妖艶幽玄絵巻

樹々

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遊戯ノ巻

遊戯ノ二②

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 どこへ行ったのか。床の間の前まで戻った俺は、どこにも紫藤の姿が見当たらず、少しだけ不安になってしまう。桶を置いて、近場を探した。

 庭にも、屋敷にも、紫藤の気配を感じられない。彼が意識的に気配を絶てるとは到底思えない。

「紫藤様! 紫藤様! いずこにいらっしゃるのです!」

 声を荒げても、返事は無かった。確かに結界を張ったはずなのに。誰も残っていないことを確かめて張ったはずなのに。

 誰かが侵入したとは思えない。紫藤の結界は完璧だ。

 それにもし、高度な技を持つ者が侵入したとして、俺が全く気付かないだろうか? 争っていれば、すぐに分かる。

 争った形跡が無いということは。

 つまり、紫藤本人が自ら社を後にしたことになる。

「……紫藤……様?」

 まさか、太助のもとへ行ったのか。俺がつまらない嘘を言ったから、腹を立てて若い彼のもとへ?

 しとねを共にしても良いと言った言葉は、戯れ言ではなかったのか。



 紫藤が、俺以外の者の手に……?



「紫藤……様……紫藤様!!」

 考えている暇はない。早く追いつかなければ。

 庭を横断し、駆け出した時だった。

 急に紫藤の気配を感じて振り返る。

 額に貼った札を半分ほど剥がしながら、裸足のまま、庭に立っている。

「ふっふっふ~。どうだ? 少しは反省したか? 札にはこの様な使い方もある」

 札を剥がして振って見せる紫藤。得意げに胸を反らしている。

「お主があんまり冷たいのでな。期待させておいていつもはぐらかす故、少しからかってやったのだ!」

「紫藤様……」

 肩が震えた。

 一歩踏み出すごとに足が速まる。

「……な、何だ! お、お主がいつも私をからかうから……!」

「ようございました!」

 ひしっと胸に抱いた。細い体を痛いくらいに抱き締める。

「誰ぞに連れて行かれたかと肝を冷やしましたぞ! あなた様がどこかにと……!」

 抱き締める腕に力を込めた。戸惑うような紫藤の腕が背中に回る。

「……清次郎?」

「心配しました……!」

 それだけを言うのがやっとだった。ようやく手に入れた仕えるべき主が、また俺の前から居なくなる。もう一度失えば、俺はもう、立ち上がれないだろう。

 最も愛した人が、主なのだから。

 今度はもう、無い。

 生きている間だけでも、紫藤を他の誰にも渡したくはなかった。

 抱き締める俺に、紫藤がポンポン、腰を叩いている。少しだけ力を緩めて、彼を見つめた。

「すまぬ……少しだけからかってやろうと思っただけだ。お主の心の傷を広げるような真似をしてしもうた。許せ」

「……紫藤様……」

「お主がおなごに笑い掛けておるのが気に食わなかった故な」

 それで苛立っていたと、彼は正直に話してくれた。黒い瞳を見つめながら、細い肩に額を乗せる。

「俺も同じです。太助に色目を使っていらっしゃる紫藤様が、憎らしく思ったものです」

「色目だと?」

「しとねを共にしても良いと考えるほどの相手……紫藤様が望むのなら、俺が口出しすることではありませぬが……それでもやはり、渡したくはありませぬ」

 みっともないだろうか。主の腰を抱きながら懇願した。

「若返る事はできませぬが、精一杯努めさせて頂きます。どうか太助のもとへは行かないで下さい。俺が生きている間だけでも……」

 だんだん、声が小さくなってしまった。恥ずかしさに顔に血が集まっていく。

 すでに日は落ちていた。急速に暗くなっていく。紫藤の顔も良く見えなくなってきた中で、俺も彼も、庭で抱き合った。

 紫藤は何も言わない。恐る恐る彼の顔を覗き見た。

「……紫藤様?」

 彼は驚いたように目を丸め、俺を熱心に見つめている。心なしか白い肌が赤味を帯びているように見えるけれど、明かりが無いため判断しにくい。

 軽く肩を揺さぶった。ハッとしたように、表情が戻ってくる。

 フルフル、フルフル、唇が震えたかと思うと、俺の首に細い両腕を巻き付けた。

「そうか! そうであったか!」

「し、紫藤様?」

「お主が……そうか! そうか!」

