藍色バース

弓川ルツ

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第8章

魔法の意図-1

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病室の中が視界に入った瞬間、凛也は部屋を間違えたと思った。

ソファに腰掛けた見知らぬ若い男が、こちらを覗っていたのだ。

だが、奥のベッドに座っている患者の女性は、見慣れた顔だった。

「凛ちゃん。来てくれたんだ」

秋歩が明るい声で迎える。
と、すると、この若い男は、秋歩の男友達か。

「その人がね、父親」

あっけらかんとした調子で、秋歩が言う。
続いて、秋歩は若い男に、凛也を兄だと紹介した。

父親……?

なるほど、そういう事情か。
お腹の子の父親が付き添う。

それで秋歩は……。

数日前のことだった。
光晴が出て行った事件で、秋歩は初めて凛也に、お腹の子の父親が光晴ではない事実を明かした。

その時の秋歩は、浮気相手を、「たまたま居酒屋で意気投合しただけで、酔っていたこともあり、どこの誰なのかも分からない」と凛也に説明した。

従って、凛也は「父親」の存在をまるきり意識することがなくなり、見知らぬ若い男を見ても、瞬時には「父親」だと思い至らず、秋歩の男友達と判断したのだ。

若い男は立ち上がり、「ミサキと申します」と、凛也に向かってお辞儀をした。
顔を上げると凛也の顔を観察するかのように、繁々と眺める。

「ミサキさん?」  

凛也は少し首を傾げると、無意識に呟いていた。

ミサキ。

アクアが度々出かけていった家。

流産・死産経験者の傷ついた心を癒やし、サポートする活動を積極的に行っているという。

アクアがコールセンターで働くようになってから、一時期は足が遠のいていたが、最近になって再び出かけるようになっていた……。

そのミサキと、目の前に立っているミサキは、関係があるのだろうか。

凛也の呟きに反応した、ミサキの表情の僅かな変化を凛也は見逃さなかった。

それだけではない。
顔を合わせた瞬間からのミサキの態度に、凛也は違和感を感じ続けている。

凛也は、閃いた。

ミサキとは、もしや……。このミサキが、アクアの……?

けれど、ミサキが関わった相手は秋歩。
秋歩とミサキに、接点はないはず。

凛也は何気なく秋歩を見る。
秋歩のあっけらかんとした様子は、いつの間にか消えていた。

白い布団カバーを掴む手に、緊張感が漂っている。

凛也は、自分の勘が正しいとほぼ確信した。

他にはないか?
ミサキについて、何か思い出せること。

凛也は、すぐに思い出すことができた。
ミサキとは三崎。

漢字も知っていた。
何かで見たのだ。
名前は愛子。

そもそも三崎愛子という名は、どこに書かれていたのだろう。
ああ、分かった。宅急便の伝票。

サクランボの。

「ミサキさんは、漢字で三に、崎は川崎の崎って書きますか?」

凛也の問いに、三崎は「はい」と聞こえるか聞こえないか分からないくらいの小さな声で答えた。

「ご自宅は確か、都田総合公園の近くだとか」
「いいえ」
「では、どちらですか」

三崎は目線を宙に漂わせて、「この近くです」と答える。

「住所を教えていただけますか」

「……さあ。教える必要はないと思いますが。個人情報ですから」

三崎は凛也を真っ直ぐ見返してきた。
三崎の態度に、一瞬にして怒りで血が滾る。

「ねえ、凛ちゃん、そんなとこに立ってないで、座りなよ。迅も。もうちょっと落ち着いて話そう。それに、もう消灯時間だよ。電気を消さないと、嫌味な看護師にまた怒られちゃう」

しかし凛也は、秋歩の注意を完全に無視した。
三崎はあくまで隠し通すつもりだ。
こうなれば、どうあっても本当の話をさせてやる。

「秋歩とは、どうやって知りあったんですか」
「それは前に話したじゃないの」
「秋歩は黙ってろ」

凛也の剣幕に、秋歩は怯えたような表情を見せ、口を噤んだ。
凛也は迅に向き直った。

「どうやって、知り合いましたか」
「覚えていません」

迅が平然と言い放った。
凛也に激しい憎しみの感情が湧いてくる。

「三崎愛子さんは、あなたと、どういう関係ですか?」

 切り口を変えた質問に対し、迅は無表情で答える。

「知りません。誰のことですか?」

「あなたの名前は、三崎迅さんって仰るんですね。それならいいです。今ここで、三崎愛子さんに電話して、迅さんとの関係を訊ねてみます。妻から聞いて、三崎愛子さんの連絡先は知っているんです」

