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第7章
胎動-6
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光晴から出産に同意してくれたとしても、真実は相変わらず、重くのしかかる。
秋歩の悪阻はさらに重くなる一方で、仕事にも家事にも影響した。
その日の夕食は、家族全員、長瀬家で食べた。
食欲がない秋歩は、ほんの二口、三口しか食べられなかった。
不審がる母に、キッチンで小声で妊娠を伝えた。
母は手を胸の前で合わせて喜んでいた。
夕食後のことだった。
「なあ、やっぱり変だ」と光晴が、秋歩に聞こえるように呟く。
光晴はキッチン中央に備えつけられている調理台に向かうと、ポットのお湯をコーヒーカップに注いだ。光晴はアイスコーヒーを飲まない。
コーヒーの香りが、秋歩の悪阻に拍車を掛ける。
今すぐキッチンから逃げ出したい。
「お前の基礎体温表のことだよ。確か、あの日は、バリバリの高温期だったよな。高温期って、絶対に妊娠しない時期じゃなかったっけ?」
全く、光晴は。
高温期を示していたグラフをいちいち記憶しているとは。
「だから不思議だと、私も思ってるの。排卵は実は二回あるという説もあってね。セックスによる刺激で、ぽろっと排卵する場合もあるんだって。交尾排卵って言って、ネコなんかが、そうみたいね」
早く逃げ出さなければ、ここから。
「じゃあ、私、気持ち悪いから、寝るよ」
秋歩がキッチンから出ようとする。
光晴の次の言葉が、ぐさりと秋歩の心臓を貫いた。
「本当に、俺の子か?」
「……バカなこと訊かないでよ。光晴の子に決まってるじゃん」
声に力が入らない。
「お前には、前科があるからな」
「前科って言ったって……」
前の時は、エッチしてないよ。
「な、今なら間に合う。本当のこと言っておけよ。産まれてから分かったら、大変だぞ。今はDNA鑑定って割合簡単にできるらしいぜ。十万くらい掛かるらしいけど」
光晴は上機嫌で、軽い調子だった。
ちょうど秋歩が脱出しようとしているキッチン出口の脇にあるテーブルにコーヒーカップを置いて、手前の椅子に、でんと腰掛ける。
DNA鑑定。
そんなものされたら、きっと一発でおしまいだ。
それでなくても、A型の子が産まれたら……。
本来、ここは逆ギレすべきところなのだ。
「私を信じられないの」と。
我が子を守るために、完璧に否定しなければ。
だが、どうしてもできなかった。
A型の子供。
DNA鑑定。
この二つの言葉に秋歩は、すっかり怖じ気づいていた。
今だったら、光晴は上機嫌で優しい。
今だけが真実を明らかにする唯一のチャンスかもしれない。
毎日が苦しくて堪らなかった。
これから先も、延々こんな苦しい日々がずっと続くと思うと、どうかなりそうだ。
「ごめん、私……。本当を言うと、多分、光晴の子じゃないと思う」
秋歩はか弱く発生された自分の声さらに押し殺して、下を向く。
光晴からの返答はない。
永遠に続くかのような沈黙。
秋歩の左側から強烈な光晴の視線を感じ、怖くて光晴を見ることができない。
体が震えてきた。
隣の部屋から娘たちの騒ぐ声が聞こえてきた。
平日は夕食後の三十分間、テレビゲームで遊ぶのを許可している。
突然、光晴がゲラゲラ笑い出した。
コーヒーカップを挟む格好で両肘をついて、下を向いて、苦しそうに笑い続ける。
秋歩は、どう反応していいか分からない。
無意識に汗ばむ両手を体の前で結んで、ただ突っ立っていた。
「いやー、まさか、本当に、他の男の子供だったとは。なるほど」
笑いにキリがつくと、光晴がしみじみと感想を述べる。
最悪だ。
光晴は秋歩に鎌を掛けたのだ。
はたして、どこまで本気で疑っていたのか。
光晴は座ったまま、体を秋歩に向けた。
「で? 相手は、誰よ?」
顔に怒りの表情は見られない。
まだ、先程の笑いの余韻が残っている。
秋歩は、光晴が怖ろしかった。
あまりの事態に、光晴自身、ついていけてないのだ。
もう怒りなど、とっくに通り越しているに違いない。
「まあ、いいけど。別に興味ないし」
秋歩が黙っていると、光晴はカップを持って立ち上がった。
秋歩の身が竦んだ。
光晴が秋歩に手を上げたことは、これまで一度もない。
が、今日もそうだという保証はない。
光晴の体全体から、ものすごい殺気のようなものを感じた。
秋歩と、秋歩のお腹の子に対する激しい殺意。
「堕ろすよ。堕ろすから、ね」
許しを請う秋歩に対し、光晴が馬鹿にしたように、笑いを漏らす。
「堕ろすよ、か。傑作だ。お前って、本当に傑作な女だよな。バレなきゃ、ちゃっかり子供を俺の子として産もうとしたわけだ。参るね。お前の嘘つきっぷりと狡賢さには」
秋歩が悪い。
確かに、秋歩が全て悪い。
だけど、そこまで悪し様に言われると、さすがに悔しい。
光晴だって、今まで本当に何もなかったのか?