 紫藤は何度も頷き、斜め前の宙を見ている。霊と話しているのだろう。にこにこ笑って頷くと、俺の頬を両手で包んだ。

「ほんにお主の顔は分かりにくいの。もっと顔に出さぬか」

「……どういう意味で?」

「嫉妬しておったのなら、そう言え! まったく可愛い奴だ! 太助相手に本気になって私を争っていたとは!」

 満面の笑みを浮かべた紫藤は、俺の唇に口付けると、頬を寄せてくる。

「安心せい。この体はお主以外の何者も受け付けぬ。太助を出したのは、お主の気を引くためだ。しとねを共にしようと本気で思うたことはない」

「……若い者をからかってはなりませんぞ!」

「お主が悪い! おなごに騒がれ、押し倒されおって! 思い出しても腹が立つぞ!」

 顔中に皺を作った彼に、溜息をつきながらも頷いた。

「反省しております。俺も、太助を押し倒した紫藤様を憎らしく思いましたからな」

「うむ。いや、それにしても……」

 間近で笑っている。心底楽しそうだ。

 俺の顔を見ては笑い、鼻を摘んでくる。

「焼き餅清次郎か!」

「……紫藤様とて」

「私はいつでも皆に焼いておるからな。ここの霊達もお主の味方ばかり。守るのがほんに大変なのだぞ」

 でも、と彼はにやにやと笑っている。悪戯小僧のように、黒い瞳を輝かせ、俺の胸に手を滑らせた。

「太助と争う清次郎か……! ふっふっふ~!」

「……さ、戻りますよ」

 誤魔化すように手を握って歩く。相変わらず裸足の彼の足を洗わなければと、縁側に座らせた。水を張った桶に足を入れてもらい、軽く洗ってやる。手拭いで拭うと、つとめて目を合わさないようにした。

 どうせ、笑っているだろうから。

 頭を掻きながら立ち上がる。

「清次郎」

「水を捨てて参ります」

「こちらを向け。また結界に隠れるぞ」

 半ば脅しだ、思いながら仕方なく視線を合わせた。彼はにっこりと笑っている。

「もう、我慢ならぬ」

「紫藤様?」

「抱け」

 短く命令される。しかし、と反論しようとした俺より先に、着物の裾を大きく捲った。

「欲しいか? 清次郎」

 問われ、白い太股に目がいってしまう。握っていた手拭いがパサリと落ちて土に汚れた。

「私も欲しい」

 告げられると、男にしては軽い体を抱き上げていた。

 急いで床の間まで歩いてしまう。ドサリと転がすように降ろすと、クスクス笑っている。

「なるほど、焦っておるのだな?」

「……意地の悪い」

「分かり難いお主が悪い。ほれ、もっと別の顔も見せてみよ。覚えておかねばな?」

 余裕ぶっている紫藤に奥歯を噛み締めながらも、緩い帯紐を解いて襟を広げた。

 暗い室内に浮かび上がる、白い肌に喉が鳴る。

 これを、太助に見せるわけにはいかない。

 出来る限り生きて、守らなければ。



 紫藤は俺の大切な主だ。



 何か言われる前に唇を塞いでしまうと、すでに反応していた彼の熱い塊を手にした。



***



 月明かりを浴びながら、縁側でのんびりしていると、戦の世を生きた侍、田上小五郎が舞い降りてくる。少し前に浮かびながら、クスクス笑った。

【今日は面白い日にございましたな】

「ほんにの。あの清次郎があれほど焼き餅をやいてくれるとは思わなんだ」

【独占欲、でございましょうな。酒が入って、強く出てきたのでしょう】

 小五郎はふわり、ふわりと浮いている。着物の袖に手を通した私は、顔が緩みっぱなしだった。

「ふむ。時々は、こうして困らせてやりたいものよ」

【あまりからかいますな。清次郎は真っ直ぐな男。度が過ぎれば痛い目を見ますぞ】

「分かっておる。いや、それにしても……うっふっふっ」



 真っ赤になって怒鳴っていた清次郎。



 太助に取られまいとすがってきた清次郎。



 熱心に私を求めた清次郎。



「……思い出しても鼻血が出そうになるぞ! 酒とは良いものだの」

【酒……でございますか。久しく飲んでおりませんので懐かしい】

「そうであったな。今度、清次郎と酌み交わすか? 皆がおらぬ時なら良いであろう」

【……いえ、止めておきましょう。この世に未練を残せば、姫が発つ時にお供できませぬ故】

 小五郎は遠い空を見上げている。大名の姫君に恋い焦がれ、彼女のために戦い、死んだ侍。彼女は今、とある大名に嫁ぎ、余生を送っている。年老いていく彼女を見ても、小五郎の気持ちは変わらなかった。彼女がこの世を去る時に、共に逝くために留まっている。