凛也は胸ポケットから携帯を取り出して見せた。

無論、三崎愛子の電話番号など知らない。ハッタリだ。

凛也は実際に携帯のアドレス帳を開いて、三崎愛子の電話番号を探すふりをした。

「やめて下さい。非常識です」
「何が非常識なんですか」

激しい反発の感情を見せ始めた迅を、凛也は睨んだ。

「こんな時間に、知らない家に電話なんて非常識だと思います」
「そうかな、まだ十時を少し過ぎたばかりだ。ギリギリってとこかな。別に、セールスの電話を掛けるわけじゃないし」 

  凛也は携帯の操作を続けた。

「やめて下さい」
「三崎さんには迷惑は掛けませんから」

「そうじゃなくて。母です。母なんです。三崎愛子は、僕の母親です」

凛也は携帯の操作をやめた。

早歩きで病室の中を進み出ると、テーブルの上に手提げを載せ、椅子にどっかりと腰掛けた。
会話がしやすいように、突っ立ったままの迅を促し、ソファに座らせた。

その時、ソファに絵本が散らばっている様に気がついた。
中に見覚えのある表紙を見つける。

『人魚姫』だ。エリンに与えた『人魚姫』と同じ……。

「単刀直入に聞くけど。三崎さんと妻との関係を知りたい。別に隠す必要はないから。妻に付き合っている男がいるのは知っているんだ。妻自身から聞いている。恋人がいるって。かつてこれほどに深く人を愛した経験はないって……。さあ、どうかな? 隠さないで正直に答えてほしい」

早口で言いながら、凛也は自分が惨めに思えて辛くなった。

迅が凛也に問いかけるような視線を向ける。

「アクアさんが……」

アクアの名を口にしてから、迅は息を呑んだように言葉を切った。
観念したように肩を落として、訊ねてくる。

「奥さんが、そう言ったんですか?」

凛也は穏やかに言う。

「そうだよ。だから、もしここで三崎さんが答えなくても、相手が誰なのかは、妻を問いただせば、多分、素直に教えてくれると思う」

迅は床に視線を落とし、ボソリと答えた。

「親しくしていました」

やはりそうか。
いざ、はっきりすると、急に体中の力が抜け、疲れを感じた。

目の前の付添人用ベッドが凛也の視界に押し入ってくる。
今すぐベッドに這い上って、横になりたい。

迅を責める気力も憎む気持ちも急速に失われていった。
もはや口を利く気にもなれず、ただ椅子の背に凭れ込んだ。

唐突に迅が、秋歩に話しかける。

「ナースコールしませんか、秋歩さん」

迅により俄に話題が振られたせいか、秋歩が我に帰ったかのようにギクシャクと動いた。

「さっき言ってたよね、器具を外してもらおうって。退院しようって」

秋歩は、ブルブルと首を振る。

「ダメ、ダメ。無理だよ」
「僕が一緒に旦那さんを説得するから。赤ん坊は、僕が引き取って育てる。秋歩さん夫婦には、絶対に迷惑を掛けない」

「何を言ってるの。迅なんて、出て来たら逆効果じゃん。無理なの。無理」

「秋歩さん、お腹で赤ん坊は、まだ動いてるんだよね? 元気なんだよね? 産もう。産んでほしい。秋歩さんと一緒にいると、だんだん分かってくるんだ。僕は赤ん坊の気持ちを感じられるように……」
「もう、やめろ」

凛也は怒鳴りたいのを堪え、押し殺した声を出した
。迅に対し、再び激しい憎しみが湧き上がっていた。

「秋歩だって散々悩んで決めたんだ。父親だろうが、男には、しょせん秋歩の気持ちは理解できない。男は赤ん坊を堕ろすのに、痛くも痒くもないんだから。いまさらここで中絶を思い留まれなんて、言うべきことじゃないだろう」

迅は黙った。
だが、強い視線で秋歩をじっと眺め続ける。

秋歩は迅を見ようとしない。
そのまま時間が経過する。

凛也はただ事態を見守った。

やがて、迅が立ち上がる。
傍らのボストンバッグの持ち手を握っていた。

力のない声で告げる。
「すみません。長瀬さんが付き添ってくれるなら、今日は帰ることにします。明日、朝一で来ますから」

ようやく諦めたようだ。

続いて迅は、深々と頭を下げる。

「それから、今回のこと、本当に申し訳ありませんでした。謝ったくらいで、許されるとは思っていませんが」

凛也は迅の謝罪を無視した。迅は何に対して謝っているのだろうか。
秋歩の妊娠? アクアとの交際? それともその両方か?

迅はソファに広げた状態で置かれたパーカーを拾い上げると、金庫に向かい、携帯電話を取り出すと、病室の出口に向かう。

「もう来なくていいよ。別に君は必要じゃないから」

凛也はわざと優しい口調で言った。
迅は凛也を振り返る。

「お腹の子の父親は、僕ですから」

続いて凛也と秋歩に向かって「失礼します」と頭を下げる。

「ありがとう、迅。明日もよろしくね」

秋歩が声を掛けると、迅は手を振るような動作をして、病室を出て行った。
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