怪しい行動は、何度もあった。
光晴はお洒落でルックスも良いし、会話もおもしろい。女のほうが放っておかないタイプだ。
「まったく。やってられねえ」
秋歩の体が硬直した。
光晴は感情の篭もらない声音で言ったと思うと、コーヒーカップを流しに向かって、いきなり放り投げた。
そのまま振りかえろうともせず、大股でキッチンから出て行く。
相当量の中身が残っていたカップは、回転しつつ、黒い液体を飛び散らせながら二メートルほどの距離を飛んで行った。
見事に、流しの中心に、ドンと音を立てて着地する。
秋歩の悪阻はさらに重くなる一方で、仕事にも家事にも影響した。
その日の夕食は、家族全員、長瀬家で食べた。
食欲がない秋歩は、ほんの二口、三口しか食べられなかった。
不審がる母に、キッチンで小声で妊娠を伝えた。
母は手を胸の前で合わせて喜んでいた。
夕食後のことだった。
「なあ、やっぱり変だ」と光晴が、秋歩に聞こえるように呟く。
光晴はキッチン中央に備えつけられている調理台に向かうと、ポットのお湯をコーヒーカップに注いだ。光晴はアイスコーヒーを飲まない。
コーヒーの香りが、秋歩の悪阻に拍車を掛ける。
今すぐキッチンから逃げ出したい。
「お前の基礎体温表のことだよ。確か、あの日は、バリバリの高温期だったよな。高温期って、絶対に妊娠しない時期じゃなかったっけ?」
全く、光晴は。
高温期を示していたグラフをいちいち記憶しているとは。
「だから不思議だと、私も思ってるの。排卵は実は二回あるという説もあってね。セックスによる刺激で、ぽろっと排卵する場合もあるんだって。交尾排卵って言って、ネコなんかが、そうみたいね」
早く逃げ出さなければ、ここから。
「じゃあ、私、気持ち悪いから、寝るよ」
秋歩がキッチンから出ようとする。
光晴の次の言葉が、ぐさりと秋歩の心臓を貫いた。
「本当に、俺の子か?」
「……バカなこと訊かないでよ。光晴の子に決まってるじゃん」
声に力が入らない。
「お前には、前科があるからな」
「前科って言ったって……」
前の時は、エッチしてないよ。
「な、今なら間に合う。本当のこと言っておけよ。産まれてから分かったら、大変だぞ。今はDNA鑑定って割合簡単にできるらしいぜ。十万くらい掛かるらしいけど」
光晴は上機嫌で、軽い調子だった。
ちょうど秋歩が脱出しようとしているキッチン出口の脇にあるテーブルにコーヒーカップを置いて、手前の椅子に、でんと腰掛ける。
DNA鑑定。
そんなものされたら、きっと一発でおしまいだ。
それでなくても、A型の子が産まれたら……。
本来、ここは逆ギレすべきところなのだ。
「私を信じられないの」と。
我が子を守るために、完璧に否定しなければ。
だが、どうしてもできなかった。
A型の子供。
DNA鑑定。
この二つの言葉に秋歩は、すっかり怖じ気づいていた。
今だったら、光晴は上機嫌で優しい。
今だけが真実を明らかにする唯一のチャンスかもしれない。
毎日が苦しくて堪らなかった。
これから先も、延々こんな苦しい日々がずっと続くと思うと、どうかなりそうだ。
「ごめん、私……。本当を言うと、多分、光晴の子じゃないと思う」
秋歩はか弱く発生された自分の声さらに押し殺して、下を向く。
光晴からの返答はない。
永遠に続くかのような沈黙。
秋歩の左側から強烈な光晴の視線を感じ、怖くて光晴を見ることができない。
体が震えてきた。
隣の部屋から娘たちの騒ぐ声が聞こえてきた。
平日は夕食後の三十分間、テレビゲームで遊ぶのを許可している。
突然、光晴がゲラゲラ笑い出した。
コーヒーカップを挟む格好で両肘をついて、下を向いて、苦しそうに笑い続ける。
秋歩は、どう反応していいか分からない。
無意識に汗ばむ両手を体の前で結んで、ただ突っ立っていた。
「いやー、まさか、本当に、他の男の子供だったとは。なるほど」
笑いにキリがつくと、光晴がしみじみと感想を述べる。
最悪だ。
光晴は秋歩に鎌を掛けたのだ。
はたして、どこまで本気で疑っていたのか。
光晴は座ったまま、体を秋歩に向けた。
「で? 相手は、誰よ?」
顔に怒りの表情は見られない。
まだ、先程の笑いの余韻が残っている。
秋歩は、光晴が怖ろしかった。
あまりの事態に、光晴自身、ついていけてないのだ。
もう怒りなど、とっくに通り越しているに違いない。
「まあ、いいけど。別に興味ないし」
秋歩が黙っていると、光晴はカップを持って立ち上がった。
秋歩の身が竦んだ。
光晴が秋歩に手を上げたことは、これまで一度もない。
が、今日もそうだという保証はない。
光晴の体全体から、ものすごい殺気のようなものを感じた。
秋歩と、秋歩のお腹の子に対する激しい殺意。
「堕ろすよ。堕ろすから、ね」
許しを請う秋歩に対し、光晴が馬鹿にしたように、笑いを漏らす。
「堕ろすよ、か。傑作だ。お前って、本当に傑作な女だよな。バレなきゃ、ちゃっかり子供を俺の子として産もうとしたわけだ。参るね。お前の嘘つきっぷりと狡賢さには」
秋歩が悪い。
確かに、秋歩が全て悪い。
だけど、そこまで悪し様に言われると、さすがに悔しい。
光晴だって、今まで本当に何もなかったのか?
怪しい行動は、何度もあった。
光晴はお洒落でルックスも良いし、会話もおもしろい。女のほうが放っておかないタイプだ。
「まったく。やってられねえ」
秋歩の体が硬直した。
光晴は感情の篭もらない声音で言ったと思うと、コーヒーカップを流しに向かって、いきなり放り投げた。
そのまま振りかえろうともせず、大股でキッチンから出て行く。
相当量の中身が残っていたカップは、回転しつつ、黒い液体を飛び散らせながら二メートルほどの距離を飛んで行った。
見事に、流しの中心に、ドンと音を立てて着地する。
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