【暫くここを離れます故、上手くやるのですぞ?】

「心配せんでも良い。まあ、清次郎が寂しがるであろうから、また戻ってきてやってくれ。同じ侍として、お主を慕っておるようだ」

【それは光栄。また手合わせ願いましょう】

「うむ」

 小五郎はふわりと空高く舞っていく。嫁いだ姫君の様子を見に行くのだろう。ずっと側に居れば良いのに、そう言った事がある。



 それは少々、辛い。



 彼はそれだけを言って、はぐらかした。今なら分かる。姫が幸せな時も、辛い時も、小五郎には何もしてやれない。見ていることしかできない。

 故に、側に居たいと願う心は押し込め、時々、健やかに過ごしているかだけでも見に行っている。何もできない歯痒さを噛み締めながら。

 小五郎だけではない。この世に漂っている大半の霊は、そうやってもどかしい想いを抱えながらも留まっている。未練を残し、あの世へ行けず、彷徨っている。

 坊主で事足りる世界であれば良かった。

 だが、そうはいかない霊も居る。

 残りすぎた未練、留まり過ぎた魂が、悪霊と化してしまえば、坊主の念仏は何の意味も持たなくなる。



 だからこそ、私が作られたのだから。



「……作られた、か」

 自分の腹に手を当てた。私を動かす、三つの力。他の霊媒師とは全く違う、私という存在。

 人は私を人ではないと言う。

 私とて、私を人だとは思わなかった。

 化け物。

 そう呼ばれて当然の存在。



 清次郎に会うまでは。



 彼が私を、人にしてくれた。

 村人とのわだかまりも、彼が解いてくれた。彼らが一番、私の存在を畏怖していたはずなのに。私を人として扱うには、知りすぎていたはずなのに。

 こんなにも、普通に酒を酌み交わす時が来るとは思わなかった。彼らの目が、温かいものに変わるとは。もうずっと、人の世に戻ることは叶わない夢だと思っていた。



 ほんの一時の間であろう。清次郎と共に歩める時間は。



 それを考えると、辛く思う時もある。なるべく忘れておこうと、考えないようにした。

 少しでも長く、清次郎が生きてくれたら良い。止まっていた私の時間は、清次郎と生きる間だけ動くだろう。

「……のう、清次郎」

 囁いた私の声に、条件反射のように清次郎が起きている。開けていた障子から吹き込む風に、頭を押さえながら起き上がった彼は顔をしかめた。

「……つっ」

「どうした、頭が痛いのか?」

「……飲み過ぎたようです。それよりどうなされたのです」

 頭を押さえながら、脱ぎ捨てていた着物を羽織るとフラフラしながら側に寄ってくる。心なしか疲れた顔をしながらも、きちんと正座をして控えた。

「足は崩して良いぞ」

「……はっ。では」

 よろめきながら膝を崩し、座り直している。硬いその頬に手を添えると、思わず微笑んでしまう。

「寝癖が付いておるぞ」

「……え? これは失礼しました。すぐに直して……」

「良い。今日はほんに良い日であった。のう、清次郎」

 硬い頬を何度も撫でる。少し飛び出した黒髪が愛しくてたまらない。

 真面目な清次郎も良い。

 だが、こうして力が抜けた清次郎も愛しい。

「また焼き餅をやいてくれ! どんな餅より美味であったぞ!」

「……そう何度も焼いておりますと、疲れます故」

「良いではないか。もっと欲しいと皆に言えば良いだけのこと。お主がしつこいくらいに私を求めたこと、よもや忘れたとは言わせぬぞ!」

「……忘れませぬ」

 青い瞳が緩んだ。私の手を取り、引き寄せている。膝に倒れ込んだ私の髪を、まるで犬でも撫でるように撫でつけている。

 転がって見上げれば、穏やかに微笑んでいる。

「紫藤様の中があまりに熱かった故……もっととねだってしまいました。それに太助に取られとうないと思うと、体が言うことをきかぬのです」

「……せ、清次郎?」

「ほんに渡しとうないのです。紫藤様を失えば、俺はもう、生きてはおらぬでしょう。あなた様がこの世を去られる時が、俺が死ぬ時と決めております。独り逝かせはしませぬ。俺が先に死のうとも、お待ちして供に参ります」

「……う、うむ?」

「紫藤様が愛しい……なんと愛おしいお方なのか……。俺は幸せ者にございます。兄上のもとを去り、もう、侍として生きることはできぬであろうと思っていた俺に、生きる場所を下さいました。こうして……愛して下さいました」

 艶やかに微笑む青い瞳。私の頬を何度も、何度も、撫でている。

 微笑み続ける清次郎を見上げ、思わず笑った。

「お主、まだ酔うておるな?」

「……はい?」

「ほんに今日は、お主の違う顔をよう見れたわ。話上戸になるとはの」

 愛しい顔を撫でてやる。首を傾げた清次郎の膝から飛び起きると、床の間に戻っていく。

「ほれ、寝るぞ」

「……承知」

 布団に転がった私の隣に、ためらいもなく潜り込んでくる。いそいそと着物に手を掛けた清次郎は、裸になると私の着物も脱がせてくる。あえて何も言わずにさせていると、ひしっと胸に抱いてきた。

 そのまま眠っている。

 あまりの可愛さに、眠るのがもったいなくなってしまった。

「……ふむ。今度から酒も仕入れさせるか」

 黒髪を撫でてやると、力が抜けた顔をしている。滅多に見られない清次郎の緩んだ顔を見つめた私は、ようやく見せてくれるようになった彼の新たな一面に、嬉しさがこみ上げた。

 いつかの時をしばし忘れて。

 初めて掴んだ幸せな時間を抱き締めた。





 遊戯ノ二 完


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