。すごくたくさん血が出て、愛子さんがひどく苦しそうにして救急車で運ばれて行った夜のこと、僕は一生、忘れられないと思う」

アクアは、もはや言うべき言葉が見つからなかった。
なぜ一人の人間だけが、出産にまつわる苦しみを何度も何度も受けなければならないのか。

迅とアクアの間で、しばらく沈黙が流れる。

「流産後、愛子さんは退院してきた。でも、あの時、あの時だけは、愛子さんがすごく怖かった。だから、ニナの時は一生懸命に祈ったんだ。でも、自分のためだけじゃない。心からニナの誕生を楽しみにしていたんだよ」

迅の目が哀しげに伏せられた。

「愛子さん、大変だったんだね、本当に。それに迅も。私、何て言ったらいいのか」
「僕は、別に、大変なんかじゃなかったよ」

次に話し始めた時は、笑顔になる。

「初めてニナに会った時、どう思ったと思う? 父や医師に、ニナは重い病気だから覚悟して会うようにって、言われながら会ったんだ。そうしたら、僕はびっくりした。だって可愛かったんだよ。もう言葉では言い尽くせないほど。あの可愛さはないよ。儚げで、女の子らしいパッチリとした目が、じっとこっちを見てるんだ。保育器の窓から頬にそっと触らせてもらった。以来もう僕はニナに夢中になったんだ。兄バカかな?」

迅は、いっそう笑顔になり、アクアを見た。
アクアは「そうかもね」と冗談ぽく笑いかけた。

「僕は、ニナのことばかり考えていた。当時の僕は、中学に上がりたてで、部活が終わると毎日、NICUに通ったんだ。週末くらいしか顔を出せない父にとっては、有り難かったようだ。看護師さんたちともすっかり仲良くなれて、抱っこもさせてもらった。毎日ニナに会っているうちに」

迅は、ぼんやりとした視線で、目の前の箪笥を眺めている。

「ニナと心が通い合うようになった。嘘じゃないよ。ニナの心が僕に分かるし、ニナにも僕の心が分かったと思う。心が分かると言っても、決して言葉じゃない。うまく言えないけど、色のような、温度のような、不思議な感覚をお互い伝え合うんだ。信じられる?」

アクアは大きく頷いた。
「信じられるよ。迅にはそんな能力が有りそう」

迅は笑って、首を傾げた。
「能力? そうなのかな。ニナはね。いつも僕に問いかけていたように思う。お腹の中の真っ暗な世界から、いつの間にか、眩しい明るい世界にいる。なぜ? ってね。体には管をいっぱい付けられて、痛々しかったけど、ニナは苦しみを受け入れていた。僕はニナが一日でも長く生きてくれるのを願った。ニナの生そのものを願ったというより、ニナが僕の前から消えてしまうのが怖かったんだ」

アクアの目頭が熱くなってきた。迅は熱っぽい口調で語り続ける。

「僕も精一杯、愛してる、という気持ちをニナに送ったよ。僕は愛子さんがニナに会おうとしないのが哀しかった。今思うと、それはそれで良かったのかもしれないんだけどね。僕は、愛子さんの分も、ニナを愛そうと、強く思った」

迅はニナの母子手帳が入った封筒から何かを取り出した。

写真だ。

迅はアクアを見つめながら二枚の写真を差し出す。
アクアは写真を受け取った。

一枚目の写真には、口に管を通された痛々しい姿のニナの写真だった。

可愛い。

確かに可愛いと思った。
儚げで訴えるような、黒々とした瞳。

産着が大きいせいで、手は袖で隠れて見えない。
少し違和感を感じるものの、写真だけでは奇形など分からない。

もう一枚は、少年がとても小さな赤ちゃんを抱いている写真だった。
赤ちゃんは目を閉じていて、生命維持に必要なはずのチューブなど一切つけられていなかった。

亡くなった時の写真に違いない。
迅の面影が強く残る少年の目が、涙のせいだろう、真っ赤になっている。

「可愛い。ニナちゃん、本当に可愛いよ。兄バカなんかじゃなくてね」

迅が嬉しそうに微笑み、満足げに頷く。

アクアは二枚の写真を代わる代わる見ながら、「可愛い」と何度も呟いた。
言葉が震えてくる。
涙が溜って頬に伝ってきた。
雫が写真の上に落ちたので、慌てて手で拭った。

やがて写真を迅に返した。
迅はアクアの涙だらけの顔を見ると、アクアの肩の端を優しく二度叩き、写真を受け取る。

写真を封筒には戻さず、立ち上がると、箪笥の上の絢音の写真立てに、二枚とも立て掛けるように置いた。

「今日、命日なのはね、ニナのほうなんだ」

迅は再び目を閉じて手を合わせる。
アクアも立ち上がって、手を合わせた。

その時、カップの中のミルクが、ごく微かに揺れたような気がした。

アクアはバッグを開けると、いつも持ち歩いている小さな花柄の封筒を出した。
中にはエリンの写真が入っている。

「エリンの写真。迅に見てほしいの。私は一度も見たことないの。私は見てはいけない。私には、エリンに会う資格がないの」

迅は立ったまま、封筒を受け取った。
気遣わしげな目でアクアを見ると、封筒から写真を出した。

アクアは写真が決して目に入らないように、体の方向を変えた。

「すごく可愛いよ。アクアさんに似てるかも。棺も奇麗で、賑やかだね。ニナの時も、オモチャをたくさん入れてあげれば良かったな。僕も中学生だったから、そういう機転が利かなかった」

後ろから迅の言葉が聞こえてくる。
しばらくすると、肩に手を置かれた。
迅が花柄の封筒をアクアに差し出していた。

「お母さんが会ってあげるのが一番だよ。いずれ、決心がついたら、写真を見てあげてほしい。きっと喜んでくれるよ」

「お母さん」という言葉に刺激されて、アクアは、本格的に泣き出した。
迅がそっとアクアの肩を抱き寄せる。

「ごめんね。アクアさんをすっかり哀しませちゃったね。下に行こう。おいしいコーヒーを淹れるよ。コーヒーを飲んで、気分を変えようか」

迅は優しくアクアの体の向きを変え、背中に手を置くと、部屋の外へと促した。
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